12月15日(土) 子育て夜話のお知らせ - 2018.11.24 Sat
何度か回を重ねてきました、子育て夜話という名のただ単に気さくに過ごす食事会です。
座談会よりもっとくだけた場です。子育ての質問とかある方はどうぞして下さってもかまいませんし、自由に過ごしていただければと思います。
◆日時 12月15日(土) 18時~21時
◆場所 東京都墨田区 コーヒーの家『そらだね』
◆会費 6,000円(参加費3,000円+飲食代3,000円)
お料理、デザート、2ドリンク
◆募集人数 8名
◆お子さんの参加について
お子さん連れでないと参加しにくい方もいるでしょう。
お子さんも一緒というのはだめなわけではないのですが、純粋にお店のスペースが狭いです。
みなさんがお子さんを連れてきてしまうとどうにもならない状況ともなりかねません。
ですので、ご家族に預けられる方は預けていただいて、どうしてもという方のために取っておきたいと思います。
◆お申し込み
hoikushioto@gmail.com
↑まで以下の項目を記載の上どうぞ。
少人数募集のためできるだけキャンセルのないようお願いします。
エントリーは先着順となります。(満定員後はキャンセル待ちとなります)
◆見落としを防ぐためメールタイトルに、「子育て夜話申込み」と入れて下さい
・お名前
・人数
・連絡先電話番号
・メールアドレス
・必要な場合はお子さんの年齢と人数
| 2018-11-24 | 講座・ワークショップ | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
保育者の姿勢 vol.5 支配の連鎖を断ち切る役目 - 2018.11.22 Thu
その代わりもう少し本質的な部分について述べてしまいます。自分としては、こういうのは伝えるのが難しいことだけに書けるときに書かないと、勢いを失ってまとめきれなくなってしまうので。
さて、僕が毎週水曜日、Twitterで欠かさずチェックしているものがあります。
今週はこちら↓
モラ夫バスター⑰=「お前が悪い!」 pic.twitter.com/oaGQEoAKUB
— 大貫憲介 (@SatsukiLaw) 2018年11月20日
それがこちら。弁護士の大貫憲介さんが挙げている、モラハラ夫についての4コママンガです。
大貫弁護士によるモラハラ解説をまとめて下さっている方のモーメントはこちら。
◆
僕は保育・子育ての問題だけでなく、こういったモラハラ(モラルハラスメント)やその他のハラスメントについても強く興味を持っています。
なぜならば、それらは密接につながっているからです。
子育てにより、ハラスメントをせざるを得ない体質が作られることがあります。そうならなくても、さまざまな生きづらさ(自己肯定、自尊感情、他者との関係、心の病、社会への不適応などの問題)となることもあります。
どちらにも共通しているのは「支配」です。
ハラスメントをする人の心の核にはなにがあるでしょうか。
もちろんさまざまな側面はあるにしても、それをする人に共通してあると言えるものが、「他者支配による自己承認」です。
他者を屈服させたり、言うがままにしたり、自分の要求を守らせたり、それらをすることにより自己承認を得ようとする人がいます。(最近話題の自動車運転における危険な幅寄せや車間詰めなどもそういう側面があるでしょう)
こういった対人関係におけるある種の快感は、人間の多くが持つものでありそういった傾向がごく一部あるというくらいであればさほどの問題ではないかもしれません。
しかし、それが他者との関係の大部分に渡るようであれば、その人の人格上の障がいともなりかねません。
この状態を逆から考えれば、「他者を支配しなければ安定できない人格を持っている」ということです。
これは円満な人格形成とは言えませんね。
この人格上の傾向は、連鎖する特徴を持っています。
他者による支配を強く(程度・期間)受けた人は、他者を支配したくなる人格上の傾向を持たされることです。
学校や、部活動における体罰問題などは、この傾向を顕著に表しています。
◆
子育てにおいても、これが起こります。
自身が支配されてきた経験があると、保育や子育てで向き合う子供に対して、無意識に支配の関わりが導き出されやすくなります。
そしてこの支配には、受けた側にも自覚できてている場合もあれば、自覚できていない場合もあります。
支配とは、必ずしも攻撃的な支配ばかりとも限りません。
それには、例えば「愛情」を使った束縛などがあります。
具体的なところでは、例えばこんなケース。
・大学生の娘に父親が厳しい門限を課す。父親は娘の身が心配という気持ちや思考を持っており、それ自体は嘘ではない。嘘でないがゆえに、娘からすると「自分を思ってそのように言ってくれているのだ」という好意的な解釈をせねばならなくなり、その支配を従順に受け入れざるを得ない。
大学生なのに門限が17時とかも実際に聞いたことがあります。
支配には、このような見えにくい支配があります。
よく言われることなのでご存じの方も多いかと思いますが(テレビのCMなどでも使われていました)、「あなたのためだから」といった言葉も支配する際に便利な言葉です。
今回の大貫さんが挙げた4コママンガは、まさにその辺りがテーマになっています。
こういったことを言われたら、反発すればいいじゃないかと感じる人もいるかもしれません。
しかし、人間は不思議なもので、このようなことを言われ続けると反発できない精神状態を形成させられてしまったり、それ以上に自分自身でそのように「自分が悪い」「自分が間違っている」「自分ができないからこの人が言ってくれているのだ」「この人にダメ出しされないとなんだか落ち着かない」といった心理状態すら形成されてしまうことがあります。
こういった精神状態の形成には、その人の心が強いとか弱いといったことはあまり関係なく、どういった人であれ繰り返されることでこの精神状態になりえます。
これが幼少期で、しかも信頼している人からされるとなると、この影響はさらに強いものとなります。
子供の場合は、怒られたり注意されたりする状態の固定化があります。
怒られたり、注意されないとなんだか安心できないというような、心のあり方が形成されるケースです。
この状態にある子は、可愛がられたり、褒められたりすることで安心感や、自己肯定ができなくなり、注意や怒られることを無意識にすることで、自己の確認、また他者とのつながりの確認をするようになります。
この4コママンガで描かれる女性は、このモラハラをする人を否定・反発するどころか、辛く感じつつも依存していく状態におちいっている可能性があります。
