子供への対応では、「その前を見る」スタンスを持っておくといいです。
うさぽんさんの質問では、「相手の子が謝って欲しいというときどういう対応を?」というものですが、実はここだけ見てしまうと問題の本質から外れ、大人の方が振り回されてしまうことがあります。
では、「その前を見る」具体的な対応とは、その謝ることを要求する子が、それ以前の園や家庭での関わりにおいて、その子自身「謝りなさい」「謝りましょう」といった関わりをされていたり、トラブルなどに際して過干渉や過保護、つまりその子の自主性を尊重されない関わりをされていたことが、その遠因にあるということが可能性としてあります。
もし、これに該当するのであれば、その子が「謝って欲しい」という関わりをまわりまわって持たせているのは大人のその関わりゆえと言えます。
ご質問の場面での対応ではないですが、それ以前の場でその子にも自主性・主体性を尊重して関わっていけば、その子がトラブルのいちいちに対して謝りを要求することがなくなったり、減ったりすることが考えられます。
いまのが観点のひとつです。
もうひとつは、「当事者同士である子供の一方が謝ることを要求する」ことは、子供の自主性の表れとも考えられます。
これが当事者同士でやり合う分には子供たちの経験であり、なんの問題もありません。
うさぽんさんのケースでは子供の年齢が書かれていないので、これが乳児か幼児かでも多少変わりますが、幼児である場合として考えていきます。
問題なのは、「相手に謝らせて」と保育者に対して要求する行動になっている場合です。
これは上で述べたような、過保護・過干渉を当たり前にされてきてしまった子が、「自分で解決せず大人に解決してもらう」という姿勢をクセとして持たされてしまったケースが考えられます。
そして現代の子育てでは、良かれと思って関わった結果、多くの人が子供にこのクセをつけてしまいます。ですので、この行動原理からそのように保育者に求めてくる子は大変多いことでしょう。
また、保育者も「子供の問題を解決してあげることがいいことなのだ」といったスタンスでいる場合、子供がネガティブに突き当たっているからなんとかしてあげないとという気持ちから、「心の過保護」を無意識にしてしまいます。
「解決してあげる」
というのは、一見親切なようでいて、子供の経験を大人が奪ってしまうことです。
もちろん、子供の発達段階や、問題の程度に比して、「解決してあげる」ことが必要な事象もたくさんあります。
しかし、個別的に考えて、「(この子には)どこまで助けが必要で、どこからは自分で取り組ませてみる」という判断を保育者はつける必要があります。これは実践における専門性のひとつです。
その「取り組ませる」というのは、必ずしも「成功できるから取り組ませる」である必要はありません。失敗もまた経験として重要だからです。
では、場面を想定して、これらのことを踏まえた対応を試みに示してみます。
対象は幼児(自立の進んだ3歳児~年長児)とします。
Aちゃん(幼い部分や情緒の安定しないところがあり、他児のものをとったり遊びを邪魔する行動が慢性的に出ている)
Bちゃん(精神的にもしっかりしていて、遊びも言葉も上手)
【場面】
Bら数人がままごとをしてあそんでいる。
Aがそこに入ってくるが、イメージを持って遊んでいるBらと同じ遊びのレベルではないので、結果的にBらが使っているものを取り、それをBにたしなめられたところ、Aがその腹いせに机の上にならべてあったおままごとをわざと床に落としてしまった。
同様のケースは今回が初めてではなく以前から繰り返されていることから、Bも腹を立ててしまった。
【想定1】A、B同士での言い合いとなった場合
危険がない範囲で見守り、大人が介入しなければならないと判断されることが起こらない限り、見守るだけにする。
子供が目でなにかを訴えてくることがあるが、見守りの目線で「うん、私がみててあげるから大丈夫だよ~。ふたりでそのままやってごらん~」というニュアンスを込めてあたたかく見ていく。
【ポイント】
このとき保育者は円満解決を目指す必要はない。
「しつけ」や道徳的な価値判断でこの事象を見てしまえば、「Aが悪い」という揺るぎない結論が出てしまう。しかし、そこから導き出される保育者の対応は、子供たちの自主的主体的な成長のなにものも担保しない。
だから保育者は「ジャッジしない」「お奉行さまにならない」でいい。
お互いに言い合いになって、どちらも譲らず物別れになったとしてもそれが経験であり、そこに両者とも葛藤が生まれる。
その葛藤がバネとなり、両者とも次の機会に前進するための材料となる。
「正解の姿」を「今日」出すことをせず。保育者は長いスパンでその成長を見守る。
【想定2】Bが保育者に解決を求めてきたとき
B「せんせー、Aちゃんがみんなでつくったごはんおとしたー。なのに、あやまってくれないー」
保「あ~そうなんだ~。あなたはどういう風におもったの?」
B「イヤだったー。ちゃんとあやまってほしい」
保「そうなんだ~。じゃあ、そういってみたら~」
【ポイント】
このとき保育者の姿勢は、おおらかに、そしてどこか他人事のように。
なぜ他人事のように振る舞うかというと、
