「こうすべき」というプレッシャーが、子育てする大人に課せられているからです。
例えば、
・「公共の場で子供は静かにしなければならない」
という子育てのある種の規範は、同時に親に対する
・「子供を静かにさせねばならない」
無言の内に、子育てする人への強迫観念となっています。
同時に、それが「正しいことである」というモラル形成がなされており、それに適合しない親、子への否定的、攻撃的な見方が社会一般で自然と作られてしまっています。
そのため第三者は、子供や子育てする人へ、それを理由としたモラルハラスメントすら行うことができてしまいます。
このように現状の日本の子育ては、許容的ではないものとなっています。
こういった空気感のようなものが、日本の子育ての背景にはどっしりとあり、それが子育てする人を無意識に過保護・過干渉にしています。同時に、子育てする人を自己犠牲的な状態にも追い込みます。これも子育てがしんどくなる原因のひとつです。
さらにこの空気感は、子供そのものに対する不寛容さを生むみなもとともなっているようです。
これが形成されている理由は、日本の子育てが「しつけ」という考え方で整備されてきたからです。
一般に「しつけ」というと、日本に昔からあるもののように考えられがちですが、現在のような規範に子供を当てはめていくような子育てが「しつけ」と言われるようになったのは、広義に見ても昭和初期からの都市化にともなってのものであり、狭義に見れば直接的には高度経済成長期に専業主婦として母親が子育て・家事をその責任とされた時代からのものです。
「子育ては女性の責任」と考えられた時代では、必然的に過保護・過干渉になることで、子供の正しい姿を作り出さなければという気持ちに親はなってしまいます。それは同時に、子供の適応的でない姿は「母親のせいである」とモラハラができる状態でもあります。
そのように、「しつけ」という概念での子育ては、過保護・過干渉と不可分にならざるを得ませんでした。
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この過保護・過干渉による子育ては、実のところたくさんの弊害を生んでいますが、人間の内面に形成されるものは、直接にその因果関係が見えないのでその弊害がなかなか子育ての仕方と関連して見えてきません。
例えばですが、現代の若い世代から子育て中の人たちの世代ですと、自己肯定感の低さや自尊感情の低さ、無気力さといったものを顕著にもたらしています。
それより上の世代では、他者を支配する(他者より優位に立つ)ことで自我を満たすといった、難しさを抱えた人格形成などに強い影響を及ぼしているのではと考えられます。
「自己肯定感の低さや自尊感情の低さ、無気力さ」を生んでしまうのは、過保護・過干渉を大人が子供にすることで、子供は、自己決定、自己表現、失敗を経験してそれを乗り越える力を養うといったことがいちじるしくできなくなってしまうからです。
「他者を支配する(他者より優位に立つ)ことで自我を満たす人格形成を獲得してしまう」のは、強い支配による過干渉を慢性的に受け続けてきたことにより形成されやすくなります。
叩かれたり、怒鳴られたり、叱られたり、怒られたり、大人の顔色をうかがって過ごさねばならなかったり、このような子育てを蓄積されていくと、人は萎縮した人格を形成されたり、それにより溜め込まれた怒りのはけ口が必要な人格となっていきます。
それが場合によっては、他者に攻撃的だったり、意地悪をせずにはいられなかったり、他者を支配したり、差別をすることで自己を満たすといった人格形成につながることがあります。
また、子育ての中でそれが連鎖する率も高くなってしまいます。
さらには、これの派生型で、子供を自分を満たすために利用していく子育てになる場合もあります。
・子供のテストが100点でなければ気がすまない
・子供の成績がオール5でなければならない
・習い事のコンクールで1位にならなければ許さない
・名門校や、一流企業に入れずには気がすまない
・結婚相手にそういったブランド性を求める
このような親の欲求の根元にあるのも、支配的に形成されてしまったその人の人格であり、その背景にはその人が支配的な子育てを受けてきた場合があります。
いま子育てしている人の世代(親世代)に、すでにこういった子育てを受けている人が少なからずおり、さらにその親(祖父母世代)もそういった子育てを受けているという現実があります。
先日起こった目黒の虐待死事件があります。
