ココカラ↓
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子ども主体の保育を…ということで保育をしていますが、子ども主体といえどもどこまで尊重してよいのか。そのあたりの線引きが難しいとかんじることも場面によってありました。
食事は園庭遊びが終わり入室して着替えた子からおしぼりを取り好きな場所を選び、ちょうだい〜と子どもからの声があがったら保育士が配るような流れです。
テーブルに一人ずつ担任が着くようには配慮しますが、この頃食事が落ち着かないので、クラスで話し合ってみたところです。
子どもの成長や特徴によってグループを決めて、そこに大人が最初から一緒に着いて、食べるようにしようとなったのですが、今までは食べたい子どもから自由な席で食べるという保育だったのが急に決まったテーブルで食べるようになると、子どもたちは混乱しまいか? あの子と食べたい!という気持ちも出ているのでグループ分けはどうか?
など心配もあります。
やってみて状況に応じてまた変えてみてもいいのでは。と思ってますが、あまり流れを変えるのも。
とも思ってます。ココマデ↑
>子ども主体の保育を…ということで保育をしていますが、子ども主体といえどもどこまで尊重してよいのか。そのあたりの線引きが難しいとかんじることも場面によってありました。すでにお気づきのことと思いますが、これまで理解されていた「子供主体」というところが、該当記事で述べた「子供の自由意思の尊重」としての主体性で考えられていたのではないでしょうか。
「線引きが難しいと感じる」
とは、つまり子供の自由意思を聞き入れ続けると大人が我慢、辛抱を重ねなければならない点にたびたび直面するということだと思います。
すでに記事中で述べましたが、ここが子供の自由意思の尊重を「主体性」と理解してしまうことの落とし穴です。この理解は、一般の子育てする人がおちいるところと同じです。
僕としても、子供の自由意思を尊重することは必要だと考えています。
しかし、当然ながらそれがなんでも聞き入れなければならないというわけではありませんね。
そのことは、危険な行為をさせる大人はいないという話ですでに述べました。
それと同様のことが生活にはさまざまあります。
そこには「必要なこと」という大人側のスタンスによる、ここは大人が裁量するラインという揺るぎない筋の通ったところがあります。
例えば
・薬を飲む(健康のために必要)
・歯磨きをする(健康のために必要)
・お風呂に入る(清潔のために必要)
子供が嫌がったとしても、必要なのだからやりますというスタンスを大人がぶれずに持っていれば、子供はそれを必要と理解していきます。このとき、その大人との信頼関係がなければ、子供はそれを受け入れていきません。ですので、主体性を実践しようとするとき、何よりも大事なのはその前段階において受容と信頼関係の保育ができていることです。
それ以前の段階で子供に対する抑圧が多い環境であった場合も、子供はそれを受け入れることが難しくなります。
・家事をしているときに子供が遊びの相手をすることを求めてきた(生活のために必要)
子育てに一生懸命すぎてしまうお父さんお母さんなどは、このときあとで自分がムリをすればいいやと子供の要求を優先してしまうことがあります。
これは、子供の依存を助長し、子供が必要なことの理解をかえって混乱させてしまうのであとあと年齢が上がるにつれて大変さが増すことになってしまいます。
こういうときは、あっけらかんと「いまご飯作ってるからあそべませ~ん」とNOを伝え、子供がそこでごねたとしても葛藤させる必要があります。
さて、話を今回のケースに戻しましょう。
>そのあたりの線引きが難しいということですから、この「必要なこと」という理解を保育者の皆さんで考え理解していくといいでしょう。
また、そのぶれないラインのためには、もうひとつあります。
それが「私」です。
保育者が子供との間に信頼関係を適切に築いてきたのであれば、「それは私が困る」といったことをもちいても、子供にはそれが伝わります。
