社会福祉法人檸檬会 設立10周年記念公開シンポジウム - 2017.04.30 Sun
僕が初めてレイモンド保育園の名前を耳にしたのは、新設される保育園の設計が独創的であることを伝える保育関係のニュースでした。
ですから、当初興味をもったのはそういった建築設計の仕方と保育内容がどのように有機的に結合しているのだろうか?というところからでした。
今回うかがった南町田園さんは、そういった点では独立園舎ではなくテナントビルの改装したところでしたので、取り立てて作りに特徴が大きいわけではありません。
しかし、保育内容に際立った特徴があります。
一言で言えば、「理念と理論に裏打ちされた実践を目指している」ということでしょうか。
これは、レイモンド保育園全体の方向性と言えると思います。
いま「保育の質」が盛んに言われる中で、それを組織的に実践しようとしているという意味において、レイモンド保育園の活動は今後も注目されるところではないかと感じます。
さて、そのレイモンド保育園の法人である檸檬会が10周年を記念してシンポジウムを開きます。
関係者でなくともどなたでもご参加可能なのでシェアしたいと思います。(僕は登壇者ではありません、念のため)
社会福祉法人檸檬会 設立10周年記念公開シンポジウム
保育所保育指針改定の今 「保育の質」が見える会? ~多様な視点から読み解く課題と希望
詳細、お申し込みはこちら
http://www.lemonkai.or.jp/newstopics/pg880.html#170418
| 2017-04-30 | 講座・ワークショップ | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
「寄り添うこと」の大切さ vol.3 - 2017.04.28 Fri
しかし、現実はそういったケースばかりではありません。
自身の心境を打ち明けたとしても、理解してもらえないケース。
それどころか、その人の尺度で(その人自身の価値観を述べているだけなので悪意はないのだが・・・)否定されてしまうケース。
「わかった。わかった」、「あ、これ全然わかってくれてないわ」というケース。
などなど。
これらはパートナーが、「良くも悪くも一般の感覚の人」の範囲内のケースです。
こういったものよりももっと深刻なものもあります。
それは、DVや面前DV、モラハラ、虐待などをされて育った人が、自分の人生においてもそれをする要素の強い人をパートナーに選んでしまうケースです。
不思議なことに、「ハラスメントをされて育った人は、ハラスメントをするタイプの人をパートナーに選んでしまう傾向」があります。
なぜそうなってしまうのか。
ひとつには、自己肯定感の低さ、自己決定力の低さを獲得してしまった人は、それの逆の性質を持つ人、自信に満ちていて、ものごとへの決断力があり、自分に対しても強く指針を示してくれる人に安心感を感じるからかもしれません。
これらの性質がよい人格としてまとまっているタイプの人ならばなにも問題ありませんが、結婚前や恋人になる前の段階では、「押し出しが強く決断力に富んでおり」、「優しそう」で「魅力的」に見えていたものが、
実は「自己中心的で我が強く」、「自己愛としての優しさ」、「虚栄心ゆえに見栄っぱり」であり、結婚や恋人関係といった枠に収まったとたん、それを力関係・地位関係ととらえて、本心をむき出しにしたハラスメント人格をあらわにするといったことがあります。
普通の人だったら、「もしそんな相手だったら、とっとと別れてしまえばいいのに」と思うかもしれません。
しかし、人間の心の機微の不思議なところで、この関係は共依存的となります。
ハラスメントをする側にとっては、自身の自己愛を満たすために
・「自身を拍手する(させる)観客」
・「支配者として君臨するための被支配者」
・「自身の自尊心を満たすために虐げる相手」
こういった存在が必要になります。
ハラスメントされる側にとっては、
・「自身を持てない自分の存在や行動を規定してくれる、自分よりも上位の存在」
・「自分を必要としてくれる存在」
・「自身の生活を保障してくれる存在として」
(とくに経済DVなどは顕著だが、そうでなくともさまざまなケースがある。例えば自分の親の介護のために自分は仕事にでられない事情、体面のために離婚ができない、親からの束縛により離婚をさせてもらえない、など)
もし、ハラスメントされる側があまりの仕打ちに逃げ出すと、そのする側はその人がいなくなっては自身も困るので、「魅力的に見える」部分をまたひっぱりだしその人を懐柔します。
普通であれば、そんなことで騙されないと思うでしょうけれども、される側はその束縛から離れてしまうことの不安などがあるので、「つらく当たるのはあなたのためなんだ」といった理由とも思えないような理由で自分の心を納得させまたもとの関係に戻ってしまったりします。
このように恋人や配偶者の不思議な関係が築かれていることがあります。
これはそうでない人にとっては、なかなか理解できないことです。
このような状況にあると、その人が助けを求める、誰かに相談することに踏み切るのは、もう相当どうにもならない壁にあたってやむなく・・・・・・、ということになります。
ここで、相談を受けた人が、それを理解して受け止め寄り添ってくれればいいのですが、せめて理解できなくても理解しようという姿勢を持ってくれることが必要になってきます。
こういった状況にあればその家庭の子育ては、まず無難にいくということはないでしょう。
それに対して外部から適切な対応をできなければ、その子の世代でまたこの問題は繰り返されてしまいかねません。
現代の、子育てのあまり陽の当たらない場所の課題は、この負の連鎖を断ち切ることでしょう。
あまりおおっぴらになっていないだけで、こういうケースはたくさんあります。
「陽の当たらない場所」にあるというだけでこの問題は小さいものではありません。むしろとても大きな問題と言えるでしょう。
いまここにてこ入れをしていかなければ、この問題は増えこそすれ減ることはないでしょう。
だから、本当は社会的に考えていくべき問題ではないかと思います。
| 2017-04-28 | 子育てに苦しむ人へ | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「寄り添うこと」の大切さ vol.2 - 2017.04.25 Tue
しかし、こういった人が救われる状況に至るまでの道のりはなかなかに難しいです。
なぜか?
