・ケース1
2歳児クラス。子供の主体性を尊重するため、毎日の食事の席は子供たちの自由に選ばせている。例えば、こういった保育実践がある。
一面的に見ると、この保育上のアプローチは子供の主体性を重んじているように見える。
しかし、これは専門性を欠く対応である。
・子供がしたいことを聞き入れること、つまり「自由意思」が主体性であると理解している(主体性の誤解)
・保育上の配慮は子供の自由意思よりも優先される
もし、子供がなんらかの大きな危険が予測されることをやりたいといった場合、大人はそれを許可しないだろう。例えば歩道橋の欄干の上に登ってそこを歩きたいと子供が言ったからといって、「子供がやりたがっているのだから尊重してあげなければ」などと考えることはないだろう。
危険こそないが、保育上の配慮すべき箇所においては、それと同様のことが言える。
食事というのは、生活上の重要なものであり、食事の習慣、食の文化、またそこでの他者との関わり、大人との信頼関係の構築など、保育の中でももっとも大きな柱のひとつといっても過言ではない。健康状態とも大きく関わっているものでもある。
カリキュラムの中でも、食事に関しては大きなスペースを割いて配慮を考えていることだろう。
2歳という年齢では、個別に大きな配慮が必要とされる。
特に見守りが必要な子、介助が必要な子、安定した環境に配慮しなければならない子、アレルギーの対応が必要な子。さまざまな保育上の配慮が必要な段階で、それを年齢が大きくなる前のできるだけ早い段階だからこそ、細やかに対応してあげなければならない。
「好きな席に座っていいですよ」
というのは、子供の自由意思を尊重しており、現代的な保育をしているように一見見える。しかし、こうした成長発達に関わり、保育上の配慮が必要なところでわざわざそれを後退させるようなことを子供に提供していくのは、保育における大切なことを見誤っていると言える。
このケースで見られる誤解が、主体性について多く見られる誤解である。
子供が望んだことをさせる = 子供の主体性
このように理解している保育者が多く、これが主体的保育の理解の妨げとなってしまっている。
◆主体性の二面性
ここまで読んで、おそらく多くの保育者が「あれ、そうだったっけ」となにかもやもやすることだろう。
そう、確かにそうした子供の自由意思を許容することが主体性であるといった表現は、保育所保育指針の中にもある。特に前回の改訂で大きく変わった現行の保育所保育指針は、よりそうしたニュアンスが強くなっている。
だから、現場の人間としても大きく混乱することだろう。
そこで、もう少し主体性という概念について深く見ていく。
・ケース2
幼児年長クラス。夏祭りの行事で行いたいものを子供たちに出させ、その中から話し合って決める。それをした結果、縁日ごっこ、おばけ屋敷に決まった。この対応もケース1と同様、子供の自由意思の尊重というレベルでの主体性の理解である。
これらはつまり「子供の活動における主体性」として、この主体性という言葉が理解されている。
「活動における主体性」も、確かに「主体性」ではある。
おそらく多くの人が学校教育の中などで自身がなされた主体性の尊重というのも、こうした「自分で行動を決める」といった、意思決定の意味でだろう。だから、主体性というのをこうしたものと理解してしまうのはよくわかる。
しかし、保育者が理解しなければならないのは、保育における主体性は、ここで終わるものではないということ。
実はこの奥にもうひとつ子供の主体性が隠れており、そちらの方が保育にとってはるかに重要である。
子供の自由意思の尊重=子供の主体性の尊重 という理解は、これは子育てや保育の専門家でなくとも誰しもができる。
そしてまた、ケース1で見られたように、このレベルでの理解は誤解を生む。
ケース1では、意思の尊重ということにとらわれるあまり、保育でより必要である保育上の配慮が全うされえない状況を保育者が進んで作り出してしまっていた。
一般の人の子育てにおいても、子供の意思を尊重しなければという思いからのアプローチが、しばしば子供の依存を助長したり、適切な生活習慣の獲得を混乱させてしまったりすることが多く見られる。
では、もうひとつ奥に隠れている主体性とはなんであろうか。
それは、子供の主体的行動と主体的成長である。
1,子供の自由意思の尊重としての主体性(上ですでに述べた部分)
