「しつけ」の誤謬(ごびゅう) - 2018.06.22 Fri
こちらの記事にいろんなコメントをいただいています。
「ごめんね」が言えないケースについての対応
その中のひとつ、ゆりこさんからいただいたものがその後の『「過干渉」という病 』の記事と関連してちょうど考えていたことだったので、それを少しまとめてみました。
いただいたコメント。
↓ここから
謝れない大人
ツイッターのタイムラインで流れてきたつぶやきに、加害者の多くが自分を被害者だと思っているという意見がありました。(例えば、セクハラで訴えられたら「すぐセクハラと言われるから言いたいことが何も言えない」と反論する、など)
大人でも自分のやったことを素直に謝れない人はたくさんいるのだということに改めて気付き、大人でも実行するのが難しいことを子供に強要しているという場面が世の中にはたくさんあり、また、そもそもなぜ謝ることさえ出来ない大人(自覚はあるのかないのか分かりませんが)が多くなってしまったのかを深く追究していないのが今の社会の現実ではないかと感じました。
振り返れば自分も同じことを子供にしてきました。それが何故なのか、今一度考えてみたいと思います。
示唆に富んだ記事をありがとうございます。
↑ここまで
ここで指摘されている、「謝れない大人」の根っこにあるものは、実のところ「しつけ」が生み出している側面があります。
「しつけ」にはある種の誤謬(ごびゅう)があります。
誤謬とは聞き慣れない言葉ですが、ここでは「構造的な欠陥・問題点」といった意味です。
その誤謬とは、
「しつけ(の概念)」が目指すものを子供に持たせようと、「しつけ(のメソッド)」を行うと、「しつけ(の概念)」が目指すものと反対のものを得させてしまう、ということです。
例えば、コメントでいただいた「謝る」というケースで、実際の子供への関わりを見てみます。
なにか不適切なことをした子に対して、注意したり、叱ったり、怒ったり、「謝りなさい」「ごめんなさいは?」「反省しなさい」といった大人の関わりを「しつけ」のメソッドは提示しており、それをすることを要求してきました。
これをしたとしても問題ないケースもあります。
(問題がないというだけで、全部が全部プラスになっているというわけではない)
そういった大人の関わりをしても、それがネガティブな影響にならないだけの「諸条件を整えている子」がそうです。
諸条件とは、必要なだけの受容や肯定、他者への信頼感の形成、自尊感情、自己肯定感、ものごとへ取り組む意欲などの心の成長が一定のところまで到達していることです。
こういった子に対してであれば、大きくプラスにはならずとも、大きなマイナスにもならないでしょう。
しかし、そういった諸条件が整っていない子に対して、こういったしつけメソッドの関わりをすることは、逆の結果を生みます。
慢性的にネガティブな行動がでている子に、こういった注意、叱る、怒る、「謝りなさい」といった大人からの支配的な要求を積み重ねていくとその子はどうなるか?