その人の生育歴のなかで強い否定をその親からされているので、ほぼ必ずと言っていいほど強い「自己否定」を持っています。
なので、さまざまな問題を「自分が悪い」というところに集約させてしまいます。
延々と自己否定を繰り返すばかりで、その負の循環から抜け出すことが難しいのですね。
ですから、問題解決のスタートラインに立つこと自体がなかなかできません。
例えば、その人は「我が子の子育て」で悩みます。
子供の姿の問題(言うことを聞かなかったり、他者へ意地悪をしたりなど)を「自分が悪いから」というところにつなげてしまって、そこでも自己否定へと帰着させてしまいます。
「自分が悪い」という負い目を持っているがゆえに、それを誰かに打ち明けたり、相談したりすることにも臆病になってしまいます。
「我が子をかわいいと思えないなどと言ったら、この人は私のことを酷い人だと思うのではないか、嫌いになってしまうのではないか・・・・・・」などのように。
この背景にあるのは、実は「親を思う子としての気持ち」です。
「私がいまこのようになってしまっているのは、私を子供の頃から責め続けてきた親のせいだ」と思えてしまえば、少なくとも「100%自分が悪いという自己否定」からは抜け出せるのですが(そう思ってすら「親を責める悪い子供である自分」という自己否定は出てしまうが・・・)、その人は優しい人であるがゆえに親を責められません。
また、「親を責めずに自分を責める人格」をその親からの強い支配ゆえに形成されてしまっているといった理由もあります。
かくして、自己否定の堂々巡りで我が子の子育てをしていく苦しみが続いてしまいます。
その人たちはカウンセリングなどにいくこと自体にすでにハードルがあります。
自分自身を肯定してもらえた経験の少なさから、自分を開示することに強い恐れを抱いているからです。
だから、強い自己否定の段階から、直接相談に来られる人は実は多くありません。
相談に来られるようになる人も、相談機関への相談の前に多くの場合ワンクッションはさまれている人が多いです。
それが「寄り添ってくれる人」の存在です。
多いのはパートナーや配偶者である人がそうなってくれるケースです。
男性であれば奥さんが、女性であれば旦那さんが。
または友人がそうなる場合もあるし、学校の先生やお医者さんなどがそうなる場合もあります。
この人たちが寄り添ってくれることで、「承認」や「肯定」といったものをちょっとずつ注いでくれて、それをセルモーターのエネルギーにして、そこからようやく自分の問題に立ち向かうためのエンジンがかけられるようです。
だから、まず大事なのは「問題解決のうまい方法」などではなくて、「ああ、そうなんだ」「それは大変だよね」「辛いことだよね」とただ受け止めてくれたり、「それでも私はあなたのことが好きだよ」という承認だったり、「あなたは少しも悪くないじゃない」という存在への肯定なのだと思います。
逆に考えると、そのスターターになってくれる人がいなくて苦しみ続けてしまうといった人も大勢いるということです。
それでずっと自己否定を続けていってしまう人もいれば、自分の得意な仕事などの自己実現しやすい場所のみを追求していくといった人もいるでしょうし(ときにそれゆえの我が子へのネグレクトになることも)、とても過干渉な子育てになり子供との共依存状態になってしまうといった人もいます。
その共依存のひとつの過程として早期教育への熱心さとなるケースもあります。
この問題に立ち向かえるようになったとしても、それを乗り越えていく方法はひとそれぞれです。
・親を徹底的に憎むことで乗り越えようとするもの
・親を理解し許そうとすることで乗り越えようとするもの
・関係は絶てないが距離を置くことでやりすごしていくもの
・親と直接対決することで親の謝罪や、和解を求めるもの
・親との共依存状態を維持することで、表面的な安定をもとめるもの
などなど。
これらは、どれがいいどれが悪いといったことではありません。
例えば、親を憎まなければならなくなってしまった人にしても、それは本当にやむにやまれずそうせざるを得なかっただけであり、たくさんの辛い葛藤を経てたどり着いた苦渋の決断です。
誰もそれを否定できるものではありません。
◆そういった寄り添ってくれる人にめぐり会えた人は、素晴らしいなと感じます。
「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を僕は思い出します。
しかし、同時に少し不思議にも思います。
そのような自身の自我に問題を抱えて苦しんでいる人を受容的・抱擁的に受け止めてくれる人は「精神的に大人」です。
つまり、「自立した自我が獲得できている人」と言えます。
なぜその人はわざわざ自我に問題を抱えている人を、恋人やパートナーに選ぶのでしょうか?
まあ、これは僕が勝手に感じていることなのだけど、その大人である寄り添ってくれる人はそういう人だからこそ、その苦しんでいる人が心の奥に持っている優しさや思いやりの心に気づいて、それゆえに一緒にいたいと思ってくれるのではないかなと。
もし、そうだとするとその人が自分を選んでくれたというそのこと自体が、実はとても大きな肯定であり受容になっているわけです。
しかし、自己否定が強いその当人はそのようにプラスに受け止めるよりも、「負い目」などのマイナスの方にとって自分の苦悩を深める方に考えてしまいがちです。
「彼はこんなにいい人なのに、自分が迷惑ばかりかけて申し訳ない・・・・・・」
などのように。
もし、自分に寄り添ってくれる人がいるのならば、その人を信じて甘えてみるということも実は大切なことなのではなかなと僕は思います。
◆私事ですが、僕に関して言えば僕は先ほど挙げたものの二番目にある「親を理解し許そうとすることで乗り越えようとする」道筋をたどってきたのだろうと思います。
あるとき心理学の本を読んでいて、こんな文章に当たりました。
「感情的に育てられてきた子供は論理的な性格になることがある」
そのとき「ああ、これは自分のことかな」と感じました。
いま思えばなのですが、だから僕は哲学なんかやって保育士になったのかもしれません。
僕は幸運にも、そこでの経験を昇華させて子育てのある種のエッセンスをつかむことができ、それによりムリのない子育てができるようになりました。おそらくは保育士をしたとしてもそうならない可能性も少なからずあったはずです。
だから僕は日々我が子のことを「かわいい」と屈託なく思えることを幸せだと思わない日はありません。
恥ずかしげもなくそれを言葉にもします。そんな大切なことを恥ずかしがるには人生はあまりに短いからね。
僕は本当に幸運だったので、次はそれを多くの人にも経験してもらえるようになることが僕の仕事なのだと感じています。
つづく。
| 2017-04-25 | 子育てに苦しむ人へ | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
「寄り添うこと」の大切さ vol.1 - 2017.04.24 Mon
その親(親の親)のあり方が引き起こす実際上の問題は、強い「管理と支配」「束縛」でした。
また、親の期待に応えようとする子供の気持ちを逆手に取るような、親の自己中心的な関わり方の問題もそこには出てきます。
その中心になるのが早期教育でなかったとしても、こういった親からの関わりに苦しんできた人がたくさんいます。
そしてその人たちの中には、二重に苦しまなければならなくなってしまう人がおります。
・自身の生育歴
・我が子の子育て
子供だったときその人は継続的に辛い状況にあってなんとかそれに耐えてきたのに、自身が子供の親になって、そこから親からされたことのフラッシュバックが強くなったり、親からされた好ましくない関わりを繰り返してしまったり、された嫌なことを子供にするまいと強く思うためになにをしたらいいか愕然となるほどわからなくなってしまったり、そうは思っても好ましくない関わりが出ててしまう自分を責め続ける、などの問題に直面し激しく苦しみます。