「自己犠牲をすることがよいことだ」という日本にありがちな子育て感覚でいると、なかなかこの「私」という嘘のないスタンスを出すことが難しくなってしまいます。
もちろん、それにより理不尽な要求をしては不適切ですが、例えば「いま食事に来てくれないと私が困ります」「そうされるのは私は嫌です」といった必要性を背後に置いた「私」であれば恐れる必要はありません。
このあたりを理解せずに、子供の自由意思の尊重が主体性なのだと短絡的に思ってしまうと、それは子供の依存の助長。いわゆる「わがままな子」を作り出すだけで終わってしまいかねません。そのため、こうしたぶれない大人のスタンスの理解は必須のことです。
◆食事への配慮
>食事は園庭遊びが終わり入室して着替えた子からおしぼりを取り好きな場所を選び、ちょうだい〜と子どもからの声があがったら保育士が配るような流れです。
テーブルに一人ずつ担任が着くようには配慮しますが、この頃食事が落ち着かないので、クラスで話し合ってみたところです。「食事の席を子供に自由に選ばせること」の合理的理由というのを考えてみます。
・自由意思の尊重という意味での主体性の発現を経験させたい
・楽しく食事をしてもらいたい
というのが、こうしたケースにおける多くあるところです。
ただ、この食事という場面では、保育上の配慮として保育者が子供に施したいさまざまな要素があり、それとその理由を天秤にかける必要があります。
2歳という発達年齢における食事の配慮は大変多く、正直なところ一部だけ見てもこの自由意思という観点がそれらよりも重んじられる必要が見いだせなくなります。
例えばごく一部あげても、「食事への集中」があります。
2歳児の食事への集中時間は大変短いです。
これを保育者は無駄にせず、極力その集中時間のなかで食への経験をムリなく培わせたいと考えます。
このとき保育者の配慮の上での、決まった場所で、決まった人間関係であれば、容易にそれが担保できますが、毎日どのように変わるかもわからないところでは、それが果たせません。
2歳という発達年齢では、注意の散漫さは当たり前のことです。場合によってはADDといった個性やそうした傾向がその年齢ゆえに出ているということも普通にあります。
こうした子にとっては、安定した環境でないことは大きな不利益となってしまいます。
このようにごく一部あげても、自由に席を選ぶ合理性が勝る理由は見当たらないのです。
さらに言えば、
>・自由意思の尊重という意味での主体性の発現を経験させたい
これは、食事以外の場でも発現させることができます、(例えば遊びの場面など)
食事の場面でも、苦手な食べ物を許容してもらうことなども、主体性の尊重となります。
>・楽しく食事をしてもらいたい
これに関しても、決まった席でもそれは可能です。
また、食事の配膳は子供が座る前になされておくことが基本です。
座ってから配膳という流れだと、子供は待つ時間が増えてしまいます。
このことは、集中時間の浪費と、待つことによる抑圧の発生により、食事の生活習慣の獲得から考えて不利益しか与えません。
もし、ここで集中時間の浪費をしないように生活を切り替えると、それは食事のみならず、その後の午睡時の安定につながります。
食への配慮が不十分だと、食での負荷が午睡にでてしまうケースは多いです。ですので、この食の配慮を改善することで、午睡時の保育者の負担が減り、保育士もラクになり生活の安定につながります。
ですので、食への配慮とともに、午睡も主体的に子供が「寝る」(「寝かせる」ではなく)ことも一緒に意識していくといいでしょう。
◆信頼関係により必要性を伝える
>子どもの成長や特徴によってグループを決めて、そこに大人が最初から一緒に着いて、食べるようにしようとなったのですが、今までは食べたい子どもから自由な席で食べるという保育だったのが急に決まったテーブルで食べるようになると、子どもたちは混乱しまいか? あの子と食べたい!という気持ちも出ているのでグループ分けはどうか?
