それを理解した上であえて言うのだけど、ここで述べられていることはまずいことだし、これからの教育のあり方としても方向を誤ることになります。
誤解のないように言うと、僕自身はこの作者と同じスタンスを持っています。
ですから、理解できるし、それどころかシンパシーすら感じます。
しかし、それでもこれは(自分も含めて)間違っていると言わなければなりません。
少し回りくどいですが、こういった感覚を持っている人の根っこから見ていきましょう。
これにシンパシーを感じ「その通りだ」と思う人は、例えばこんな教育を受けていたり、周囲の人からの影響を受けてきたことでしょう。
・「評価を期待してするのではなく、誰に認められずとも善行をなしなさい(努力しなさい)」
・「なにかをしたときにそれを鼻にかけるようなことはあさましいことだ」
なるほどそれは立派なことであり、もっともらしく聞こえます。
実際にそれをするのはなかなかできないことでもあり、こういった気持ちを持つ人はたしかに善人に類する人であることでしょう。
ここにはたしかに、高邁なモラリズム(道徳心)があります。
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でも、このモラリズムはこれからの時代、間違っているし、それどころか危険ですらあるのです。
これらの教えが導き出しているのは、
・我慢、努力、忍従、奉仕の心、自己犠牲、滅私
例えばこういった徳目です。
一見するとこれらはもっともらしい道徳と聞こえるのです。しかし本当にそうでしょうか。
これを強化していくことで人は健全に生きていけるでしょうか。
それで健全に人生をおくれる人もいるでしょう。しかし、そうはならない人もいます。
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5月に
『「感謝」という承認欲求』 という記事をこのブログで書きました。
このハフィントンポストの記事の作者は、頑張っているよい人を認められる人が少ないことを嘆くところで終わっています。
今後もこの人は地道でひたむきな努力を重ねていけるのかもしれません。
しかし、そうはならない人もおります。
そのことは僕の上記の過去記事で述べた通りです。
外の社会では「感謝など要求せずにひたすらに努力や我慢や自己犠牲をしなければ」と頑張り続けた結果、その心の負荷ゆえに家庭に帰って妻や子供に「誰のおかげでメシが食えると思っているんだ」などとすごまなければならない人も生んできたのです。
子育ての中で、自身の努力が認めてもらえない気持ちから、子供に負荷を強いるような子育てになってしまう人も現実にたくさんいます。
通常、こういった負の姿が、道徳のもたらしたものの裏返しと認識されることはまれです。
多くの場合、その相関関係が見えません。しかし、無関係ではありません。
だからこそ、こういった道徳や美談というのは怖いのです。
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こういった道徳観を、僕のような親の世代も、またさらにその上の親の世代も大きく持っています。もちろん、若い人たちもそうです。
いま、過労死や過労自死、過労ウツ、子供の自死の増加といったことが大変大きな社会問題となっています。
・人知れず努力しなさい
・弱音を吐いてはいけません
・わがままをいうな
・会社や同僚のために努力せよ
・権利を言うのは我慢の足りない人間だ
・周囲の人間に感謝しなさい
こういった道徳的な価値観にどっぷりと浸かっていることと、いま自分の身を削るほどに自己犠牲を重ねている人たちの存在が、まったく無関係と思うことはできません。
だから僕は冷たい人と思われようともなんでも、この4コママンガで描かれたことは、その人たちは大変立派ではあるが頑張る方向が間違っているとあえていいます。
これをこれからの時代を生きる子供たちに、そのままバトンタッチしてはなりません。
大変残念なことに、私たちの持っている道徳観というのは、大変古びており、もはや危険な代物なのです。
では、どういう方向に行くべきなのか、次回それを見ていきます。