9月15日(土) HOIKU BATAKE公開セミナー&交流会 保育士おとーちゃんに学ぼう「保育のチカラ」 - 2018.07.30 Mon
テーマは自主性・主体性の保育です。
これは前にも同様のテーマの講座を行っておりますが、今回は僕自身の保育論である「保育のチカラ」について重きを置いて、「保育の見える化」を目指します。
また、みなさんが持ち寄ったさまざまな保育のテーマや疑問についてお答えしたり、ディスカッションする場としての交流会も同日行う予定です。こちらの交流会では子育ての支援についてがメインテーマですが、質問に関してはそれにとらわれず自由にしていただけたらと思います。
詳細はこちら
9月15日(土) HOIKU BATAKE公開セミナー&交流会 保育士おとーちゃんに学ぼう「保育のチカラ」
| 2018-07-30 | 講座・ワークショップ | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
事例で見る難しい子の対応 vol.3 質問への回答(2) - 2018.07.29 Sun
クラスの大半が、受容的な担任の先生に受け止めて欲しくて言いたい放題やりたい放題。中には毎日のように「死にたい」と訴えて来る子もいます。(本気で死にたいと思っているのではなく、大人の気を引くために口にしているように見受けられます。が、このまま年齢が上がっていけば、今は狂言で「死にたい」と言っているのであっても、いつか本気で「死にたい」と思うようになっていくのではないかと恐ろしい心地がします。)
◆
子供が「死にたい」と口にする。
そんなとき「子供がそんなことを言ってけしからん!」といった、感情的否定のニュアンスをその子に向けてしまう人がいます。
それは危険な行為です。
どんな子供であれ、「死にたい」と口に出すのは、それを言わせてしまう大人の社会に問題があるのです。子供を責めるのではなく、社会の一員としての大人、そして自分を省みる視点を持つ必要があります。
子供がそのように口に出さざるを得ない社会は、その社会にあり方にゆがみがあり、それは異常事態であり、非常事態です。日本はすでにそういった社会になっていることを、多くの人が認識すべきではないかと思います。
◆
子供が「死にたい」といったり「自傷行為」をしたり、実際は自殺未遂までいかなくともリストカットなどをすることに対して、一般には、それが自分への注目を求めるゆえと解釈する向きがあります。
人によっては、それをさらに否定的にとらえて、「甘えだ」などと断罪しようとします。
これは実際に、我が子がリストカットなどをしていたときに、その親がそういった心持ちや対応をしたりします。その大人の行為は大変危険なものです。
なぜか?
子供(大人もですが)のそういった、リストカットや自傷行為、死にたいという言葉は、自分への注目を求めての行為がメインなのではありません。そういった傾向がある場合もあるにしても、本質は違います。
その本質は、「自罰感情」です。
自分は悪い子であるという認識を強く持っており、その自分を否定するために、自分で罰する行為。それが「死にたい」という強い自己否定や、実際に罰を与える自傷、リストカットへと無意識に子供を導かせてしまいます。
これに先立つ記事で、現状多くの子が抱えている直近の問題が「肯定不足」=「否定の増加」ということを述べました。
たくさんの否定をそれまでの生育歴の中で積み重ねられ、さらに規範意識で押さえつけられ、否定に否定を重ねられて子供が育ってきたとき、その子は積極的な自己肯定感を持てず、自己否定感を形成してしまいます。
さらにはそこから、自分を大切にできないという「自尊感情の低下」を招きます。
ここに至った子に、さらに否定や、不寛容、その子居場所のなさなどが加わったとき、子供は自然と「自分が悪い」「自分はダメな人間だ」「他の人に比べてなぜ自分はこんなにおとっているのだ」そういった、とても強い否定の感情を自分自身に向けるようになります。
これは他者に肯定されることが少なく、否定されることが多かった生育歴がもたらしたメンタリティです。
それゆえに、意図的なわけでなく(だから狂言ではなく)「死にたい」という言葉がでます。
「死にたい」は、子供に肯定をおくることができなかった大人たちがその子に言わせている言葉なのです。
だからもし、その感情に対して「甘えている」「お前はずるい」「他の子はそんなこと言わないのに何でお前は」といった関わりを向けてしまうことは、二重三重にその子を否定することになります。
子供の自身に対する強いネガティブな感情。「死にたい」という言葉や、自傷、リストカットなどは「自罰感情」であることを大人は覚えておき、安易な感情的否定の見方におちいらないようにしましょう。
◆
日本では、不登校になっている子や、いじめの被害にあっている子に対して、「あなたの頑張りがたりないからだ」「甘えている」「ずるをしている」「他の子は頑張っているのに・・・」といった感情を大人が無自覚に持ってしまい、それを子供に出してしまうケースが大変多いです。
それは、大人自身が持つ規範意識の感情が強すぎて、目の前の本当のその子を見えなくしてしまっている状態です。
ただでさえ追い詰められている子に、もっとも信頼しているはずの親がさらに追い打ちを掛ける行為は子供を絶望に突き当たらせてしまいます。
例えば、上で出た「他の子は頑張っているのに・・・」という言葉。
これは、大人としてはなにもその子を責めるつもりで思っているわけでもなく出てくるかもしれません。
しかし、これは言われる当人にとっては、このように伝わります。
「他の子は頑張っているのに、お前はそれができないダメな人間だ!」
ただでさえ、その子は本来自分のあるべき姿になるべく頑張って頑張って、それでもそうなれないことに対して自分で自分を責めています。そこにさらに、「他者よりも頑張っていない」と信頼する人から言われます。これは自分の持っている自己否定を何倍にも増幅させる関わりです。
こういったことはなにも小学生や思春期の子だけにあるわけではありません。
1~2歳児といったごく低年齢の子であっても、積み重ねられる強い否定は、自傷行為や心身症、情緒の不安定、他児への攻撃、慢性的なダダといった姿として、同様に出ています。
年齢があがるにつれてそれは、数も増え顕著になってきます。
だからこそ、B君が出しているサイン「僕を肯定して、好意的に受容して!」の段階で保育者が適切に受け止めることで、そういった自罰的行為などのさらなる人生のネガティブな状況にはまってしまうのを防ぐ必要があるのです。
本来であれば、幼児期にそうなってしまうことを見越して、0~2歳児の間に対応していく必要があると僕は考えています。
その時期であれば、周囲の大人も親もその子への対応がしやすいですが、年齢があがるにつれてだんだん困難になってしまいます。
また、親子間の関係改善も、幼児期よりも乳児期の方が格段にアプローチしやすいです。
幼児期になったら手遅れということはないですが、こういった精神的な心の到達点を意識した保育を乳児期のうちからしていく必要が現代にはあると言えます。
保育士さんはぜひこの本をお読みになって下さい。現代保育における必読書です。
| 2018-07-29 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
事例で見る難しい子の対応 vol.2 質問への回答(1) - 2018.07.28 Sat
とても勉強になります。ありがとうございました。どれもこれまでのブログの中に書かれていたことですが、こうして事例の中でまとめられていると、実際の対応に生かしやすいです。
一つ質問です。わたるさんの立場の保育士が、他の子供たちから「Bくんはダメなことばかりするんだよ」と言われたら、その子達にはどのように返してあげたらよいでしょうか。また、一時的にネガティブ行動が増えた段階で、援助の関わりをしていることについて他児が「なんで怒らないの?」と言うような場合はどうでしょうか。
◆
子供たちの中には、「○○くんのこと怒って」と直接的に要求してくる子すらおりますね。
その子は、周囲の大人や保育者の関わりとして、「不適切な行動をしたとき怒る大人」を見てきたり、自身怒られる関わりを重ねてきたのかもしれません。
また、規範意識からの注意・過干渉をすることでの保育空間の安定のなかで過ごしてきたのでしょう。
これを強調していけば、他者の非をあげつらい断罪しようとするメンタリティを子供たちに獲得させてしまいかねません。
これは、いじめやモラルハラスメントの底に流れている暗い川でもあります。そこを保育者がさらに強調することはさけたいですね。
(しかし実際のところ、日本のしつけや規範意識からの子育てではここを強調していくので、いじめ、モラハラを防げない)
では、そういった周囲の子への対応について、方向性のひとつを書いておきます。
その子と保育者である自分の信頼関係を使い、B君を悪者にしないようにするのです。
対応例1
子「Bくんダメなことばかりするんだよ」
保「うん、そうだね。彼にもいろいろ理由があるんだよ。でも僕はB君のこと好きなんだよ」
対応例2
子「Bくんダメなことばかりするんだよ」
保「そうだね~。でも、それも受け止めてあげてほしいんだ。あなたはそれが受け止められると僕は思うよ」
対応例3
子「Bくんがたたいた~」
保「どうしたの~、ああそうか~。それは痛かったね~」
(被害をこうむった子の気持ちを受け止めることに着目し、B君を責めることでの解決にしない)
対応例4
子「B君がまた○○した~。B君のことおこって~」
保「あら~どうしたの~、ああそうだったんだ~。うんうん」
(この受け止める関わりだけで済むならここまででいい。さらに「怒って」を要求してくる場合↓)
保「僕はそれで怒ったりしないよ。あなたのことも怒ったりしたことないでしょ。きっとB君は自分でわかる力を持っているから、僕はそれを待っているんだよ」
◆
保育者である自分自身と、周囲の子供との信頼関係ができていれば、これらの対応でB君をつるし上げることを防げるはずです。
例えば対応例3などは、信頼関係があればこそ、その人に受け止めてもらえたということで、その子は納得できるわけです。ですので、その言ってきた子を丸め込んでいるわけではありません。(信頼関係のルートの関わりが使えない人は、同じ対応でもここが丸め込みやごまかしになってしまう)
子供との間に普段から厚く信頼関係を築くことにより、子供は保育者の気持ちを自分の気持ちのように共感してくれるようになっているはずです。もちろん、個人差はありますが、基本的にはそういえることでしょう。
これらにより、B君に対する周囲からの「悪い子」というレッテル貼りを防ぎます。
レッテル貼りがなされてしまうと、B君の立場にいる子は、肯定不足と自己否定がさらに募りやさぐれてしまい、余計に安定化が難しくなってしまいます。
