1,自主性・主体性の視点の欠如
式の開始前、在校生(2,3年生)が副校長の指示に従って、簡単な事前リハーサルのようなことをしていました。
号令をかけて、立ったり座ったり、お辞儀をさせたり、座ったときの音がうるさいとか静かだとか・・・・・・。これ自体も、それなりに問題があるのですが、ここではそれは置きます。
その副校長の在校生への指示の中で、このような一節がありました。
「今日は入学式というおめでたい日です。みなさんの気持ちはおめでたくなっていますか。意識してみて下さい。云々」
それを聴いて僕は「ハァー、めでたやなー」と中学生たちが一斉に三河万歳でも踊り出すのかと一瞬想像しましたが、まあそんなわけもなく粛々とその生徒たちは聴いているわけです。
その副校長は50歳代くらいの年齢の方でしょうか。
失礼ながら、何十年も教員をやってきてそのレベルなのかと僕は思います。
なぜ、それがおかしいか。
それは、
生徒の内面に直接指示を出し、そこをその指示によって作り上げようとしている。また、それが可能なのだと思っているがゆえです。これは一般社会に生きる大人にとっては驚くほどありえないことです。
人の内面というのは、直接には他者がどう干渉しようともこねくり回すことはできません。
また決してしてはならないことです。その根拠は憲法に定められた「思想信条の自由」にあります。
例えば、「花がきれい」ということを、「この花はきれいに咲いていますね。だからあなたもこれをきれいだと思いなさい」ということは、不可能なことです。そこに教育要素はありません。
さまざまな活動を通して感受性を養うなどし、その上で人によってはそれを「きれい」と思う人もでてきます。(前提として、思わない人がでてくる許容も必要)
本当にその人を伸ばす教育というのは、常に間接的でしかありえないのです。
「はい、この花はきれいですね。ではみなさん私に続いて”お花がきれい”とご唱和ください」
とこのようなことをしても、それは少しも教育ではありません。
ただの押しつけであり、単に「きれい」という意図に子供をはめ込みたい人の自己満足でしかないのです。
「おめでたい気持ちになりましょう」という心に対する指示、直接干渉によって子供を伸ばせるという視点に立っている教員では、子供の心につながる部分の何ものも形成できないのです。
むしろ、そのようなスタンスに教員がいるのであれば、学校生活というのは、押しつけ、服従の連続にしかならないことでしょう。
学校のような小さな組織は、上に立つ人の方針がとても大きな影響を与えます。
副校長がそうであれば、それ以下の教員はそれにならう人もでてくることでしょう。
教員がそうであれば、子供たちの中にもそのように他者と接する子もでてくるでしょう。
これが例えば、いじめや不登校、学級崩壊の問題など、これらはどれも子供の内面と関わっていることです。
そういったスタンスにいる教員では、解決はおろか理解すら難しいのではないでしょうか。
特に道徳が教科化された今、この教員の姿勢は大変危険なことと言えます。
2,「友達をひとりでも多く作って下さい」
校長あいさつのなかで、上の一節がありました。
正直「うわぁああ」と思います。
これでは不登校の生徒もでてくるでしょう。
このレベルの視点は、少なくとも20年も前に理解し乗り越えていなければならないことです。
単に、「友達を作って学校生活を楽しんで下さい」という程度であればまだしも、「ひとりでも多く」とかぶせていることによって、この「中学生は友達を作るべきだ」というある種の思い込みになんの疑問も抱いていないことがわかります。
「友達を作りなさい」「他者と協調しなさい」というこの大人の主観が、学校という場に集う個々ひとりひとりの子供への無理解や、居心地の悪さを形成していることにまったく気がついていないことを露呈しています。
不登校の問題やいじめの問題は、大人からの子供同士の協調の強要が背景になっていることがあります。
この校長の言葉は、それらを少しも理解していないということです。
このスタンスにいる人は、不登校の当事者や、いじめの被害に遭う側の子に、うわべはともかく心理的な批判の気持ちをもちかねません。
これは問題解決につながらないばかりか、その犠牲となっている子をさらに大人が追い詰めることにつながります。
現代において、教員が必ず乗り越えなければならない視点です。
