僕自身の怒りについて - 2018.03.14 Wed
これまで、子育てと怒りについて書いてきました。
まだ少し書くことがありますが、その前に僕自身のそれについても少々述べておきます。
僕自身、僕と同世代やそれまでの世代の多くの人と同様に、強い支配と、親の意に沿うような管理的な子育てをされてきました。
そういったことのひとつひとつを思い起こそうとするのは、正直つらいことだし、記憶が封印してしまっていることもあるし、また覚えていても言葉にしたり書いたりするのもつらいことがあります。
いまここで書けることとしては例えばこんなことがありました。
僕が小学校3年生くらいのことだったと思います。
うちは料理店をしていたので、調理場の勝手口が出入り口だったのですが、そこが外からは階段を上がって二階になっています。
あるとき、靴が脱ぎっぱなしになってしまっていなかったという理由で、母が激高しその二階から外の道路に靴を放り投げ、裸足で拾ってこさせられたということがありました。
人によってはそんな些細なことと思われるかもしれませんが、僕はこのことを40年近く経ったいまでも覚えていますし、それはたまたま思い出したというわけでなく、これまでの人生のなかでずっと忘れず何度も振り返ってきました。
なぜそのようなトラウマめいたものになっているかというと、おそらくそのとき子供ながらに深く傷ついたからだろうと思います。
その靴をしまうということが必要だったにしろ、それならばそれでそれを通常の手段で伝えればいいことです。
例えば、「ここに脱ぎっぱなしにされたら、仕事の迷惑になるので必ずしまってください」など。
それを伝えられれば、子供なりにそれを受け止めそのように努力したことは間違いありません。僕自身、もともと非常に素直で大人に従順な性格をしていたから、それはあきらかに言えます。しかもそのことを母親自身も知っていたはずです。
でも、わざわざ子供の自尊心を踏みにじる方法で、それを伝えています。
ここにあるのは、実は「子育て」ではないのです。
それは母自身の持つ怒りが制御できないという問題です。
いまは理屈をともなってそれを理解しますが、当時も実は理屈は抜きにしても子供である自分自身そのことを理解していました。
それが余計にこのケースを悲しいものとしているのです。
なぜ、悲しいかというと、それは母親のために悲しいのです。
自分の母は、誰かに理由をつけて怒りをぶちまけなければならない苦しみを抱えているのだなぁということが、子供である自分には自然と理解できており、それが自分自身の自尊心を踏みつけにする関わりをされたこととは別に、よりこのケースが忘れがたいものとしています。
母にもいろんな辛さがあったでしょう。
いろんな事情もしっていますし、そのことはよくわかります。
子供として、僕は母を恨みには思っていないけれども、自分がされた分と母が負っている負の分で二人分の苦しさを抱えています。
しかし、客観的に言うとすれば、子供は子供であり、大人が自分がつらいからといってそれのはけ口に子供を使うべきではなかったのです。
僕はその後、自分が母から受けたことを通して、母のそのメンタリティと同じものを獲得させられていきます。正論を盾に人の自尊心に踏み込むような関わりをある程度身につけてしまいます。
ただ強く外に出すタイプでなかったので、萎縮傾向の性格も身につけ、結果的にはその他者へ攻撃的な行動がたくさん表面化はしませんでした。
一方で、自分自身の持っている部分や、他の人に受け止めてもらえた部分があって、そこにはある種の葛藤を持ち続け、それが自分の性格の全てをそのように染め上げずにすみます。
僕は保育の仕事を通して、その他者の自尊心を傷つけてしまうような関わりや、自身の心のあり方を乗り越えることができました。
このことは大変幸運であったと感じています。
幸運であったというのは、乗り越えられない可能性も少なからずあったからです。
いろんな保育士をみていて、僕と同じような経緯を持って乗り越えた人もみていますし、乗り越えられずに苦しんでいる人もいます、そもそもそれを自分が抱えていることに気づいていない人がたくさんいるのも知っています。
誤解のないように補足しておきますが、保育の仕事をすればこういった問題が乗り越えられるようになるわけではないと理解して読んで下さいね。
自分の生育歴になんらかのトラウマを抱えている人が保育士になってしまうと、それゆえに余計に苦しんだり、預かる子供たちを傷つけてしまう事態になってしまうこともないわけではありません。
しかし、いまでも時々この怒りのプールがザブンと波打つことはあります。
例えば、我が子が食器を倒したりしたときに、頭を叩きたくなるような怒りが瞬間的に出てきます。でも、自分はそれを自制することができます。
僕がそれをできるのは、仕事で多くの保育の経験があるからと、自分自身や、自分の子育てにそうとうに向き合うことができたからであって、誰しもに同じことができるようになりなさいといった風には考えません。
そういった自分だからこそ、子育てに悩む人の力になる役目があるのだと感じています。
ただ、乗り越え方はその人その人で違います。
・親と話し合って和解して乗り越える人
・親を一方的に許すことで乗り越える人
・親と対決したけれども、和解にならずあきらめから乗り越える方に進む人
・親と決別することで進む人
・親をうらむことで進む人
これは、人それぞれです。
そしてどれを選んでも悪いことではないと思います。
たとえ善意や一生懸命だったからといって、そこでしたことが間違っていたらそれが許されなければならないわけではありません。
もし、その人が親を憎むことや、うらむことを選ばざるを得ないのであれば、どうかそのことでご自分を責めないで欲しいと思います。
まだ少し書くことがありますが、その前に僕自身のそれについても少々述べておきます。
