たしかに、保育士が子供の保育以外でする仕事量は少なくない。それどころか年々煩瑣な書類や監査、第三者評価などで事務的な仕事も増えている。
これらだけでも残業が必要な状態になっているが、前記事で書いたような状況はそういった必要最低限の仕事だけでない部分が大半である。
つまり、問題は人手の有無ではない。
圧倒的に多いのが、行事の準備である。
複数の保育士からこれが言われる。
次に、保育準備。適正な範囲から過剰なものまで。
昨今は見直されて以前ほど重要視されなくなってきてはいるが、壁面装飾などもこれに含まれる。
過剰というのは、労力のコストとそれによる保育上の効果が見合わないもの。
「自己犠牲による頑張り」といったものをその組織が暗黙の内に職員の評価基準にしている場合、これは多くなる。
上に上げた壁面装飾などは、それの最たるもののひとつと言えるだろう。
発達上のことや、心の安定の面で問題を抱えている子が多い状況などで、この壁面装飾を立派にするといった仕事が課せられる場合。
それはその子たちのためにはどれほどの役に立っているだろうか。
しかし、保育士はそれに疑問を感じていてすら、黙々とその園の方針に従うことを強制される。
ここにあるのが、前回出てきたような精神主義を保育のバックボーンにする姿勢である。
「身を粉にするほど子供に尽くす保育士が良い保育士」といった価値観。
これが現代にはすでにそぐわなくなっている。
「自己犠牲をして子供に尽くす」
この価値観、考え方、感覚。
これは保育以前に、日本の子育てのあり方として一般的なものと言える。
これが特に母親に対して向けられている。
同様のものが、保育施設では保育士に向けられる。
旧態依然とした感覚を持っている保育施設では、無自覚にこういったスタンスから保育を組み立ててしまっている。
ゆえに、保育内容そのものよりも、「どれだけ保育者が身を粉にして頑張ったか」といった精神的なものが重要視されてしまう。
それゆえに、先輩職員から後輩職員への「しごき」のようなものが、常態化、さらには連鎖してしまう。
まずは、こういった価値観に気づく必要があるだろう。
<保育士の専門性の理解と自己実現の理解>
さらに、こういった組織体質から脱却するために深めていくべきなのが、保育士の専門性の理解と自己実現の理解である。
すでに、異常な労務管理を生むものが、過剰な仕事量にあること。その過剰な仕事量が「自己犠牲することがよい保育士」といった価値観に根があることを述べた。
◆専門性の深化
これを改善していくためには、なにが保育者の仕事として重要であるかという理解をすること。
そして、保育者が仕事の中でどこに達成感を感じたり、自己実現をするところなのかという視点をもっと先鋭化していく必要がある。
なぜなら、これまでの保育界は「行事の作りの立派さ」「そこでの子供たちの出来の立派さ」「室内装飾の立派さ」といったところで、「私たちはこんなにいい仕事をしていますよ」というアピールをし、専門性を主張してきたきらいがある。
これがだんだん形骸化、無自覚化していくと、最初は個々の子供たちのための保育上の適切なねらいがあったとしても、いつのまにか行事を他者評価の面で立派に完遂すること自体が目的となってしまう。
例えば行事の練習風景などをめぐって、こんな声が同僚保育者や園長などから担任に向けられることがある。
「去年の年長さんはもっと立派にできていましたよ」
このような他者と引き比べる言葉は、保育者が専門性を見失っているから出る言葉である。
まず、この言葉には「個の理解」という視点が欠けている。
去年のクラスの子供と、今年のクラスの子供はそもそもまったく違う子であり、まったく違う状況を持っている。
その視点を忘れ、画一的に子供を見ている。
そして、それを保育者の側が想定する行事という枠の中に押し込めようとしている。
これは、「子供たちのための行事」ではなく、「行事のための子供たち」にしてしまっていることに他ならない。
同時にその担任を責め、モチベーションを奪っている。
この状態は客観的にみれば、保育の専門性が破綻している状態であるが、そういった組織の中にどっぷりと浸かった状態ではそれに気づくことは容易ではないだろう。
保育の本質について、考え深めていく機会があればその人達もそれに気づけるようになる。
ここから積み重ねていけば、「その行事必要ですか?」「それは子供のなんのプラスになっていますか?」といった視点が持てるようになり、それまでどれも重要と考えていた常時も、必要なものと不必要なものを仕分けられるようになるだろう。
a,施設のために必要な行事
b,保育士たちのために必要な行事
c,子供のために必要な行事
d,保護者のために必要な行事
e,地域のために必要な行事
必要なのはc,d,e,である
なかんずく大切なのはc,であり、c,を犠牲にしてまでd,e,をする必要はないし、ましてc,を犠牲にしてa,b,をしてはならない。
だが、これを保育施設に理屈として押しつけても、この問題は前進しないことだろう。
なぜなら、保育士が人間である以上、「達成感」「自己実現」は仕事の上で欠かせないものだからである。
◆自己実現
「自己満足」というと、聞こえが悪い印象を持つ人が多いだろう。
それは通常、「他者を無視して自分だけの満足を追求すること」を意味して使われることが多いから。
しかし、実は人にとって自己満足できることは大変重要なことである。これが、他者の利益の無視した状態とならず成立すればいいのだ。
だが、精神主義をバックボーンとした保育施設では、これが忌避される。
なにしろ、もともと「自己犠牲することがよい保育」といった理解になりやすい傾向をもっているので、保育者が満足するというファクターは後ろに隠されてしまう。
しかし、そうしたところで人が自己満足を求めないという状態になることはない。すると、それはねじれたものとなる。
そのねじれが、「自己犠牲する私アピール」と「他者へのそれの強要」として表れる。
例えば、園長は誰よりも残業し長時間労働する自分をアピールし、それを部下の職員にも暗黙の内に求める心理に知らず知らずなっていくといったところに現出する。
こういったスタンスの慢性化により、保育職場は働きにくい職場となってしまう。
これを防いで適正化するために必要なのが、ムリのない自己満足つまり「自己実現」をどこでするかという、保育者の心理上の問題解決である。
ここで、もう一度上に述べた保育の専門性の理解を深めることに戻る。
保育者が、その職務で自分たちの仕事を評価し、そこに達成感や満足感を感じられる場所、それは保育上の専門性に他ならない。
ここで、自己評価、職員同士の互いの評価をしあえる状態にすれば、あまり意味の無い行事や保育準備にたくさんの時間をつぎ込む必要がなくなる。
同時に、保育の向上にもなる。
しかし、現状の保育施設が、必ずしも保育の本質や保育の専門性といったことに関して、理解を深める機会やそのための知識が十分ではない。
多くのところでは、「時間がない」とそれを後回しにしてしまっている。
その間にも、保育士の疲弊や離職は進んでいく。
ここに力を入れることで、それらを防ぎ、むしろ有意味な時間が増えることにつながるだろう。