子育てのカルト化について vol.2 - 2019.02.28 Thu
『山本太郎氏、日本母親連盟を支持者の面前でぶった斬り!』(HBO)
この手の話は書いていても消耗するので、あんまり書くつもりもなかったのだけど、あまりにこのことがすごかったので勢いで書いてしまいます。
デマを適切にファクトで打ち消すのが大変な労力を必要とするのと同様、エセ科学やカルトに対抗していくのは、その検証や周知に大きな労力がかかります。
また、エセ科学がそれらを流布することで利益を上げられるのに対して、ファクトでカウンターする側はそれによって利益を上げているわけではありません。
端から分が悪い戦いです。
山本太郎議員は、それにまっこうから対抗しその矛盾、誤謬を臆することなく提示しました。これは相当の快挙だと言えるでしょう。
上の記事を読んでもらえばとてもわかりやすいですが、日本母親連盟はスピリチュアル・エセ科学・日本会議がタッグを組んだような子育てを取り巻くカルトです。
カルトについて調べていれば、エセ科学あるところに日本会議ありと思えるくらい、この歴史修正主義の極右思想を持っている団体が絡んできます。
なぜいま極右思想がカルトにつながるのか?
それは結局のところ、支配が目的だからです。
戦前戦中のような、権力や権威が大きな顔をして人々の上に君臨しようとする人たちが、現代でそれを復活させようとするとき、相当に無理筋のことを通さなければそれは実現できません。
無理筋のことを通すのにカルトは大変便利です。
水からの伝言、江戸しぐさ、ホメオパシーなどなど。
でっちあげた理屈を使い、人々をコントロールしようとします。
もちろん、教育の中でも子供をそういった思想にしむけていきます。それらはすでに小中学校の教育の中にも入り込んでいます。
二分の一成人式ですらいろいろ問題があるのに、「立志式」「志教育」などとなるとこちらには本物のカルト宗教が絡んできます。
学校行事の裏にカルト宗教がいるなどというのは、信じたくないほどに恐ろしいですが、もうすでに現実です。
教科書検定も、もはやボロボロの制度になりはて、カルトが教科書にまで入りこんでいるのをわかっていながら看過している状態です。
◆なぜ母親か?
極右思想を持つ人たちは、基本的にミソジニー(女性嫌悪)に染まっています。
しかし、フロントでは女性を持ち上げる動きを出します。
今に始まったことではありませんが、右翼的な政治団体など昔から各地に「母子像」などもたくさん建ててきています。
これは、なぜかというと、女性の地位の(低い位置での)固定化が目論見だからです。
「愛情たっぷりで子供を慈しみ育てる母親は素晴らしい」
きれいな側面ではこういった、一見女性を持ち上げるかに見える動きをとります。
しかし、皆さんもご存じのように、「産む機械」「最低二人産め」「少子化は、女性が子供を産まないのが悪い」といったあからさまなミソジニーが本音です。
例えば、「愛情」という言葉を使って女性を縛ります。
中学校で給食を実施せず、「愛情弁当」を持たせろといった行政のあり方としてそれは現実化しています。
横浜市、町田市などたびたびニュースにもなっています。
これは、完全にモラハラなのです。
多様な人々のあり方を許容せず、「○○はこうあるべきだ」という一方的な価値観の押しつけをしています。
「○○はこうあるべきだ」はカルトと親和性が高い姿勢です。
スピリチュアルでも自然志向でも、健康志向でも、エセ科学でも、エセ歴史でも、エセ医療でも、食育でもなんでもいいので、「○○はこうあるべきだ」に同調をさせれば、それをいとぐちに虚栄心や承認欲求や、自己顕示欲や、金銭欲、安心を求めたい気持ち、そういったものをうまく手玉にとって、さまざまなことへの同調をさせることができます。つまりマインドコントロールです。
日本母親連盟が、山本太郎が指摘したように憲法9条だけなぜか保留という形で触れている不自然さは、のちのちそういったところにつなげる意図があるからでしょう。
彼が上記の講演の中でも繰り返し述べているように、人がどんな思想や政治的信条をとろうとも自由です。
でも、僕が思うのは、それを選択するのは誰かにマインドコントロールや洗脳されてではなく、自分の頭で考えて行うべきことです。
それが現代に生きる成熟した大人というもので、子供たちの未来に責任ある態度だと思います。
| 2019-02-28 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
子供のスマートなコントロールとキラキラ系子育て - 2019.02.27 Wed
子どもを叱るときは「ユーモア・アプローチ」を
これが単に一般の人が言っているというのならば僕もとやかくいわないのだけど、子育てのプロフェッショナルという触れ込みの人が言っているので、あえて苦言を呈しようと思う。専門家と名乗ってこの程度のことを主張されると、保育全体の質が下がり現場は大変苦労する。
◆スマートなコントロールの典型 おしゃれな子供だまし
「オニが来るから○○しなさい」
「○○しないと~~してあげないよ」
これらはいかにも露骨な子供だましで、スマートではない。
またもちろん、ぐちぐち小言を言ったり、イライラして叱ったり怒ったりするのもスマートではなくてかっこよくは見えない。まあ、言ってみれば泥臭い現実の子育て。
これに対して、この方の言うところのユーモアをまじえて「元気なキャベツ!」に言い換えたら、そして、それで子供が思い通り動いたら・・・・・・。
関わりの構造としてみたとき、スマートなだけで本質は上の関わりと大差はない。
そこにあるのは、子供をスマートにコントロールできるという、「そっちの方が子供の対応がラクそう」という感覚と、あともうひとつ。
行間の空気としてしか存在していないので意識しないと見えないのだけど、それを読む側がそういったスマートな子育てをしている自己イメージの投影ができるという、ある種の「キラキラした自分」への期待。「わ~素敵。こういう子育てしてみたい」という層への受けを計算して狙っている感。
じゃあ、実際に子育ての当事者がこういったことをできるかというと、この筆者の経験は、幼稚園教諭として仕事の上で預かった子供に対してしていたというもの。
子育ての当事者は、そういった一歩引いたところから子供に関わる余裕がそもそも多くはない。
記事の文末に「余裕がないことをいいわけにしない」と述べているけれども、子育て当事者は必ずしもいいわけにしているのではなく文字通り「余裕がない」というのも現実。
その箇所からわかるように、この筆者は結局のところ、親に「求めて」しまっている。
このスタンスから発される子育てにまつわる話は、おしなべて親を消耗へと引き込む。
また、子供のタイプによってもこういうアプローチは通じたり通じなかったりがある。
状況によっても、例えばそれ以前が慢性的な過干渉をしていたりすれば、これをいくら努力しても通じなくなっているといったこともある。
幼い内は通じても、年齢が上がるにつれて通じなくもなる。
最初の数回はこれで通じても、子供が慣れてくると通用しなくなる。
子供はバカではない。自分がコントロールされていることを感じ取れば、その手には乗らなくなる。
そして、こういった手が通じない現実にあたったとき親はどうなるだろうか。
真面目にこういった話を真に受けて頑張ってしまう人ほど、それが通じない現実にあたって「私はダメなんだ」と自身をなくしたり、自己否定の気持ちを引き起こさせてしまう。
◆「子供の尊重」概念理解の不十分さ
この方は子育ての専門家と言う触れ込みで、大学院に行って学位もとっているとのこと。
だからこそ余計に気になるのだが、「子供」概念の理解が素人の域を出ていないことが大変残念。
「子供を一人の人格と見なす」のではなく、「子供はコントロールできる(する)もの」という認識に立っている。つまり子供を低く見ている。
子供や保育について専門的に学んだのであればそれはお粗末だと思うのだが、しかし正直なところあまり驚かない。なぜなら、保育関連の大学教授などでも、こういった「スマートなコントロール」を我が物顔で提唱している人はいるから。
世の中に、子供の自主性・主体性について口にする人はたくさんいるけれども、子供についての概念理解が「子供はコントロールできるもの」というスタンスの人で、実践レベルで自主性・主体性を理解し行っていることはない。
◆派生する第二の問題 依存
では、こういったスマートなコントロールが功を奏して、子育ての中でこれを数多く積み重ねていったとしよう。
数年後子供はどうなっているか?