今回の記事にもそういった方たちからコメントをいただきました。
同様のことは過去にも多くありますし、僕が直接お会いしてお話する方や相談をお受けする方のなかにもたくさんおります。
その状況にある人たちは、強い自己否定の状態に置かれてしまいます。
漠然とした「私はダメな人間だ」といったものから、「私は子供に愛情のない酷い人間だ」「自分は意地悪な恥ずべき心を持っている」などなど。
僕はむしろまったく逆に感じます。
「ああ、この人は善良な心を持っているんだな」と。
自己中心的だったり、自己愛的傾向のある親から育てられた場合、もっとも楽であろうものは、その親と同質の価値観を獲得していくことです。
「自分が正しい。他者が悪い」といった価値観を組み立てて、それにのっとって親から受けたさまざまな負荷を他の誰かに押しつけていくことがおそらくはもっとも楽な道です。
例えばそれは、自分より弱いものへのいじめやハラスメントとして出していきます。
このように自身の人格形成をしていってしまう人もたくさんいます。
しかし、その人はそういった道を拒む優しさや善良さがあったからこそ、その負の連鎖を自分の所で食い止めようとします。
その結果ひとりでふたり分の苦しみを引き受けることとなってしまいます。
親の分と自分の分です
だから、その人はその人自身が「愛情がない」のでも「意地悪」なわけでもないのです。
そういった感情の動きや、関わりをしてしまう「理由を持たされてしまっている」からです。
しかし、現実にはその親の分まで引き受けて苦しんでいるにも関わらず、その状態をその当の親から責められるといった状況すら引き起こされます。
これは控えめに言っても「絶望を感じてしまう状況」だと言えるでしょう。これで苦しまないわけがないよね・・・・・・。
トランプの「ババ抜き」というゲームがあります。
普通は、自分がババを引いてしまったらなんとか誰かに渡そうとします。
しかし、その人は優しすぎるために、誰かにそれを引かせるのをためらってしまうわけですね。
こうして、その人は普通の生育歴をおくってきた人からは理解できないほどの苦しみを持つことになってしまいます。
僕は思うのだけど、そういった人ほど救われるべきだし、幸せになって欲しいです。
つづく。
| 2017-04-24 | 子育てに苦しむ人へ | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
早期教育の代わりにしてきたこと - 2017.04.22 Sat
過去記事をお読みの方はご存知かと思いますが、むしろその逆ですらあります。
それはもちろん子供の将来や教育に無関心であるからではありません。
息子や娘にはその人生のなかで幸せになって欲しいと心から思っています。
しかし、個人の幸せはその本人しか作れないということを僕は重視しています。
では、早期教育の目的とはいったいなんでしょう?
これはそれをさせる人によってさまざまであるとは思います。
勉強で苦労しないためであるとか、よい成績を取らせるためであるとか、よりよい学校に進学できるようにであるとか、よい仕事に就けるようにであるとかなどなど。
確かに学力を上げておけばそれらの可能性が高まるということは言えるかもしれません。
しかし、それらはイコール幸せになるわけではありませんね。
僕が子供に、特に幼少期に持たせたいのは「勉強ができるようになる能力」ではありません。
これは多くの方が少し考えればわかるだろうと思いますが、そこがゴールではないですね。
僕が幼少期の子供たちの教育において重視しているのは、「その先にあるもの」です。
簡単に言えば、「やりたいことを見つけられる力」です。
例えば外国語にしても、その人が本当にやりたいことがあってそれを達成するために外国語が必要であるとその本人が自分で思えることに直面すれば、おのずと覚えていきます。
そのとき、別にネイティブのように上手な発音ができなかったとしても、それはほとんど関係ありません。
・コーヒーが好きで世界各国の農園に足を運んでいる人
・ヨガを習得したくてインドに行っている人
・音楽を学びたくてイギリスに留学した人
・ブランデーが好きで生産農家と仲良くなり、フランスに毎年行ってブドウの収穫まで手伝っている人
こういった人たちがいます。
この人たちは、たまたま英語が話せたからコーヒー農園に行くようになったわけでも、フランス語ができたからブランデーを好きになったわけではありません。
コーヒーやブランデーを自分の一生をかけてでもいいこと思えるようになったから、それに必要なことを自発的に身につけたに過ぎません。
多くの人はこう考えるかもしれません。
「子供の基礎能力を高めておけば、自分のしたいことを見つけやすくなるだろう」
たしかにそれも言えるでしょう。
しかし、それは本当にその通りに機能しているでしょうか?
それは今の若い人たちの世代を見てみるとわかります。
今の若い人たちは学習環境としてはかなり高いレベルの中で育ってきているはずですが、意欲や自主性、主体性、積極性がとても低くなっていると言われています。
本当に必要なのは「高い学力」ではないのです。
「自己実現力」とでも言いましょうか。
自分がやりたいものを見つけ、それに向かっていく意欲、自信などが、先にあってこそそこに学力が意味を持つわけです。
今の若い人といわず、すでに現在の子育て世代、僕のようなそれよりもやや上の世代も、過干渉な「勉強は親が子供にさせるもの」という時代に育ってきています。
それが作り上げた人間観は、むしろ自主性や意欲のなさ、失敗を恐れる気持ち、自己肯定感の低さといったものの方が多いのではないでしょうか。
親が率先して子供に「転ばぬ先の杖」を与えることは、一方で子供の意欲を低下させていきかねないのです。
僕は我が子にその轍(てつ)を踏ませたくないと考えています。
だから僕が子供に持たせたいものは、なにか自分の好きなものを見つけ、それに取り組もうとする意欲や好奇心、モチベーション、自信です。
その点から見て、早期教育はそれを損なう率の方が高いと僕は感じています。
また、まだ自主性の育っていない段階で、大人が「あれをしなさい、これをしなさい」と子供に求めていくことは、子供が自分で本当に好きなものを見つけたり探したりという意欲の芽をつんでしまう可能性があります。
子供は親の期待に応えたいという気持ちをどの子も持っています。
だから、親が「これをしてほしい」という気持ちをのぞかせれば、それを一生懸命しようとしてくれます。
しかし、そこでひとつ、失う、もしくは減じてしまうかもしれないものがあります。
それは、自分で自分の好きなものを見つけること、そしてそれを親に表明しようとする意欲です。
親が「何を望んでいるか?何を望んでいないか?」でものを見る傾向を子供はもってしまいかねません。
つまり、親は「早期教育によって子供の可能性を広げよう」と思っているのに、知らず知らず逆に可能性を狭めていってしまいかねないということです。
これももちろん程度によります。
なぜそう言えるかというと、親子関係から来る深い悩みを抱えている人には、これらの極端なケースがたくさんあるからです。
例えばこんなケースがあります。
一児の母である女性が対人関係がうまくいかず職場を辞めてしまいました。
その人は、子供と過ごすことにも苦痛を感じています。
仕事を辞める前までは「もう子供はひとりでたくさんです」と考えていましたが、仕事を辞めてからもうひとり子供をもうけました。そして、子供と過ごす時間を絶えずイライラしていたりと、さらに子育てがしんどくなっています。
なぜか?