ですから、このマンガでは被モラハラ状態にある人が、自身での気づきを得られるように構成されています。
(このマンガではモラハラする側が男性、される側が女性として描かれています。これは夫婦間のモラハラが、現実問題として圧倒的にこの図式となっているためです。なかにはモラハラをする側が女性というケースがあることも、描いている方も認識していることと思われます。また、この背景に夫婦間のモラハラに隣接する問題として、ミソジニーの問題があるためでもあります)
◆
こういった自身の支配された経験や、自身の持つ性格的な傾向は、子育てや保育に密接な影響をもたらします。
もし、保育士自身にこの傾向がある場合、もしくは全くなかったとしても、自身が働いた施設でこういった支配的な関わりを習得してしまった場合、子供を「支配すること=保育」という状態に簡単になり得ます。
これをしている人たちも、多くの人が自身のその状態に気づいてはいません。
「私は正しいことをしている」という文脈、自身への理解の上でこれを行っていくことになります。
しかし、本当のところは、他者(この場合は子供)を利用して自己承認を得ることが目的となってしまいます。
ほぼ無自覚にこれを自身に対して行っているのですが、どうにも不思議なところがあります。
無自覚であるのに、この行動からはその人自身が実はそれを自覚している側面が表れることがあります。
無自覚なのに一部分だけ自覚しているという変な状態です。
その行動とは、なにか自身の要求を他者(子供)にさせるとき、自身をその要求主体とすることを隠蔽し、第三者を引き合いにだすという傾向です。
他者を支配しようとする人は、これを無自覚にやる場合があります。
具体的には例えば、こんなケースです。
これは親子でのケースですが、何かの習い事を子供の過剰負担になるまでやらせているケース。
過剰負担になるまでさせるケースは、親の不安が強くその解消のために目に見える成果が必要になるタイプのものがひとつありますが、このケースは、親の承認欲求を満たすために子供に過剰負担をさせるケースで顕著な事例です。
この「親の承認欲求を満たすために子供に過剰負担をさせるケース」でしばしば、共通して親の言葉としてこういったものが聞かれます。
「私が望んでいるわけではないんです。子供がやりたいというのでやらせています」
この言葉は、自分が子供を使って自己の満足を求めていることを隠そうとする心理が表れています。
なぜ、こういった心理が引き起こされるか?
その人のエゴが強いといったことよりも、むしろ、その人が自己承認・自己肯定を難しいメンタルを持ちながらも、他者からの評価を強く意識しているメンタルも同時に持っているということを感じます。
この他者からの評価を意識せざるを得ないメンタルは、内発的な自己肯定が難しいということを表すので、さらに自己承認・自己肯定が難しいことの補強となり、相互につながります。
この、第三者を悪者にすることで、自身を悪者にしないという心理は、そこまでいかずとも子育てではひんぱんにでてくることではあります。
「静かにしていないとお店の人に怒られるよ」
「言うことを聞かないとオバケが来るよ」
この「~~させるために、○○を出す」の、この○○部分は、オニなり、あそこのおじさん、お父さん、お巡りさんなどさまざまなバリエーションがありますが、どれも「私」自身の心情を隠して子供に要求しています。
この子育て上の関わりは、あまりいいものではありません。なぜなら大人と子供間の信頼関係を低下させていくからです。(詳細は割愛)
この要求が強いものは、簡単に支配となります。
なので前回のところで挙げた、「食べないと調理さんが悲しむ」「お野菜が悲しむ」という保育者の関わり方にも、第三者を持ち出し自身の意図を隠そうと子供にも自己にもしていることで、それを言う当人が「私は子供を支配していない」「子供を自己承認に利用していない」という気持ちとは裏腹に、むしろ端的に自身の心がそれを望んでいることを吐露してしまっています。
◆
こういった保育者のネガティブなあり方について述べても、正直なところ多くの人に嫌われるばかりで、僕自身にあまりメリットはありません。
でも、僕が保育についてこのように言いにくいことも述べていくのは、せっかく保育の仕事を目指してくれた人たちに、保育の仕事を通して無理のない自己実現をしてもらいたいと考えているからです。
支配の保育を強めていくことで、自己承認・自己肯定を続けていく人も大勢います。
それで一見、満足した人生を歩んでいるように見える人もいます。
しかし、その人がなにか欠乏感から逃れられない思いを感じていることは、その人自身が一番よくわかっていることでしょう。
子供へ支配の保育を続けてきた人が、園長・主任となって今度は職員にモラハラをして支配していくなどというケースが保育界ではゴロゴロ見られます。
これは、その人自身にも、周囲の人にも、保育で預かる子供にも、その人自身の家族関係においてもだれも得をしません。
職場でモラハラをする人の多くが、家庭での家族関係が安定的なものになっていません。
他者支配によって自身の心を維持するメンタリティの形成は、誰のためにもならないのです。
だからこそ、保育における自身の姿勢を研鑽していく上で、自身の人生の幸せにつなげて欲しいと僕は心から思っています。
そして同時に、この世間に蔓延している負の連鎖を断ち切る役目を担っているのは、保育士こそであると考えています。
| 2018-11-22 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
保育者の姿勢 vol.4 なにが支配なのか? - 2018.11.20 Tue
姿勢の問題を浮かび上がらせるために、方法論や具体的なアプローチに触れています。
しかし、読む人によってはまったく別の問題に直面してしまう人がいます。
それは、保育における自己承認・承認欲求・自己同一化のテーマです。
保育の問題であまりこれについて取り上げる人は多くないですが、僕は現場の保育を考える上で、これらは避けて通れないことだと感じています。(すでに過去記事でも取り上げています)
自己承認すること、自己の承認欲求を満たすことは少しも悪いことではありません。
職業上の自己同一化も、仕事をしていく上で欠かせないことです。
これが例えば、なにか製品を作って販売する仕事だとしたら、良いものを企画してそれがユーザーから良い評価をされ、たくさん売れたといったとき、それらが満たされることでしょう。
保育ではどうでしょうか?