子供の自立が進みコントロールが簡単でなくなったとき、子供は大人の望まない行動を自律的に止められない姿を出すようになる。
一方で、それまで大人にコントロールされることで自分の行動や気持ちがスムーズにいっていたことから、大人への依存が高まった状態になっている。
大人は、あるときこのふたつの相反する問題が同時に吹き出る瞬間に直面することになる。
依存が強く、なおかつ自律的に行動や感情を自分で掌握できない子供の対応はとてもしんどい。それがたとえどんなにかわいい我が子であれ。
◆隠れた問題 背景にある自己承認
最近、こうしたキラキラした自分につながるキラキラした子育て法や、キラキラしたライフスタイルの提案のようなものが人気があるように見える。
子育て関連でも、相当に容姿を意識した女性講師によるキラキラしたスマートな子育て講座のようなものがある。
実際にそれらのニーズも少なくないようだ。
ここには、子育てする人の自己承認、承認欲求の問題が隠れているような気がする。
それがよくないという意味ではない。
それらの意味するところが実のところ子育ての孤立や、不安の裏返しである可能性があるのではと考えられるからだ。
だから、問題の本質は、ムリのない人とのつながりの欠如、僕の視点から言えば子育ての支援の不備にこそあるのではないかと思う。
逆に言うと、子育てに不安がなくて、ムリなく関われる人間関係があるとき、さほどキラキラした子育て、キラキラした自分を求めずに済むだろう。
そうやってみると、「キラキラを求めてしまう心の負荷」のような相反するものが隠れているではないかと心配になる。
ただ、キラキラは感性に訴えかけられるのでお金儲けはしやすいのだろう。ある意味ではそれが堂々とできるのは才能だ。僕ももっと見習った方がいいのかもしれない。
| 2019-02-27 | 過保護と過干渉 | Comment : 17 | トラックバック : 0 |
「あぁそうなんだ」が子育てに重要なワケ ベビーカレンダーコラム4 - 2019.02.26 Tue
もともと、日本の子育てには、「子供は大人がしつけるもの」という考え方が根強い。
これは、そのまま「正しい行動を刷り込め」「子供を適切に支配しろ」という見方になる。
そこまでではないけど、多少やわらかくしようと思うと、「子供をうまくコントロールすること」になる。
現代の多くの人が、このポジションにいると思う。
そして、最近世間に流布している、それをもう一歩進めた子育て法だと、それらをスマートにおしゃれにかっこよくする方法が「これがよい子育て法です!」といった感じで述べられている。
支配
↓
コントロール
↓
スマートなコントロール
これら3つは、雰囲気が違うだけで結局のところ同じ枠組みのなかでしかない。
僕の言葉でいうと、「強い支配」→「優しい支配」へのグラデーション。
強い支配の問題点には多くの人が気がついているが、優しい支配にも強い支配と同じ程度の問題があることには気がつけていない。
その問題とは「依存」を助長すること。過保護、過干渉がさらに過剰になること。
コントロールやスマートなコントロールにすれば、強い支配のデメリットは減るが、依存の問題はなくせない。むしろ大きくなってしまう。強い支配を好む人は、それみたことかとその状態を批判し強い支配こそが必要なのだと主張する。
そもそもどっちも違うというのが、子育てを専門的に見たときの立場。
「子供(の行動、感情)とは大人がコントロール可能なものという見方がそもそも違う」
という指摘が成立する。
これは、「子供とは一人の人格である」という「子供の尊重」の理解があればさして難しくなく飲み込める。
しかし、「子供の尊重」というのを、「子供の思いを叶えること」「子供をかわいそうな状態におかないこと」というニュアンスで理解してしまう人が多く、「一人の人格としてみなす」という思考にならないのが日本の子育ての特徴。
僕が素で文章を書いてしまうと以上のように大変理屈っぽくなるので、ベビーカレンダーさんのコラムでは、それらを全部捨てて、
「ああ、そうなんだ~、そうか~がんばれ~」
に集約した。
難しく書くよりも、人にわかりやすく書く方が何倍も難しいと言われるけど、本当にそうだなぁと思う。
| 2019-02-26 | 雑誌・メディア | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
子育てのカルト化について - 2019.02.24 Sun
先々週、急に気圧が低くなってしばらく曇りと雨を繰り返していたとき明確にその自覚があったので、書くのをためらうネックになる部分を保留して荒削りだけど書いてしまおうと思います。
書くのをためらっていた理由のひとつは、それ(子育てのカルト化)をやむにやまれず必要としてしまう人がいて、その人達の立場や気持ちも理解できないではないからです。
では、子育てのカルト化とは、そもそもなにを指しているのでしょう?
まず、「カルト」とは、カルトに詳しい『やや日刊カルト新聞』総裁の藤倉善郎さんによれば以下の定義。
「カルト」の基本的な定義は、「違法行為や人権侵害を行う団体」である。現実問題として、これらのうち特に宗教的なものや精神性の強い集団・人物の問題が、「カルト問題」として扱われている
(三重県の麻疹感染拡大の背後にある、「反ワクチン」「反医療」信仰の危うさ HBOより)
いま子育てを取り巻く周辺には、エセ科学、エセ医療、エセ歴史、子育ての不安を煽ってなされるマインドコントロール、子育ての悩みを抱えた人を狙った不誠実なビジネスなどが大変強い勢いで勢力を伸ばしてきています。
そのあり方はいろいろなので、必ずしも一般に考えられるような「カルト宗教」的なものだけを指しているのではありません。
デマや不安を煽るような言説、または他者をマインドコントロールして自分に依存するようにしむけること。こういったこともその一部です。
例えば、いま人々には原発事故から放射線に対する不安、心配があります。だから線量を気にしたり、その食品への影響を考えるのはおかしなことではありません。
しかし、それを手玉にとって、「この○○から作った薬を飲みなさい、それをしなければお子さんは病気になってしまいます」などというのは、不誠実なことです。
こういったこと、一見多くの人が「そんなものには騙されない」と思うことでしょう。
しかし、不安や心配の多い子育てという状況では、いまそのように思える人ですら引き込まれてしまうことがあります。
◆カウンセリングにおけるカルト化
カウンセラーですらカルト化することができます。
僕は「あごの下くすぐり理論」と名付けていますが、その人の承認欲求を満たしてあげることを言えば、カウンセリングに来た人は満足し、依存し、絶大な信頼を寄せてくれます。
ましてやそれが他の人が言ってくれないことであればなおさらです。
それをすると、カウンセリングのクライアントは「信者化」して、その人を支持しお金もたくさん払ってくれ、さらには大変好意的な意見で宣伝すらしてくれます。
つまりこれ、マインドコントロールなのです。
先月だったかな、記事の中で自分が我が子へ手をあげてしまう悩みを言ってきた人に対して「子供は叩かれるために生まれてきた」と答えてしまうカウンセラーがいたこと、その人はカウンセラーとして道を踏み外していると書きました。
そのときは名前を挙げなかったけれども、心屋仁之助という人です。
リンクは貼りませんが、本人のオフィシャルブログ(2018年08月31日)でそう述べています。
「(子供を)傷つけて、いーよ」(※かっこ部は筆者補足、それ以外は原文ママ)
とまで言っています。
本来、カウンセラーであれば、決してそのようには言いません。話を聞き、その人を責めないとしても、不適切な行為を勧めることはありえないのです。それでは子供の人権侵害が起こってしまいます。
しかし、それをすればその人が安心することはわかっています。でも、長期的に見たときそれはクライアントのためになりません。
だから、これはカウンセリングの禁じ手です。
その相談者は、強い自己否定の中にいます。我が子を叩きたくないのに自身が叩かれてきた生育歴ゆえにそれを繰り返してしまい、そこに強い自責の念があります。
もし、誰かがそれを「やっていいよ」と言えば、自身の承認してもらいたいところが承認されてインスタントに満たされます。
「くすぐって欲しいあごの下をくすぐってあげること」
これをしてしまっています。
本来、その人が我が子を叩いてしまう問題は、実のところ副次的な問題です。