別にそのお母さんは親と同居しているわけでないし、むしろ親は飛行機の距離に住んでいます。
もともとあまり良好な関係でなく積極的に連絡をとる状態でもありません。
しかし、それでも「仕事を辞めた」「仕事をしていない」ことで、「こんな自分は親にどう思われるのだろう」「否定されてしまうだろう」という強迫観念を強く感じてしまいます。
そもそも仕事を辞めたことを親に言う必要があるわけでも実際に報告しているわけでもないので、そういう現実に直面しているわけではないのですが、そう感じて不安になることを止められません。
そこで、その母親がとった手段が、「赤ちゃんの育児をしているから仕事をしていない」という免罪符を手に入れることだったのです。
さて、ここにあることは一体なんでしょうか?
それは、「呪縛」といっていいものだと僕は思います。
幼少期から親の希望に沿うように育てられることで、その程度により多かれ少なかれ親は子供に呪縛を与えてしまいます。
(↑このケースではかなり支配的にその母親自身育てられています)
スーザン・フォワード著『毒になる親』の中でもいくつかこのような事例が紹介されていますが、遠方に住んでいても、それこそ親が墓の下に入ってすらそういった呪縛は解けないままになることもあります。
こういった人たちは心のどこかで「自分の人生を自分で歩んでいない」といった思いを抱いています。
このようなケースは極端かもしれません。
でも、僕は誰かが引いた線路の上を歩んでいく我が子ではなく、自分で決めた人生を自分で納得しながら歩んでいく我が子を見たいと思っています。
ちなみに子供の名前をつけるときも、その思いを込めてそれぞれの名前をつけました。
ですから、僕は「早期教育」といった目先のことではなく、その向こうにあるものを育てることに重きを置いています。
それが具体的には何かと言えば、たくさんあるので簡単にまとめることはできませんが、すでに著書の中やこのブログで述べてきたことです。
あえて一言で表すとすれば、いろんな形で子供が得られる「肯定」であろうかと思います。
↓これらの本に挙げられる事例を反面教師的に考えると、子供が自分らしい人生をまっとうできるために必要なものは、「あなたが自分で決めたどんな人生であっても私は支持(肯定)します」という親からのメッセージになるであろうかと思います。
| 2017-04-22 | 早期教育 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
保育士おとーちゃんと紡ぐ Café☕ 第2弾~春編~ - 2017.04.19 Wed
子育てはどうしたらいいかわからないことだらけですよね。
「いまの子育てでいいのか自信がない」
「これからどうやって子育てしていけばいいのだろう・・・」
「こんなこと誰に聞いたらいいかわからない」
「家族や友達はいても、子育ての本音を話せる相手がいない・・・」
「子供の姿が難しくなってしまって困っている」
「自分の子育てに問題があることはわかっているのだけど、どこに気をつければいいかがわからない」
「自分に自信が持てなくて子育てが不安でしょうがない」
そういった思いのある方は是非いらしてください。
もちろん、特に悩みがなかったとしてもこれからの心構えとして話を聞いておきたいといったものだって全然構いません。
なかには「意を決して子育て相談にいったら、逆に嫌な気持ちや辛くなって帰ってきた」という方もいるかもしれません。
でも、安心してください。
僕は僕自身がもともと子育てに向いているわけではありませんでしたし、たくさん失敗もしてきた人間です。
本心は子育てをうまくやりたいのに、それがどうしてもできない場合があるということを知っています。ですから、悩みのある人を責めませんし、子育てのうまくいっていない人をダメな人間だと見下すこともありません。むしろ、うまくいかない人の味方でありたいとつねに思っています。
また、子育てで悩んでしまうケースでありがちなのは、「他の人に比べて自分の悩みはささやかなのに、これを悩みと言ってしまうのはおこがましいのではないか・・・・・・」といった意識から自分の悩みを押さえつけてしまう人です。
悩みというのは、一般的にみて大きいとか小さいとかの問題ではありません。
それが自分の心にのしかかってくるウエイトは、これはもう人それぞれなのです。
だから、「人から見てどうこう・・・・・・」というのを気にする必要はまったくありません。
むしろそうやって「自分で自分の思いを押さえつけてしまう」という心の動きそのものが、子育てをつらいものにしてしまう原因のひとつになります。
こういった機会に、それを誰かに出すことでそのモヤモヤを解消してしまいましょう。
小さなモヤモヤであっても、ずっと溜めておくととても大きくなってあとあと自分を苦しめてしまいます。
この、子育てカフェというのはそういったことを気軽にできる場として考えています。
A, 5月28日(日)
B, 6月8日(木)
平日では参加しにくいというご要望もありますので、今回はふたつの日程があります。
それぞれ開催場所、時間等が変わりますのでご注意ください。
詳細は以下のHOIKUBATAKEのホームページをご覧下さい。
お申し込み開始は5月~となります。申し込み開始のときはまたブログでご案内いたします。
http://tama.kilo.jp/hoiku/?p=708
また、もし自分の地域でもこういった子育てカフェ、グループ相談会をしてもらいたいといったご希望がありましたら、会場と時間を設定していただければ個人の方でも開催することができます。
参加者募集はブログでの告知でお手伝いできますので、最低開催人数を決めておけば経費をまかなうことは十分可能です。
ご希望の方は僕の『保育士おとーちゃんホームページ』の「お問い合わせフォーム」までご連絡ください。
https://hoikushioto-chan.jimdo.com/
| 2017-04-19 | 講座・ワークショップ | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
早期教育のあり方の変遷 - 2017.04.06 Thu
初期の頃の早期教育は主に「パターン学習」を主とするものでした。
「パターン学習」による早期教育とは。
子供自身の能力は未発達な段階でも、パターン学習に関しては高い習得度を示す時期に直接的な学習を施すことで効率的にその習得を高めるというもの。
「その時期は、むしろ子供の能力が未発達であるがゆえに勉強を嫌がらないという特徴もあるので、この段階でできるだけ詰め込んでしまえ」という考え方に基づいていました。
例えば、フラッシュカードや計算、四字熟語やことわざなどの反復暗唱による学習等です。