◆
このような対応を示すと、保育者によっては「周囲の子が可哀想だ」という見解を持つ人もいます。
「ネガティブなことをするB君ばかりが優遇されて、ネガティブな行動を取らない周りの子が割を食っている」
という見方ですね。
これは専門性のある見解とは言えません。
なぜなら、福祉における「量的平等」と「質的平等」ということが、根本的に理解されていないからです。
B君は優遇されているわけではありません。
人が健全に生きていくための一定ラインへの到達点から遠い位置にいるB君をそのラインへより近づけさせるために、必要な援助をしているのです。
そのラインをすでにクリアしている子や、そのラインへの到達が近い子に対しては、そこまでの手をかける必要がないだけです。
量的平等でこういった問題を見てしまう人からすると、「不公平である」という見解がでてしまいます。しかし、それは福祉職として浅い見方と言わざるを得ません。
質的平等に照らし合わせてみれば、なにも周囲の子をわり食わせているわけではないのです。
もちろん、これを言うことができるのもその子たちとの信頼関係があればこその話です。
もともと、子供全体に管理、支配の関わりをしていたり、その子たちの健全育成を心がけていないような保育をしていた場合は、量的平等の働きかけしか存在しなくなりますので、それ以外の見方ができなくなることでしょう。
◆
はっきり言って、「量的平等」の概念で保育をしているところの質は大変低くなります。
保護者の方がこういったことを園に言われたといまでもしばしば耳にします。
・「あなたのうちのお子さんだけ特別扱いはできません」
・「ひとりの子だけ優遇するなんて不公平です」
育ちが安定的でなかったり、発達に個性があったり、障がいがあったりする子の保護者がしばしばこのような言葉を突きつけられ、大変苦しむことになります。
多くの場合、こういった言動をする保育者は、「ちゃんと、しっかり、きちんと」といった「規範意識」からの保育観を持っており、それに当てはまらない子を心情的に許容できないというスタンスから、それのもっともらしい理由として、上の「ひとりだけ特別扱いできない」というモラルで論陣をはっています。
でも、それって福祉の概念ではないのです。
それならばその人は、「いくらの対価をもらったらこれこれのことをする」「いくらもらわなければそれはできない」というサービス業をした方がよほどいいでしょう。
◆
もし、保育者が周囲の子の心情をそのまま受け入れて、「B君が悪い」というレッテル貼りをしてしまえば(意図していようとしていまいと)、B君に不利益になるばかりではなく、その他の子にも「他者への不寛容」という心の成長を得させてしまいます。
逆に考えれば、B君への保育者の寛容の姿勢を通して、周囲の子も「他者への寛容さ」を学べる機会なのです。
だから、対応例1や対応例2の関わり方が出てくるわけです。
◆
>援助の関わりをしていることについて他児が「なんで怒らないの?」と言うような場合はどうでしょうか。
に関しては、つまりその「怒る」は「規範意識」からの、「正しいか正しくないかに照らし合わせたときの正しくない行いに対しての怒る(叱るでも同様)」ということでしょう。
乳幼児に関して、というよりも人間の人格形成の基礎部分では、この規範意識からの正論はあまり意味を成さないからです。それどころか、そもそもB君のような肯定不足の状況を大きくしてしまう主な原因が、この「規範意識からの正論」です。
子育てに対してまじめで一生懸命で、特にこういったしつけや規範意識からの子育てになりやすい人が、現在子供の肯定不足、否定の蓄積、そこからのネガティブな姿の増加という子育ての問題に苦しんでいます。
◆
「怒る」というのとはちょっと違うのだけど、もし、感情を露わにしてB君にアプローチするときがあるとすれば、それは「私」の感情からの嘘のない関わりの場面です。
例えば、B君が保育者に対して、ネガティブな行動で攻撃するような関わりを取ってきたときや、他児に対して、またはB君自身が危険な行為をした場合。
「私は、それは本当にイヤです!」
「そんなことをしたら私は本当に困る!」
「それは私は悲しい」
規範意識からではなく、「私メッセージ」として感情を入れたアプローチをします。
なぜか?
「正しい行動だからしろ」
「正しくない行動だからするな」
これは規範意識からのアプローチです。
これは、子供との情緒的つながりとは別次元の関わりです。
それに対して、
「私が本当にイヤなのでやめて下さい!」
といった、私の感情に基づいたNOの関わりは、規範意識ではなく、子供と大人の信頼関係に基づいた情緒的関わりです。
年齢が小さい子ほど、この関わりが重要なのです。
B君は年長ですから、本来は規範意識の部分が多くなりつつある年齢ではあります。しかし、B君の問題は、心の発達で言えばもっと前の時点での課題なので、こういった情緒的な関わりを重視すべきなのです。
◆
これを踏まえて考えると、世間に流布する
「怒るんではない、叱りなさい」
という子育てのある種のメソッドが、絶対のものではないことがわかります。
情緒的安定や、他者への信頼感の大きな形成、社会性、自律心、自立心(依存の減少)こういった課題がクリアされた一定ラインを超えた子に対してであれば、規範意識からの叱るが機能します。その場合であれば、大人の自ままな感情からの否定的なアプローチよりも、理知的な叱るといったアプローチの方が良い場合もあります。
しかし、まだそういった心の成長の課題が一定程度確立されていない子に対しては、むしろ信頼関係に基づいた、情緒的なアプローチの方重要なのです。
※
B君を悪く思わないように周囲の子への働きかけの点は、
字面だけをみると、ハラスメントへの対応を書いた『ハラスメント対応のお作法 』の記事における、ハラッサーへの対応と矛盾して、ダブルスタンダードになっていると感じる人がいるかもしれません。
その理由を簡単に言ってしまえば、「大人と子供の違いだから」の一言ですむでしょう。
子供は、大人に守り慈しまれ、導かれなければならない存在です。
子供はその行動に責任能力をもっているわけではありません、その責任を負うのは周囲の大人です。保護者しかり、保育者しかり。
だから、大人に対するのと違って、B君に対しては「悪いものは悪い、被害をこうむっている人がいる以上、あなたを許しません」という対応は適切ではないのです。
もし、その対応が子供に対して許されてしまえば、その子たちは将来他者へ怒りを抱えた人間として、その子自身がハラッサーになったり、大きな生きづらさを抱えて生きていくことになりかねません。
だから、正義のものさしで子供を測るべきではないのです。
ここを踏まえると、「ネガティブな行動を出さざるを得ない状況を持たされた子」という考え方が理解できることでしょう。
※少々多忙なので、他の質問に関してはまた時間のあるときに答えていきますね。
| 2018-07-28 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
9月8日(土) 岩手県滝沢市 座談会のお知らせ - 2018.07.27 Fri
僕は保育士資格を国家試験でとっているので、実は僕の保育士資格証明書は最後の教科の受験地だった岩手県で発行されています。だからなんと僕の保育士資格は岩手県知事の名前で出ているのですね。
当時はまだ、職名が「保母」だった時代なので、女性が取得するときは「保母資格証明書」となっていますが、男性の場合はただ「資格証明書」とだけ書いてあったのです。
一般には「保父」という言葉がありましたが、法律上や行政上の正式な職名は「保母」だったのですね。なので、本当に正確には「男性保母」だったのですよ。
いまはみな保育士で統一されていますが、まあそんな時代もあったということで。
さて、この座談会の募集はネット上で告知されたものがないので、詳しく書きます。↓以下
平成30年度(公財)いきいき岩手支援財団 いわて子ども希望基金助成金事業
『保育士おとーちゃんと こそだておはなし会。』
@国立岩手山青少年交流の家(テンパーク) 南部曲り家
9月8日(土) 10:00~12:00 (受付9:30)
ゲスト:須賀義一 (プロフィール 省略)
対象者:未就学児の保護者25名
参加費:500円(茶菓子あり)
託児:一人200円 定員20名
会場:国立岩手山青少年交流の家 〒020-0601岩手県滝沢市後292
お申し込み:往復はがきで下記宛てにご送付下さい
お申し込み期間:7/21~8/20必着
応募者多数の場合は抽選となります。全ての方に結果を送付いたします。
往復はがき記載内容
(往信おもて面)〒020-0022 盛岡内丸郵便局留 こそだておはなし会。申込係
(往信うら面)1,お名前
2,ご住所
3,電話番号
4,子供の年齢
5,託児希望の場合 子供の名前(よみがな)、生年月日、年齢
6,聞いてみたいこと
(返信おもて面)申込みする方の 〒 ご住所 おなまえ
(返信うら面)記入なし
※お問い合わせ先 kosodate.ohanasi@hear.to
「こそだておはなし会。」というのは主催団体の名前になります。僕が昔話か何かをするわけではなく、内容は子育てについての悩みや質問を受けたり、子育てのポイントをお伝えしたりするいつもの子育ての座談会です。
子育てに悩んでしまう人にとっては、自分の子育てのことをいうと責められてしまうのではという風に構えてしまう人もいるのですが、どんなことを話してもウエルカムなので(それこそグチでもかまいません)どうぞ遠慮なくいらして下さい。
| 2018-07-27 | 講座・ワークショップ | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
事例で見る難しい子の対応 vol.1 「肯定不足」 - 2018.07.24 Tue
それについて対応の方向と、具体的な対応の方法についてみていきます。
いただいたコメントは、わたるさんからのもので以下の通りです。
↓ここから
受容と信頼関係の保育について
こんにちは、今年一年目の新人保育士(男)です。
今回のブログとは関係のない話なのですが、「いい保育とうまい保育」など過去のブログを読ませていただき、自分の日々の保育と比べた時、分からない事があったのでのでコメントさせて頂きました。
いま、私は5歳児の担任をしています。2人体制で、もう一人の先生はベテランのA先生です。
わからないことというのは、B君という子の対応についてです。