だんだんと自分からは謝らない子になっていき、さらにはそのものごと自体すら認められなくなっていきます。
◆慢性的なしつけの関わりをされてきたある年長児
そういったしつけ行為を家庭でたくさん積み重ねられてきた、ある年長児のケースです。
3歳児が、園庭でバケツに水や土をを入れて遊んでいます。
その年長の子が、(その子としては悪意なく)おもしろ半分でそのバケツをわざとひっくり返しました。
その子は慢性的にそういった行為をしているので、それを見ていた周りの年長児が「あ、○○くんがやったー」と声をあげました。
するとその子は、保育者がなにも言っていない段階でありながら、とっさにその子ではなく保育者の方を見て「おれ、やってねーし」と言う。
この状態は、たくさんの否定の関わりを積み重ねられてきた子が、さらなる否定の関わりをされまいとする自己防衛が出るようになった姿です。
「しつけ(概念)」が望む、正しい姿を持たせようと「しつけ(行為)」をした結果、その望む姿とは逆の行動を取るようになってしまっています。
しつけの概念が要求するものは間違っていないとしても、そこにあるメソッドが結局のところ全て「否定」に類することと、子供の支配に類することなので、適切にそこに導けなくなっています。
しつけのメソッドでは、こういった状態になってしまった子に対する、アプローチがそういった「しつけ行為の強化」という選択肢以外をほとんど持ち合わせないので、この子の成長や姿を安定させてあげることがいちじるしく難しくなります。
この状態の子に、さらに「しつけ行為の強化」を行ったとします。
しばしばいる、子供に「怖い関わりができる先生」のようなものをイメージするとわかりやすいでしょう。(この状態になれない人を「しつけ概念」では「なめられる大人」と解釈している)
そういう人であれば、子供はその人に従うしかなくなりますので、表面的にはその要求するところに従います。
しかし、心の中では刻々と、自分を否定された怒り、支配・強要された怒りといったものを溜めていくことになります。
単に、自己肯定感や自尊感情が下がっただけでも子供の成長にとって大きなことですが、そのときに怒りを溜め込まされた子は、それによりさらなるネガティブな行動や生きづらさを獲得させられます。
この怒りは、なにかいい形で解消されることもありますが、そのまま他者に向けられることもあります。その怒りゆえに、モノへの暴力や小さな生き物を殺したり、他者に意地悪な行為をすることでバランスを取るようになる場合もあります。
これが長期にわたって慢性化すると、そのあり方はその子の人格形成の中に取り込まれていきます。
他者を支配しようとする人間や、他の自分より下にいると思う者への差別的な行為や、ハラスメントをする人格ともなりえます。
最近特に増えているように感じられる通り魔的な加害事件の背景にも、こういった生育歴が少なからずあります。
コメントにあったようなSNS上の事象などにも、このような人格的な余裕のなさと相まって、否定された経験の多さから来る被害者意識ゆえに、強者の立場(加害側)に心情移入し被害側を叩くメンタリティがしばしば見受けられます。
SNS上に見られるこのようなレイプカルチャー(被害者叩き)には、現代の人の心の闇を垣間見せられなんとも暗澹(あんたん)たる気持ちになります。
◆
そこまでのネガティブなことでなくとも、「しつけ概念」による「しつけメソッド」のもたらす、望みと反対の姿を子供に持たせてしまうことはたくさんあります。
・あいさつ
・手洗い
・歯磨き
・食べ物の好き嫌い
こういったことも、それを子供に執拗に求めていくことを「しつけ(メソッド)」の中ではたくさんしていますが、それによってできるようになる子がいる一方、むしろ「言われるまでやらない」「言われてもやるもんか」という姿の子供を作り出しています。
◆子供の姿を作り出せても、子供を伸ばせない
これが「しつけ」の持つ構造的な欠陥です。
子供の一過性(そのときだけ)の姿を作り出すことはできても、子供の成長・育ちとして獲得させることができない、むしろ反対にいってしまう。
単にそれだけでなく、自己肯定感の低さや自尊感情の低さ、さらには心の内に怒りを抱えた人間を大量に作ってしまいました。
このしつけの問題点のもうひとつ根深いところが、そういった否定の関わり(否定、支配)をたくさんされた人は、それを他者にしたくなる心理を形成されることです。
だから、子供の姿に怒りやイライラ、モヤモヤを感じ、子供を許容的に見られなくなったり、子育てにしんどさを持つようになってしまいます。