確かに0~2歳くらいまでにこういった反復してのパターン学習は、その習得という面においては効果を上げるのは事実です。
しかし、「それをしても問題がないのか」、「本当にそれは長期に見たときに役に立っているのか」といった問題をそれを推奨する人たちはあまり取りざたしていません。
その後の研究によると、それらは子供の情緒面や脳の発達などに問題があるとするものもあります。
いまでも上記のものは残っていますが、最近の流行はまた別の形の早期教育になってきています。
最近の流行は「実技系」と僕は勝手に呼んでいますが、いわゆるお勉強チックなことよりも、運動能力などの目に見える成果を早期に出すタイプのものです。
例えば、通常難しいような高さの跳び箱を跳べる、その年齢では通常できないような体操ができるようになる、など。
それを可能にしているのは、さまざまなある種のテクニックです。
どんなテクニックかというと、モチベーションを作為的に上げるものです。
この実技系の早期教育における疑問点のひとつはここにあります。
「その”モチベーション爆上げ”による習得は、長期的視点において果たしてうまく機能するのか?」
というところです。
もともとの身体能力が高かったり月齢が高かったり、身体の発達が早い子であれば、その物事の達成も容易になることでしょう。しかし、そうでない子は?
また、そのモチベーションを外的に上げられることによる精神的な負担はどうなのか?
これはケースによりけりです。
その達成が難しくない子であれば、負荷よりも達成感などのプラス面が上回ることでしょう。
そういった子はそこでの達成感などを大きな自信として、その後もいろいろなことに挑戦したりする力を獲得できるかもしれません。
しかし、子供の個性は多様ですからそればかりではないはずです。
精神的な負担もそうです。
多少のこと負担に感じていても、そこで達成感を感じたり、褒められたり、すごいと評価されることでそれを上回るものを十分にもらえる子もいるでしょう。
しかし、なんとかそこでは「頑張って」(頑張らされて)その課題をクリアできたとしても、その精神的な負担を家に帰ってから親にわがままやダダとしてぶつけたり、友達と遊ぶ場面などで抑圧されたものをなんらかの形で出すかもしれません。
これらを家庭なりがケア・フォローまで含めてできるのであればいいかもしれませんが、それができないケースもあります。僕が前の記事で述べたような傾向が強かったりすると、このケア・フォローはなおさらできないでしょう。
コメントでいただいたリンク先では「連帯責任」などもそのモチベーション上げの中で使われているようです。
それで問題なくうまくいくケースもあるのだろうけど、その課題は達成できても人間関係など別のところで悪影響を与えないといいね。
また、この大人が過剰にモチベーションを上げて大人の望むことを達成させていくというやり方は、場合によっては「燃え尽き」を生む可能性もあります。再生産されるタイプのいい意欲を生むこともあるとは思いますが。
ですが、そのリスクはあるということです。
そういった早期教育の園に通っていて、5歳のその幼稚園のときには跳び箱が7段跳べたのに、小学校3年生では5段も跳べなくなってしまったといった話も聞きます。
僕個人の考えはこうです。
経験上、大人がなんらかの作為・テクニックで子供に「うまく」ものごとを達成させることはさほど難しくありません。
工作や絵を上手に描かせること、体育的なことの到達具合を上げていくこと。などなど。
そのような結果を出させると、それをさせる大人と親はとても満足度が高いです。
しかし、子供は本当にそれで伸びているのか?という疑問があります。
「作り出されてできたものが、本当にその子のプラスの成長として獲得されるとは限らないのではないか?」
という命題がそこには生まれてくるのです。
それが学童期ならばまだしも、乳幼児期とくに最近は「超早期教育」になっていて1~2歳児に対してもそのような短絡的な結果を求めることが一般的になってきています。
僕はそうまでして「到達点」、「目に見える結果を出すこと」に意味はないと考えています。
僕はこの乳幼児期という時間には、モチベーションを溜めていく時期だと思います。
それも作為されて大人に作り出されたそれではなく、自然に獲得されるムリのないモチベーションです。
そのためには、大人から見たときの「華々しい結果」である必要はまったくないのです。
その子供の自然なモチベーションを形作る基礎は、「日々の安心安全」であり、それが続くことによる「安定」です。
それは子供を世話する大人によって体現されているものですから、それは同時に「人への信頼感」も意味しています。
・「日々の安心安全」
・「安定」
・「人への信頼関係」
これは当たり前のものです。なにもすごいことはしていません。
でも、この当たり前のものがきちんきちんと保証された日々をおくるだけでも、子供は自然なモチベーションを培うことができます。
そこにプラスして、楽しい経験やおもしろい経験を重ねていくことで、それはさらに大きくなっていきます。
必ずしもその経験が、「何かすごいことの達成」である必要はさらさらないのです。
・大人と追いかけっこをして楽しかった
・虫取りをして楽しかった
・友達とかくれんぼをして楽しかった
・砂場で山を作った
・工作したものを大人にプレゼントした
・大人のお手伝いをして感謝された
・友達とケンカした
こんなことでも十分に子供のモチベーションを培っていくことになります。
そしてこういった経験であれば、なにか難易度の高いことに挑戦させることで、できない子が劣等感や疎外感を持ってしまったりといったネガティブな副作用はありません。
早期教育を企図する人、支持する人にはその背景にある種の子育て観があります。
それは「功利性、効率性」です。
「子供がただ遊んだりしていることにはなんの成果もなく無駄なのではないか? ならば結果に結びつくものを早い内からやる方がいいのではないか」という考え方です。
「アルファベットや数字が書かれた積み木」などにも、この功利性という子育て観が見て取れますよね。
これはいかにも現代的、というか、いかにも高度経済成長期に発生した早期教育らしいと感じます。
子供の育ちまでも「功利性」でとらえるという現代人のものの見方、考え方を表しています。
子供の成長というものは、必ずしも功利的、もしくは効率的にとらえられるものではありません。
実を言うと、世界的な幼児教育の潮流の中では、パターン学習はおろか、この実技系の早期教育ももはや時代遅れになりつつあります。特にパターン学習については「意味がない」と考える人が多くなっています。
現状、日本で一般に注目されている早期教育は、いまだにこのパターン学習と実技系のハイブリッドになっています。
しかし、いまは「非認知能力」を培うことが子供の将来にわたっての力になると言われています。