ある日、A先生がいない状態で、私がリーダーで保育をすることになりました。午睡明けのおやつを食べた後の絵本を読み聞かせする時の事です。手遊びをした後、私が絵本を読もうとするとB君が前に出てきて、大声で話したり、自分のパンツを下げて見せびらかしたりし始めたのです。私はB君に何度もやめるよう伝えましたが、全くやめる様子もなくそれどころかもっとヒートアップしていきました。私は一度B君を抱きかかえ少し離れたところで、やめてほしいと伝えてましたが、B君は「離せ!離せ!」と言って聞く様子は見られず。見かねた、他の先生がB君に何かを手伝うようお願いすると、B君はそっちの方は行き、なんとか絵本を読み始めることができました。今回のようなことは過去にあり、どうすれば良かったのか考えた挙句、もっと感情的になって怒ればよかったのか、子どもになめられてるからこうなるのか、という考えに行きつきました。
しかし、その日の夜先生のブログに出会い、受容と信頼関係の保育について読み、とても感銘を受けました。ただ今回のようなケースで考えると、B君のこういった姿を肯定した後、大人の価値観の枠にはめない方法で導く(見守る?)にはどうすればいいのでしょうか?あの時はその場には他の子どもたちもいて、全体を動かさなければいけないという状況もあったのでそれも含めてどうしたら良かったのか、助言を頂けたら嬉しいです。
長文失礼しました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
↑ここまで
いま、日本中にこのB君とおなじ状況に置かれた子が山のようにたくさんいます。
それに適切な対処をし、安定させてあげることが保育士の欠かせない職務になっているといえるでしょう。
もちろん、それは「なめられてはならない」とばかりに、保育士が威圧で押さえ込んでいくことでも、「しつけ」のメソッドで繰り返し正論を持って正しい行動を刷り込もうとすることでもありません。
しかし、それへの適切な対応を多くの保育者が知らないばかりに、そのような威圧や過干渉の方向におちいってしまいます。つまり、スキルがないとそうならざるを得ないのです。
しかし、これに対する適切な理解や、その対処法を教えている保育の養成機関がどれだけあるでしょう、それを組織全体で理解し伝え合っている保育施設がどれほどあるでしょう、必要性に比べたらあまりに少ないのが現実ではないでしょうか。
今回それについてまとめますので、どうぞ少しでも多くの方に実践していただいたり、それを広めていただけたらと思います。
◆
まず、このB君がしているのは、保育士を馬鹿にしているわけでも「なめている」わけでもありません。
むしろ、わたるさんに対する信頼と期待の表れです。
なにを、期待しているか?
それは「肯定」です。
B君の問題点は、話を聴けないことでも、集団行動を乱すことでもありません。それはうわべに見えている症状のひとつに過ぎません。この子への援助をするためには、根っこを見る必要があります。
◆規範意識で子供を見ない
難しい子がいた場合。
「○○すべき」「△△してはならない」といった規範意識で子供を見ている人の場合、善意であれ、安易な感情に流れてであれ、否定的な見方にならざるを得ません。
「正しい行動がとれるように、この子に言い聞かせなければならない」
「なんでこの子って私の言うことを聞かないのかしら。イライラする」
これでは、対応が注意や、疎外などの「否定」のニュアンスを持ったものになります。
それを優しさでくるんで最大限努力したとしても、「怒りやイライラをなんとか我慢して怒らないようにする」といった感情的な自己犠牲の方への努力になってしまいます。
子供は大人の感情に敏感なので、どれほどその子を好意的にとらえようと努力しようも、こういったネガティブな感情のニュアンスはその子に伝わり、否定されている実感をその子は蓄積させていきます。
ですから、「正しいことを身につけさせる」といった規範意識から子供の保育をすることは適切ではありません。しかし、「しつけ」の観念が非常に強い日本の保育・子育てにおいてこの傾向は大変強くあります。
つけ加えれば、このイライラを感情的な自己犠牲によって押さえつけることを保育士の専門性のように考えてきたことにより、保育界は進歩が停滞しているとすら言えます。
「子供に愛情を持って」
「子供を尊重して」
これらの感情論を保育の柱にしてきたところが少なからずあります。
しかし、あえて苦言を呈すれば、本質的な改善のスキルを持たないから、感情論、精神論に流れざるを得なかったのでしょう。
これにより、保育士はしばしばスピリチュアルやエセ科学への傾倒に走ることがあります。これは大変気をつけたい点です。
◆どうしてかな?の視点 = 援助の視点
ではまず、対応の第一段階として、「規範意識の視点」から「援助の視点」へと転換させます。
実践に即して簡単に言ってしまうと、「どうしてそういった姿がでているのかな?」という問いを持って子供を見るのです。
その理由は個々によりいろいろでしょう。
【考察例】
・遊ぶ力が弱い(このケースでは「お話を聞く力が弱い」)
・疲れ(長時間保育、休息が不適切)
・不安感(場所や多数の人間など)
・情緒的不安定(習い事の過剰さ、保護者の多忙、弟妹の存在など)
・いらだち
・発達上の個性
・受容不足
・肯定不足(否定の関わりの過剰さ、「ちゃんとしなさい」といった関わりの蓄積)
・過保護、過干渉
・愛着形成の問題
・人間関係の不安定さ(親子関係、友達関係)
・幼さ
・依存の強さ
・体調不良
などなど。
もちろん、これら以外のものも考えられますし、これらが複合的に組み合わさっていることもあるでしょう。
保育者はその子の個性や家庭の状況、園での様子やこれまでの姿などから、この「どうしてなんだろう?」という視点で、援助の姿勢を持ってその根っこを探ってみます。
それは同時に、保育者に「どんなものであれあなたの姿を受け止めますよ」という姿勢になっていることを意味します。また、規範意識からの視点とちがって、「否定」になっていません。
子供には、「できない子」や「悪い子」がいるわけではありませんね。
自己犠牲的感情論から、「悪い子なんていません」という主張をする保育者もたくさんいますが、それは規範意識からくるその子の否定したくなる気持ちを抑え込もうというおためごかしになっていて、本質的な理念的理解とは似て非なるものです。
本質的な理念的理解理解から考えれば、
「できない子」 → 「発達段階がそこに至っていない子」
「悪い子」 → 「不適切な状況により、そういった姿を持たされてしまっている子」
となります。
子供をこの援助の視点から「どうしてなんだろう?」と見てみます。
しかし、やはりこの時点でも規範意識から子供を見ることがぬぐえない人は、「甘やかされているからだ」「親に愛情がないからだ」「わがままだから」といった否定的、感情的な見解におちいってしまいます。
そうはならないように気をつけましょう。
あくまで、「援助」の視点なのです。その子やその親の否定にいってしまうのは、保育者が自分の否定的な感情を制御できないときの反応です。
例えば、
「甘やかされている」という見解から、保育者の自ままな感情を取り除いて専門的に考えるとこうなります。
×「甘やかされている」
○「依存が助長されてしまっている」
×「親が甘やかしているからだ」
○「子育ての中で依存を助長する関わりが多くなっている」 もう一歩進めて「その保護者は依存を助長する関わり以外、どう関わっていいのかがわからないで困っている」
◆
さて、ではB君への考察に戻ります。
わたるさんは、今年から働き始めたとのことですから、3月以前の姿を直接見ていないかと思います。もしそれまでの様子を児童票や他の職員から聞いて多少なりとも把握していれば、それも勘案して、また保護者の様子や家庭での状況、送り迎え時の親子の姿など、いろいろな面から考えてみましょう。
なにか、思い当たるところが見えてくるのではないでしょうか。
そこがその子の姿の「根っこ」です。
ここに手を当てていくことで、その子を援助して安定させていくことができます。
よしんば、この考察が完全に100点満点でなくとも、この援助の視点には意味があります。
それは、その子を否定せずに私はあなたの味方ですよというメッセージがB君に伝わるからです。
このことは、B君の他者に対する信頼関係をつなぎ止める、維持向上させることに影響します。
現在B君のような子供がたくさんいると言いましたが、愛着形成の不全や、受容不足、他者への信頼感の不足を根っこにしてさまざまな難しい姿を出さざるを得なくなっている子が増えています。
それらの原因を根っことして、直近の問題としては「肯定不足」として集約されています。
従来の日本の子育て観では、「しつけの子育て」(規範意識からの子育て)をするので、必然的に否定がものすごく増大し、安定的な姿が出せなくなる状態を引き起こしやすいです。
さて、B君があえて大人が話をするのを邪魔したり、パンツを脱いでみせたりをするのは、もう純粋にたったひとつのメッセージから成り立っています。
それが、「ボクを肯定して。そして好意的に受容して」というものです。
これをその大人に出すのは、その人に受け入れて欲しいという期待をしているからです。
それは信頼の表れでもあります。
信頼していなければ、子供は怖くてそういった姿を出しません。
どれほど善意であれ、職業的意識であれ、そこを注意したり、叱責することはそのメッセージに対して、「拒否します」と突きつけることになりますね。
もし一緒に組んでいるA保育士がB君にとって信頼できる人であれば、出し方は違うかもしれませんが、なんらかの形でそのメッセージは出していることでしょう。
もし、規範意識から威圧して押さえ込むことを普段からしてしまう人であれば、その人には基本出さないで、どうしても押さえられないときだけネガティブ行動を出すということが常態化しているかもしれません。
その場合は、わたるさんに対して期待を込めてさまざまなネガティブな行動をぶつけてくることになります。
これを、規範意識から保育している施設では「あなたがなめられているからだ」と解釈しますが、それは間違っています。
◆肯定を求める子供の姿
・「みてみてーダンゴムシいたよ~」
・「ほら~ブロックで電車つくったんだよ~」
・「ボクにも折り紙おって~」
自分に注目し、共感してもらうことで肯定を得ようとする姿
こういったものは、可愛らしく大人の方も受けやすいですね。
この段階で、肯定してもらいたい気持ちや自分に関心が向いていることを確認して安心したい気持ちが十分に満たされた子は、安定した姿を出しやすいです。
・(他児とのトラブルや、自分の失敗などがあったとき)「えーん、だっこして~~;;」
感情の未整理を大人に依存することで解決してもらい、肯定を確認しようとする姿。
・「たべられない~たべさせて~」
着脱、食事などの生活の切れ目で、自分に向き合って手伝ってもらうことで肯定を確認しようとする姿。