2,子供の主体的行動および主体的成長
1,のレベルであれば、これは一般の人でも理解している。しかし、ここまでの理解で終わってしまうとそれはしばしば誤解を生み、保育の方向を見誤ることも起こってしまう。
保育者は2,までの理解を深め、それの実践を普段の何気ないところからできるようになることで、より専門性の高い保育とする必要がある。
もっと言えば、日本の保育においてはこの理解、実践が進まないために保育の進歩が遅れた状態となっていると言ってもよい。
◆実際の保育現場で起こっていること
2,を詳しく見ていく前に、現状の保育現場で起こっていることを伝えたい。
子供の自主性・主体性を重んじていると明確に打ち出し、それを特色として保育をしているところが近年多くなっている。最近の保育の潮流としても、個々の自己表現を重んじる保育アプローチなどに注目も集まっているために、よりこれらは顕著である。
もちろん、それらはいいことだ。
だが、これらはその多くが1,のレベルの自主性・主体性の理解に終始しており、活動面での自主性・主体性の尊重でしかない。
2,のレベルの理解もあり、そこにも配慮がなされているのであればそれは申し分ない。
しかし、そこまで到達しているところはまれだ。
その同じ施設の、乳児クラス(0~2歳クラス)を見てみるとそれが顕著にわかる。
例えば、少し前に書いた
『乳児保育の不備と物理的管理の悪循環 』であったように物理的に子供を管理するような保育が行われていたりする。
こうしたことが行われるのは、子供の主体的成長が理解されていないため。
その子その子に必要なものを配慮、獲得させていくことで必要な成長をうながしていけばいい。しかし、そうした方向性またその方法がわからないために、物理的に管理してしまうということが起こっている。
0歳児クラスなどを見ると、やたらとおんぶや抱っこを多用しているところもある。
個々の状況によりそれが必要な場面もあるかもしれないが、多用しているところはやはりこの主体的成長の理解がなされていない。
本来のここにおける主体的成長とは、
0歳児が安心で安定した環境におり、泣いたりぐずらないで過ごせるところに持っていくことである。そのためにさまざまな環境上、対応上の配慮を保育者は考える必要がある。
◆子供の主体的成長の理解
しかし、主体的成長の理解がないと、「泣いているのだから抱っこしてあげる」「ごねてばかりだからおんぶひもでずっと背中にくっつけておく」と、こうした保育が導き出されてしまう。また、その当事者たちは、そうした手厚い(一見そう見える)関わりが「よい保育」に感じられてしまう。
これは、子供の根っこにアプローチするのではなく、対症療法的に今出ている問題を後手後手に対応しているだけであり、専門性が高いとは言えない。
・この子はどうして泣くのか?
・どうすれば泣かずに過ごせるか?
・ではそれに対する配慮として。担当保育者との信頼関係、安心関係の構築。その子が遊び込める遊具の設定などを試行錯誤してみる
このように、「泣き止ませる」のではなく、「その子自身が泣かなくても過ごせるところに持っていく」、これが主体的成長である。
×泣き止ませる(子供の姿を作る)
○その子自身が泣かないで過ごせるようにしていく(主体的成長)
これを文章として言い換えると、次のようになる。
「保育者は子供の姿(結果)を作り出すのではなく、子供自身を伸ばし子供が自分でそこに到達できるように配慮していく」(作るではなく伸ばす)
ここでもう一度、0歳クラスにおけるおんぶの多用を考えてみよう。
子供が泣き、ぐずる、それが激しいのでおんぶや抱っこで過ごすことで泣かないようにする。(子供の姿を作り出す対応)
個々の子供により、どうしてもそれが必要なケースもあるだろう。ならば、先々には自分で主体的に泣かずに過ごすという方向性を見失わない状態で、意図的に配慮としてそうした対応をすることは否定しない。これを僕は「過渡的配慮」と呼ぶ。
しかし、そこでの配慮のあるものと、ただ「泣いているからおんぶしなければ」という意味でするそれは、保育の専門性から見ると大変大きなへだたりがある。
日本の子育て、保育はこれまで精神論や情緒論で整備されてきているきらいがあるので、子供のネガティブに見える状態を「解決してあげる」ことがよい関わりだという感覚でいる人は多い。