3,個の不尊重
また校長のあいさつの中には、集団としての協調・団結を求める内容がかなり強い調子であり、その次にとってつけたように軽く「ひとりひとりを大切に」という言葉がつながっていました。
実は、これに先立つ小学校の卒業式における、そこでの小学校長の卒業式あいさつでも、まったく同様の話があったのです。
それは、「学校としてのまとまり」を強調し、本当にあいさつ文の最後の最後に一言だけ「個々を大切に」とつけていました。
この両者に共通しているのは何か。
学校長の子供を見る視点には、「集団が先にあり個が後にある」というスタンスがあることを表しています。
それは可能性としては、単に公務員根性で、「問題を起こしてくれるなよ」という気持ちの表れかもしれません。それはそれで教育者としてあまりにおそまつなものですが。
だが、もし教育論としてそのようなスタンスでいるのでしたら、それはさらに問題です。
現代の先進的な民主主義国家において、全ての基礎に「個々人」があり、なにかに取り組む際はそこから出発するということに言を俟(ま)たないからです。
教育においても、当然そうであるのは明らかです。
むしろ、教育にこそその視点が明確になければ、現代に生きる上での知性・教養を養うことができません。
であるからして、教員のスタンスは「個がまずあり、そのある種の集合体としての集団がある」という点に立っているはずです。
このとき、その集団の価値を小さくとらえるか、大きくとらえるかの価値観の差はあるとしても、この順番としての「個→集団」ここは踏まえていなければならないところです。
これが理解できていなければ、「個の尊重」や「多様性の尊重」といったことを実践できるわけもないのです。
話はややそれますが、先般話題になった銀座の公立小学校におけるアルマーニ制服の問題も、「立派な制服を着ることにより生まれる一体感」といったものを、そこの校長は求めていました。
あのケースにも、これと同様の問題点があるのです。あのケースは公立学校における制服の値段がどうこうといったことではなく、教育のスタンスとしてのそちらの方がずっと大きな問題だったと言えます。
そのように、「個の尊重」や「多様性の尊重」が理解できない学校では、複雑化する現代の子供たちの問題に取り組めるべくもありません。
最終的に、マイノリティに対しての排除の論理がはたらくことになるでしょう。
事実、息子の小学校においては、個性の理由から友達と上手く関われない問題を抱えていた子を転校させたというケースに直面しました。
悲しいかな、教員の不勉強さが子供にツケを払わせる事態となったのです。
4,車いすの生徒への対応
新入生に車いすを利用している生徒がおりました。
他の生徒は、出席番号順で入場していましたが、その車いすの生徒は列の最後尾についてこさせられていました。
インクルーシブの観点から言えば、その生徒の出席番号順の通りに他の生徒と同様に並んで入場するはずです。
これは、座る席の物理的都合上そうする合理的理由があったのではという指摘があるかもしれません。しかし、それはあたらないのです。なぜなら退場時も最後尾にされていたからです。
教員・学校側にその子を差別したりする悪意はないでしょう。
しかし、だからといってそれがOKとはならないのです。
あえて強い言葉で言えば、プロフェッショナルの無知は罪だからです。
ここに見え隠れしているのも、個の尊重よりも集団を先に置いている視点です。
「ひとりだけ違う車いすなのだから、他者と違う扱いをされて当然。一番後ろにしておけ」というスタンスにいまだ学校・教員がいるということです。
◆さいごに
僕は学校・教員の姿勢に対して批判はしていますが、そこにいる個々の人たちを責めているわけではありません。
たくさんの方がそこで努力していることも知っています。
現に、僕の講演や研修にいらしゃる教員の方も少なからずおります。
僕がこのようなことを言うのは、子供にまつわる仕事をしているからだけではありません。
今に生きるひとりの人間として、現代的な感覚を持って子供たちの教育を考えることは当然の役目だと思うからです。
もし、これを読んでくれた方の中に学校関係者の方がいらっしゃいましたら、「批判だむかつく!」ととらえるのでなく、これからの学校のあり方を考える上での一助としていただけたらと思います。