その人は、子育て以前の自分個人の問題でネックを抱えており、その状況のまま子育てに向き合わなければならないことから現実的な齟齬が生まれています。
カウンセリングであれば、その子育て以前のその人個人の問題を軽減してあげることで、間接的に子供を叩かないでいられる状況をもたらしていくべきです。
この心屋という人は、それをせずに相談者の承認欲求をくすぐることで、偽りの自己肯定を生みだし、それは同時に「満たされがたい自分の承認欲求を満たしてくれる人」というカウンセラーへの依存、賞賛を作り出しています。
これは意図的な信者化です。
先日「心屋さんや僕のような人にタッグを組んで欲しい」というコメントをいただきました。僕はそのコメントがあったときもどう返答すればいいか大変悩みました。そのあと別の読者の方で、心屋のリスキーなことを指摘する方がコメントして下さったので、とりあえず返信を保留することができました。
(おそらく心屋とタッグを組む人がいるとしたら絵本作家ののぶみでしょう。彼のしていること、母親の承認欲求をくすぐり自分への依存を作り出す、としていることの構造は同じ)
僕の子育て相談のクライアントの中にも、心屋式の心理カウンセリングに通ってそれが心の安定につながっているという方が複数います。
その人達にとって、それが支えとなっているのも事実なわけです。それの全部が全部悪いというわけではないのも事実でしょう。
それゆえに、この問題は僕の心に重くのしかかっています。
僕自身もかつて心屋関連のものを読んで、なかなか良いのではないかと思ったこともあります。
カルトというのは、部分的には良いもの(よく見えるもの)があるものです。これはカルトの特徴です。
しかし、部分が良いからといって、総体としてダメなものが良くなるわけではありません。
承認欲求を満たし依存させ信者化を図るのは、カルトの特徴です。
いま、「支配と子育て」のテーマで他の記事を書いていますが、このカルト化にも支配があるのがわかりますでしょうか。
その人を自分に強く依存させることで、ある種の精神的な支配ができるわけです。これと対になっているのは、それをさせる人の自己愛です。
この心屋なる人は、自身の講演などで自分が歌を歌うのだそうです。
新興宗教の教祖にも、しばしば同様のケースがあります。
自己愛の強い人は、場合によっては自覚なき悪意なき他者支配をナチュラルにできてしまいます。
この傾向はモラハラ夫などにも多く見られるものです。
そこには自己愛と他者支配の関係性があります。
この心屋氏がそうかどうか僕はわかりませんが、もしそうだとしたらカウンセリングに来た人が逆に精神的に搾取されている状態と言えます。
この種の承認欲求をくすぐり依存をさせる手法は、これに限るものではありません。
カウンセリング、スピリチュアル、占い、民間療法などのなかにも大変たくさんあります。
◆医療、健康関連のカルト化
最近、ものすごい勢いで伸びているのが、反科学、反医療。そこまでいかずとも「自然なものこそ身体にいい」といった自然礼賛の文脈で言われるもの。
ワクチン否定などもそのひとつとしてあると言えるでしょう。
ワクチンにも確かに重篤な副反応が出る場合はあります。
僕も実際にそういったケースを知っているので、ワクチンに対する不安があるのも理解できます。
ですが、ワクチンが防ぐ病気と、ワクチンによってなってしまう問題とを確率的にみた場合、比べものにならないほどワクチンの有用性はあります。(ここでは有用性が検証中のものは除く)
しかし、不安というのは煽れば簡単に大きくなるので、そういった客観的判断を鈍らせてしまいます。
そしてまた、こういったことを広める側は、そういった人の不安に向けてなされるので人の心に響きやすいのです。
いわゆる、デマの方が真実よりも人に訴えかける力が強いという状態です。
誠実なもののいい方をしようとすれば、断定を避け「~~かもしれない」「~~の可能性がある」といったいい方になってしまうのに対して、人を煽ろうとする人は遠慮なしに「○○すれば~~になる」といった断定的ないい方をすることができてしまいます。
子育て界隈には、そういった科学的な判断よりも、キャッチーなデマの方が入りやすい土壌が普段から醸成されています。それゆえに、不誠実なものが入り込むのもたやすいです。
例えば、
「最近の子は、普段から清潔にしすぎるから病気になりやすくなっているのだ」
「最近の子は、普段から清潔にしすぎるからアレルギーになるのだ」
といった物言いを聞いたことがありませんか?
この言説はけっこう一般に広まっているようです。保育士の口からもこの種の話が出てくるのを耳にしたことが複数あります。
この言葉、一見もっともらしいのです。
もっともらしいだけでなく、もしかするとある種の一面の事実すら含まれているかも知れません。
しかし、これは聞く人、読む人の視野を狭め、ある種の誘導を作り出しています。
それは、「清潔にすることによって多くの病気を未然に防いでいる恩恵のあること」です。
公衆衛生の概念の発達によって、人類はどれほどの健康上の恩恵を得たことか。それを言う人ももちろんその恩恵の上に生活しているわけですが、そのことに気づかない視野狭窄をもたらしています。
その言葉はそれを言う人も悪意があるわけでもないでしょう。
しかし、このようなキャッチーな話の流布は、デマの入り込みやすい土壌を作ることに一役買ってしまっています。
(血液型性格判断の話のような無根拠の決めつけの流布が、間接的に「○○脳」といったカルトの土壌になっているのも同じ構造)
先日、このブログの自身のお子さんの発達障がいについてのコメントに対して、別の方からのある医師とある特定の出版社の本を薦めるコメントがありました。
申し訳ないのだけど、そのコメントは削除しました。
それも子育てを取り巻くカルトのひとつだからです。
そのコメントをつけてくれた人が悪意のないこともわかります。
その人がそういったものに依存したくなる気持ちも理解できます。
しかし、それでも僕はカルトを広めるのを看過できないと判断しました。
その出版社は、発達障がい関連の本を多数出しており、その出版社社長もそこから本を出しています。
主に、「発達障がいは治る」という趣旨のものです。
ここにも、悩みを抱える人の承認欲求を満たす構造が含まれています。
発達上の個性が強い子供を育てるのは、ケースによっては本当に大変です。精神的にも身体的にも、また自己肯定の上でもある種の危機が生じます。
他者から責められたり否定されたり、実際に直接されなくてもそういった雰囲気や視線を醸し出されたり。それらが全くなくてすら、自責の念で自己否定におちいりやすいです。
こういった状況にある人にとって、「発達障がいは治る」という断言の言説は、自己承認を救ってくれる言葉になることがあります。
しかし、多様な個性や症状がある「発達障がい」というものに対して、断定的に「治る」ということは、ある種の無責任さがなければ言えないことです。
そもそも、なんらかの療法による治療の因果関係が明確なものだったら、発達障がいには分類されず病名や症例名がつけられるわけです。
基本的に発達障がいは、発達上のばらつきによる環境への適応の難しさのあるものを指してそのように呼んでいるのですから、断定的に言うのはむしろ不自然ですらあるのです。(また、社会における発達障がいの理解を後退させるものともなりえる)
しかし、そのような「治る」という断定は、人によっては「あごの下をくすぐってもらえる」ことになり、それが真実かどうかよりも自分の思うところを肯定してもらえたということから、依存、信者化へと発展してしまいます。
この種のことを、医師なり専門家が言っている触れ込みの本は多数あります。
これらの本のレビュー欄をみると、ある特徴があります。
この視点を持っていないと気づかないのだけど、意図して見えると明らかに見えてきます。
それが、その著者に対して「尊敬している」といった言葉が複数の人から多数寄せられていることです。
普通、本の中でもどれほど良いことを述べても、よほど体系的ななにかを表しているとかでもなければ、本を読んだというそれだけではなかなか「尊敬される」というところまではそうそうならないものです。
直接の関わりがあってそこで大変自己犠牲的な献身をされたとか、継続的に付き合う中でその人の誠実さを理解するに至ったという結果であればわからなくもありません。
しかし、この種の本には「尊敬」という表現が多数寄せられます。
これはなにを表しているか?