この「解決してあげる」という言葉をよく見て欲しい。
「○○してあげる」
・(大人が)泣き止ませてあげる
・(大人が)食べさせてあげる
・(大人が)寝かせてあげる
こうしたスタンスが保育になりやすい傾向を、もともと日本の子育ての感覚は持っているのだ。この要素があることで、保育者は余計に子供の主体性の理解が混乱させられてしまう。
保育者が本当に子供に配慮すべきなのは、
・(自分で)泣かずに過ごせる
・(自分で)食べる
・(自分で)寝る
括弧内に主語を補った。
ここを見れば、主体性ということがより明確に見えてくるだろう。
前者は、一見親切なように見える。しかし、それは主体性の理解を欠いた素人的な対応になってしまう。(過渡的配慮としてであれば別)
後者を見ると、なんだかぶっきらぼうな子供への関わりのように一見見える。
しかし、これらは緻密な配慮の上に、子供自身の主体的な成長として達成させるべきものと認識すれば、少しもおかしなことはない。(もちろん、これら子供が主語になっている行動を大人が疎外や放置を使って作り出すという意味ではない)
抱っこやおんぶをし続けて、泣かないようにしてあげることは、一見手厚い保育のように見える。しかし、本当に子供にプラスになるのは、その子自身が安心して泣かずに自分の活動をして過ごすこと。抱っこやおんぶの多用という親切に見える保育は、そうした専門的な配慮を欠いたところにある。
食べさせてあげることが必要な場面も、保育の中ではたくさんある。それが悪いといっているのではない。しかし、いつでも忘れてならないのは子供自身が、自分でそれをムリなくするところへと配慮していくこと。(この箇所を、子供に叱咤激励することで自分で食べられるようにすることだと理解してしまう人は誤解している。念のため)
子供が寝ないからと、トントンして寝かしつけてしまうことでそのクラスの1年間を終わってしまうようであれば、保育上の配慮が不足している。
それが必要なケース、個々はあるかもしれないが、目指すべき所は子供自身が自分からムリなく主体的に休息をするというところ。そのための配慮はなにかと保育者は考える必要がある。
このように、保育における主体性とは、
子供の主体的成長を本来のものとする。
子供の姿を大人が作り出すのではなく、さまざまな配慮により子供自身がその行動、その成長を遂げるところを目的とする。だから、子供の姿を作るのではなく、伸ばすと理解する必要がある。
◆主体的行動の理解とそれへの配慮
前項で見た、子供の主体的成長を達成するためには、子供の行動をいかに主体的にしていくかの理解と配慮が欠かせない。
例えば、0歳や1歳児の保育中、食事への導入をよく観察して欲しい。
このとき、子供が主体的に食卓に来たり、食事への意欲を持つようになっているだろうか。
食事までの流れが主体的に理解されており、子供がそれにのっとって安心してその過程を行っているか。または、そうした意識が形成されておらず保育者の指示待ちになっていないか。
子供を食事に呼ぶために、後ろから抱きかかえて食卓に連れてくるといった保育を目にすることがある。
こうした保育上のアプローチが生まれてしまうのは、子供の主体的行動という理解がなされていないために起こる。
子供を食事につかせようと思うあまり、無自覚に干渉することでそれを達成させようとしてしまっている。
専門的な保育として必要なのは、そのときの結果だけを作り出す(子供の行動を作る)ことではなく、成長としてそこで主体的な活動として行えることを日々配慮し積み重ねていくことである。
だから、この場面では大人が子供を追いかけ回して、抱き上げてイスに座らせるという方向の関わりをまずやめる必要がある。
大切なのは、子供が主体的に食事に興味を持ったり、生活の流れを把握してそれをだんだんと獲得、実践していくことである。
よって、まずは保育者はこの食事に入る段階から極力余裕を持って臨む必要がある。
時間が押していたり、保育者が気持ち的に余裕のない状況では、そうした導入部分での配慮が後手後手になってしまう。
タイムテーブルの整備や、保育者同士の連携等を合理化して、余裕を持って食事の準備をできるようにし、その上で保育者がおおらかに「○○さん、食事の準備ができましたよ」とおいかけまわすのではなく正面から顔を見て伝えたり、自身が食卓のそばにいる状態で呼びかける。