保育の場合は、
○クライアント(子供、保護者)の利益 : 保育者の自己承認、自己同一化
×クライアントの不利益 : 保育者の自己承認、自己同一化
当然ながら前者でなければなりません。
しかし、保育の現場では後者のことが起こり、しかもしている当事者はそれに気づかないまま常態化するといったことが起こりえます。
簡単に自己承認できるのは、子供を自分の思い通りにしたときです。つまり支配。
・座りなさい
・静かに待ちなさい
・話を聴きなさい
・残さず食べなさい
・挨拶しなさい
・謝りなさい
(命令形で書いてあるが、優しい言い回しでも同様)
※他には、行事の立派さや制作物の立派さも自己承認のより所となり得る
こういったことをさせることが正しいと考えて、それを子供にさせれば、簡単に自己承認を得ることができます。周囲の保育士も同様のスタンスであれば、自己承認のみならず周囲からの賞賛、尊敬すら得られるでしょう。
しかし、それが子供の本質的な成長や心の形成に寄与していなければ、専門的な仕事とは言えません。
子供を威圧して大人の要求に従順にすることが上手な保育士、しかし一方で子供はその負荷からのゴネやダダを保護者が迎えに来たときや家庭に帰って出させるようなケース。これは本来、子育ての専門性を用いて子供や保護者の利益としなければならない立場である保育士がその逆をしています。
こういったものは、強い支配なのである程度客観的に見る視点を持てればまだわかりますが、優しい支配は見えにくいです。
このようなことは保育指針では書かれていませんし、保育士養成学校でも教えるところはまずないでしょう。
気がつかないままそれを使い、それが当たり前の保育なのだと思っていたり、長年それを保育現場でしてきている人も大変多いです。
それに自信を持ってきており、そこで自己承認、保育の仕事の自己同一化をその上に成り立たせている人がこの指摘を受けると、
「自分の仕事を否定された」 → 「自分の存在を否定された」
と感情的に取ってしまう人もいるでしょう。
(これを僕は「保育スキルの属人化の問題」として考えています。これについてもまたいつか)
この一連の記事は、方々で紹介してくれている人もいるので、この記事だけ読んだ人でそういう取り方になってしまう人が増えるのもなおさらかもしれません。
以前の記事から読んでいる人はご存じかと思いますが、僕は保育士個人を責めようとはしていませんし、だからこそどういった対応を取ればいいのかを理念的にも具体的にも複数の記事で書いてきています。(それらを体系立ててブロマガなどで有料化してもいいかもしれませんが、これまで全て無料で公開しています。なので具体策や周辺の理念を知りたい方は、過去記事を調べてみて下さい)
人は、自身のより所となるものを否定されたと思うと怒りや感情的な反発がわくものです。
そこまでいかずとも、自己防衛に感情が動きます。
僕は別に責めているわけではありませんが、不特定多数の人が読める媒体である以上、そう取る人がいたところでそれは仕方のないことでしょう。
僕自身もかつて、子供を自分の望む姿・正しい姿に近づけることや「しつけ」をすることが保育だと考えていました。
それが正しいことと先入観で思っているがゆえに、それが支配であるかどうかなど気づく視点すら持てません。
おそらく少なからぬ保育士が、そこを通ってくるでしょう。
では、みながそこを乗り越えられるかと言えば、そうではありません。
むしろ、そのまま定年退職に達するまでも続ける人も多いです。
・周囲の同僚の保育から自然と支配でない保育を身につけられた
・その人の元々のパーソナリティやセンスから自然と支配の保育を脱することができた
・先輩などの明確な指導により、支配でない保育を身につけられた
・自身の学習や研鑽から身につけられた
逆もあります
・子供の支配こそ適切な保育であると考え、自信を深めていく
・属する施設が支配の保育を推し進めており、そのままその保育をしていく
・そもそも子供の支配をしたくて保育士になっている(自身のパーソナリティが支配を志向している)
◆保育と自己承認
保育の仕事をする上で、どこに自己承認を得ればいいのかというのは実はとても大きな問題です。
実際には、保育の理念や理論や方針、方法論などよりも、保育の質にダイレクトに影響するのは、保育士たちのこの問題です。
だから、僕は不適切な場所(クライアントの不利益)から、適切な場所(クライアントの利益)へと保育士の自己承認を付け替える、もしくは意図的に認識することが必要であると思っています。
(これを主要なテーマとしたものは、また別の機会にまとめられれば)
これを克服するのに重要なポイントは、まず自身のそれに気づけるか気づけないかです。
その状態を自己防衛して「私は支配なんかしていない」「私は子供を自身の満足のために利用していない」と思いたければ思い続けることができます。
だれもそれを強制することなどできません。
なにも感情論や情緒論に持ち込んで僕の口を塞ごうという面倒なことをする必要もありません。
「保育は人対人」というのであれば、だからこそ保育の専門家として保育者自身の姿勢、心情も自己検証していく客観性を持たなければならないのです。
◆言葉と姿勢
・「残しちゃうと給食の先生が悲しむかも」
・「食べてくれなきゃお野菜きっと泣いちゃうよ」
これらの言葉の構造を見ると「否定」の論法になっています。
しかも、感情とモラル(正しさ)から反論や例外の余地を持たせない構造になっているので、結構強い否定とすら言えます。
・残したら他者を悲しませること
・残すことはお野菜が泣くこと(子供が感じている本音はそんなファンタジックな理解ではなく、この人がそれを望んでいないということを敏感に察知している)
そういわれて食べることができ、なおかつそこに達成感を感じられた子にとっては最終的にその保育者から向けられた否定のニュアンスはプラマイゼロになるかもしれませんが、それができない子、またはできたとしても達成感を感じられなかった子(大人がいうからしぶしぶ食べた。否定されるのが辛いので頑張った、など)には、否定のニュアンスで関わられた事実が残ります。
こういった方法を多くの保育士が悪意なく使うのは知っています。だから個々の保育者を責めているわけではありません。
そういう方法は、日本のスタンダードな子育て法である「しつけ」が導きだし、一般にも多用され、おそらく保育者自身もそれをされて育っているからです。
なぜ、否定の論法が多用されるか?