など心配もあります。
子供と保育者の適切な信頼関係、人間関係が築けているのであれば、子供が混乱することはないと言えます。もしあったとしてもほんの短い間のことだけでしょう。
上の「必要なこと」を伝えた中で、保育者のぶれないスタンスについて触れましたが、もし、そうしたあたりのあり方がこれまであいまいだったとしたらそれは難しくなってしまうかもしれません。
>子どもたちは混乱しまいか? これが、子供にごねられたとき私たち保育士が対処する自信がないという意味であれば、それは子供の問題ではなく、保育者の姿勢や経験、研鑽の問題と言えます。
>あの子と食べたい!という気持ちも出ているのでグループ分けはどうか?「あの子と食べたい」という気持ちがありそれが問題ないのであれば、同じグループにしてあげればすむ話です。
もし、同じグループにすることで、食事に滞りがでてしまうことが考えられる状況ならば、それはこれまで自由に選ばせてきたことで生まれてしまった弊害の可能性がありますね。
であれば、それに向き合うことがしんどくても、いまからでもそれを是正していくことは保育士の責任でしょう。
その子たちの食事における発達が十分になされているのであれば、そうした希望を優先させてもいいかもしれません。
ですが、その子の友達はその子の食への配慮をしてくれるわけではありません。当然ながら、それは保育士の役目な訳です。
でしたら、それが天秤として釣り合うかどうかは、自明のことです。
◆家庭の延長としての保育施設
自由に選ぶ席 vs 決まった食事の席
この二項対立を、
主体性 vs 管理
の概念であると考えているのであれば、それは早計というものです。
食事の席を決めることは子供の管理ではありません。
まず文化としての側面があります。家庭でのあり方に思いをはせてみましょう。
おそらくほとんどの家庭で、個々の食事をとる場所は決まっていると思います。
保育施設は家庭の代替としてあるのですから、家庭に準じた形をとるのは少しもおかしなことはありません。
僕は、保育施設は楽しく刺激的なレジャーランドではなく、あたたかく安心できる家庭の延長としてあるべきだと考えます。(まあ個人的見解などださずとも保育指針もそう書いていますが)
◆パーソナルスペース、所有の観念
家庭の延長でありたいとは考えつつも、どうしても集団で生活するために残念ながら家庭と同じようにはなかなかできません。
特に、くつろげる場所、自分の場所が家庭に比べて少なくなってしまいます。
自分の場所というのは大切なモノです。それがあることによって、そこに安心感を見いだすことができます。
それがパーソナルスペースです。
集団で過ごすことを要求される(もっといえば強制される)保育施設において、子供が心に感じる安心というのはなによりも重要なことです。
保育園で、それを最低限確保してあげることができるのは、自分の食卓、午睡の場所です。
それを担保維持してあげることも、保育の配慮として大切だと考えられます。
また、2歳というのは所有の観念が発達してくるときです。「わたしのっ!」という感覚ですね。
この年齢の子にとって、そうした自分の所有を肯定されることは心地よいものとなることでしょう。
ゆえに、自分の場所を持てることに大きな混乱はないといえるのです。
もし、個々のマークなどがあれば、それをその子の席に着けてあげるなどして「自分の場所」ができれば、それまでとの変化は一時的にあるにしても、それはさして問題とならないでしょう。
◆その他の部分も同時に見直す
前記事では、主体性を伝えるのに食事を主な例に挙げていますが、そればかりに限りません。他の多くのことも子供の主体性を尊重して配慮すべきものです。
自由意思の尊重=主体性と考えてきたケースで、しばしばおちいっていることがあります。
それは、他に抑圧が多いために、意思の主張がむやみやたらと多くなり、かえって安定した生活がしにくくなっているものです。
主体性には、自由意思の尊重の他に、主体的行動と主体的成長が考えられることは前記事で伝えました。
自由意思は聞き入れているのに、主体的な行動を尊重されていないケースがそれです。
具体的には、たとえばこうです。
物理的管理を多用していたり、保育士がなにげなく子供の手首を引っ張って誘導するようなことが無自覚に多用されている。待つ場面が多いなど。
こうした保育が展開されていると、保育士は気づいておらずとも子供からすると抑圧が多くなっています。
すると、その抑圧を意思の主張として大きく出すことになります。
こうした部分に無自覚なまま、食事の対応だけを変えてもなかなか安定しないことがあります。
「主体的行動」についての理解を職員で深めていくといいでしょう。
◆保育の連続性
同様に、他年齢の時の対応もいまいちど見直す必要があります。
0歳クラスや、1歳クラスの時に、保育士からの管理的な保育を展開されていたら、2歳クラスになって自主性(自由意思の尊重)と考えているものは、単なるそこからの反動でしかないかもしれません。
子供の育ちは連続しているわけですから、保育も連続して考える必要があります。
そうした視点をもって、ちょっと他クラスをのぞいてみるとなにか気づきが得られるかもしれません。