その上で、子供が主体的に食卓に着くのを待つ。
保育者はそれを許容的な姿勢で見守る。(例えば、自分から食事に意欲を見せたらそこに微笑むといった保育者の姿)
これを日々繰り返すことで、子供は主体的に食事に臨むことが習得され、ムリなく自分から出せるようになる。
食事は小さい子であっても、もっとも意欲を持って取り組みやすい生活の一過程である。
ここで主体性を尊重され、そうした行動の基礎が構築されることで、他の生活の行動にも自主的・主体的に取り組みやすくなる。
子供の主体的な行動をこれまで意識して保育したことがなかったという人は、まずこの食事の導入部分から子供が主体的に動くことを目指して欲しい。
保育者側の意識と配慮次第で、子供の姿は驚くほどに変わることだろう。
◆子供の尊重の理解と子供の主体性
0歳児クラスのように、食事に順番がある際。後半の子が待てずに困っているといったことがしばしばある。
待てないので人手を増やすことで、なんとかそうした子供の大変さを押さえる方向になってしまったり。(人手クレ保育)
待てないので、食べている子が視界に入らないように隠したり、食事スペースのしきりを厳重にすることで来られないようにしたり。(物理的管理)
こうした保育が導き出されてしまう背景にも、子供の主体的活動ということが理解されていない影響がある。
ここにあるアプローチの根っこは、「子供を待たせなければ」「待てるようにしてあげなければ」である。
子供自身の能力を信じて、「この子は適切に伝えて習慣化していけば待つことができる。だからその配慮をしていこう」という子供を信じる専門性に到達しておらず、「どうせこの子はまだ小さいから待てないよね。だから人手を増やすことで子供の行動に対処しなければ(物理的にコントロールしなければ)」という、子供に対する低い決めつけ(子供の尊重の未達成)がある。
子供自身を主体的な行動に取り組ませ、子供自身に主体的な成長を遂げさせるという視点がないと、こうした保育が必然的に起こってしまう。
そして、現状の保育施設の大半は、いまだにこれらの理解がなされていないところにある。
こうしたケースも、実は子供に主体的に食事に来る配慮をすることで、子供はその流れを把握し待つことがしやすくなる。
それまでのように、しきりがなければ本来順番でない子が入ってきて他児の食事をとって食べてしまったりということもなくなる。
子供の主体的行動が理解されていない人から子供のこの姿を見ると、「待てない」ということがクローズアップされて見えてしまう。
しかし、問題の根っこは待てないことではなく、主体的に食事に来るプロセスが確立していないために、いつどういう状況で食事ができるのかわからなくなっており、それゆえにその姿がでているのである。
子供の行動が思うようにならないと保育者が感じることのいくつかが、実は保育者側の配慮不足であることは少なくない。
◆まとめ
a,子供の自由意思を聞き入れることは、子供の活動における主体性。保育の中ではもっとも表面にある主体性にすぎない。
b,保育における主体性というとき、その本来の指し示すところは子供の主体的成長を育んでいくこと。
c,その主体的成長を育むためには、子供の主体的行動の理解とそれへの配慮をする必要がある。
このbとcを保育の中で達成することが、保育士のもっとも重要な専門性である。
今回、字数の関係で述べていないが、この本来の意味での主体的保育を実践するためには、子供の尊重概念の理解、保育者自身の持つ規範意識の理解と、子供が主体的に規範を獲得するメカニズムなど、その他さまざまな学びが必要になる。また、こうした子供の主体性を本当の意味で理解した保育を実践するためには、保育における受容と信頼関係の理解は欠かせない。それなしに、自主性・主体性の保育を理解しようと思ってもそれは徒労に終わってしまう。
保育者の意識的な配慮によって、子供がムリのない主体的な成長を見せてくれることは、保育の仕事としてもとてもやりがいがあり、また楽しいものとなる。
せっかく保育士になった方には、ぜひここまで習得して本当の保育のおもしろさを味わって欲しい。
こうした保育の専門性が学べる僕の研修が今年もあります。
保育の見えない部分を可視化することで、より実践的な保育につながることを目指します。
よろしければどうぞご参加下さい。
保育士おとーちゃんの事例研究会 2019