「非認知能力」とは、自己肯定感や自信、他者と関わる力、集中してものごとに取り組む力、感情をコントロールする力などの、形ある結果として認知されないタイプの能力のことです。
この「非認知能力」は目に見えないものであるだけに、それを伸ばすということをなかなか難しく感じます。
しかし、それ以上に難しいのは「認知的な能力」のみを「教育」として考えてきた、我々大人の世代がその「認知能力としての教育」にとらわれずに子供の「非認知能力」を伸ばす立場にあるという点です。
僕は別にこの「非認知能力」を意識して子育てや保育を語ってきたわけではありませんが、僕が普段述べているようなことはこういった「非認知能力」を伸ばす上での基礎になっていることは間違いないと思います。
↓「非認知能力」についてのわかりやすい記事です。前編~中編~後編とあります。
ベネッセの素晴らしいところは、自身教育産業の一員でありながら、独自のシンクタンクを設置して現に行っている事業に相反するような意見も誠実に打ち出していくところだと思います。
幼児期から育成したい! 「非認知能力」とは?【前編】(ベネッセ教育情報サイト)
↓アメリカのジャーナリストがまとめた「非認知能力」の本
↓僕もまだ時間がなくて読めていないのですがこちらは保育士向け
| 2017-04-06 | 早期教育 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
早期教育を目指す親のあり方について考える vol.2 - 2017.04.05 Wed
その焦点となるのが、「早期教育をすることにより子育てが難しくなってしまう」実際のケースの傾向から気をつけたい点を考慮することです。
僕がこれを書く動機は、子供のためによかれと思ってすることで結果的に苦しんでしまう子供や親を見てきたためです。また、そのような傾向で育てられたがゆえに大人になってからも苦しむ人の声を聞いてきたからでもあります。
子育てをする上での一助としていただければ幸いです。
では、前回からの続きです。
前回は、早期教育を目指すことで子育てを難しくしてしまう傾向として「1,感情をプラスの方に動かしにくい人」を上げました。
2,外に価値を見いだす人
以前、こんな話を耳にしました。あるお母さんの話です。
そのお母さんは”あやとり”などの昔からの遊びを子供がしていると「みすぼらしい」と感じるのだそうです。
だから子供が自分からそういう遊びを楽しそうにしていても、それを否定してスマホやゲーム機などをやらせるのだそうです。
こういった価値観を持つ人の話は実は子育ての周辺に少なくありません。
また別のある話です。
子供が3歳になって両親が共働きになるために保育園に入れることにしました。
それを旦那さんの両親になにげなく話したところ、「保育園なんて貧乏な子供がいくところだからはずかしいのでやめなさい」とすごい剣幕で言われたそうです。
また別のケースのお話。
そのお母さんは、普段子供への関心がとても低いです。
ネグレクト気味といっていいほど、子供への必要なケアをしておらず子供の姿に無関心です。
しかし、そのお母さんが子供に普段とはかけ離れた関心を見せるのが、そのお母さんの友達と子連れ同士で外出するときです。
子供にブランドものの服などを着せ着飾ってでかけ、写真をたくさん撮ってはSNSなどに載せています。
3~4歳頃からは子供を着飾らせるだけでなく、まるで周りのママ友と張り合うような形で習い事などをたくさんさせることが加わってきました。
これらの子供への関わり方に共通するのが、「子供そのもの」ではなく「子供の外に価値を見いだしている」点です。
そしてこれは、前の記事で書いた「感情をプラスの方に動かしにくい人」の問題とも、やや関連があります。
「情緒的な関係性」を子供との間に作れない人ほど、「子供の外につく価値」にウエイトを置きやすい傾向を持っています。
自身の生育歴ゆえに大人になっても生きづらさを感じる人の中にも、自身の親がブランド志向、ステイタス志向であった傾向を持つ人は少なくありません。
そのように子育ての価値を、「子供の外につく価値」に見いだしてしまう人が早期教育を過剰に子供に施していくようになると、その子供の姿、行動に問題が出てくるリスクは飛躍的に高まると思います。
また、回り回ってその親自身も、そういった子供の大変な姿から子育てが重荷になったり、子供と一緒にいることや子供を見ていることに苦痛を感じるようになりかねません。
くどいようですがこのメッセージを本当に必要な人に伝えるためには、重要なことなので繰り返し述べます。
僕はそういった気持ちで子育てしてしまう人を、否定したいと思っているわけでも、責めて言っているわけではありません。
だからどうかこの記事を読んでも、気持ちを怒りに振り向けないで下さい。
こういった子供の外に子育ての価値観を見いだすようになってしまう人は、それを自身の責任ではなくほとんどの場合「持たされて」しまっています。
多くは自身の親から与えられた生育歴によってです。
自身の持つ価値観を否定的にとらえられることはとても辛いことなので、自身を守るためによりいっそう意地を通さなければならなくなってしまいます。
その結果、子育ての続く年月を長期にわたって辛いものとしてしまう人がおります。
僕はそういった事態をあらかじめ回避できるものなら回避してもらう、もしくは軌道修正してもらうことによって、よりムリのない子育てひいてはよい人生をおくって欲しいと思っています。
それがどういう事態か少し例を挙げて見てみましょう。
ケース1
保育園に通っている子で、2歳くらいから早期教育や複数の習い事をしていた子のケースです。
その母親は上記のような価値観を外に求める傾向があり、かつ前回のような情緒的な関わりができないタイプ。
普段からあまり情緒的に安定して過ごしていない姿がすでにあったところに加え、早期教室の翌日の荒れた姿や、土日の習い事教室のはしごの週明けの荒れた姿が顕著に出ていた。
他児への噛みつきや、衝動的な攻撃する行動が多くなっていた。
年齢が上がるにつれて、およそ4歳くらいから他児への意地悪な姿が強く表れてくる。
それが慢性的になり、周りの子から避けられることが多くなってきた。
一方で親の様子としては、
園側から、噛みつきや他児とのトラブルがあったことを伝えられると、子供を感情的に激しく叱責する対応が多かった。(1~2歳中頃まで)
子供の意地悪な行動を取っていることに対して無視や疎外で冷たく対応することが多くなる(2歳中頃以降)
また、子供のネガティブな姿を園から伝えられることに対抗するかのように、なにかと理由をつけてはクレーマー化していった。
例:「持ち物がなくなった」とものすごい剣幕でクレーム →実際は家にあった
「園から帰ったら子供がケガをしていた」 →休日の間に家でケガした箇所だった など