これらは発達段階などに応じて当然出てくるものですが、昨今はネガティブな姿としてその自分への肯定を求める姿を出す子(出さざるを得ない状況を持っている子)が増えています。
おそらく必ずと言っていいほど目にしているだろうものが、お迎え時(特に遅番)。
・園内を親から逃げ回り、なかなか帰ろうとしない子
・親が迎えにくると(特に母親)、とたんにわざわざ他児とトラブルを起こす子
こういった姿が、ネガティブな行動を出すことで「わたしを肯定して」というメッセージを出している典型的な姿です。
しかし、これによってその子が必要とする「肯定」がもらえることはまずありません。
たいていの場合、叱られたり、注意されたりすることで、余計に肯定が不足し・・・・・・という悪循環が引き起こされてしまいます。
慢性化してくると、大人の方も疲弊してその後の対応が無視や疎外にすらなってしまいます。
これは親が悪いとかそういったものではなくて、ある意味では現代の子育てがおちいるべくしておちいってしまうところです。ですので、ここに保育者が援助者として入ることで、子供もそして親の子育ても安定化させていく必要があります。
◆怒られることですら心地いい子供
大人からの「肯定不足」、「関心不足」が大きく蓄積されてしまった子は、怒られることや叱られることすら欲するようになってしまいます。
その内だんだんとそういった行動が、その子の板についてしまい、周囲の子からもそういった子(意地悪ばかりする子、邪魔ばかりする子)としての認識が出来上がり、その子は自己否定感や意欲の欠如、自尊感情の欠如を心の深いところに形成していきます。
こうなってしまうと、客観的専門的に対処できる人間がいない限り、その子の問題の悪循環は増加の一途をたどってしまいます。
◆その前を見るアプローチ
では、B君への実際的なアプローチを見ていきます。
おそらくB君は、その読み聞かせの時だけでなく、子供同士の関わりの時や、生活の切れ目などでさまざまなネガティブな行動を出しているのではないかと思われます。
そのネガティブな行動時へのベストな対応というのを、とりあえずいまは考えなくていいでしょう。(後にはするのだけど、いまはあまり追求せず受け流しておく対応程度で)
その子の問題の根っこにあるのは「肯定不足」がキーになっています。
ネガティブな行動がでてしまった後では、どれほどいい対応をしたところで、その問題の解決はしてあげられないからです。
(また、ここを頑張りすぎても、その子に付随しているもうひとつの問題「ネガティブな関わりとして獲得された対人モデル」の問題がかえって助長される可能性があります。これについては長くなりすぎるのでここでは割愛)
つまり、ネガティブ行動がでてからの対応をいくら頑張っても、解決に近づきません。
言ってみれば、ネガティブな行動がでてからでは遅いのです。
子供の姿に問題があるときは、その前の段階を見るようにしましょう。
友達にちょっかいを出したり、大人に注意されるようなことを起こす前に、保育者の方から積極的に意図を持った関わりを展開させていきます。
B君にはなにか得意な遊びがありますか?
ネガティブな行動が慢性化している子には、遊び込めない姿がでていることも多いです。もし、B君に好きなものや、得意なものがあったら、そこを見落とさないようにそれを通してたくさんの肯定を普段から意識しておくっていきましょう。
その他、さまざまな関わりを通して「肯定」をおくっていきます。
●聴く
話を聴く、それに相づちを打つというのは、人間にとって大きな肯定となる行為です。
・「今日朝ご飯なにたべた~?おお~○○食べたんだ~それはいいね~」
・「それなにつくってるの~?へ~おもしろいね~」
・「あなたの今日の服かわいいね~」
・「その靴かっこいいね~」
・「今日はなにがおもしろかった~?」
・「今日の給食はなにがおいしかった?」
●共感する
自分の感じたことに共感してもらうことも、大きな肯定となります。
・「水遊びたのしいね~、それ~水掛けちゃうぞ~」
・「おいしいね~」
・「きれいだね~」
・「悲しいね~」
・「さみしいね~」
・「いやだったね~」
・「それは大変だったね~」
感情を信頼する大人とやりとりし、それに共感し合えることも、肯定であり、他者への信頼感を大きくすることにつながります。
●認める
・「あなたはいつもそのミニカー好きだね~」
・「あなたは白いご飯大好きなんだね~。いっぱいたべられていいね~」
・「あなたは外遊び好きでいいね~」
「褒める」のではありません。
褒めるは条件付きの肯定です。
多くの子が、「○○な子であったら、受け入れます」という大人からの要求に疲弊しています。
なので、立派なことが「できる」必要などないのです。
その子のあるがままの姿を見落とさず拾っていき、そこを「私はあなたのそういうところ知っているよ」と認めていくのです。
なので、なんでもいいのです。
ネガティブな行動が慢性化している子であればあるほど、褒めるところなどいちじるしく少なくなっていきますね。
しかし、認められるところならば多少なりともあるはずです。
なければ、お手伝いしてもらったり、役割を作ってあげたりして「ありがとう」の言葉を掛けられるようにしていくといった対応も考えられます。
●見守る
保育において「見守り」がもっとも基礎的な「肯定」です。
もちろん、ケガやいけないことをしないように監視するような見守りではありません。
「私はいつでもあなたたちを見守っているよ。安全だよ。ここはあなたの居場所だよ。安心して過ごしていいよ」
そういった肯定的で受容的な気持ちを視線に乗せてあたたかくおおらかに見守っていくことです。
日々のこの積み重ねが、人への信頼感を大きく育て、安心安全な雰囲気で過ごすことでものごとに取り組む意欲や、達成感を健全に得させていきます。だから、このことが子供の成長の全ての基礎になります。
●スキンシップ
くすぐったり、ハグしたり、手遊び顔遊びをしたり、お腹をつついたり、頭をなでたり、「わっ」と驚かせたり、スキンケアをしてあげたり、着脱や排泄の世話をしてあげたり・・・・・・
スキンシップは、物理的で確実にあるものです。そこに嘘の入る余地がありません。
だから、子供に響きます。
●直接的な言葉による肯定
・「あなたはかわいいね」
・「あなたたちのこと大好きだよ」
・「みんなといられて僕は楽しいよ」
●積極性
上記のもの全て、「大人の方からアプローチする」というのを忘れてはいけません。
子供からせがまれてやることに意味がないわけではありませんが、肯定不足となっている子に対する場合は特に、それではその子が必要とするところまではけっして到達しません。
配慮、意識して行うことで、必ず「大人の方から」という積極性を加えて下さい。
◆子供の姿はついてくる
B君がネガティブ行動を出してしまったときの対応は、適当に受け流しておいていいので、それ以外のところ、機嫌のいいとき(少なくともネガティブ行動がでる前に)これらのことを、少しでもいいので積み重ねていきます。
(「見守り」に関しては保育の基本なので、常にですが)
すると、それら肯定の関わりの積み重ねから築かれたわたるさんへの信頼感と、心の余裕から、なにかしら姿の変化がでてくるはずです。
短期的には、「ネガティブ行動の増大」を招く場合もあります。これはそれまで溜め込んでいたものを「この人ならば受け止めてくれる」という実感から噴出させるために起こる一時的な姿です。少ししんどいですが、その姿となったときは強い否定におちいらないようにしつつ受け流し乗り切ってしまいましょう。
その後か、それらと並行して、B君の好意的な姿が見られるようになってくるはずです。
それは、肯定の関わりを積み重ねたことによる保育の成果です。
ここを見落とさずに、「認めて」いきましょう。
それによりさらに肯定が積み重なっていきます。
◆
B君のネガティブな行動が、なんらかの事情(親がたまたま忙しいとか、下の子の妊娠出産など)により一時的なものである場合は、その程度や期間もそれほどではないかもしれません。
しかし、その根っこがそれこそ0歳児や1歳児の時から積み重なってきたような場合は、短期間で全て解決するものでもありません。
でも、限りある中でもその子に保育者の配慮からプレゼントされた肯定は、無駄ではありません。
年長と言うことですから、保育園での時間も残り少ないです。
しかし、そこでなされた肯定はとても大きな意味を持ちます。
家庭でも肯定が必要なだけなされずに、難しさを得てしまった子は、よほど許容的な人に出会わないかぎり、小学校にいっても否定されることが多くなってしまいます。
そうなれば、子供は短期的な「○○できる」以上に、生きていくための自己肯定感や自尊感情、ものごとへの意欲を低迷させたままとなってしまいます。
ですから、保育士の関わりは、オーバーではなくその子の人生をも左右するものとすらなり得ます。
わたるさんはせっかく保育の世界に入られたのですから、どうぞ子供を援助できる保育を得て保育士の仕事を続けてみて下さい。
◆補足
ただし、援助の保育をしようとしても、園自体や、周りの職員が支配の保育をしている場合、受容的、援助的な職員は、周囲から支配的な関わりをされ負荷をかけられた子供たちのネガティブさを受けるばかりの役回りとなってしまう場合もあります。
これは、深刻な疲弊を招きますので、そういったときはまた別の注意点や配慮が必要です。
B君への対応には、ここで述べたほかに
・対人関係モデルの再構築
・包括的受容
のアプローチが効果的です。
包括的受容に関しては、過去記事があったかと思います。
対人関係モデルについては、今度時間のあるときにでもまとめましょう。
| 2018-07-24 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
ハラスメント対応のお作法 - 2018.07.22 Sun
その中で、「差別する側に対しても優しくすることでそれを解決してあげることが必要ではないか」といったものがいくつかありました。
これは道徳論的にはたしかにある種の説得力があるので、世間にも一般的にこの種の意見が流通しています。
しかし、現実論としては、この対応が危険なものになったり、その問題の放置に使われることがあるので、職員差別やハラスメントをする人への対処の留意すべき点を少し書いておきます。
まず、「ハラスメントする側にも優しくしてあげて、その人の問題を解決することで是正するべき」という考え方ですが、これは優しくしてあげることで改善されたケースに関しであれば、結果論として言うことはできるでしょう。
その場合は、それでうまくいったから良かったのですが、現実にはそればかりではありません。
ハラスメントする側に、その人の苦衷を察してあげてなんとか安定してもらいたいと善意で接したとします。その人に優しくしたり、要求を聞き入れてあげたり、グチを聞いてあげたとします。
何度も言いますが、これでいい方にいくケースもないわけではありません。