かつてはそれでどうにかなっていた(うまくはいっていない)「しつけ」も、現代ではその方法ではもうどうにもならないところに来ていることをひしひしと感じます。
◆このあたりの「しつけ」のとらえ方に関して、こちらの本がおすすめです
・りんごの木 柴田愛子さん
マンガで描かれわかりやすい。親向け。保育園・幼稚園でも保護者向けにぜひ一冊。
・カウンセラー 長谷川博一さん
「しつけ」が深刻な生きづらさに発展してしまうケースに関心がある場合。
・なぜこういった「しつけ概念」が形成されたかに興味がある方はこちらがおすすめ。
ガッツリ学ぼう。でもわかりやすく読みやすいよ。
日本教育学会会長 日本大学文理学部教授 広田照幸
「ごめんね」が言えないケースについての対応
その中のひとつ、ゆりこさんからいただいたものがその後の『「過干渉」という病 』の記事と関連してちょうど考えていたことだったので、それを少しまとめてみました。
いただいたコメント。
↓ここから
謝れない大人
ツイッターのタイムラインで流れてきたつぶやきに、加害者の多くが自分を被害者だと思っているという意見がありました。(例えば、セクハラで訴えられたら「すぐセクハラと言われるから言いたいことが何も言えない」と反論する、など)
大人でも自分のやったことを素直に謝れない人はたくさんいるのだということに改めて気付き、大人でも実行するのが難しいことを子供に強要しているという場面が世の中にはたくさんあり、また、そもそもなぜ謝ることさえ出来ない大人(自覚はあるのかないのか分かりませんが)が多くなってしまったのかを深く追究していないのが今の社会の現実ではないかと感じました。
振り返れば自分も同じことを子供にしてきました。それが何故なのか、今一度考えてみたいと思います。
示唆に富んだ記事をありがとうございます。
↑ここまで
ここで指摘されている、「謝れない大人」の根っこにあるものは、実のところ「しつけ」が生み出している側面があります。
「しつけ」にはある種の誤謬(ごびゅう)があります。
誤謬とは聞き慣れない言葉ですが、ここでは「構造的な欠陥・問題点」といった意味です。
その誤謬とは、
「しつけ(の概念)」が目指すものを子供に持たせようと、「しつけ(のメソッド)」を行うと、「しつけ(の概念)」が目指すものと反対のものを得させてしまう、ということです。
例えば、コメントでいただいた「謝る」というケースで、実際の子供への関わりを見てみます。
なにか不適切なことをした子に対して、注意したり、叱ったり、怒ったり、「謝りなさい」「ごめんなさいは?」「反省しなさい」といった大人の関わりを「しつけ」のメソッドは提示しており、それをすることを要求してきました。
これをしたとしても問題ないケースもあります。
(問題がないというだけで、全部が全部プラスになっているというわけではない)
そういった大人の関わりをしても、それがネガティブな影響にならないだけの「諸条件を整えている子」がそうです。
諸条件とは、必要なだけの受容や肯定、他者への信頼感の形成、自尊感情、自己肯定感、ものごとへ取り組む意欲などの心の成長が一定のところまで到達していることです。
こういった子に対してであれば、大きくプラスにはならずとも、大きなマイナスにもならないでしょう。
しかし、そういった諸条件が整っていない子に対して、こういったしつけメソッドの関わりをすることは、逆の結果を生みます。
慢性的にネガティブな行動がでている子に、こういった注意、叱る、怒る、「謝りなさい」といった大人からの支配的な要求を積み重ねていくとその子はどうなるか?
だんだんと自分からは謝らない子になっていき、さらにはそのものごと自体すら認められなくなっていきます。
◆慢性的なしつけの関わりをされてきたある年長児
そういったしつけ行為を家庭でたくさん積み重ねられてきた、ある年長児のケースです。
3歳児が、園庭でバケツに水や土をを入れて遊んでいます。
その年長の子が、(その子としては悪意なく)おもしろ半分でそのバケツをわざとひっくり返しました。
その子は慢性的にそういった行為をしているので、それを見ていた周りの年長児が「あ、○○くんがやったー」と声をあげました。
するとその子は、保育者がなにも言っていない段階でありながら、とっさにその子ではなく保育者の方を見て「おれ、やってねーし」と言う。
この状態は、たくさんの否定の関わりを積み重ねられてきた子が、さらなる否定の関わりをされまいとする自己防衛が出るようになった姿です。
「しつけ(概念)」が望む、正しい姿を持たせようと「しつけ(行為)」をした結果、その望む姿とは逆の行動を取るようになってしまっています。