そこには「正しい姿にしなければならない」「正しい姿にすることが子育て」といった先入観が根強くあるからです。
また、そこにプレッシャーがともなうので、強い関わり方である「否定」の方向のアプローチが自然と導き出されます。
保育者は、ここを客観視する視点を持てなければ、「無自覚さ」におちいります。
「優しい支配」は、この無自覚さのひとつです。
◆問題は言葉そのものではない
さて、では言葉を考えたとき、否定の逆のニュアンスを使うこともできます。
・「今日のご飯おいしかったって伝えたら調理の○○さん喜んでくれるかな」
・「あなたに食べてもらえたらお野菜喜ぶね」
こちらの方が、先に述べた否定の構造の言葉よりは支配の関わりは弱まっています。
しかし、言葉にその構造は見えずとも、保育者の姿勢、ニュアンスに「子供の(ネガティブと見える)現状に対する否定」「こうあるべしという保育者の願望の投影」がまったくないかと言えば、どうでしょう?
ここからわかることは、「こう言えばOK」という言い方の問題ではないということです。
「え~、そんなに残したら私嫌よ~」
と直接的な否定の言い方をしたとしてすら、その保育者の姿勢、心情のあり方しだいでは、少しもその子への否定・支配にならない関係を維持することも可能です。
キーは、姿勢・心情、信頼関係、自主性・主体性です。
その一方で、肯定の文法を使って明るく優しく「わ~、○○ちゃんが食べてくれたからほうれん草さん喜んでいるね~。○○ちゃんすごいね~」と言ったとしても、保育者の姿勢、心情によっては子供は敏感に支配やコントロールされていることに気がつきます。
だから、僕はこの一連の記事でタイトル通り、「保育者の姿勢」を訴えています。
「待つ」専門性はとても難しい、それを理解できるためには「信じる」専門性が獲得できている必要があるとも本文中に書いていますね。
「信じる」とはa,発達の理解 b,成長への理解 c,経験からの考察 から成り立つとさらに細かく説明もしています。
子供への関わりのなにが支配で、なにがそうではないかというところで悩む方は、言葉の問題と思う前に、このa,発達の理解 b,成長への理解 c,経験からの考察について知識を吸収し、それを実際の子供の姿や、自身のこれまでの経験と照らし合わせて考えるといいでしょう。
知識の吸収の方法は、手近なところでは保育所保育指針の各年齢ごとの発達段階を読み、それと実際の子供の姿と照らし合わせることで基礎的な視点が養えていくでしょう。
指針には繰り返し書かれていますが念のため言うと、それら発達の姿は「できなければならない姿」ではなく、あくまで「発達の目安」ですので、これらができるように保育者が求められていると理解する必要はありません。そう考えてしまうと、保育士、施設はどうしても支配的な保育になってしまいます。
指針には「○○できなければならない」というところは原則としてひとつもないはずです。
だから、保育者は子供を支配してまでそれを達成させる必要はないのです。
「○○できることは正しいこと」といった規範意識の強さは、自身に対して抑制的である方が保育者としては望ましいです。これはその保育者のパーソナリティや生育歴などに影響されますが、自身のそれを否定しなさいということではなく自覚的になっておくことで対応します。
これをすることで、ネガティブな姿が多発している子を許容的、肯定的に見る余地を大きくとることができます。
そうでないと保育が適切不適切以前に、自身の仕事におけるストレスが非常に高まり、保育の仕事における充実感を得ることが困難になってしまいます。結果的にそれゆえに、さらに子供への無意識の支配へと駆り立てられてしまいます。
この「保育者の姿勢と子供の成長発達の因果関係」を文章で伝えるのは難しいです。
ましてやそれまで子供への干渉を重ねて正しい姿を作ることを保育としてやってきた人であればあるほど、それを理解してもらうことは難しくなるかもしれません。
一番いいのは、一緒に保育をして支配や干渉を少しもしていないのに子供が成長していく姿を目の当たりにしてもらうことです。
しかし、これを目の前でやったとしても、保育の仕事における自己同一化の問題をネックとしてその人の内に抱えている人は、「それはたまたま」とか「あの保育者は特別」といった正常化バイアスによって、自ら認識を拒否する人がいることも知っています。そういった人たちもたくさん見てきました。
結局のところ、僕の立場からそれを強制することはできません。それを変えるも続けるも自分次第です。
もし、自身のその問題と向き合いたいという明確な意図があるのであれば、僕のホームページから保育士カウンセリングも設けていますので、申し込んでいただければなんらかのサポートをすることはできます。(内容は子育て相談に準じますので、メール、対面、電話などで可能です。ただ内容が込み入ったことになるのでメールよりも対面や電話を強く推奨します)
また、対面の保育士カウンセリングは、特別に保育についての小さな学習会として使うこともできるように設定しています。これは3名まで同一料金で承っています。興味のある方はお問い合わせ下さい。
保育士おとーちゃんホームページ
| 2018-11-20 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