しかし、その人の問題が根深いケースでは、これをするとその人の認知の中で「この人間は自分より下なので攻撃したり言うことを聞かせていいのだ」ということが強調されてしまう場合があります。
すると、結果的にその優しくしてあげた人がより攻撃の矢面に立つことになり、大きなダメージを負ってしまいます。
保育士には、善意の厚い心優しい人もたくさんいます。
その人たちは、ハラスメントをする人にとって格好の餌食となる場合があります。
相手の人のためを思って改善できるようにアプローチしてあげた結果、突発性難聴といった心身症や、ノイローゼ、ウツ、その人からのストレスを家庭で出さざるを得なくなって家庭崩壊につながってしまう人、病欠や休職、退職に追い込まれてしまうといったケースが少なからず実際に起こっています。
ちなみに、僕自身もこれにより退職に追い込まれてしまった人間の一人です。その後、ウツと希死念慮に数年苦しむことになります。僕がいま生きているのは、そのとき妻がその状態を否定せず支えてくれたからです。
なので、「その人も苦労しているのよ、だから優しくしてあげなくちゃ」といった世間に流布する一般的な感情論で対処してしまうことは、大変危険なものと言えます。特に、直接対処するわけでもない第三者が言う場合はなおさらです。
◆
他者にマウンティングする人は相手を見ます。自分よりも上であるか下であるか。
なので、同僚や後輩が優しくしたとしても、かえって仇になることが起こりやすいです。
だからそういった人への対処をする場合は、上司である人や先輩に当たる人(年齢が上の人)がした方がいいです。
無責任な上司だったりして、部下にその仕事を押しつけてしまう人の場合、その部下の人は危険にさらされます。
施設長などの上司が当のハラスメント体質を持っている場合、団結して対処するか、自分の身を一番に考えて一目散に逃げることが現実的な選択肢となります。
例えば、新卒間もない20代の人が、50代のハラスメントしてくる施設長の心のケアができると思いますか?
まず、そんなことは不可能です。その人が、善意で接しようとすればするほど格好のサンドバックにされかねません。
◆
職員が定着せず常に入れ替わっている施設では、上司や職場の姿勢にそういったハラスメント体質が染みついている場合があります。
こういったところでは、辞めようとする人間に対して「あなたは子供たちを放り出していくのね。無責任で保育者失格ね」「保育者として愛情がない」といったモラルハラスメントは常套句です。
それがまっとうできない職場状況にしている人間に非があるのであって、ハラスメントされている側がそれを斟酌してはいけません。なにかあったとき、まずは自分の身を守ることが第一なのです。
もし可能ならば、その次に子供への不適切な対応を役所なり、その職場の上部組織などに公益通報をするといったことで、子供や他の職員を守るアクションを考えましょう。
これを読んでくれている人に理解して欲しいのは、第三者がそういったモラルハラスメントの片棒を担がないように気をつけるということです。
年度の途中に辞職するようなことがあった場合、一見、その人の責任を追及したくなります。
しかし、それに乗ってしまうと、ハラスメントされる側が悪者になり、ハラスメントをする側が正義になってしまいます。
道徳論で考えてしまうと、ここにおちいり易くなります。
こういった、その第三者に悪意がなくとも被害にあった方を責めるあり方を「レイプカルチャー」と呼びます。
◆
「レイプカルチャー」のゆえんは、レイプといったハラスメントの被害にあった人に対して、「そんな格好をしているからだ」「あなたがお酒に酔いつぶれるからだ」といった、モラルの見地から被害にあった側を責めるというところから来ています。
これはものごとの本質を見誤らせるものです。どんな状況であれ、他者を侵害する行為は侵害する側に非があるのです。
しかしながら、一般にはこのような被害側を責める文化が存在しています。ゆえに「レイプカルチャー」と呼ばれます。
これはなにも性的なものだけでなく、例えばいじめ問題にも同様の構造があります。
いじめの被害を受ける子に対して、「彼にも悪いところがあった」といった意見がひんぱんに出てきます。これはその意見を言う第三者にそのつもりや悪意がなくとも、「彼に悪いところがあるからいじめられても仕方がない」という結論を言外に出しています。その人に悪意がないので、そのような指摘をすれば、補足をしたり言い訳をすることで、その人はそれを否定するでしょうけれども、そういった考え方、思考の文化が寄り集まってしまうことで、いじめは容認されることにつながります。
「彼女がたとえどんな格好をしていようと、それをレイプしていい理由にしていいわけがない」
(海水浴場で水着の人がいるからといってレイプが横行していないですよね)
「彼にたとえどんな問題があったとしても、それをいじめの理由としていいわけがない」
(理由があればいじめをしていいいのであれば、世の中はいじめばかりになります。それがいまの日本の現状なのですが・・・)
第三者は、そのように認識しなければなりません。
レイプカルチャーは悪意がない人によって形成されるからこそ、余計に始末に負えないものなのです。
ある中学校では髪型をポニーテールにすることが禁止されています。理由は、性的な被害を引き起こすからとのこと。これはつまり学校がレイプカルチャーを容認していると言うことです。
この一事だけでも、学校とはハラスメントに対して非常に鈍感であることがわかります。
これでは、学校でいじめが起こるのも当然です。
◆
さて、話をハラスメントする人への対処についてに戻します。
「ハラスメントする側もかわいそうな人」
この意見は一見、道徳的で、善意に満ちているように見えます。
しかし、上で述べたようにこれを第一に置いてしまえば、レイプカルチャーの肯定につながります。
ここにはものごとの順序の適切な理解が必要です。
ハラスメントや差別という問題があった場合、まず第一に考えなければならないのは、被害にあっている側の原状回復です。
被害を与えている側のことを考えてあげるのはその後のことになります。
まずは、被害にあっている側を救うことを考えなければなりません。
しかし現実には、この「加害側に情けをかける」という道徳的な論調によって、いろいろな問題が引き起こされます。
次のようなことがしばしば報告されます。
●子供が担任保育士により明らかに不適切な虐げられるような関わりをされている。そのことを保護者が園長に相談した。
●二人担任のクラスで、一方の担任保育士が先輩保育士の方からハラスメントを受けている。それを園長に相談した。
こういったものに対して、その園長はどちらにも同じくこんな対応をします。
「その担任の保育士も、彼女なりに辛いこともあったりしながらも頑張っているんです。どうか理解してあげて下さい」
これ、問題を感情論にすり替えることで、苦情の口をふさごうとするロジックなのです。
この対応をする保育園の施設長がとても多いのを感じます。論理的に考えてそうしているのではないのだろうけど、無自覚に問題を矮小化するためにそういう対応になっているのでしょう。
この対応は大失敗です。
たしかに、中にはその報告が誇張されていたり、考えすぎから誤解を招いてしまっている場合もあります。
侵害しているとされる担任の側に言い分があることもあるでしょう。
しかし、こういった「意見を言ってきた側の口をふさぐ対応」というのは、数ある対応の中でもっともまずいもののひとつです。
これをすると、解決するものも解決しなくなります。
このロジックは、道徳的な観点を持ち込んで感情論にすり替えるものです。
このロジックを使うと、それ以上事を荒立てるのは大人げなかったり、優しさに欠けているように感じられるので、相手はそれ以上口に出しづらくなります。
しかし、これは被害にあっている側を泣き寝入りさせる対応です。
これはレイプカルチャーのロジックでもあります。
被害を訴えられているのであれば、まずはなにを持ってもその被害を回復することが第一なのです。
被害を与えていると問われる側の肩を持ったり、その人の改善を考えるのはその後のことです。
◆
ハラスメント体質を持っている人の問題解決は、外部からの介入によって簡単にできるものではありません。
まず必須とも言える条件があります。
それは、「その人自身が自分の現状を変えたいと望むこと」です。
ある保育施設のことです。
その園では、人手不足もあって、またその保育士自身のことも考えて、責めない方向でなんとかそのハラスメント(職員にも子供にもしている)をする人の改善を考えていました。
そのために、月に一度、子供や他者にどういった関わりが大切なのか考えるための、人権について職員全体で学ぶという研修まで重ねています。
しかし、その問題ある職員は改善するよりもむしろさらに、他者への攻撃的な行動や、子供への不適切な関わりを増長させていき、子供への被害や周囲の保育士が病気になってしまうといった深刻な状況を引き起こし、退職勧告をしなければならなくなりました。
その状態になってすら、「自分は職場内で差別を受けている。ハラスメントを受けている」といった認識で、上部組織をも巻き込んでひと悶着を起こしています。
ハラスメント体質には、自身の問題を「他者のせい」とその人の認識の中ですり替えてしまう傾向が含まれています。これを「認知のゆがみ」といいます。
これが強い人に対しては、いくら善意で関わったとしても、その人に都合のいい解釈しか生まれません。その場合、改善ではなく増長が生まれてしまいます。
ですから、安易な道徳論、感情論で「ハラスメントする側も苦しんでいる」といった考え方を広めてしてしまうことは危険なのです。
◆ハラスメントへの対応の基本。
他者を攻撃、侵害している間はその行為に対して職員全員で結束して徹底的にNOを表明すること。
その人個人を責めずとも、その行為はNOであることを認識させ、それを理解し尊重するようになってからその人への援助が始まります。
「私はあなたを助ける用意がある。でも、他者を攻撃している間は私はその人を守ることを考えなければならないので、助けたくとも助けることができません」という態度が必要ではないかと思われます。
| 2018-07-22 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
「支配欲求」は集会がお好き - 2018.07.21 Sat
(自分よりも下にいると目される)人たちを集めて一定時間拘束し、そこで自身が話をしたり、指示したことをその人たちにやらせることには、支配の見えない快感があります。
(かつてナチスドイツの時代に、挙手の礼をさせて「ハイルヒトラー」と言わせたようなところまでいくと、もはや目に見える支配の快感がありますね。そこまでいくと、支配者だけでなく被支配者にまで一体感や高揚感といった快感を与えることができます)