「自分のなかなか認めがたい承認欲求を満たしてもらえた」
からなのです。
これをすれば、他者からの賞賛、尊敬を簡単に作り出すことができます。
上記の、承認欲求を満たすことで依存し信者化させるものと同じ構造があるのです。
これをお金を稼ぐために意図的にする人もいます。
一方で、少しもお金儲けにはしていない人もいます。
お金儲けが露骨だと比較的それに問題があることがわかりやすいです。(実際には、依存の中でマインドコントロールが可能なので、ここもわかりにくく目くらましできる手法がある)
お金儲けにしてはいないのだけど、カルト化して他者の支配、搾取を行うものもあります。
では、それはなんのためなのか?
実は、そこにあるのはそれを広める人自身の、自己承認のためです。
自己承認にネックを抱える人が、無意識に他者を依存させコントロールし、その人達に自分を必要とさせることで、自身の自己承認を満たすという構造です。
これを意識してやっている人もいれば、無意識にやっている純粋な善人ということもあります。
しかし、いくらその人に悪意がなくともそれは(害があるかないかは別として)ある種のカルトであることは違いがありません。
そして、トンデモな言説ほど、こういった信者の純化が強くなります。
だから、言う人が最初はさほどトンデモでもなかったのに、どんどんエスカレートしてトンデモ化していくことも起こります。
信者化した人は、他者にもそれを広めたいという心理が生まれます。
他者もそれを承認してくれることで、間接的に自己承認に利するからです。
ですので、カルティックなものには、賛同のレビューと批判のレビューの両極端が並びます。
ただし、Amazonなどでは不適切通報をたくさんすることで批判レビューは消えていきます。
批判する方は他者を攻撃する必要がないのに対して、信者化している人にとっては自己承認の阻害要因になるので、それへの批判は自分への攻撃として感じ取られ、逆に批判者を攻撃することになりえます。
そのくだんの出版社社長のTwitterを見ると、他者に対して大変攻撃的なものが多数みられます。
ここに見られるのも、自己愛と自身の自己承認に対するネック、それゆえに自己が否定されたときの自己防衛からの他者攻撃の強さです。
これも自己愛と他者支配の関連性です。
さて、このような子育てや子供をとりまくカルト性が近年すさまじく、僕は本当に日々憂慮しています。
ここに述べたものは本当に氷山の一角で、こういったものが教育や政治に入り込んでいるもの、医療の現場にまで入り込んでしまっているもの、すでに多くの現実の問題となっています。
また、うまく伝えられませんが、この問題は単体のものとしてあるだけではなく、モラハラの問題や毒親の問題、虐待、アダルトチルドレンの問題などと、どこか底の方でつながっているところがあります。
僕はこれを貫いているものが、「支配」というものだと強く感じています。
僕の専門であるところの子育てが、実はこの支配の起点となっている節があります。僕はこれらのカルト化する問題には間接的に関わってはいますが、直接的には子育てや保育から支配を無くすことで、これらの問題の解に導けるよう尽力したいと思っています。
この種の問題に関しては、Wezzyで『スピリチュアル百鬼夜行』という連載を書いている山田ノジルさんのお話は、子育てを取り巻くカルトに取り込まれない免疫をつけておくために一読をお勧めします。
「私はそういうのにはまらない」と思っている人も、他人事ではないと認識しておく方がいいと思います。
少し前にキャベツ湿布騒動などあったように、医者などの専門家や、公的なメディアまでが浸食されています。(この騒動のときは保健師や助産師が発端)
例えば、いまホットなところではグリコの『Co育てPROJECT 』通称「こぺ」が、「男女脳の違い」というエセ科学に取り込まれてしまっています。
また、エセ科学、エセ歴史批判については原田実さんの研究が学校での蔓延を防ぐのに大きな力を発揮しました。
この著書の中で「親学」に触れられています(第二章)。いま問題となっている福岡県の「あかつき保育園」は、この親学と関連があります。
あの問題は、単なる保育士の不適切保育ではとどまらないものを秘めています。
ちなみに、現に日本中の小学校で行われている「二分の一成人式」も「親学」が元になっており、親への感謝から子供を支配しようという意図が露骨にあります。
学校教員も、この支配のメンタルにとらわれておりそれにシンパシーがあるようで、批判があっても「二分の一成人式」がなかなかやめられません。
さて、エネルギー切れで今回書き切れなかったのですが、これだけは補足しなければということがあるので、それについては後日書きます。(ちょっとメンタル的にいつ書けるかは未定)
カルトに引き込まれてしまう大人の背景にある問題。「孤立」についてです。
| 2019-02-24 | 日本の子育て文化 | Comment : 28 | トラックバック : 0 |
支配と保育 vol.1 - 2019.02.20 Wed
また、保育士のコミュニティでも、単に行事として以上に子供を脅しそれを面白がったり、保育として正当化する保育士の存在に対して多数の疑問や違和感の声があがっていました。
さらに、いまニュースになっている福岡市の「あかつき保育園」でも、「仕切り部屋」と称するところに言うことを聞かない子に怖がらせるお面をかぶせて閉じ込めるということを、保育の中でしていたことが明らかになっています。
(報道では一部保育士がしたというように言われていますが、このような部屋が園内にある時点で園長・施設運営者の関与がないということはありえません。その保育者達は間違っていますが、同時に適切な保育を身につけさせてもらえなかったかわいそうな人たちであるとも言えます)
同様の脅すためや閉じ込めるための部屋については、コメントでもあったように多数耳にします。
これらははっきりと保育と言えるものではないと断言できます。
どんな理由があれそれは正当化できるものではありません。そうしないと保育ができないという言い訳をするのであれば、ならば「保育などやめてしまえ」と言い返します。
こんなことを保育と言っていたら、保育士の専門性を社会に認めてもらうことなど到底できないし、従って保育士の給与も上がらないのも当然です。
実は、保育をする上で大切なことは、「子供を支配しないこと」なのです。
しかしながら、それを実行するためのメソッドがないために、一般に流布する「支配の子育て」がそのまま「支配の保育」となっているところが少なくないのが現実です。
立派な保育について語るものは山ほどあります。
しかし、「支配しないこと」というテーマで論じているものはほとんどありません。
どんなに、立派な保育を身につけようとも、その人のメンタルが他者を支配することを求めていたら、その身につけたものは本当の意味で活かされることはありません。
実は、支配におちいらない視点の確保が保育をする上では必要なのです。
そこで、ここではそういった保育する側の心理について考えていきます。。
◆僕と牛乳パック 認知のゆがみの話
ひとつ具体的な話をして、人間の心のメカニズムについて知っておいてもらいたいと思います。
うちでは主に食器等の洗い物の分担が妻なので、空いた牛乳パックをゆすいで水を切るために、シンクの蛇口の隣に逆さにして立てておくことがあります。
逆さにした牛乳パックは不安定なので、しばしば僕が水道を使うときちょっと触れただけで倒れて落ちてしまいます。
そのとき、僕の心は瞬間的に妻に対して「もう、こんなところに置いて!」という責める気持ちがわき上がってきます。
ここに人間の心のクセがあります。
人の心は、無意識に自分を守ろうとする機能があります。
それが、ここでは「自己正当化」として出てきます。
客観的に考えてみれば、ここで妻は少しも悪くありません。牛乳パックを立てておいていたことが問題なのではなく、それにぶつけて落としたのは僕です。
100%自分の問題としてあるのに、心はそのようにとらえず「自分以外の誰かが悪い」と解釈しようとしています。
僕はそのようにしませんが、もしこの心の動きのまま、妻を悪者だと意識的にも断じてしまったとしたら・・・・・・。
そこには、「認知のゆがみ」があると言えます。
自分の行動の問題なのに、無意識に他者に責任を転嫁しています。
これを理由に妻を攻撃したりすれば、それはモラハラになります。
自分中心のルールを作り、他者にそれを守るように強要していきます。
そのモラハラの中では、他者支配が正当化されてしまいます。
「おい、なんでここに置きっ放しにするんだ。いつもここにおくな、きちんとしろと言っているだろ。何度言わせればいいんだ。これくらいのこともできないからお前はだめなんだ。そんなお前にこういう言いたくもないことをいってやるのは自分くらいなものだ。感謝しろよ」
こういったことが、モラハラの典型的な関わり方です。
◆他者支配の連鎖
さて、なぜこのことをわざわざ保育の話題で出したかというと、保育の中でもこれと同じことが起きるからです。
保育では、「自分が悪くない、他者が悪い」という認知のゆがみをもち仕事をし続けられてしまいます。
この他者のところは、たいていの場合「子供」「親」が入ります。
保育の仕方や、園のあり方、方針に問題があったとしても、それを自分たちの問題と認識することなく子供が悪い、親が悪いという認知のゆがみで自己正当化し続けてしまいます。
この心理状態にある人間は、その問題行動の指摘があってもそれを真摯に受け止めることは困難を極めます。
それを認めてしまうと、「自分が悪い」という認識を許すことになってしまうからです。
ですので、そういった不適切保育は「施設の体質」となり、改善の困難さを持ちます。
ここの自分の問題を直視できない背景にあるものはなにか?