「はい、あなたの言い分はもっともですね。ではここからは私が引き継いで万事解決してみせます!」という態度に保育者がなってしまったら、Bは今後他の多くのことに対しても、「なにか問題が起こったら大人が解決するものだ」という経験を獲得させてしまうことになるから。
そして、これが当たり前となったまま年齢を重ねていく子が大変多いのが、現在の子供・子育ての実際です。
「あなたの気持ちは受け止めますよ~。でも、この問題の当事者はあなたなので、いろいろやってみてね~。うまくいこうともいかなくても、私が見守っているから大丈夫だよ~」
とこういったスタンスで保育者がいてあげることが、子供たちの本当の力を伸ばしてあげることにつながります。
いまはわかりやすくするために、保育者の直接的なアプローチとして保育者の言葉を書きましたが、実のところ、これはこれで正解という姿ではなくて過渡期としての対応です。
本当に目指すのは、保育者に解決を求めずに見守られていることで自分たちで解決にトライする姿や、
想定2での保育者の役割のようなことを、他の子供たちが自主的に行うようなところです。驚くかもしれませんが、このような自主性・主体性を尊重した関わりを職員全体ですることができたら、たとえ1歳児であってもこの行動が出てきます。
これを目の当たりにすると、いかに大人が無意識に子供の能力を低く見積もっているかに気づかされます。
◆
さて、いまは基礎的な部分からこの問題を述べましたが、うさぽんさんのケースは個別的な部分がありますね。
>でも相手の子はまだ謝れるところまでの成長段階にきていない、信頼関係もまだ進んでいない場合は、どのようにしたら良いのか
ここです。
相手の子が「謝れない状況を持っている」と保育者が判断しているわけですから、そもそもその子に謝らせることは適切ではないですよね。
ですから、謝らせる必要も、その行為を非難する必要もありません。
謝ることを要求する側の子の気持ちを受け止めてあげます。
「どうしたの?ああ、そうだったんだ~、それは困っちゃったね(イヤだったね など)」
要求してきた子は、保育者を信頼しているからそれを保育者に持ってきたわけですから、その信頼関係を使って保育者が受け止めることで、その子の気持ちのモヤモヤをある程度解消してあげることができるでしょう。
それをすることで、相手の子をそれ以上責めさせないようにします。
こっち側の子への対応は、一旦こんなところでいいでしょう。
さて、では問題のやってしまった側の子への対応です。
・成長の段階がまだ謝れるところに来ていない
・信頼関係の構築がまだ十分ではない
これらのことがあるわけです。
単に幼いだけなのか、情緒的なものや、心の成長が年齢に比して足りていないということもあるでしょう。全般的な大人に対する信頼感もあまり厚くないことを勘案したら、単に幼いだけ以外の理由の方が大きいことが多いですね。
こういった子に、「謝りなさい」と保育者が突きつけることは、ただでさえ理由のあるネガティブなものをさらにネガティブにしてしまいます。
この子が、自分の行動をかえりみて謝ることが本当の意味でできるためには、その心を安定させ満たしてあげる必要があります。
そのためにすべきことは、「受容と肯定」です。
例えばこんな風にしてみます。
まず保育者はその子に対して否定的でない気持ちを持って、おおらかに「どうしたの~?」と声をかける。
もし、可能ならば抱き寄せて膝に乗せたりして聴いてもいいでしょう。
それがたとえいいわけだったとしても、子供には子供の言い分があります。
それを、「うんうん、そうだったんだね~。ああ、そうか~」と受け止めていきます。
その内容がたとえ間違っていることと判断したとしても、それを正論で正す必要はありません。
そのようなことをせずとも、その子はそれが間違っていることは認識しています。しかし、心の成長のネックがあってそれをまだ受け入れられない段階です。
ですから、ただうなずいて受け止めていくだけでいいのです。
「うんうん、そうか~。わかったよ~。うん、そうだったんだね~。じゃあ落ち着いたらまたあそんでおいで~」と。
もし、そのままくっついていたり、甘えていたりするのであれば、しばらくそれもしてあげていいでしょう。
もしくは、「じゃあ、あそんでおいで~」の言葉とともに、ぎゅっと抱きしめてから、遊びに戻してあげてもいいです。
あとはあたたかく見守ってあげます。
その日は結果がでないかもしれませんが、これをこういったことのあるたびに繰り返していると、その子の他者への信頼や心の安定が追いついてきて、なんらかのプラスの変化がでてくるときがきます。
それを見逃さないようにして見守っていくと、その子に必要なだけの時間はかかりますが、いずれ他者と関わりながらムリなく過ごせる日が来ます。
それでも謝るのはまだ下手かもしれません。
でも、謝るという行為は心の余裕やエネルギーのいることなので、ネックを抱えている子には大変難しい行為です。
ですから、あまり「謝れる」という実際の行動面にこだわらない方がいいでしょう。
実際には謝れずとも、葛藤や反省の気持ちを持っていることを汲み取ってあげることが、理解者としての保育士の姿でしょう。
こういったものが、その子の本当の自主的・主体的な成長ですね。
これを明確に自身の配慮として意識的にできるようになっていくと、保育の力と子供の姿の因果関係が見えるようになってきて、保育がやりがいのある楽しいものとなってきます。