もちろん、その集会に合理的な理由があり、なおかつ支配欲求を満たすためのものでないのならば、集会をしたとしても何ら問題がありませんが、しばしば習慣的になされる集会というのはそういった支配欲求を満たすのにうってつけのものになるということです。
子供たちに支配的で不適切な保育をしている保育施設でも、かなりの率でこの集会への強いこだわりがあります。
施設長が立派な朝の会を毎日することを職員に要求し、職員はそれを子供に要求し、そこに適合しない子がいると職員はその子を非難し、さらに施設長が「子供をちゃんとさせられない」職員を非難し・・・・・・。
と、このような集会とモラハラのマッチポンプができあがります。
そこで権勢的なその施設長は、集会がうまくいっても、うまくいかなくても、(その人にその自覚はないでしょうけれども)自身の支配欲求を満たすことができます。
朝の会に強いこだわりを持っていて、0歳~2歳といった発達段階的に意味のない年齢にまでそれを求める保育施設には、注意して見ていくことが必要だと僕は感じます。
◆
最近、保育の世界では「振り返り」というのがある種のムーブメントになっています。
(参考:https://berd.benesse.jp/up_images/magazine/en2015spring_1.pdf)
これ自体は適切に行えばもちろん意味のあることなのですが、支配欲求を満たしたい上司がいる園では、その一日の終了後に「振り返り」という名の「つるし上げタイム」に事実上なってしまっているところがあり、支配により自分を満たしたい人がいると集会は恐ろしいものとなります。
これによって、「自分はダメな保育士だ」と思わされてしまっている人や、「保育の仕事ってつらいな」、「この職場辞めたいな」「保育士辞めたいな」と思わされてしまっている人はが結構いるかもしれません。
それは保育がどうのではないのよ、モラハラがまかり通ってしまっているその職場に問題があるのですね。
◆
さて、学校の朝礼についてもこういったところを踏まえて見ると、合理的な必要がない時はやらなくていいという選択肢を学校は持つべきだと思えます。
見えない支配欲求があることに気がつかないと、毎週の朝礼という支配者にとっての既得権が手放されることはないままでしょう。
しかし、これからの道徳教育の方向性などをみていると、権威主義的な支配・被支配構造の強化に舵を切っているので、学校の向かう方向どうなるのか心配がつのります。
モラハラ、パワハラ、セクハラ、マタハラ、レイシズム、女性差別、LGBT差別などなど。
なんだか現代の日本には、肥大化した支配欲求をもてあます人がたくさんいて、それにより社会全体が停滞せざるを得なくなっているような感がひしひしとあります。
| 2018-07-21 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「支配」という見えない快感 - 2018.07.20 Fri
そもそも朝礼にどんな教育的意図があるのかわからないけれど、どうしても必要なら校内放送とかでだってできるよね。
また、中学生の息子が学校に水筒を持って行っているので、なんとなくその話題になったときに言っていたのが、「授業中は飲んではいけない」とのこと。学校の先生が言うには、「大学や高校になったらいいけど、義務教育の間はダメ」なのだと。
その論理、子供だましでしかないよね・・・・・・。(ここの裏には、教師に対して失礼なので子供は我慢すべきという権威主義が垣間見えるような気がします)
最近は、図書館や講演会場ですら飲み物を飲むことを禁じるどころか、むしろ「適宜水分補給を心がけて下さい」とまで言っている時代なのだけどね。
「校舎80周走れ」生徒倒れ救急搬送 滋賀・中学部活顧問が指示(京都新聞)
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180713000222
先日こんな事件もあったけれど、学校の先生たちの頭の中のアップデートが昭和の頃から止まってしまっているのかと思わずにはいられません。
こういったことがあるたびに「指導が不適切だった」と学校側は総括するのだけど、本当に不適切なのは指導以前の段階にあります。
それは、学校が「権威と支配」によって子供を管理しようとしており、それゆえに個々の教職員が自ままな支配欲求をそこで満たすことが可能になるシステムが維持されていることです。
そこではひとえに不適切な行為が起こるかどうかは指導の如何ではなく、その個々の教職員の人間性に任されてしまいます。これではいつまで経っても同じようなことは起こり続けるでしょう。
そういったシステム自体をアップデートする必要があるわけです。
◆
他者を支配することには、見えない快感があります。見えないというのは、自覚的にそれが心地よいと認識されているわけでなく、無自覚になんとな心地よく感じる状態です。(心地よさと同時に、支配がまっとうされてないときに強い不快感が生じる性質も合わせ持っていることを忘れてはならない)
他者に対して支配的なのと支配的でない選択肢があった場合、なんとなく支配的な方を無自覚にいろんな理由付けをしてそちらの方を選択したくなってしまいます。
これは人間の心のクセです。
だからこそ、対人関係しかもそれが上下の対人関係になりやすい世界(子供対大人は年齢的・力関係的な上下が必ずできてしまう。老人ホームや障がい者施設では力関係の上下ができやすい。職場では労使関係の上下。サービス業では金銭授受の上下関係)では、意識的にここを是正する機能が必要です。
自覚的なもののコントロールはしやすいです。
例えば、ある人にとって暑い中冷たいビールを飲むことは大変心地いいかもしれませんが、職務中に飲むことは控えられます。それは自覚的にそれがすべきでないとわかるからです。
しかし、無自覚なものをその人がコントロールするのは簡単ではありません。
それを可能にするのは、対人関係における知識を蓄積していくことか、外圧によってになります。
外圧というのは、例えば「生徒に罰を与えるような指導をした場合は必ず処分があります」とか、「児童に性的な意図を持って接触した場合は、刑事告訴をためらいません」といった理事者側の姿勢です。
知識の蓄積とは、実際には「人権」についての学びになるでしょう。
学校における諸問題の源泉には、非常に多くの場合においてこの人権感覚の乏しさがあります。これは保育施設も同様です。
本来、学校は子供に人権についてを教える場でもあるのですから、その教職員に人権感覚の乏しさがあるというのはおかしな話です。
でも、現実はそれなのです。
◆
支配欲求というのは、無自覚なだけに長年やっているとその組織の体質化してしまいます。
「当たり前」にいつのまにかなってしまうのですね。
すると、現代的な人権感覚よりもそちらの方に合理化されるという認知プロセスができあがってしまいます。
ちょうど昨日Twitterで現役の教員の方のこんな声が出ていました。
https://twitter.com/Carupisu64/status/1019924733976969217
ここにおける教頭の言葉は、認知が無自覚に支配(生徒に飲み物を飲ませることを禁じるという支配)を肯定する方に寄ってしまっています。
これは、「生命・健康はなによりも優先される」という人権の基本の「き」が無視され、支配が優先されている実例です。
その組織全体が、人権について現代的な感覚を持っていれば、この教頭のような言葉はお粗末もいいところと鼻で笑われます。しかし、悲しいかな学校にはそれが欠けています。
先日の豊田市で小学校1年生が熱中症でなくなった事件も、「生命・健康はなによりも優先される」という人権感覚が当たり前にあったのならば防げたような気がしてなりません。
| 2018-07-20 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
パート職員差別 - 2018.07.13 Fri
なので、最新流行の見栄えのする保育成果のような部分ではありません。
現状の日本の保育の問題点は、「平均点以上の保育をさらに高めていくこと」よりも、圧倒的に「平均点以下(子供の育ちに必要なことができていない)の保育を平均点にすること」だと感じています。
そんな僕のところには、不適切な保育をしている園や職員の話がたくさん耳に入ります。
そういった人の多くに共通して出てくるのが、パート職員を見下したり、嫌がらせやイヤミを言う行為です。
子供に不適切な対応をしている職員の話が出たときに、「もしかしてその人、パートの人に風当たり強くない?」と聞くと、ほぼ確実に「ええ、そうです。なんで知っているんですか?」と返ってきます。
◆
保育の不適切さの主要な原因は、「支配」です。
1,たまたま習得した保育実践が支配的なものだった
2,もともと支配的な性格・人格を持った人が、子供に支配的な保育をしている
1,ならまだしも、この2,の人は「ただ支配的な保育をしている」というよりも、「他者を支配をせずにはいられない人が保育をしている。ゆえに必然的に支配的保育となる」というものです。
なので保育の方法論がどうこうというレベルの問題ではありません。
いくら研修をしようとも、注意をしようとも、その根っこにある人格上の問題が解決しなければ、保育が変わることはありえません。
こういった「他者を支配したい」、「他者よりも優位な立場に立つことで自己の存在を承認したい」(いわゆるマウンティング)といった人は、他者に対してなにか自分が「上である」ことを常に探しています。
この種の人が保育をすると、「子供を自分の思い通りに動かすこと」が無意識に第一の目的となります。どれほど口で立派なことを言っていようとも、子供の情緒の安定や、成長を見すえた保育などはこれぽっちもできません。
大人のいわれた通りにできる子供であればまだしも、そうでない子供がいた場合、その人はその子を許容できず、否定しつづけていきます。
その人にとって、「子供は大人に従うべきもの」なので、「従わない子は悪い子」といった認識が避けられません。
そのように、対人関係を上下で対象をとらえています。
その対人関係のとらえ方が大人にも適用されている場合、パート職員への差別や嫌がらせ、ハラスメントが起こるべくして起こります。
後輩や、経験年数が自分よりも低い人に対してもほぼ同じことが起こるのですが、この「正規職員である自分 と パート職員」には制度上の明確な違いというものがあるので、その行為はその人にとってより正当化され明確に表れます。
ここには人間の悲しい性(さが)があります。
それをする人自身も、上下の違いを強調された関わりをそれまでの人生でされそこで傷を負った結果、そういった人格を形成してしまったのでしょう。