いろいろ考えられますが「自己肯定や自己承認の渇望」が挙げられます。
自己肯定や自己承認を手っ取り早く満たすには、他者を支配するのが近道なのです。
だから、支配者になりたい人は、強さを持っていると言うよりも、逆に弱さを抱えているのが真実です。
ここに見えてくるのは、支配的関わりを好む人ほど自己肯定や自己承認が弱いというものです。
なぜ、そうなっているか?
その理由も広く考えられますが、大きなところではその人自身も、こうでありなさいと身近な信頼する人から求められてきたことです。つまり、その人自身も支配の関わりを積み重ねられたことが、無意識、無自覚に支配の関わりを子供にしてしまう連鎖を生んでいます。
つまり、「子供である自分を尊重されなかった大人」の問題が隠れています。
「子供である自分」とはなにか?
・できない存在
・失敗する存在
・未熟な存在
・不安定な存在
これが子供の本質です。
ですが、日本の子育ての既存の概念ではこれらの子供の本質の状態を受け入れることができず、「できない状態の否定」が必然的に起こります。
「ちゃんと、きちんと、しっかり」の子育てです。
◆支配と自己肯定、承認欲求
子供を自分の望む、「ちゃんと、きちんと、しっかり」の枠に当てはめることで、大人は満足を得られます。
「ちゃんと、きちんと、しっかり」を求める施設、保育者は、そこから逸脱する子をなかなか許容できません。
はなっから否定する人もいるし、うわべは尊重しているように見せてその実、心理的には許容できないということもあります。
どんなに他者に優しい人であってすら、「ちゃんと、きちんと、しっかりの型」という心のバイアスを持ってしまうと、そこに適合しない子を心理的に許容できない気持ちを持つことを避けられません。
このことは、全ての子に対してそうなのですが、特に発達上の個性や障がいを持つ子に対して顕著に表れます。
◆保育における自己承認
保育として仕事で子供に関わる立場の人は、子供を「ちゃんと、きちんと、しっかり」させることにより、自己肯定、自己承認がしやすくなります。
しかし、「いい子、できる子」だけを見ればいい立場ならまだしも、現実にはそうはなりません。すると、保育士の自我の暴走が始まってしまいます。
それが、自己肯定、自己承認のために子供を支配する保育です。
さきほど、こういった保育は容易に変わらないと述べました。
その人達に、そういった保育や自分に対する客観的な視点があれば、変えることは不可能ではありません。
適切なところに自己肯定、自己承認できる仕事の方法、つまり専門性を身につけることで、この支配から、適切な専門的関わりへと「自己承認の付け替え」が可能です。
これまでの日本の保育界は、保育士の自己承認の問題を軽視していました。
軽視していたというよりも否定していたというのが現実でしょう。
それが以前の記事でも書いたように、「福祉の精神」「奉仕の精神」「愛情を持って」などの精神論を主柱にしてきた、自己犠牲的保育のあり方です
自己承認がいけないのではないのです。僕は保育士が、その仕事において承認欲求を満たしたいという気持ちを否定しません。
これまでの保育界が、保育士が自己承認したい気持ちをないことにしてきたがゆえに、かえってゆがんだ自己承認を大きくしてしまいました。
問題なのは、「自己承認のために子供を搾取(子供に負担をかける)する状態」になってしまうことです。
だから、僕は「保育の力」を理解し身につけ、それの実践を適切にアピールすることが必要だと考えています。
◆逆の全能感
自分の担当する責任のある子達が、自分の思い通りになっている状態。
ここには、それをする人の満足感があります。
子供を思い通りにできているという「全能感」です。
この全能感は大変心地よいものです。
支配者の快感と言い換えてもいいでしょう。
しかし、この心を自ままにしてしまうと、逆のことが起こります。
それは、思い通りにならない子に対する、強い否定の感覚です。
子供を支配し、君臨してそこに満足や自己承認を得るようになると、そこから逸脱する子を、自分の感情ゆえに否定することになります。
保育の中で、オニの部屋などを作りそこで言うことを聞かない子を閉じ込めるような行動をしてしまっている人は、そういった人の心理の落とし穴に落ちてしまっていると言えます。
体罰を肯定する大人も、この心理を持っていると言っていいでしょう。
続く。
| 2019-02-20 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
子育て座談会 @世田谷 3月10日(日) 10:00 – 14:00 - 2019.02.19 Tue
世田谷区上北沢にあります、井戸端マザーハウスさんで子育て座談会を行います。
詳細、お申し込みはこちらからどうぞ。
お昼をはさんでのんびりしていただけたらと思います。
| 2019-02-19 | 講座・ワークショップ | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
支配と大人の満足 - 2019.02.19 Tue
人は、自分の心にあるバイアスや先入観、こだわりに気づいてしまうことを好まないし、それを客観視すること、もしくはそれを乗り越えようとすることにはさらに大きなエネルギーが必要になります。
ですので、誰もがそれを避けたくなってしまうのは仕方ありません。
まあ、そういうものがあったとしても、それが即子育てを難しくしたり行き詰まらせてしまうわけでもないので、人によっては些細なことである場合もあります。
しかし、それゆえに苦しんでしまう子供や、長期にわたっての生きにくさに発展してしまうケース、親としては子育てにおいて自己実現できなくなってしまうケースなどをたくさん知っている自分としては、できるものならばそこに冷静になれることでよりムリのない子育てを送っていただきたいと思うのです。
◆
いまコメントで、お仕置き部屋などがあって保育施設の保育が不適切なことについてのお話をいただいています。これについては、少し時間のあるときに記事を書こうと思っています。
僕が「子育てはモラハラそのものになる」とあえて強い言葉で警句を発しているのは、現状の日本の子育てに「支配」の側面が濃厚にあり、これによる弊害があまりに大きいからです。上のケースはまさに保育の中で「支配」を野放しにしているそのものの弊害です。
そしてこの支配が、表向きは「子供のため」という理屈でされながら、実際は大人の
・不安解消
・自己満足
・自己肯定
・自己承認
・自我の自立の問題
このような大人側の心の問題を背景として無自覚に行われてしまっている実情があるからです。
それでも結果オーライになるケースであればいいのですが、負の連鎖となって、子育てする人、子育てされる人を苦しめています。
今の親の世代は、自分たちがそれをする立場になっていますが、根っこには自分たちがすでにそれをされてきたことが大きな問題として横たわっています。
コメントで寄せられている、保育園に「オニの部屋」があって言うことを聞かない子がそこに閉じ込められるというもの。
ここにあるのが、「支配」の構造です。
その支配をもたらす原因は、「○○させなければならない」というバイアスから導き出されたモラハラです。
これをしても誰も幸せにはならないのです。
保育上も子育て上も教育上も、なんの意味もありません。弊害ばかりがあります。
◆
この支配の問題は、実は社会のいたるところの根本的な原因となっています。
ブラック企業、モラハラ、パワハラ、セクハラ、女性蔑視、ミソジニー(女性嫌悪)、差別、DVや夫婦間におけるモラハラ、いじめ、痴漢、PTA問題、部活問題、校則問題、体罰、虐待、教員や保育士の不適切行為、新たに創造される伝統的マナー、不登校、ニート、引きこもり、対人関係の難しさ、自己肯定感の問題、自殺問題、暴走老人問題、通り魔事件、霊感商法、エセ科学、エセ歴史学、道徳教育
こういったことの多くが、「支配」の問題と不可分です。
支配の問題が根深いのは、連鎖を生むからです。
また、支配をする側になったとしても決して満たされるということがありません。
◆子育てでみれば
・自分の受けた強い支配で生きづらさ、子育ての難しさに直面する人
・自分の受けた強い支配の連鎖に苦しむ人
・自分の受けた強い支配から、自己肯定、自尊感情の欠如に悩む人。そこから派生する、対人関係のしんどさ、子供との関わりのしんどさ、無気力、無力感
・自分の受けた強い支配から、思い通りにならな時のイライラが大きい性格を持つこと
・強い支配を避けようとした結果、優しい支配におちいり子育てが難しくなる人
・過保護、過干渉という優しい支配
