かつて、生徒の葬式ごっこといういじめに参加した教員もそうですし、この前の仙台の中学生いじめ自殺の事件でも教員がその子に体罰を振るっていました。
なぜ、本来子供を守るべき立場にある教員がそのような真逆の行為を行うかというと、前回の記事で述べたことが密接な関係を持っています。
「こうあるべき」という強い価値観を前提に持って子供に関わると、それに適合しない子を否定する心理を持つことを人は避けられません。
もし、その人が幼少期に、自分の失敗やできなかったことに対して強い否定や、不寛容からの冷たい対応、さらには自尊心を打ち砕くような関わりをその親からされていたとしたら、その傾向はいっそう強まります。
その結果、いじめられてしまうようななんらかの弱さや、上手にできない部分などを持っている子を、その教員も、いじめをする子たちと同様に感情的な否定の心のメカニズムが動いてしまいます。
結果的に、いじめをする子よりも、いじめられる子に対して冷たくなってしまったり、そのいじめを見て見ぬふりをしたり、さらには消極的・積極的荷担をしてしまう教員も現れます。
教員になれるだけの学力を獲得した人の中には、親からの「こうあるべき」という強い関わりや、勉強へのプレッシャーを受けて育った人も少なくありません。
なおかつ、前回記事のように「ちゃんと、きちんと、しっかり」を徹底して育てられてきた人も多いです。
その中には、このような他者の弱さに不寛容な人格や傾向を獲得している人の比率も増えることになります。
例えば、いまはだいぶなくなってきたと思いますが、かつては「男子は五分刈りにしなければならない」という中学校や、運動部がたくさん存在していました。
こういった学校や親からの強要は、場合によって他者への不寛容な人格を形成します。
「髪の毛短いとさっぱりしていいよね」とあっけらかんと思えるだけならば、さしたる問題はないでしょう。
しかし、その子がそれを強要される過程で、自分の本心を押さえ込んだり、否定をされたり、自尊心を傷つけられることが起こると、その価値観を習得する中で怒りを蓄積していくことになります。
すると、その怒りは、自分の自尊心を傷つけたその大人には向けられず、その価値観に適合しない他者への攻撃の感情となり、ひいてはそれを人格として獲得していきます。
五分刈りを強要されたというケースで考えていくと、
例えば、髪を長くしている男子生徒を見て「甘えている」「チャラチャラしている」といった蔑視を引き起こします。
それは冷静に論理的に見れば、髪を長くしていることがなにか直接の原因があるわけではありません。
しかし、自身が「こうあるべき」という価値観を強要されてきたために、それ以外の存在を感情レベルで肯定的に受け入れられなくなるのです。
つまりは偏見です。
これまでの日本の教員たちは、自分たちの正しい思い込んでいる偏見から一方的な価値観を押しつけることで、「教育」の名の下に、他者への不寛容さや蔑視を生んでいたと言うことができます。
こういった他者への見方は、いじめのメカニズムとまったく同じです。
教員が、いじめに荷担したり、いじめられる生徒を否定することは、このような経緯を見ればある種の必然です。
現代でも、まだこの種の教員としての適性の向上が明確に意識されていないがために、いじめに荷担したり、いじめられる側を否定する教員を生む土壌があるのではないでしょうか。
もし、いじめ問題の解決、いじめ隠蔽の防止や、体罰防止のための教員への研修を今後強化していくのであれば、教員個人個人のこういったメンタリティの部分へのなんらかのアプローチも必要ではないかと僕は思います。
これらは通常の研修では解決困難な部分です。
もし、僕にこういった研修の講師を任せてもらえるならば、
「弱さの尊重」
「本当の個性とは?」
というテーマで、これらを乗り越えるためのお話しすることができます。
また、僕自身は保育士セミナーで保育を伝えるとき、子供にどう関わるかという行動・知識の部分だけでなく、そのときどきの保育者自身の心理にも触れ、そこに自覚的に気づける視点を与えていくようにしています。
余談ですが、僕は小学校時代、豊田代議士がそのまま教員になったような人が音楽の教師だったために、音楽が大嫌いになりました。
縦笛を見るのはいまでもトラウマです。