12月6日(木) 座談会のお知らせ 中野区 まざるテラス - 2018.11.17 Sat
◆12月6日(木)相談したい悩み、何でもお持ちください「子供も大事。あなたも大事」保育士おとーちゃんに聞いてみよう! まざるテラス
◆12月の子育て夜話
また、第3回目となる子育て夜話も計画しています。
12月15日(土) 18時~
募集は近日中にしますが、とりあえず日程だけお伝えします。
| 2018-11-17 | 講座・ワークショップ | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
保育者の姿勢 vol.3 「待つ」 - 2018.11.16 Fri
『1歳児が離乳食を詰まらせ意識不明に 広島の市立保育所』(朝日新聞)
このケースなどは、保育士が「食べさせなければならない」という思いから、眠くなっている子供に食べさせようとしたために起こった事故です。
「○○できる」子供の姿を保育者の過干渉で作っても、それは保育ではなく単なる保育者の自己満足にすぎないこと。
「子供の発達・成長を理解しそれを信じる」専門性を獲得していたら、無理矢理食べさせることも、無理矢理挨拶させることも、無理矢理ごめんなさいを言わせることも必要のないのだとわかります。
小学校などでは、給食の完食運動などをしているところもあるようです。
僕はそういうのを聞くと、職場の空気として学校の先生はなにか目に見える成果を上げることを要求されていはしないか、自己の承認欲求を満たすことと子供への教育の境目に気がつけているのかどうか、子供の個性や多様性を理解しているのかなど心配になります。
こういった画一的なものごとを多様な子供たちに求めるというあり方自体が、明らかに時代遅れになっているといえるでしょう。
そこに気がついてくれればいいのだけど、どうも学校の様子を見ているとそれに逆行しているようにすら見えます。
さて、前回を踏まえて3つめの「待つ」を見ていきましょう。
3,待つ
「待つ」は、「信じる」が獲得されていないと適切には行えません。
子供の発達、成長への理解がありそれらを踏まえていない人が頑張って待ったとしても、「イライラしながら待つ」「やきもきしながら待つ」「不満げに待つ」「我慢して待つ」になってしまいます。
「本当は○○させたい、でも待つことが大事らしいから待たなければ」といったスタンスでは、大人からかもし出される許容的でない態度、否定的な態度を子供は感じます。(これを防ぐためには、「私はそれは嫌よ」「困る」といった正直な感情を吐露する「自己開示」が有効。気になる方は過去記事を検索して下さい)
・この子はこれこれの発達段階を経てその後にその行為ができるようになる(発達の理解)
・この子の成長の姿からは、この行為ができることを強く求めなくてもいい(成長への理解)
こういった点を踏まえていれば、目の前の行為ができなかったとしても、保育者はそれに振り回されることなく待つことができます。
だから、「待つ」が専門性たり得るには、これらの理解とそこからの子供の成長を信じられることが必要です。
◆優しく言っても過干渉
待てなければ過干渉になります。
「ああしなさい、こうしなさい」と言いたくなります。
現状の保育施設で多く見かけるのが、「優しい過干渉」です。
「子供のためを思って」「子供の成長を考えて」「子供の安全のために」などなど、保育者自身としては職業的な意識から善意で過干渉になります。叱ったり怒ったりの言い方はよろしくないことは理解しているので、優しい言い方、婉曲な言い方をする人も多いです。
しかし、優しく言っても過干渉は過干渉です。
「Aちゃんは痛がっているな~。ごめんなさいしてほしそうだな~」とBちゃんに優しく謝ることをうながしたとしても、過干渉であること、子供の自発的な行動を待てていないことに少しの違いもありません。
こういった婉曲表現を使えば、優しい保育なのだと勘違いしている保育者も多いので気をつけてほしいところです。
◆過干渉は支配の関わり
過干渉は、「子供を私の思う通りの行動を取らせたい」という支配に他ならないのです。
体罰を使うのも、くどくど言うのも、強く厳しく言おうと、優しく言おうと遠回しに言おうと、他者と比べる言い方で言おうと、子供に対しての支配になっています。
そして子供は、どんな言い方であろうともそれが大人から自分への支配であることを感じ取ります。
これがたくさんになると、支配の負荷が蓄積して子供のネガティブな姿が出ます。
また、保育者への信頼感の低下から保育者の意に染まない行動も増えます。
子供を支配してしまう保育者は、もし子供にそういった姿がでても、それを自分が引き起こしていることには気づけません。
「子供とはそういうものだから」「この子はそういう子だから」「どうせこの子はできないのだから」「この子は幼いから」「この子は家で甘やかされているから」といった理由付けで子供を低く決めつけていきかねません。
待つというのは、保育の専門性の中でももっとも難しいことだと言えます。
待つのは、結果を求めないことであり、従ってそこにおける保育者の自己承認も簡単ではなくなります。
子供の本質的な成長よりも、自己の承認欲求を満たす行為を優先させる人は多いです。それは無理からぬことです。
