ここでは、外から帰ってきたときなど手を洗うことを例にとって見てみます。
3歳くらいまでの子に対してだと、丁寧な人だと一緒に手を持って洗ったりします。これが悪いわけではありません。洗い方を伝えたりするのにそういったことも必要ですね。
子育てに丁寧な人、一生懸命な人ほどこういう関わりが多くなります。
これは悪いわけではありませんが、「やってあげる」という状態になっています。
これがだんだん年齢があがっていくにつれて、「ほら、手を洗ったの?」「ちゃんと洗いなさい」といった関わりになっていきます。
これは「やらせる」という関わりです。
程度にも寄るので一概に言えませんが、それらが過剰になっていけば前者は過保護、後者は過干渉となります。
これは日本の一般的な子育て観を背景にした、大人がおちいりやすい関わりの典型例です。
まじめな人、子育てに一生懸命な人、子供をきちんと育てなければというプレッシャーを持っている人ほどこのような関わりが多くなりがちです。
子供に対して親切であったり、子育てが丁寧であったりするのだけど、そういった人ほどこの流れになりやすいです。
「やってあげる」 → 「やらせる」
小さい内は「やってあげる」から、大きくなるにつれて「やらせる」へと。この構図です。
別にこれでもなんてことなく育っていくケースもあります。
しかし、客観的に細かく見ると、この関わりは「子供の行動を(大人が)作っているけど、子供自身を伸ばしていない」というものになっています。
場合によっては、この構図の子育てを頑張れば頑張るほど、「やらせなければやらない子」になってしまう可能性があります。
すると自分ではやらなくなるので、より強く言ったり干渉することで「やらせる」という関わりが増加していくという悪循環の構造になります。
多くの人が、「子供ってどうせ自分ではやらないよね。だから大人がやらせなければならないよね」というスタンスを無意識に持っています。
それは実は大人が作り出してしまっている面があるのです。
子供とは不思議なもので、子供の力は大人が信じているところまでしか伸びなくなってしまいます。
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じゃあどうすればいいか?
子供は「ああしなさい」「こうしなさい」を大人が過干渉に言わない方が、むしろ自分の力で成長していくことができます。
それが「伸びる」ということです。
手洗いの例で言えば、大人自身がそれを大切なことだと理解して自分で率先してやっていれば、子供はそれを見て同じようにしていきます。
ただ、普段から過保護や過干渉、もしくは支配やコントロールの関わりをたくさんしていると、その率先する姿を大人が見せても子供はあまりそれに寄り添った姿を出しません。
子供ができるだけ小さいときから、必要に応じて手伝ってあげたりやってあげたりはしつつも、それらは過剰にならない塩梅にしておくといいでしょう。
それが子供に関わるときのポイントです。
「(大人が)やらせる」のではなく「(子供が)する」のです。
やらせてしまうと、すぐに結果が出るので大人は安心感や満足感がありますが、子供の成長の実際は時間のかかるものです。
失敗もするし、なかなか大人の思い通りにもいきません。
でも、そこを「待てる」ことが必要です。「信じて待つ」わけですね。
もちろん、こういった関わりは手洗いだけではありません。
歯磨きやお箸使い、片付けといった子供の生活上の行動面から、他者への思いやりやモノを貸せるといった精神面まで、子供の成長のほぼ全てです。これらの成長の姿は、本来、大人の干渉だけで成立しているものではありません。
しかし、そういったほぼ全ての面においてまで「(大人が)させる」を要求してきたことが、これまでの日本の子育ての問題点であり、難しくなっている子供の姿の様々なことの遠因にあるのだと思います。
「させる」ことが場合によっては必要になることはあるにしても、そこが子供の姿の目指すべきところではなく、本当に目指すところは「する」というところなのです。
子供の個性もいろいろあり(もっというとその子のおかれた状況や、関わる大人もいろいろなので)、それが簡単にはいかないケースもあるかもしれませんが、この「する」という自主性の視点が大人の念頭にあるかないかで、子供に与える影響は大きく変わってくるでしょう。