幼児クラスになってからは、園だけでなく周囲の保護者に対しても矛先が向けられていく。
例:「我が子がいじめられている」「のけ者にされている」
→実際は、その子が他児に意地悪をするのでに周囲の子供たちに避けられてしまっていたり、その子が意地悪でものを取ったりするために取り替えされるためにトラブルになっている など
実際の所は、周囲の保護者はその子がしんどい状況に置かれていることを感じ取っており、むしろその子に許容的であったり寛容であった。その母親に対しても「がんばりすぎちゃっているみたい」と同情的な人も多かったのだが、その当人から被害妄想の矛先を向けられたりすることで、周りの親も離れていってしまった。
ケース2
やはり情緒的な関わりが苦手な上に外に価値観を見いだすタイプの子育てをする家庭のケース。
1歳過ぎから家庭での早期教育をはじめる。幼稚園に3歳で入園。同時に勉強の量と習い事が増える。
笑顔がほとんど出ず、大人にも信頼感を持たない。言葉も少ない。
他児に対して攻撃的。(例:自分の近くに寄られると即押し倒すなど)
そういった他児とのトラブルが慢性的にあり、幼稚園の先生から親はたびたびそれを指摘される。
それによって余計に子供を肯定的に見られなくなり、より親子間での情緒的な関わりができなくなっていく。勉強面には手を掛けるが、それ以外には掛けない姿勢に。
小学校入学と同時に学童クラブにも入る。
小学校では、他児とのトラブルからケンカ、授業中に騒ぎ授業を妨害するなどの姿が出る。
担任から何度か呼び出され話をするが、もともと幼稚園の頃からも否定的なことばかりを言われるため学校側に不信感を大きくしており、あまり協力的な姿勢は持てなかった。
3年生で学童クラブが終了し、4年生からは鍵を持って過ごすことに。
両親とも帰りが遅く、平日は夕食もひとりで食べることが多い。
4年生のとき殴り合いのケンカをし学校に呼び出される。
その際、「私は忙しい。今後何があっても呼び出すな!」と激高して怒り以後学校からの連絡をシャットアウトしてしまう。
さて、上記のふたつは極端な例かもしれませんが、ここまでいかずともこれと同様のパターンを踏んでいくケースは少なくありません。
①子供そのものと情緒的な関係を親子間に作り出すことができず、習い事や勉強などの外部の価値観を子供に求めるようになる。
②それゆえに子供の余裕が失われ情緒の安定を欠いていくことからさまざまな不適応な姿の増加が起こる。
・友達とのトラブル
・親への反発
・親の言うことをスルーする、聞かないなどの消極的な反発
・大人への信頼関係を構築することができにくい状況からの不適応な姿 などなど。
③そこから子供を肯定できない親の心情の発生。それの悪循環。
④親自身の自己防衛のための、子供の無視や放任、周囲への反発や過剰な意識。それゆえの孤立。
できるものならば、このような傾向のある人は早期教育を加熱させてしまう前にこの轍を踏まないようにした方がいいと思います。
こういった状況にはまってしまってもそれを改善していくことはできなくはありませんが、最初から、または早い段階で避けられるならばそれに越したことはありません。
こういった問題は、あとになればなるほどその軌道修正は難しくなってしまいます。
この問題の本質は、実は「早期教育」でもなく、実際上の「子育て」ですらありません。
もとにある親自身の価値観がその発端になっているところが、最大の点です。
これが「子育ての上でのちょっとしたテクニック」くらいのものであれば、それを変えることはそう難しくはないことでしょう。
「子育ての考え方」レベルのことであっても、まあ変えることはできなくはないでしょう。
しかし、自身の価値観、生きる上での尺度となると話は別です。
カウンセリングなどが一般的となっているアメリカなどであれば、学校などがこういった親と接する際は子育ての問題とは別に、「まずあなたがカウンセリングに行くことをお勧めします」といった対応がされるそうです。
しかし、日本では現状そういうことはありません。
ですので、たまたまその家庭内やその親の周囲の人からの支えで問題が解決の方向に行かない場合、解決が非常に困難になってしまいます。
僕のように幼少期の子育てをメインテーマにしている人間からすると、そのような深刻な問題を防げる段階で防ぐことをまず考えます。
僕は、この「早期教育加熱」の現代の子育ての問題の、根っこにあるのは実は「勉強熱心さ」などよりも、
「どう子育てしたらいいかわかんないよ!」という親の不安や戸惑いにこそウエイトがあるのではないかと感じています。
今回の記事は正直書くことをためらったことでもあります。
人の価値観や考え方への言及は、基本的にそれで人を変えることはできませんし、なおかつ反発や怒りを向けられるリスクが高く僕としてもそれはあまり気持ちのいいことではありません。
ですが、この問題により本当に子育てや人生を辛いものにしてしまう人が少なくありません。
またこういった問題に触れてものを言う人そのものが僕の他にはあまりいないようなので、これを伝えることが僕の使命だと思って書いた次第です。
もし、ここで述べたような問題をご自身が抱えていると思われた方がいらっしゃいましたら、子育てのこととして「子供への要求」にしてしまう前にカウンセリングなどで、ご自分の問題として向き合った方がいい場合もあるかと思います。
カウンセリングの方法やカウンセラーの方などもいろいろありますので、ご自分に合うと思われるものを探してみるといいでしょう。
カウンセリングにも本当にいろいろあります。
長期にわたってただ話を聞いてもらうことで自己解決を目指すものから、なんらかのアドバイスにより行動的な対処を考えるもの等々。
また、そのカウンセラーの専門性や相性といったものもあります。
僕も子育てカウンセリングとして、ホームページからメールでの相談、また対面での相談を承ってはおりますが僕でなくとも多くのカウンセラーがこういった問題の専門性は持っていることと思います。
早期教育の問題については、また少し視点を変えてもう少し見ていきたいと思います。
つづく。
| 2017-04-05 | 早期教育 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
早期教育を目指す親のあり方について考える vol.1 - 2017.04.02 Sun
過去記事にもすでに述べている箇所はいくつかありますが、それとは違った切り口で書いてみます。
「早期教育のすべてが問題ある」とは思いません。
そもそも子供は個々に違います。、また親のあり方・家庭のあり方もみな違います。さらに、一口に早期教育といってもいろいろありますので、一概に「いい悪い」でいいきれるものではありません。
◆「できてしまう」=「やらせて問題ない」???