それは気の毒なことです。
しかし、気の毒であるからと言って、他者を傷つけたり、攻撃したり、他者をおとしめて自分が優越感に浸るといった行為をすることが許されるわけではありません。
この種の人たちは、子供への支配がとても上手になるので(※)、一見「できる保育士」と見られている場合がありますが、実のところ保育士の適正としてもっともそれが欠ける人たちです。
※「支配」が上手なのであって、「よい保育」ができるという意味ではない。
このことは、なにも保育士の話に限ったことではありませんね。
・「君何才?」
・「どこの学校出身?」
・「どこに住んでいるの?」
・「お父さん(ご主人)の仕事なに?」
知り合い初めて間もない内に、このような質問をしてきて、自分と相手の立ち位置を上下で決めつけようという大人も世の中には少なくないのを感じます。
一般にも、派遣社員や契約社員には社員食堂やウォーターサーバー、果てはエレベーターまで使わせないなどという会社の話まで耳にします。
◆
人と人は常に対等なのです。
年齢が上であれ、下であれ、どこ出身であれ、なんの仕事をしていようとも、人としての価値は自分と同じだけのものが相手にもあり、役職が高かろうがそれはその組織の職務上のことであって、そこから一歩離れれば本来そこに上下などありはしません。
しかし、悲しいかな人は、そういった些細な優越感がなければ心細くなってしまうという場合があります。
そのような人。例えば「えばっている人」は、実は「何か肩書きなどにすがってえばらなければ自信を持って存在できない、か細い自我しか持てていない人」なのです。
しかし、そういった他者にマウンティングができる人ほど、世の中では大きな権力を持つようになったりするので、なんとも皮肉なことです。
しかし、この人たちはあとでツケを払うことになります。
そのツケとは「孤独」です。
その人たちも潜在的にそれを感じ恐れているので、金やモノ、恩義、道徳で他者を縛ろうとし、それにより自分から孤独を遠ざけようとします。しかし、それで本当の人間関係が構築できるわけがありません。
しかし、その人にはそれ以外の手段が見えません。人とはなんとも悲しいものです。
| 2018-07-13 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
「道徳」の落とし穴 vol.2 自己犠牲について - 2018.07.10 Tue
ここには、ある種の誤解、もしくは思い込み(というより”思い込まされている”)があるのかなと思います。
まず、
「人のために行動する ≠ 自己犠牲」
を理解しておきましょう。
おそらく多くの人が、「人のために行動することは大切」と考えているのでしょう。
別の言葉で言えば、「思いやり」「優しさ」ということでしょうね。
これは、「利他的」ということです。
「利己的」というのは、自分のために行動することで、「利他的」というのは他者のために行動することですね。
「人のために行動する = 利他的 ≠ 自己犠牲的」
人のために行動すること、必ずしも自己犠牲する必要はないのです。
(ちなみに、自己犠牲を称揚していくと「利己的=悪いもの」と考えがちですが、「利己」が必ずしも悪いわけではありません)
ひとつたとえ話をしましょう。
バス停で並んでいたとします。自分の後ろにも何人か並んでいます。
そこへ目の悪い人が来ましたが、どこに並べばいいのかわからずに困っているようです。
その人を手伝いたいと思いました。
さて、どうすればいいでしょうか?
1,その人に「ここですよ」と教え、自分も一緒に列の最後尾にならんだ
2,「ここにどうぞ」と伝えて、自分がならんでいた位置にその人を並ばせて自分は最後尾に並んだ
3,「ここにどうぞ」と自分のならんでいた位置に誘い、そこに一緒に並んだ
さて、実はこのどれもが必ずしも最適解とも言えないのです。(事情や状況によりかわることはありますが)
1,2,は、手伝おうとした人が自己犠牲をしています。
自己犠牲を美徳だと思っている人は、自分が自己犠牲をしたことにより気分がよくなりますが、当の手伝ってもらった目の悪い人は、自分のせいで他者に不利益をこうむらせてしまったことでいたたまれない気持ちを持ちます。
3,は後ろに並んでいた人からすると、割り込まれたようで気分がよろしくないですし、手伝ってもらった人も結果的に割り込みをしたことによりいたたまれません。
これが絶対の正解というわけでもありませんが、誰にも負担をかけない援助は次のケースになります。
4,「ちょっとお手伝いしてきますね」と自分の並んでいる前後の人にことわって、場所をとっておいてもらって、目の悪い人を列の最後尾を教えて並ばせたら自分がそこに戻ってくる
このケースだと、誰も負担をこうむりません。
自己犠牲はしばしば美談として描かれますが、1,2,のようなもので深刻なケースが、災害時など自分が救助されたのに、救助に来てくれた人が亡くなってしまったケースです。
一見美談ですが、場合によってはこの救助された人は一生良心の呵責に悩み続けなければならないといったことが起こりえます。
だから、消防やレスキューの人など、自己犠牲ではなく最大限の安全確保の上で救助することを第一に考えています。
福祉の仕事も、利他的な行為です。
しかし、利他的と自己犠牲的を混同している人が世の中に多いために、報われない仕事となっています。
「お金ではなく心意気で」と、仕事なのにまるでボランティアかのように思われていたり、
「福祉といっているくせに高い給料をもらってけしからん」そんなモラハラまであります。
福祉職の給料が上がらない背景には、そんな自己犠牲と利他の混同が理由のひとつあるのだという気がします。
補足しておくと、ボランティアだって自己犠牲ですべきものではないですよ。
しかし、ボランティアを自己犠牲だと考えている人がいて、しかもそれをする側ではなく、してもらう側にいたりすると、これはもうひどいものになります。
すでに、東京オリンピックのボランティアなどひどいものになっていますね。
◆
さて、人間の心というのは、必ずバランスを取るようにできています。
自己犠牲をなんの問題もなくずっとし続けられるということは、まずありえないのです。
なかにはそれが可能になっているように見える人もおりますが、その人はどこかで精神的なバランスを取ることができているのでしょう。
自己犠牲をしつづけていくと人はどうなるかといえば、意欲が低下し燃え尽きるか、他者に対して攻撃的だったり意地悪になってしまうことが起こりえます。
コメントにあった助産師さんのケースがまさにそれですね。
これと同じことが、子育てでも起こります。
親が自己犠牲的に家事や子育てをしていくと、知らず知らず誰かに当たりたい心理を形成してしまいます。
それによって夫婦喧嘩が増えたり、子供にイライラがを激しく感じたり、過剰に感情的になって怒ってしまったり。
僕は保育士への研修でも、自己犠牲で保育をしないこと、園全体の空気を自己犠牲を強要するようにならないことを、あの手この手で伝えています。
そこを意識的にやっていかないと、園全体が意地悪になってしまったり、保育の大変さを「子供のせい」「親のせい」と言い続けることになりかねないからです。
それらを続けていくと、保育の中で疎外や感情的な否定の関わり、自尊心を傷つけるような関わりが慢性化した「意地悪保育」になってしまいます。
また、良心的な人は不適切な保育にならないまでも、自身がイライラしていたり、意地悪な気持ちがでてしまうことに自己嫌悪をもって苦しみます。
◆親から子への自己犠牲
現代の子育てで多く見られるのが、「親が自己犠牲をして子に尽くす」タイプのものです。
これを頑張る人が多いのだけど、これはかえって子供のためになりません。
子供はこう考えるからです。
お父さんお母さんは自分のためにいろいろしてくれる
↓
でもちっとも楽しそうでない。それどころかなんだか不機嫌だったり怒っているみたい
↓
満たされないな~
↓
もっと満たして欲しい、だからいろいろ要求しよう
↓
親は自己犠牲をして子供に尽くす
(上記がループ、これらが蓄積された結果↓)
↓
人と関わるときどう関わればお互いが気持ちよく過ごせるのか、実際の経験で学べなかった
↓
要求や困らせること、嫌がることをすることを「対人関係のモデル」として獲得
↓
年齢があがりそれがその子の性格的なものの一部となってしまう
子育てが親の自己犠牲でなんとかなるのは、子供がごく小さい内だけです。
2歳くらいからそれがしんどくなる人も入れば、もっと大きくなり5~6歳またはそれ以上の年齢になっても子供に対する自己犠牲をし続ける人もいます。
しかし、それで子育ての大変さが解決することはありません。それどころかさらに大変になっていきます。
結果、子供と離れていたい、子供はゲームでもやって静かにしてくれているのがいい、そういった気持ちになってしまう人がとても多くなっています。
「子供の尊重」って、自分が自己犠牲して子供をヨイショすることではないのですね。
子供も一人の人間として考えて、自分がイヤなことはイヤと堂々ということも、むしろ子供の尊重です。
| 2018-07-10 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「道徳」の落とし穴 vol.1 - 2018.07.03 Tue
グレーなものから、それこそブラックなものまで。
「道徳って正しいこと」という認識だけでは、これからの時代、子供たちの幸せにはつながらないかもしれません。
僕の感じるところを不定期で何回かにわけて書いていこうと思います。
さて、ではなにから話しましょうか。
切り口がたくさんありすぎて、迷ってしまいます。
◆「道徳」と「道徳観」は違う
コメントの中で「あいさつ」に言及しているものがありました。
僕は「道徳」を肯定しませんが、「あいさつをすることは大事なことだなぁ」とは思います。
ただ、「あいさつすること」を「道徳」として教えることは必ずしもその必要はないと考えます。
むしろ「あいさつ」を「道徳」で考えることは、危険ですらあります。
少し説明しましょう。
まず、「道徳」としてあいさつを考えているその仕組みを見てみましょう。
・「あいさつをするのは正しいこと」 という「道徳」が前提にその人の念頭にある
↓
・正しいことだから、子供に「あいさつしなさい」と教え込んでいく
↓
・子供があいさつできる子になる(満足) or 子供があいさつしない(不満足)
・不満足の場合、それをなぜしないのだと否定的な感情を覚える
↓
・あいさつするように、繰り返しアプローチしていく
別にこれ以外の感じ方や、アプローチをすることもあるでしょうけれども、とりあえず模式的に書いてみました。
さて、子供って本当にこの方向でものを身につけているのでしょうか?