子供の成長は、周りの大人だけでどうにもならない部分があります。
時間的成長はそれの最たるものです。
環境による成長もそうです。
これらの力を十分に理解した上で、待つことはまさに専門性のもっとも奥深くにあると言っても過言ではないでしょう。
◆支配しない関わり
待つのは、同時に「支配しないこと」でもあります。
子供を支配するのは簡単です。
・「野菜も食べないとデザートないよ」
こう言えば、子供に野菜を食べさせることはできるかもしれません。
・「野菜食べなければ、赤ちゃん組にいきなさい」
・「ほら、隣のAちゃんはお野菜たべているよ、えらいね~あなたはどうかな?」
・「お野菜食べたらお外で遊べるよ」
・「野菜食べないとオバケが来るよ」
・「野菜食べないとお父さんに叱られるよ」
・「残したら給食作ってくれた人、悲しむだろうな~」
・食べない子を叩く
・食べない子を部屋から出す
・そんなんだからあなたは大きくなれないのだとけなす
これらのどれを使っても子供に苦手なものを食べさせることができるでしょう。
しかし、どれも結局子供を大人の思い通りにしようという支配の関わりです。
叩いたり自尊心を傷つける行為はすべきでないですが、こういった関わりが一般の家庭の子育てで出る分には、ある面では仕方のないことです。子供への関わりの経験や、子供への関わり方の知識が十分ではない場合が普通にあるからです。
しかし、保育者は違います。専門的な対応がとれず、一般の人がするやむを得ない手段を保育として使うのであれば有資格者である意味がありません。
◆最大限の配慮をして待つ
では、どういった対応を保育者はとればいいのでしょう?
食事の例で考えれば、
「いつか食べられるようになるのだから、ただやみくもに信じて待つ」
と取ってしまえば、極端なところでは単なる無関心、放置になってしまうでしょう。
それもやはり専門的な対応とは言えません。
では、そこで保育者が取るべきは、
「子供への支配的な関わりではなく、自主的・主体的な成長が得られるよう必要な配慮をした上で待つ」
ことになります。
●なぜこの子は食事が食べられないのだろう?(配慮の視点)
(以下、考察例各種)
・個性ゆえに食が細い
・個性ゆえの偏食がある
・集中力が続かない
・食への経験不足から、苦手なものが多い
・ミルクへの依存が強く離乳食への関心が低い
・保育環境に不安を感じている
・職員との間に信頼関係が築けていない
●この子の発達状況や個性からして、どのくらいの食事量が適正だろう?
・食事量よりも本児の意欲を重視して食べきれる量で盛りつけるようにした
●食事の環境は安定的に整っているか?
・本児が安心して食事に向き合えるよう、食事の席を変えてみた
・意欲を重視して、スプーンで食べることを求めず自由に手づかみ食べを許容した
(↑これらはごくごく一部。配慮は子供の数だけある)
このような配慮をします。その上で保育者との信頼関係を維持し待つことで、子供の自主的な成長を目にすることができます。
子供は、自主的な成長を遂げたとき最大の達成感を得ることでしょう。
そのとき、保育者も単なる自己満足ではない、子供の成長への喜び・共感を感じられます。
◆否定でも肯定でもない態度で待つ
この配慮から待つ過程の保育者の姿勢・心情は「否定でも肯定でもない態度」だと僕は考えています。
・否定の態度 「食べて欲しいのに、どうしてこの子は食べないのか」
・肯定の態度 「この子はこういう子だから食べないものなのだ」
保育者が否定の態度を持っていれば、それをどんなに「子供への愛情」といった情緒論やスローガンでくるもうとも、否定的な態度がかもし出され子供は敏感に感じます。
かといって、「この子はそういう子なのよね」とか「食べなられない子で可哀想」といった子供への低い決めつけや心の過保護をして、保育者が積極的にその状態を肯定してしまえば、子供は成長への意欲を足踏みさせてしまいます。
だから保育者は、そのどちらでもないニュートラルな態度を持って子供に関わっていくといいでしょう。
別の角度から言うと、
・「ああ、(この子の成長の形は)そうなんだな」と受け止め
・「この子のいまの成長の姿はこれこれこういう姿だ」と過渡期としての姿を認め
・「いずれこういう姿を経て食べられるようになっていくだろう」と成長の目標を見すえます
僕はこれを「過渡期としてみる態度」と呼んでいます。
この態度を習得することで、成長がポジティブな状態になっていない子であっても否定的な心情で接することを防げるようになります。
「○○できる姿にしなければならない」
と、こういう心情を持っている人は、これが防げません。
なので、保育者が子供を見るとき、「この子は○○ができていない」と子供をある種の欠如体ととらえるのではなく、過渡期としての存在とみる訓練をしておくといいでしょう。
こういったことがあって、「待つ」専門性が形成されます。
またの機会に、これら待つが必要なさまざまな場面を見てみたいと思います。
| 2018-11-16 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
保育者の姿勢 vol.2 「信じる」 - 2018.11.14 Wed
vol.1からの続きです。
2,信じる
「信じる」とはなんでしょう?