僕自身、僕と同世代やそれまでの世代の多くの人と同様に、強い支配と、親の意に沿うような管理的な子育てをされてきました。
そういったことのひとつひとつを思い起こそうとするのは、正直つらいことだし、記憶が封印してしまっていることもあるし、また覚えていても言葉にしたり書いたりするのもつらいことがあります。
いまここで書けることとしては例えばこんなことがありました。
僕が小学校3年生くらいのことだったと思います。
うちは料理店をしていたので、調理場の勝手口が出入り口だったのですが、そこが外からは階段を上がって二階になっています。
あるとき、靴が脱ぎっぱなしになってしまっていなかったという理由で、母が激高しその二階から外の道路に靴を放り投げ、裸足で拾ってこさせられたということがありました。
人によってはそんな些細なことと思われるかもしれませんが、僕はこのことを40年近く経ったいまでも覚えていますし、それはたまたま思い出したというわけでなく、これまでの人生のなかでずっと忘れず何度も振り返ってきました。
なぜそのようなトラウマめいたものになっているかというと、おそらくそのとき子供ながらに深く傷ついたからだろうと思います。
その靴をしまうということが必要だったにしろ、それならばそれでそれを通常の手段で伝えればいいことです。
例えば、「ここに脱ぎっぱなしにされたら、仕事の迷惑になるので必ずしまってください」など。
それを伝えられれば、子供なりにそれを受け止めそのように努力したことは間違いありません。僕自身、もともと非常に素直で大人に従順な性格をしていたから、それはあきらかに言えます。しかもそのことを母親自身も知っていたはずです。
でも、わざわざ子供の自尊心を踏みにじる方法で、それを伝えています。
ここにあるのは、実は「子育て」ではないのです。
それは母自身の持つ怒りが制御できないという問題です。
いまは理屈をともなってそれを理解しますが、当時も実は理屈は抜きにしても子供である自分自身そのことを理解していました。
それが余計にこのケースを悲しいものとしているのです。
なぜ、悲しいかというと、それは母親のために悲しいのです。
自分の母は、誰かに理由をつけて怒りをぶちまけなければならない苦しみを抱えているのだなぁということが、子供である自分には自然と理解できており、それが自分自身の自尊心を踏みつけにする関わりをされたこととは別に、よりこのケースが忘れがたいものとしています。
母にもいろんな辛さがあったでしょう。
いろんな事情もしっていますし、そのことはよくわかります。
子供として、僕は母を恨みには思っていないけれども、自分がされた分と母が負っている負の分で二人分の苦しさを抱えています。
しかし、客観的に言うとすれば、子供は子供であり、大人が自分がつらいからといってそれのはけ口に子供を使うべきではなかったのです。
僕はその後、自分が母から受けたことを通して、母のそのメンタリティと同じものを獲得させられていきます。正論を盾に人の自尊心に踏み込むような関わりをある程度身につけてしまいます。
ただ強く外に出すタイプでなかったので、萎縮傾向の性格も身につけ、結果的にはその他者へ攻撃的な行動がたくさん表面化はしませんでした。
一方で、自分自身の持っている部分や、他の人に受け止めてもらえた部分があって、そこにはある種の葛藤を持ち続け、それが自分の性格の全てをそのように染め上げずにすみます。
僕は保育の仕事を通して、その他者の自尊心を傷つけてしまうような関わりや、自身の心のあり方を乗り越えることができました。
このことは大変幸運であったと感じています。
幸運であったというのは、乗り越えられない可能性も少なからずあったからです。
いろんな保育士をみていて、僕と同じような経緯を持って乗り越えた人もみていますし、乗り越えられずに苦しんでいる人もいます、そもそもそれを自分が抱えていることに気づいていない人がたくさんいるのも知っています。
誤解のないように補足しておきますが、保育の仕事をすればこういった問題が乗り越えられるようになるわけではないと理解して読んで下さいね。
自分の生育歴になんらかのトラウマを抱えている人が保育士になってしまうと、それゆえに余計に苦しんだり、預かる子供たちを傷つけてしまう事態になってしまうこともないわけではありません。
しかし、いまでも時々この怒りのプールがザブンと波打つことはあります。
例えば、我が子が食器を倒したりしたときに、頭を叩きたくなるような怒りが瞬間的に出てきます。でも、自分はそれを自制することができます。
僕がそれをできるのは、仕事で多くの保育の経験があるからと、自分自身や、自分の子育てにそうとうに向き合うことができたからであって、誰しもに同じことができるようになりなさいといった風には考えません。
そういった自分だからこそ、子育てに悩む人の力になる役目があるのだと感じています。
ただ、乗り越え方はその人その人で違います。
・親と話し合って和解して乗り越える人
・親を一方的に許すことで乗り越える人
・親と対決したけれども、和解にならずあきらめから乗り越える方に進む人
・親と決別することで進む人
・親をうらむことで進む人
これは、人それぞれです。
そしてどれを選んでも悪いことではないと思います。
たとえ善意や一生懸命だったからといって、そこでしたことが間違っていたらそれが許されなければならないわけではありません。
もし、その人が親を憎むことや、うらむことを選ばざるを得ないのであれば、どうかそのことでご自分を責めないで欲しいと思います。
| 2018-03-14 | 子育てに苦しむ人へ | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
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