◆スマートなコントロールの典型 おしゃれな子供だまし
「オニが来るから○○しなさい」
「○○しないと~~してあげないよ」
これらはいかにも露骨な子供だましで、スマートではない。
またもちろん、ぐちぐち小言を言ったり、イライラして叱ったり怒ったりするのもスマートではなくてかっこよくは見えない。まあ、言ってみれば泥臭い現実の子育て。
これに対して、この方の言うところのユーモアをまじえて「元気なキャベツ!」に言い換えたら、そして、それで子供が思い通り動いたら・・・・・・。
関わりの構造としてみたとき、スマートなだけで本質は上の関わりと大差はない。
そこにあるのは、子供をスマートにコントロールできるという、「そっちの方が子供の対応がラクそう」という感覚と、あともうひとつ。
行間の空気としてしか存在していないので意識しないと見えないのだけど、それを読む側がそういったスマートな子育てをしている自己イメージの投影ができるという、ある種の「キラキラした自分」への期待。「わ~素敵。こういう子育てしてみたい」という層への受けを計算して狙っている感。
じゃあ、実際に子育ての当事者がこういったことをできるかというと、この筆者の経験は、幼稚園教諭として仕事の上で預かった子供に対してしていたというもの。
子育ての当事者は、そういった一歩引いたところから子供に関わる余裕がそもそも多くはない。
記事の文末に「余裕がないことをいいわけにしない」と述べているけれども、子育て当事者は必ずしもいいわけにしているのではなく文字通り「余裕がない」というのも現実。
その箇所からわかるように、この筆者は結局のところ、親に「求めて」しまっている。
このスタンスから発される子育てにまつわる話は、おしなべて親を消耗へと引き込む。
また、子供のタイプによってもこういうアプローチは通じたり通じなかったりがある。
状況によっても、例えばそれ以前が慢性的な過干渉をしていたりすれば、これをいくら努力しても通じなくなっているといったこともある。
幼い内は通じても、年齢が上がるにつれて通じなくもなる。
最初の数回はこれで通じても、子供が慣れてくると通用しなくなる。
子供はバカではない。自分がコントロールされていることを感じ取れば、その手には乗らなくなる。
そして、こういった手が通じない現実にあたったとき親はどうなるだろうか。
真面目にこういった話を真に受けて頑張ってしまう人ほど、それが通じない現実にあたって「私はダメなんだ」と自身をなくしたり、自己否定の気持ちを引き起こさせてしまう。
◆「子供の尊重」概念理解の不十分さ
この方は子育ての専門家と言う触れ込みで、大学院に行って学位もとっているとのこと。
だからこそ余計に気になるのだが、「子供」概念の理解が素人の域を出ていないことが大変残念。
「子供を一人の人格と見なす」のではなく、「子供はコントロールできる(する)もの」という認識に立っている。つまり子供を低く見ている。
子供や保育について専門的に学んだのであればそれはお粗末だと思うのだが、しかし正直なところあまり驚かない。なぜなら、保育関連の大学教授などでも、こういった「スマートなコントロール」を我が物顔で提唱している人はいるから。
世の中に、子供の自主性・主体性について口にする人はたくさんいるけれども、子供についての概念理解が「子供はコントロールできるもの」というスタンスの人で、実践レベルで自主性・主体性を理解し行っていることはない。
◆派生する第二の問題 依存
では、こういったスマートなコントロールが功を奏して、子育ての中でこれを数多く積み重ねていったとしよう。
数年後子供はどうなっているか?
子供の自立が進みコントロールが簡単でなくなったとき、子供は大人の望まない行動を自律的に止められない姿を出すようになる。
一方で、それまで大人にコントロールされることで自分の行動や気持ちがスムーズにいっていたことから、大人への依存が高まった状態になっている。
大人は、あるときこのふたつの相反する問題が同時に吹き出る瞬間に直面することになる。
依存が強く、なおかつ自律的に行動や感情を自分で掌握できない子供の対応はとてもしんどい。それがたとえどんなにかわいい我が子であれ。
◆隠れた問題 背景にある自己承認
最近、こうしたキラキラした自分につながるキラキラした子育て法や、キラキラしたライフスタイルの提案のようなものが人気があるように見える。
子育て関連でも、相当に容姿を意識した女性講師によるキラキラしたスマートな子育て講座のようなものがある。
実際にそれらのニーズも少なくないようだ。
ここには、子育てする人の自己承認、承認欲求の問題が隠れているような気がする。
それがよくないという意味ではない。
それらの意味するところが実のところ子育ての孤立や、不安の裏返しである可能性があるのではと考えられるからだ。
だから、問題の本質は、ムリのない人とのつながりの欠如、僕の視点から言えば子育ての支援の不備にこそあるのではないかと思う。
逆に言うと、子育てに不安がなくて、ムリなく関われる人間関係があるとき、さほどキラキラした子育て、キラキラした自分を求めずに済むだろう。
そうやってみると、「キラキラを求めてしまう心の負荷」のような相反するものが隠れているではないかと心配になる。
ただ、キラキラは感性に訴えかけられるのでお金儲けはしやすいのだろう。ある意味ではそれが堂々とできるのは才能だ。僕ももっと見習った方がいいのかもしれない。