子育ては、しばしば感情論・情緒論に引き込まれます。
一般の人が自分でそう思う分や、一般の人向けのエンパワーメントの言葉としてならば、感情論・情緒論でもいいかもしれません。
しかし、専門性あるプロの仕事の信条にそれを持ってきてしまうのは、専門性の放棄に等しいことだと僕は考えます。
「子供を信じる」ということで関して言えば、例えば「子供は天才」「子供は可能性のかたまり」といった情緒的な言葉があります。
一般の人がこういうフレーズを使って、子供や子育てが素晴らしいものだと思うのは少しも構わないことです。
しかし、プロがそういったことを仕事のバックボーンに置くのはあやういことです。
プロがプロに対して使うとき、これらの言葉は、
「子供は天才(だと信じなさい)」
「子供は可能性のかたまり(だと信じなさい)」
になっています。
言いたいことはわかります。
保育の仕事をする人の中にも、子供の能力を低く決めつける人がいます。
そういった人たちに対しての対概念として、こういったスローガンでそのような低い決めつけを防ごうというのでしょう。
そのような意図はわかるのだけど保育の専門性の観点から見たら、そういった不適切な子供への見方に対して感情論・情緒論で対抗しても専門性は深まらないのです。
しかし、現場レベルでの保育界がこの何十年とやってきたのはそれです。
論理性よりも感情論を重んじてきています。
この観点を持って保育士のフォーラムなどを見れば、そういった人がとても多いのがわかると思います。
もし、この子供への低い決めつけに対しようとするならば、感情論に持ち込むのではなく、「子供の尊重」や「子供観」の概念の理解や、子供の発達についての学びで補完していくべきことだと僕は考えています。
さて、前置きが長くなってしまったのは、ここでの僕が述べる「信じる」がそういった感情論としての「子供を信じなさい」というスローガンではないことを理解して欲しかったからです。
では、保育者の姿勢としての「子供を信じる」ということはどういうことなのでしょう。以下に述べていきます。
a,発達の理解
b,成長への理解
c,経験からの考察
これらの専門的な知見の上に、「信じる」は成り立ちます。
a,発達の理解
少し具体的に見てみましょう。
例えば、「もう2歳なんだからオムツは外して下さい」と保育士が言ったとしたら、それは専門的な言葉でしょうか?
この保育士は、オムツを外す理由を「2歳だから」を根拠としています。
しかも「もう」という主観が入っています。つまり、その人は「2歳なのにオムツをしていることが気に入らない」という心情を持っています。
子供は2歳になったら誰でも排泄が自立するわけではありません。
これは個々の発達への理解を持っていれば簡単にわかることです。
この保育士は、子供の発達についての専門的な理解ではなく、世間一般に流布する「オムツは2歳までに外すべき」といった価値観からの主観を重視して述べているというわけです。
ここからわかるのは、保育者はまず子供の心身の発達についての知識を持っていることが前提で、それを個々の子供に当てはめて考えられる専門性が必要ということです。
これがa,発達の理解です。
b,成長への理解
僕は成長についての理解をうながすとき、冗談半分に次のように言うことがあります。
「こんなことを言うと笑うかもしれないけど、すごく極端に言えばこの子が20歳になったときにオムツはいていると思う?」
これまで、これで「20歳でもオムツしていると思う」と言った人は一人もいません。
実は、これが成長に関するもっともピュアな理解です。
時間的なものだけで子供が成長することを、誰しもが頭では理解しています。
しかし、個々の子供に向き合う段になると、その理解がどこかへ行ってしまいます。
そうなると、結果的に過保護・過干渉に大人はなってしまいます。
また、同時に子供の姿に焦ったり、不安になったりして、子供からすると肯定的・許容的でない態度・姿勢が大人からかもし出されているのを感じることになります。
その態度から、かえって子供は成長を足踏みさせられてしまうこともあります。
上の例で出した保育士には、a,の発達の理解だけでなく、この「子供が時間的な変化でどうなっていくか」という成長への理解も欠けていたことがわかります。
ゆえに、子供の成長についての適切な理解が保育者には必要です。
c,経験からの考察
しばしば、子育てをしている人が「一人目の子供の時はとても気を遣ってほ乳瓶消毒したりしてたけど、二人目からはそんな神経質にしなくなった」といった話を聴きます。
これはつまり、経験からどこまでが必要でどこからが必要ではないという理解を得たということでしょう。
これは当然のことですね。
保育士は、このような理解を子供のさまざまな年齢、場面にわたって広汎な経験から得ていきます。
直接の経験だけでなく、事例研究や、情報収集、研修などから子供に関する知識を得ることで、それは一般の人に倍する知見となっていくでしょう。
しごく順調に成長していたと思っていた子の成長が、あるときから後戻りしたり。
あまりに成長がゆっくりだと思っていた子が、あるときからいちじるしく伸びて他の子の成長に追いついたり。などなど。
このように積み重ねられた経験と照らし合わせて、いま直面している子供の成長を客観的に見る視点を養うことができます。
これらの知見を積み重ねることで、a,発達の理解、b,成長への理解もより深まっていきます。
「もう2歳なんだからオムツは外して下さい」と言った保育士だって、1歳になったばかりでオムツが取れてしまった子も、3歳までオムツをしていた子も見ていたはずです。
この経験からの考察を適切に蓄積させることができていたら、「もう2歳なんだから」という見解からは卒業できていたことでしょう。
◆子供の発達・成長を理解しそれを信じられる保育者
さて、今回のテーマは「信じる」という保育者の姿勢についてでした。
この「信じる」姿勢は、これら
a,発達の理解
b,成長への理解
c,経験からの考察
の上に、個々の子供の成長や力を「理解し信じている」ということです。
この「信じる」姿勢を獲得している保育者は、「私はこの子の成長を信じています!」と熱く感情的に前のめりになった姿ではなく、おそらくどこか望洋としておおらかであっけらかんとした姿になっていることでしょう。