ただ、誤解されることが多いのでひとつ述べておきますと、「早期教育」と「幼児教育」はイコールではありません。
幼児教育についても考え方がいろいろありますから、必ずしも確実な定義を述べることはできませんが、「早期教育」と「幼児教育」の対比でその違いを考えるとしたとき、そこを明確に分けるのは、「発達段階」のとらえ方だと思います。
伝統的に「幼児教育」とされてきたものは、子供の発達段階(この年齢、月齢、また個々の状況でなにができるのか)を踏まえたところから組み立てられています。また、情緒・精神的な発達面での許容量も意識しています。
それに対して、「早期教育」ではそれらをあまり考えずに、「早くできることならばやらせてしまおう」もしくは「早いほどうまく習得させられるからやらせよう」といった考えでそれを施しています。
「早期教育」が問題になるの論点のひとつは、
達成度を上げる、習得させることが可能な実践があるのはわかるが、それが子供の成長を考えたとき必ずしも問題ないのか?プラスになるのか?という点です。
ここについては、正直なところそれらのエビデンスよりも、はるかにビジネスとしてのあり方が先走っているのが現実です。
この問題については、僕よりも研究している大学の先生などの方が詳しいので、僕は他の人が語らないもっとミクロな視点からこの問題に触れていきます。
僕は子供の教育熱心な家庭もたくさん見てきました。
その中には早期教育にはまってしまう家庭もあります。
早期教育を施したり、教育熱心さを子供にぶつけても子供の姿に問題のない家もあれば、子供の姿、ひいては子育てそのものをどんどん大変なものにしてしまう家庭もありました。
子育てに「絶対」ということはないので断定することはしませんが、これから述べるいくつかの傾向がある親は早期教育にはまることで、子育てを難しくするリスクが高まってくるかもしれません。
1,感情をプラスの方に動かしにくい人
先日、『「感情」は学んで身につけている』の記事を書きました。
子供は楽しいとかうれしいといったプラスの方に感情が動くことを繰り返し経験することで、感情や情緒を発達させる。それができていなかったり、少なかったりすると子供に難しい姿が出やすいというお話でした。
そういった子育てをしてしまっている人、親自身がすでにそういう生育歴をおくってきたりして感情をプラスの方に動かしにくい人が、早期教育にはまってしまうケースだと子育ては難しい方向にいく可能性が高まります。
その傾向がある人には僕は早期教育はあまり勧められません。
早期教育をその状況の子供にすると心の余裕をどんどん奪っていって、結局はその親にとっても子育ては重荷になりかねません。
そして、そこから生まれる問題はずっとあとまで尾を引いたり、後になって出てきたりすることがあります。
まずは、勉強などのことよりも、子供との情緒的な関係作りや、子供の心の成長を優先した方がずっと親子互いの人生にとってプラスになると思います。
僕はそのように子育てしてしまう人を責めて言っているのではありません。
あとになって後悔したり、どうにもならなくなって子育てを投げ出してしまったり、またその子供が大人になってからもそういった親からの関わりに悩み続けたりといった、親にとっても子にとっても悲しい事態を少しでも防げるようにと思って書いています。
子供と心地よく心を動かす関わりができなかったり、苦手という人は、早期教育などを考える前にぜひそれをやってからにしてみて下さい。
子供と楽しい時間を共有することです。
「子供を楽しませる」のではありません。
モノや食べ物、金銭などで子供を喜ばせるのではなく、また、「どこどこに連れて行く」ことで子供を喜ばせるのでもなく、ただ親と子の関わりによって子供と楽しい時間を共有してみて下さい。
親子がともに楽しい、うれしい、などのプラスの感情で心を動かすことです。
なにかすごいことができる必要はありません。
にらめっこでもいいし、くすぐりっこでもいい、歌を歌ってあげることでも、「じゃんけんしよう」と誘って遊んでもいいです。
また例えば、
大人「○○ちゃんの好きな食べ物な~に?」
子供「ばななー!」」
大人「そうなんだ、私もバナナ大好きだよ」
たったこれだけの会話にも、意味があります。
それはそこに「受容と肯定」があるからです。
早期教育の成果のように目には見えませんが、これが子供の健全な育ちのためにはどうしても必要なことです。
もし、親であるあなた自身が、自分の親からそういった関わりをされたことがなくてうまくできないというのでしたら、周りの人のやっていることの真似でもいいし、だまされたと思って演技としてでもかまいません。
子供にそういった関わりを積み重ねて、屈託のない子供らしい笑顔や姿がでるようにしてみましょう。
早期教育をするにしてもしないにしても、それを先にしてからの方がずっと子育てを楽しむことができるようになるはずです。
つづく。
| 2017-04-02 | 早期教育 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
『保育の仕事がとてもつらいです。どうすればいいでしょうか?』 - 2017.04.01 Sat
姫路の『わんずまざー保育園』のニュースは胸が痛くなりました。
そこで過ごさざるを得なかった子供たちも本当につらかったことでしょう。
保育としてもあってはならないし、職業倫理上も許せないことです。
しかし、僕が保育士の指導をしたり相談を受ける中で、ここまではいかずとも似たようなケースは本当にたくさん耳にします。
虐待や虐待まがいのこと、指導やしつけと称して子供に不当な関わりを保育としてするなど、本当に悲しいことに少なくないことを感じます。
そのような保育をするところは、職員に対するモラハラ、パワハラもセットになっているところが実に多いです。
最初に勤めた保育施設でそのような扱いを受けて、保育士の道自体をあきらめてしまう人や、不適切な子供への関わりを「保育」として身につけさせられてしまった人がたくさんおります。
少しでもそういう人たちの力になりたいという思いで以下のコラムを寄稿しました。
保育士に向けて書かれた内容になっています。
よろしければご覧下さい。
『保育の仕事がとてもつらいです。どうすればいいでしょうか?』(保育士求人プロ)
| 2017-04-01 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
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