・過保護、過干渉の積み重ねによる、自信のなさ、意欲の発揮できなさ
・自己表現、自己決断のできない性格
など、このようなさまざまな問題をすでに子育てする大人が抱えています。
これらは短期的には、子供を思い通りにすることで解決するかのように見えます。しかし、それらは本質的な解決ではないので、その欲求は満たされることがありません。
自分の問題を、子供の問題にしてしまう前に、解決までいたらなくともせめて気づきにしておけると、親も子も救われやすくなります。
だから、自分のもつバイアスからできれば自由になっておいた方が、自分を苦しめないし、そこまで行かずともせめてそういったバイアスを持っていることに気づけているだけでも救いになります。
子供の食の問題でイライラの大きい人は、必ずしもそれが原因というわけでもありませんが、自分の自己肯定や承認欲求の問題を持ってはいないか一度点検してみるといいかもしれないです。
それがあることが悪いわけでないけれど、それに飲まれて子供への支配に駆り立てられてしまうと、その問題が解決するどころか逆にいってしまうからです。
| 2019-02-19 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「命をいただく」という一般に流布する言葉 vol.2 - 2019.02.16 Sat
◆モラルを押しつけによって内在化させることはできない
では、「食べ物を残さない」とか「お箸を正しく持つ」といった規範をどうしたら子供に持たせられるのかについて考えてみましょう。
その前に少し想像してもらいたいのですが、あなたがどこかに監禁されて怖い顔をした人から脅されて、なにかの承諾書や借用証書などにサインさせられたとしたら、それは自発的にしたものと言えるでしょうか?
まあ、当然ながらそうはならないですよね。
少しオーバーな例えではありますが、大人に小言を言われながら苦手なものを食べたり、「食べないと○○してあげないよ」と脅されて食べることも、上の例と大同小異です。このとき注意点は、「食べられたらデザートあげるわよ」などと優しく言ったとしてもそれは本質的に変わらないということです。
子供の本当の成長というのは、主体的、自発的成長であることを意味します。
大人にさせられることがなんでも即悪いというわけでもありませんが、必ずしもその子の身になっているとは限りません。
前回の記事で挙げた自身も偏食なのに厳しい保育士が、まさにそのケースだといえるでしょう。
モラルを外在化してはいるけど、自分の身に(内在化)はなっていない。
そして、その自身に対するたくさんの否定の中で作られた外在化しているモラルに自分自身が振り回されている。
これは生きにくい状態と言えます。
◆過干渉や支配にならずに規範を持たせるには
ちなみに、うちの子には「残してはならない」といったことを求めたことはありませんが、特別な理由のない限り残さない子になっています。
・親自身の行動
・信頼関係による規範の自然な伝達
そうなっていることの背景にはおそらくこのふたつがあるでしょう。
ひとつは、親自身がその子供に望むことを実践していること。
「食べ物を大事にしなさい」という人自身が、食べ物を粗末にする行動をとり、それを子供が見ていたとしたら、その大人が要求する規範は空白化しますし、なによりそのような大人に対する信頼感を子供は厚くできません。
もうひとつは、子供は信頼する大人を肯定し、寄り添うように成長していく子供の育ちのメカニズムがあります。
「食べさせようとする」「残させまいとする」といった、大人望む行動を子供に作り出そうとする過干渉な行為をしなくとも、普通の生活の中で
・子供がこぼしたときに「気をつけて下さいね」と言う
・ご飯粒や食べ物のかけらが残っているまま、食事を終わりにしようとしているときなどに、「まだそこにくっついていますよ」と気づかせる
こういった、日常の関わりの中からだけでも、子供は食べ物を大切にすることや、食事のマナーに気をつけることなどを自然と理解していきます。
もし、大人が心に思うことがあって「私は食べ物を大事にすることが大切だと思っているんだよ」と口にすることがあってもいいでしょう。
でも、それと残さず食べることを強要するのとは別の問題です。
この違いわかりますか。
大人が大事に思うことを、表明したり伝えることは自体は過干渉ではありません。(ひんぱんに言うのであれば過干渉だが)
でも、それを子供にムリに要求していくのは、過干渉~支配へとグラデーションで移り変わっていきます。
また、他のところで支配や過干渉の関わりをたくさん積み重ねている場合、この大人の持っている規範が自然と伝わることは減ってしまいます。
できれば子育ての早い段階から、過干渉や支配の関わりにならないクセを大人がつけていた方がムリのない子育てになりやすいです。
このことはたまたまうちの子だからできているというわけではなく、保育園で保育している子でも、そのように信頼関係で関わっていくことで自然と規範を備えていくことを確認しています。
◆イライラポイントとしての食事
そうはいっても、そのようにあっけらかんと子供が規範に不適合な姿を許容していくことができないという人もいることでしょう。
僕自身も過去にそうでした。
子供が食事をこぼしたり、食器を倒したり、そういった姿に接すると自分でも制御できないような怒りや感情の動きがありました。
ただ、僕は保育という仕事の中でそれを繰り返し経験したので、そのときの自分をコントロールするすべを身につけることができました。
実際に家庭で子育てしている人にとって、そのような経験値を積むことはできないでしょうから、以下の方法を試してみることを提案します。
a,食事以前のところで過干渉のクセを軽減しておく(広く意識を持つ)
b,心の焦点をあえてずらしておく
c,それが本当に困ることなのか考えてみる
d,6秒待つ
a,食事以前のところで過干渉のクセを軽減しておく
普段から子供に過干渉が常態となっていると、子供の一挙手一投足により自分の感情が左右されやすくなってしまいます。
だから、食事の時とてもイライラしてしまう人は、それ以前、それ以外の場所でも過干渉、子供から過剰に目が離せない状態になっている人が多いです。
食事は、どうしても子供へより注目がいってしまうときなので、食事面で過干渉を避けようと思っても難しいです。だから、それ以外のところから過干渉になりすぎない意識を持つといいでしょう。
そのためには例えばこんな方法があります。
子供以外のところにも意識を向けてみます。
子供が遊んでいるとき、窓の外を眺めて、「ああ、空がきれいだなぁ」と思ってみるなど。
僕がおすすめなのは、子供と過ごすときはゆっくりしゃべるのを意識しておくことです。
注意したりするときにではなく、過ごすとき普段からゆっくりしゃべるようにします。
過干渉が強い人は、大人を相手にするよりも子供に話すときの方が早口なんていう人もいます。普段がこうだと、子供は過干渉の負荷から逃れるために、大人をスルーするクセがつくのでいろいろ難しくなってしまいます。
子供といるときは、まずは演技でもいいからゆっくりの自分を演出してみる。慣れてくるとあまり意識せずともできるようになる場合もあります。
大人の個性よってはムリなこともあるので、そういうときは↓
b,心の焦点をあえてずらしておく
上の「空がきれいだなぁ」のミニマム版です。
例えば、それが食事の時ならば、子供の一挙手一投足を見続けるのではなく、少し気持ちの焦点をずらしたところに意識をおいておくのです。
「そういえば、この前のドラマはおもしろかったな~」
「あ~、どら焼き食べたいな~」
など。
こうしておくと、例えば子供がお茶をこぼしてしまったときなど、「あ~どら焼き食べたいな~」のリズムで、「あ~こぼしちゃったのね~」と流しやすくなります。
本当に子育てがしんどくなってしまう人の中には、「私がこの子をしっかりと責任持って育てなければならない」といった自分へのプレッシャーが強すぎて、過干渉になりガミガミ怒ったり、手をあげてしまったりになり、自己嫌悪から子供に向き合うこと、関わることが辛くなってしまう人もいます。
心の焦点から子供を外しておくことが、子供にとっても大人にとってもいい場合があります。
c,それが本当に困ることなのか考えてみる
「も~~、あなたはいつもお茶をこぼしてっ!私いつも気をつけなさいっていっているでしょ!」
といった感情の高ぶりに直面してしまうとき、20歳になってもこの子がそれと同じことをしているかどうかを少し想像してみて下さい。
ほとんどのケースにおいて、それが想像できないはずです。
・あなたははたちになってもまだおむつしているの!