あのケースにおいても、その被害にあった子は、字を習得させられていたり、モデル体型でいなければならないといったことを要求されていました。
そのことは、父親が支配性の人格からの子育てをしていたことを端的に表していると言えるでしょう。
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このように、現代の子育てが過干渉になってしまうのは、子育てに許容的でない社会、子育てに攻撃的な社会があることが根っこにあります。
では、これを改善していくためにはどうしていけばいいでしょうか。
これが、現代の子育てする人だけでなく、社会全体が考えなければならないテーマです。
「非難から援助へ」
という成熟した見方が必要です。
これまで、子供の虐待死のニュースが流れると、それに対する世の人の感情や考えは、その親を責めるものとなっていました。
例えば、大阪の二人の子が餓死した事件などでは、主にその母親を責める声ばかりに終始していました。その次に、児童相談所の対応を責める意見が支配的でした。
人の情として、このような気持ちになってしまうのはわかります。
しかし、これをしていてはいつまで経っても、悲しい虐待死事件はなくなりません。
なぜなら大事な事実を見ていないからです。
それは、誰もが適切な子育てをできるとは限らないという事実です。
むしろ、現代の子育ての出発点はまったく逆です。
これは子供を虐待するような人だけの問題ではなく、「現代では誰もが適切に子育てできない」ということを前提として子育てを考えなければならない時代であり、社会になっている現実の認識です。
「誰もが子育てできなくて当然、だからサポートが必要だよね」というところが現実のスタート地点なのです。
「しつけ」の考え方が親を責めるのは、「親ならば誰もが子育てできて当然」というゆがんだ幻想を根拠にしているからです。
それが難しい人にもそれを求めてきたために、むしろ不適切な子育てが蔓延してしまいました。
本来は難しくなかった人にも過剰に求めたことが、親にとっての子育てをしんどいものに、子供にとっての育ちをつらいものにしてきてしまいました。
そして現代の基本的な子育ての形である、核家族&大人はフルタイムで仕事をしているのが一般的(はしょりますがその他諸々、専業主婦であってすら)という状態では、子育てが安定してできないという状態がデフォルトの形なのです。
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ですから、過干渉にならない子育ての第一歩は、他者の子育てに対して許容的になることだと言えます。
責めるくらいならば手を貸す。手を貸せないならば、せめて非難をしない。
こういったスタンスが必要でしょう。これをできる人からやっていくことが大切です。
だから、その意味で現代は社会的な子育ての支援が重要であり、保育士の社会的役割は高まっているのです。
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人間というのは不思議なもので、「ミイラ取りがミイラになる」という心理があります。
例えば、それまで差別されていた人が、社会的地位などを得て差別されない場にたどりつくと、今度は一転して他者を差別するようになったりします。
子育てでもこれと同じことが起こります。
「子供を育てているときは、自分のやりたいことは我慢しなさい」と求められていた人が、その立場から抜け出ると「自分はそれを要求されてつらかったから、後に続く人には優しくしよう」という人もおりますが、逆に「自分がさせられたことだから、後に続く人に落ち度を見つけたら責め立ててやろう」といった心理になる人もいます。
姑による嫁いびりなども、こういった構造をもっていることがありますね。
公共の乗り物におけるベビーカー論争にも、この構造がありました。
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誰かの子育てを援助するのは、まわりまわって自分や我が子のためになっていきます。
先日、新幹線の中での通り魔殺人が起こりました。
これは「怒りを抱えた人間」による凶行です。
子育てを援助していくことで、こういった怒りを抱えた人間を増やさないことにつながっていきます。
自分にできることからでいいのだと思います。
妊婦さんや子連れの人に席をゆずったりとか。
そんな些細なことであっても、子育てがしんどいときにはとても大きな力になるものです。