ここに多くの人が、先入観として持っているひとつの誤解があります。
あるとき、妻にこう言われました。
子供たちのお箸の取り方が僕と同じだねと。
何のことをいわれているのか最初わからなかったのですが、自分で言うのもなんですが食に関しては僕は育ちがいいのです。実家がそれなりの料理屋だったもので。
で、僕は、お箸を取るとき置くとき、無意識に左手をそえて持ち替えているのですね。うまく説明できないけど、日本舞踊なんかでも扇子を取るとき置くとき左手で一度受けておいたりしますよね。あんなかんじ。
もともと無意識でしていたので、当然ながら子供に直接教えたということはありませんが、いつの間にか、子供たちにはそれがうつっているわけですね。
本当にいわゆるところの「箸の上げ下ろし」というやつです。
子供の成長の一義的なものは、実はこちらなのですね。
教えてやらせるというのは、子供の成長のメカニズムから言えば、二義的なものです。
多くの人が、子供のそういった「身仕舞い」を「教え込むもの」といった無意識の理解を持っていますが、それが子供へのアプローチの全てと考えては、子供の成長のメカニズムを見誤ることになります。
一義的なそれなしに、二義的なそれだけを頑張ったところで、そうそう身につくわけではありません。
逆に一義的な部分さえ押さえておけば、二義的なそれなしでも、子供に身についていきます。
(ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」の概念の基礎部分ですね)
あいさつに戻って考えてみましょう。
「道徳」としてあいさつを教え込まなくても、身近な人、子供が信頼している人が、それをしているのを環境的になじんでいれば、子供は教え込まれずともそれを身につけていきます。
ただし、「やりなさい」と強制するよりも、目に見える結果がでるのには時間がかかるでしょう。
しかし、子供は必要なときに、必要な場面でそれを自分でするようになります。これが本当の意味での子供の成長というものです。
大人に言わされたからする、言わせる人がいないと、怒る人がいないとしない、という状態になってしまっては、それは成長ではありませんね。それは動物の「調教」のようなものに近いでしょう。
こう見てくるとわかるかと思います。
「これが正しい」と教え込むことが、「道徳」=「道徳観」とはなり得ないわけです。
「道徳」として教え込まずとも、その子が適切に他者への信頼感などの心の成長を得ていれば、それをその人たちから引き継いで「道徳観」は形成されます。
まあ、僕はそれをわざわざ「道徳観」と呼ぶ必要性を感じませんが。まあ、身につくものは身につきます。
実際面として、「これが正しい」を前提としておくと、それができない状態に対して大人は、肯定的・許容的な見方が難しくなります。それどころか、否定的な心理になることを留められないこともあります。
結果、子供のできない状態に対して、注意する、怒る、叱る、こういったマイナス方向の関わりが増えていきます。
それゆえに、かえってそのものごとを気持ちよく身につけられないということが往々にして起こります。
この背景には、「正しいことを上下関係の中で押しつける」という「道徳」のもつ負の側面が隠れています。
◆「道徳」は「排除」を生む
「道徳」って実のところ、そんな素敵なことではありません。
「道徳」が燦然と輝く善なるものであれば、モラル(道徳)ハラスメントなんて起こりませんよね。
「道徳」を強調すればするほど、場合によって、人によって攻撃やいじめが起こりえます。
ある人が、思春期に「髪を伸ばしてはならない」「長髪は子供らしくない」「坊主頭にすべきだ」と大人から教え込まれたとします。
それに反発を覚える人もいるでしょう。
それをそのまま自身の価値観として取り込む人もいるでしょう。
反発を感じながらも、その価値観に同化していく人もいます。
これが、例えばどんな人格形成をもたらすか?
必ずみながそうなるわけではありませんが、中にはこのように感じたり、考えたりするようになる人もでてきます。
「髪を伸ばしているやつは、チャラチャラしていてダメなやつだ」
さて、甲子園の高校野球では、一時自由な髪型が増えたそうですが、近年はまた坊主頭が増えているのだそうです。
そういった指導者の中に、この価値観を持っている人がいたとしても僕は驚きません。
坊主頭でないからと言って、別になにか悪いことをしているわけでもありませんね。しかし、その人は過去に形成された価値観ゆえに、その価値観に適合していない人をこころよく思えないという人格を持ってしまっています。
価値観の統一化や、その強要というのは、実は些細なことであれ安易に用いるべきことではないのです。
もし、社会が均一で、その価値観にはみ出る人がいないような状況。例えば封建時代などであれば、そういったことでも社会は問題なく運ぶのかもしれません。
しかし、現実には、さらには現代では多様な人がいるのが当然です。
多様性への理解、多様性の尊重を踏まえておらずに、「道徳」を語ることは大変に危険な行為です。
今一度、あいさつの話に戻ってみましょう。
僕は保育士の研修の中で、もし「あいさつって重要ですよね?」と聞かれたら、「そうだね。重要じゃないってことが重要だね」と答えます。
なぜなら、例えばある種の発達上の個性を持っている子のなかには、あいさつがしたくてもできない子がいます。その子は心の中では、あいさつをしたい、しなければならないということを重々理解しているのだけど、対人関係に緊張があったり、「しなさい」と怒られた経験などから、かえってそれができなくなってしまっています。
「あいさつできることは正しいこと」という価値観を強く持った人が、その子に関わると、その子はひたすらに否定され続けることになります。
怒ったり叱ったり、否定的な関わりをしない人であってすら、「この子をあいさつできるようにしなければ」と思っていれば、「ああ、この人は僕のことだめだとおもっているんだな」という否定のニュアンスを子供にもたらしてしまうことを留められません。
すると、目先のあいさつができるできない以上に重要な自己肯定感や自尊感情、ものごとへの意欲、他者への信頼感などを損ないかねません。
あいさつは、放って置いてすら時期が来れば、また環境がそれを必要とすれば、子供はするようになります。するようにならなかったとしても、そこでできないという結果から失敗をすることで、その子なりに考え乗り越えていきます。
本当に大事なものを損なってまで、大人の満足感のために目先の「できる」をつくりあげるのは、子供の人格形成をする上で避けるべきところでしょう。
◆
「それは社会生活上、必要な習慣」と考えるべきことは多数あることでしょう。
しかし、それを「道徳」として、必ずしも「できなければ許されないこと」のようにしてしまう必要はありません。
しかし、大人の方がすでにそういった価値観をすり込まれている場合、なかなかそういった気持ちから抜け出すのが難しいのも事実です。
僕はこのあたりの問題を、「統一的価値観」と「規範意識」の問題として、研修などのなかでもテーマにしています。ここに多少なりとも、客観的な視点を持てないと子供に適切なアプローチができなくなりかねないからです。
僕の子供時代、生徒をえこひいきする教員がたくさんいたのを覚えています。
「こうすべき」という価値観を強く持っている人は、それに当てはまらない状況(子供)を許容することが難しくなってしまうのです。
ちなみに、これは保育士になってからも少なからず同様のものを見てきました。
「人の性」というもので、勉強や知識だけでは簡単に乗り越えられない類いのものなのでしょう。
だから、身につけるべきことを、「道徳」のように「絶対正しいこと」といった色づけをして持たせることはリスキーなのです。
今月末に出版のようですが、こちらの本がちょうど最近書いていた「自己犠牲」などの内容とドンピシャリのようです。
ご興味ある方はどうぞ。
『不道徳お母さん講座: 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか』 単行本 – 2018/7/27 堀越 英美 (著)
| 2018-07-03 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
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