・あなたははたちになってもまだお箸つかえないの!
・あなたははたちになってもまだお味噌汁こぼしているの!
といった状況は想像できないでしょ。
目の前の子供のできないことや、ミステイクは長い人生の中では誤差にすらならないほどの小さなことでしかありません。
今日、今、というスパンで考えた場合は大事になるのですが、目先のできるできない、ミス、といったことは実は子供の長い成長からはそんなに問題ではないのです。
d,6秒待つ
怒りのコントロールでいわれることです。
手をグーにして、深呼吸しながら6秒待つ、すると一時の怒りの多くがしずまると言われています。
| 2019-02-16 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
「命をいただく」という一般に流布する言葉 - 2019.02.15 Fri
この言葉はバイアス中のバイアスと言っても良いでしょう。
「食べ物を大切にする」というのは、道徳的に正しいことです。つまりモラルです。
モラルであるがゆえに「正義」になりえます。
しかし、それだからこそ子育ての大きな落とし穴になります。
子育ては一歩間違えるとモラハラになります。
モラハラっぽくなるのではなく、モラハラそのものになります。
特に、日本では、個性、個人の尊重の文化的背景が希薄なので、ものごとの画一的な押しつけに歯止めをきかせることが難しく、それが顕著になります。
例えば、保育園、幼稚園、学校などで行われる不適切行為の多くが、このモラルを振りかざして行われています。
ある幼稚園では、子供に給食を残させない方針から子供に無理矢理食べさせ、それで嘔吐した子に対して、その吐瀉物を食べさせるという行為が行われました。
これは、自尊心を傷つける行為であり、精神的虐待そのものです。
(本日ニュースになっている、このケースで吐いたものを食べさせています↓
園児に「バカ」「ブタ」、押し入れに閉じ込め…保育園で暴言・体罰13件 福岡市が改善勧告)
その幼稚園教諭からすれば、子供に食べ物を残させないというモラル=正義があります。
ゆえに、悪意なくそのような不適切行為が起こっています。
これは異常なことです。
ゆえに、もっともらしいモラル=正義こそ、鵜呑みにするのではなく適切な運用を心がける必要があることがわかります。
しかし、多くの人にとってこういったモラルは、足を止めて考えることなく、「当然のこと」というところから始まってしまうので、バイアスとなってしまいます。
◆
モラルというのは、一見客観的な正しいことのように感じられますが、実は非常に主観的にしか運用され得ません。
ここで、バイアスを解くために、ひとつの考え方のロールモデルを示してみます。
「命を頂くのだからいただきますという言葉を言うのだ」という風に一般では言われ、多くの人がそれを認識していることでしょう。
さて、「マグロの解体ショー」なるものが、最近ではもてはやされています。
「マグロの解体ショー」は、「命を大切に感謝していただく」「食べ物を大切に」というモラルと矛盾してはいないでしょうか?
「命を頂くのだから食べ物を残してはいけない」というモラリスティックな言葉はたくさん耳にしますが、「命を頂いているのにそれを面白がってショーにするのは不道徳だ」という批判や、疑問の声が上がっているのを僕は聞いたことがありません。
これは考え方のロールモデルを理解する思考実験なので、マグロの解体ショーが道徳的に適切かどうかというのは、ここでは問題ではありません。
ここで気づいて欲しいのは、モラルというものは存外、主観的にしか運用されていないということです。
つまり、モラルは自分の都合の良いときだけ出すことでき、しかもその程度の解釈も勝手にできてしまうものであるわけです。
だから、保育や教育の現場でモラルをもてはやすと、そこの権力者である大人によって不適切運用も簡単になされてしまうわけです。
不適切運用の実態は、「支配の関わり」です。
「モラル」が他者に対する支配の道具になるわけです。
家庭の子育てで考えてみれば、そのバイアスに流されてしまえば子育てがいつのまにか単なるモラルハラスメントになる可能性を常に持っていると言えます。
◆モラハラはモラハラ体質を生む
ある保育士のケースです。
その保育士は、園児に対して食事指導が非常に厳しかったです。
冷たく嫌みな言い方をしたり、ヒステリックに怒ったり、食べないと戸外遊びをさせないと脅したり疎外したり。
あまりに感情的になっておりその本人も苦しそうなので、同僚が見かねて「そういうあなたは好き嫌いないの?」と聞くと、実はいろいろ苦手な食べ物があるとのこと。
厳しい食事指導は、自分自身が過去に家庭や幼稚園、学校でされたものであったことなどが本人の口から話されました。
つまり、その人は自分がされたことを今度は立場を変えて自分が子供たちにしているということです。
しかし、それも変な話なのです。
というのも、その人はそういった厳しい関わり方をされても、その人の偏食という問題は解決しなかったわけですが、その解決しない方法を繰り返していることがです。
しかし、当人はそのようにそういった手法で関わられても効果がなかったのだという客観的な見方はできません。
なぜなら、そのように考えるのではなく「できない自分がダメなのだ」という自己否定のメンタルとして理解、吸収されているからです。
つまり、単に一時の食の個性という子供時代の問題が、周囲の大人によって人格上の問題として副次的にもたらされてしまっています。
その人が、自分のされた嫌だった行為を繰り返してしまう理由は、そうしたモラハラ行為により自分自身の自尊心が傷を負っていることとも関係があります。
人は、心に傷を負うとなんらかの方法でそれを修復します。
良い形で修復される場合もありますが、おちいりやすいのは自分のされた行為を他者にすることです。
それにより自分の心の傷は一瞬なだめられます。しかし、本質的には解決されません。
それをしたところで自身の持つ自己肯定の低さや自尊感情の問題は改善されないからです。
これを長年続けてしまうと、それが体質化してモラハラ体質の人格へと派生してしまうことがあります。
子供に対する職場は、これが引き起こされやすいところでもあります。
◆家庭の子育てでは
子育てはモラハラそのものになると最初に述べました。
親としては一生懸命子育てしているつもりでも、そのやっていることの中身がモラハラの蓄積だとしたら、子供はどのようになるでしょうか。(ただしこれには程度やバランスの要素があり、必ずしもそれが直ちに問題化するわけではありません)
ひとつの方向としては萎縮が挙げられます。
自尊感情や、自己肯定、自己表現、自己決定が減少したり、できなくなったり。
もうひとつのは、他者にされたことを繰り返す方向です。
意地悪な行為や、いわゆる「いじめ」へとつながります。
「いじめ」はなんらかの理由をつけて、特定の子の自尊心を傷つけたり、疎外したり、攻撃する行為です。
このなんらかの理由は、しばしばモラルなのです。
「○○のせいで、自分の班は先生に怒られた」
「○○は不潔だ」
「○○はいつも物忘れをして迷惑をかける」
などなど。
モラルは主観による運用が可能なので、理由はどこにでもつけられます。
大人でも、例えば議論の旗色が悪くなると、「そのいい方は失礼だ」などとモラルの話にすり替えてマウントを取ろうとする人もいますね。
子供たちは、自分がされたモラハラから、心のバランスを取るためにいじめへと向かわされてしまいます。
いじめが問題となることの背景には、日本の子育てにモラハラが多いという事実のあることを僕は指摘します。
「当たり前」「正しいこと」「モラル」「道徳」
こういったことを根拠に子供への関わりをするとき、大人はよくよく気をつけないとそれらはそのままバイアスとなり、子供にも大人にとっても子育てを辛いものにしてしまいかねません。
特に「ネガティブとみえる個性を持っている子」(例:少食、偏食、人見知り、引っ込み思案、話すこと、対人関係が苦手など)の場合、それはさらに顕著になります。
づづく。
| 2019-02-15 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
