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以前、子育てが自己犠牲に知らず知らずおちいってしまう、またそのように仕向ける雰囲気があることをいくつか記事にも書いたけれども、「がんばれ」には、言われた人を自己犠牲的にすることによって、かえってその人を追い込む場合があること。これがひとつ。
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もうひとつは、善意であれ、悪意であれ、その人の「現状の否定」を前提として「がんばれ」と言ってくる人がいること。
例えば、「もっと算数の勉強をがんばりましょう」という良く通知表に書いてありそうな言葉。
これは、「(現状あなたのその算数の理解ではダメなので)」という前提があって、「がんばれ」と言っている。
これは、「応援の言葉」はおまけに過ぎなくて、メインになっているのは「相手の否定」。
善意で言おうと、悪意で言おうと、「わたしはあなたの現状を否定します」というスタンスに変わりはない。程度の差だけ。
場合によっては、善意で言われることの方が相手を追い詰めることがある。
悪意で言われるのは、「なんだそんなのむかつく!」などと突っぱねることもできるが、なまじ善意でいわれてしまうと、それもできないのでより強く追い詰められる。
例では算数を引き合いに出したけれども、大人に対してもこの論法の「がんばれ」はたくさん使われている。
そして、「がんばれ」が使われる文脈で一番多いのも実はこれ。
◆松岡修造の「がんばれ、がんばれ」の秘密
「がんばれ、がんばれ」で有名なのはなんといっても松岡修造だけれども、彼の「がんばれ」はある意味で一般に使われる↑の「がんばれ」とは別の用法になっている。
彼は、「現状の否定」からの「がんばれ」ではなく、「あなたならできると私は信じている」という前提からの「がんばれ」になっていること。
また、そのスタンスが単なるポーズではなく、本心から本気でそのようにとらえている。
さらには、それを相手の責任にして言いっ放しなのではなく、自身の責任として「その人ががんばれる状況」を次々に提示できるスキルも持っていること。
どういうことかというと、
その人が、ある練習方法では(その人自身)満足・納得いく結果が出せない場合、次々とその人に適した練習方法を提示し、その人が頑張れる状況を自身の責任として相手に用意するところまで含めた上で、その人に「がんばれ、がんばれ」と言っている。
これはなかなかできることではなく、相手に厳しいのではなく自分への厳しさを前提に持っている。
だから、彼の「がんばれ」にはイヤミがない。