しつけの概念が要求するものは間違っていないとしても、そこにあるメソッドが結局のところ全て「否定」に類することと、子供の支配に類することなので、適切にそこに導けなくなっています。
しつけのメソッドでは、こういった状態になってしまった子に対する、アプローチがそういった「しつけ行為の強化」という選択肢以外をほとんど持ち合わせないので、この子の成長や姿を安定させてあげることがいちじるしく難しくなります。
この状態の子に、さらに「しつけ行為の強化」を行ったとします。
しばしばいる、子供に「怖い関わりができる先生」のようなものをイメージするとわかりやすいでしょう。(この状態になれない人を「しつけ概念」では「なめられる大人」と解釈している)
そういう人であれば、子供はその人に従うしかなくなりますので、表面的にはその要求するところに従います。
しかし、心の中では刻々と、自分を否定された怒り、支配・強要された怒りといったものを溜めていくことになります。
単に、自己肯定感や自尊感情が下がっただけでも子供の成長にとって大きなことですが、そのときに怒りを溜め込まされた子は、それによりさらなるネガティブな行動や生きづらさを獲得させられます。
この怒りは、なにかいい形で解消されることもありますが、そのまま他者に向けられることもあります。その怒りゆえに、モノへの暴力や小さな生き物を殺したり、他者に意地悪な行為をすることでバランスを取るようになる場合もあります。
これが長期にわたって慢性化すると、そのあり方はその子の人格形成の中に取り込まれていきます。
他者を支配しようとする人間や、他の自分より下にいると思う者への差別的な行為や、ハラスメントをする人格ともなりえます。
最近特に増えているように感じられる通り魔的な加害事件の背景にも、こういった生育歴が少なからずあります。
コメントにあったようなSNS上の事象などにも、このような人格的な余裕のなさと相まって、否定された経験の多さから来る被害者意識ゆえに、強者の立場(加害側)に心情移入し被害側を叩くメンタリティがしばしば見受けられます。
SNS上に見られるこのようなレイプカルチャー(被害者叩き)には、現代の人の心の闇を垣間見せられなんとも暗澹(あんたん)たる気持ちになります。
◆
そこまでのネガティブなことでなくとも、「しつけ概念」による「しつけメソッド」のもたらす、望みと反対の姿を子供に持たせてしまうことはたくさんあります。
・あいさつ
・手洗い
・歯磨き
・食べ物の好き嫌い
こういったことも、それを子供に執拗に求めていくことを「しつけ(メソッド)」の中ではたくさんしていますが、それによってできるようになる子がいる一方、むしろ「言われるまでやらない」「言われてもやるもんか」という姿の子供を作り出しています。
◆子供の姿を作り出せても、子供を伸ばせない
これが「しつけ」の持つ構造的な欠陥です。
子供の一過性(そのときだけ)の姿を作り出すことはできても、子供の成長・育ちとして獲得させることができない、むしろ反対にいってしまう。
単にそれだけでなく、自己肯定感の低さや自尊感情の低さ、さらには心の内に怒りを抱えた人間を大量に作ってしまいました。
このしつけの問題点のもうひとつ根深いところが、そういった否定の関わり(否定、支配)をたくさんされた人は、それを他者にしたくなる心理を形成されることです。
だから、子供の姿に怒りやイライラ、モヤモヤを感じ、子供を許容的に見られなくなったり、子育てにしんどさを持つようになってしまいます。
かつてはそれでどうにかなっていた(うまくはいっていない)「しつけ」も、現代ではその方法ではもうどうにもならないところに来ていることをひしひしと感じます。
◆このあたりの「しつけ」のとらえ方に関して、こちらの本がおすすめです
・りんごの木 柴田愛子さん
マンガで描かれわかりやすい。親向け。保育園・幼稚園でも保護者向けにぜひ一冊。
・カウンセラー 長谷川博一さん
「しつけ」が深刻な生きづらさに発展してしまうケースに関心がある場合。
・なぜこういった「しつけ概念」が形成されたかに興味がある方はこちらがおすすめ。
ガッツリ学ぼう。でもわかりやすく読みやすいよ。
日本教育学会会長 日本大学文理学部教授 広田照幸
| 2018-06-22 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
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