保育者の話ではなく学校の先生の話ですが、だいぶ古い本ですがベストセラーとなったので名前くらいご存じの方も多いかと思います、黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』という本があります。この中で描かれるトモエ学園の小林先生の姿が、まさにこの信じるという姿勢が結実している姿です。
子供の短期的な姿を作り出すことは、実は比較的簡単です。
しかし、子供を伸ばすことは難しいです。子供を伸ばすためには、この「信じる」ことがその人に具現化していなければできないからです。
この本が出た当時は、発達障がいといった言葉はなかった頃です。むしろ、今あらためて読むとあらためていろいろとわかることがあるようです。
| 2018-11-14 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
まざるテラスシンポジウム「今、日本の保育で何が課題なの?」を終えて - 2018.11.08 Thu
総勢40名ほど。定員はすぐに埋まりキャンセル待ちもあったとのことでした。
まざるテラスさんは、ご自宅を開放して子育てする人や地域の人が集える場にしているので、40名もそこに集まるといっぱいです。
しかし、人間のおもしろいところで、なぜか空間にぎゅっと人が集まって話をすると熱のこもったものになります。
これが例えば、体育館のような広い空間でしていたとしたら、そこで話された内容や受け取る側の印象もまた違ったものになるでしょう。
僕は、最近座談会を好んでするのだけど、この人の寄り集まった状態になにか大事なもの隠れていると感じています。
パネラーとなったのは、世界の保育や子育てを見ながら25カ国を旅した保育士 久保田修平さん。
レイモンド保育園(社会福祉法人檸檬会)広報企画室 室長、CCDプロジェクト ディレクター 平井亙さん。そして僕。
お二方とも初対面でしたが保育に関わる同士、始まる前からいろいろ話が盛り上がり、あっという間に開催時間となってしまいました。
不思議なところでご縁があって、平井さんは僕の大学の先輩で、久保田さんは世界を旅している間僕のブログを読んで下さっていたとのこと。
パネルディスカッションの後、3つのグループに分かれて参加者の方と話をしました。
1時間あったのですが、それでも全然時間が足りませんでした。
その際は僕は極力しゃべらないで、参加者の方に口を開いてもらおうとしたのですが、十分にお話を聴けない方もいてもっと時間があればという思いしきりでした。
この会は、なんらかの学術的な発表の会でもないし、研修でもないし、どこかの組織を代表して意見表明しにきているわけでもないし、本当にみなさんが個人としての意見を出し合う場でした。
こういった会は、あるようでないのではないかと感じます。
ここからわかるのは、保育やもっと大きな枠で社会としての子育てを考える場が持たれる時代になったことです。
いわば、社会的な子育てという認知が生まれているということ。
こういった時代になっていることを、多くの人や子供に関わる施設に伝わって欲しいと思います。
子育ても保育も、こうだという正解のないものです。
個々の人の置かれた状況、家庭や社会、そういったものにも影響を受けてあるべき形は違ったり、変わっていきます。
だから、考えを表したり、意見を出し合って考えていくことが大事なのでしょうね。
(※当日、会場にケースに入ったメガネをお忘れの方がいたそうです。心当たりの方はまざるテラスさんに連絡を取ってみて下さい)
予定ですが12月6日(木)にまざるテラスさんで、僕の子育て座談会が開かれます。以前にも一度開催していますが、こちらは今回のシンポジウムとは違い、子育てをしている方向けの子育て座談会です。募集等が始まりましたらまたお知らせします。
前回の様子はこちら。
【報告】これで今年の子育ての悩みはほぼ解消!? 保育士おとーちゃんから使えるフレーズ「どうしたの」「あぁそうなんだ」
| 2018-11-08 | 講座・ワークショップ | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
保育者の姿勢 vol.1 - 2018.11.02 Fri
1,見守る
2,信じる
3,待つ
これら相互につながり合い重なり合っています。
◆見守る
保育において見守るという言葉はありきたりだけれども、それにもいろいろな「見守る」があります。
・子供に危険がないように見ている
・子供がいけないこと、あぶないことをしないように監視している
・トラブルが起こったときにすかさず介入しようと思ってみている
・子供がかわいいと思って見ている
・楽しそうにニコニコ見ている
・子供の行動を観察している
・日誌や、連絡帳に書くネタを探して見ている
・子供の発達段階を踏まえて活動を見ている
・個々の子を見ている
・集団全体を見ている
・視界に入れているだけで見ていない
ざっと挙げただけでもこういった見守る、もしくは見るがあります。
なかには明らかに不適切なものもありますが、僕はこのどれでも、またそれが複数でも保育の専門性の上では足りないと考えています。
こちら↓の記事でも触れていますが、
事例で見る難しい子の対応 vol.1 「肯定不足」
信頼する保育者の見守りによって、子供に安心感、肯定感をもたらします。
「私がいるからここは安全だよ。あなたは安心して過ごしていいよ。ここはあなたの居場所だよ。どんなあなたであっても私は受け止めるよ」
保育で子供に関わるとき、それは見守りの連続です。
そうした日々の絶えざる見守りを通して、常にこのメッセージを子供たちに送り(贈り)ます。
だから、僕は「見守りはプレゼント」、もしくは「プレゼントとしての見守り」と保育をする人に伝えています。
だから、見守ることが「活動」や「仕事」とは別の意味で、保育者の「姿勢」と言えるのです。
つづく。
明日はまざるテラスでのシンポジウムです。
僕は、これからの子育て支援について語ろうと思っています。
| 2018-11-02 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
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