長ネギの味噌汁にみる子供の成長 - 2019.02.14 Thu
ふと気づいたのだけど、昨日長ネギの味噌汁を作ったときは、子供たちはそれをせず全部自分で食べてる。
僕はこれが子供の成長と言うものだと思う。
僕は食べ物の好き嫌いを「どうでもいい」と思ってる。
「どうでもいい」というと、投げやりなように聞こえてしまうけれども、そういう意味ではなく、
次のことを知識と経験から体得しているから、「好き嫌いがあってはいけない」とか「食べ物を残してはいけない」といったバイアスに束縛されない価値観の自由を持っているというのが正確かな。
・子供の現在の成長の姿は確定した未来ではない
・子供の「できること」は変動する
・「できる」到達点の達成には時間の経過が不可欠
・子供には敏感さがあり大人は認識しない辛みなどを感じる
・無理矢理食べさせることは、子供の主体的成長とは別のなにか
・無理矢理食べさせることは、大人の自己満足を満たす効果はある
保育研修などでは、こういった知見の上に「信じて待つ」ことが大事と伝えるのだけど。
実際に僕が体得しているのは、「信じて待つ」というように力の入ったものではなくて、その先にあるもっと力の抜けた
「子供はたいていのことはできるようになるし、将来になってできなかったとしてもそれがどうしても困ることでなければ個性の範囲。だから子供の一挙手一投足を気にしない」
という理解の境地。
あっけらかんとした、「どうでもいい」。
◆
態度としては
「否定も肯定もしない態度」
この場合の「否定」というのは、ネギを食べないという行為を否定して、そこを責めたり、または食べさせようと躍起になったりすること。
これには、強いアプローチだけではなく優しくおだてて食べるようにうながすのも「否定の行為」として含まれる。
「肯定」というのは、「あなたはネギ食べられないよね」と、大人が積極的にそれを肯定して、最初から取り除いたりその状態を過保護してしまう態度。
なぜそれをしないかというと、そこには「できない状態の決めつけ」が存在するから。
子供の力や成長の伸びしろを信じない行為になってしまう。
だから、飲食店などで「お子様のネギは抜きますか?」(近所のラーメン屋さんで子供サイズのラーメンを注文するとこれをされる)と聞かれても、大人が答えずに子供本人に「どうしますか?」と決めさせるようにしていた。
否定でも肯定でもないニュートラルさ。
これが「あっけらかん」という形容の意味。
◆
「○○しなければならない」
などの、価値観のバイアスにしばられていないと子育てはラク。
子供にはたくさんの自分で育つ力があるのだもの。
でも、今の子育てを取り巻く状況や、親になる人たちの育ってきた環境などがそれを難しくしているのは理解できるのだけどね。
| 2019-02-14 | 我が家の子育て日記 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
0歳からの自己肯定感の高め方(後編) ベビーカレンダーコラム3 - 2019.02.07 Thu
文中のここ
>何かができたときのご褒美としてあるわけでも、なにかをさせるための報酬としてあるわけでもなく、なにも見返りを求めないプレゼントとして肯定を子どもに届けていきます。
言い換えると、自分にも子供にもウソのない状態と言えるかな。
この「自分にも子供にもウソのない状態」はどこかで書こう。
頑張ったあげくや、良かれと思ってその状態にはまってしまい子育てが難しくなってしまう人はおおいからね。
でも、こういうのって心持ちの問題だから、字で表すのが難しいんだよね。
| 2019-02-07 | 雑誌・メディア | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
保育無償化について - 2019.02.04 Mon
税金というのは、再分配が大切なわけです。どう使うかですね。
この話で多くの人が真っ先に感じるであろうことは、「え、そこにお金使うの?」ではないかと思います。
いまの時期ちょうど保育園の入所の決定がでている頃ですが、保育園に入れずこのままで仕事を続けられないという声がたくさん上がっています。
保育園に入れた人にとっては、無償化の恩恵はそれはないわけではありませんが、本当に困っているのは入れない人です。
保育無償化という話は、保護者の方をも向いていないのです。
そもそも、すでに保育施設は所得に応じての保育料のスライド制などもあり、法外な値段を取っているわけではありません。
保育無償化が悪いわけではありませんが、お金をかける順序が違うでしょという話になります。。
必要とする人が、一定以上の質の保育を受けることができて、そこで働く人が安定でき、その上で保育無償化の話がでてくるべきなのは明らかです。
まずは、保育施設を増やすこと。
なり手がいなくて施設を増やせない問題に対しては、保育従事者の賃金を上げること。
これに関しては社会問題として一般の人にも広く知られています。
保育士の給与を上げれば、保育施設も増やせるというのはわかりきった理屈です。
この保育無償化という税金の使い方は、子供、保護者、そこで働く人、この三者どの方向も向いていません。
では、どこを見ているのか?
実のところ、これがいまの保育行政の問題の本丸だと思うのです。
直接、保育無償化の話とつながっていませんが、可視化しやすいのでこちらの記事を見て下さい。
USJ年間パス、帰省費を補助…保育士不足に大阪市が奇策
これ。大阪市の施策です。
このテーマパークのチケットを保育者に配るという話。なんかいろいろ変でしょう?
つっこみどころはたくさんあるのだけど、ある一点に着目してこの問題を見て下さい。
それは、お金(税金)がどこに流れているかです。
お金の流れだけ見たとき、保育を充実させようという意味合いで支出されている税金ですが、そのテーマパークというある特定の私企業に流れているのがわかります。
この構造。
これが保育無償化のからくりにも同じようにあります。
かつて保育施設が規制緩和されて民間企業の参入ができなかった頃。
社会福祉法人などの団体が、設置運営をしていました。
地域に密着しており、多くが一箇所もしくは少数のいくつかの施設経営を行い、多数の施設を抱えているところは必ずしも多くありませんでした。
営利化以降、そういった業界のモデル自体が大きく変わります。
ひとつの会社がたくさんの施設を経営するようになりました。
社福が数園を経営する上では、保育無償化というのはさしたる影響はありませんが、これが複数園を経営する大企業ともなると、大きなお金の流れとなります。
厚労省の諮問委員会に加わっている事業当事者や、ロビー活動をしている人たちが、自分たちに都合の良い税金の流れの仕組みを作り、そこで利益を大きくする状態がすでに起こっています。中にはどこぞの私人の夫人と仲良しになっている企業もあります。
派遣法の改正においてパソナの竹中平蔵がしたことと、ほとんど同じようなことが今度は保育に舞台を変えて起こっているといえるでしょう。
いまの日本社会のようなモノの売れない時代において、税金から助成金や補助金が出る仕組みを持っている福祉の世界は企業にとってたいへんうまみのあるところです。
保育の質や、子供の育成という社会的な視点をもった企業では、一施設の受託人数をあまり大きくしないようにしたり、施設数の急速な増大も慎重に考えているところもあります。また、そういったところは研修などにも力を入れています。
保育施設を経営する民間企業の全部がよくないわけではありませんが、大手の中にはそのような補助金ビジネスになっているところがあります。
今回の保育無償化の施策は、こういった企業を潤すために存在していると言えます。
このような仕組みを国が進んで作っている以上、保育業界の質はむしろどんどん下がっていくことでしょう。
| 2019-02-04 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
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