保育者の心のあり方という専門的視点について - 2019.11.01 Fri
保育は難しい。
それは保育が人間を相手にする仕事だから。
正確に言うと、「人間(大人)が人間(子供)を相手にする仕事」だから。
そして本当に難しいのは、「人間(子供)」の方ではなく、「人間(大人)」の側の問題が大きいこと。
僕はもともと方法論のところだけでなく、それをする大人の心のあり方にも重要な点があると考えてきた。
これは、子育てにおいても、保育においても。
だから、僕の二冊目の著書保育士おとーちゃんの「心がラクになる子育て」 (PHP文庫)
は、子供を育てる大人の側の心のあり方を重視している。
既成の子育ての考え方でも大人の心のあり方を重視しているが、それは大人に対して自己犠牲や努力、我慢、正しさをしいるものであり、僕が前記事で指摘したところの「人間性」として保育を担保しようとするのと同様のもの。これは結果的に子育てと子育てを取り巻く空気をモラルハラスメントにしてしまい、かえって子育てを難しくしてしまうものになっているのが現実。
僕が心を重視するという言葉で指しているのは、それとは真逆のこと。
子育てする側がムリのない心の状態になることで、結果として子育ての安定化を求めるというスタンス。
ここで保育に話を戻すと、保育者が子供に接するときの心のあり方に対しても専門的な視野を注がなければ、適切な保育が担保しきれないのではないかという視点を僕はこの頃特に強めている。
この視点を明確に示しているものは、これまでの保育の研究の中でもあまりなかったのだと思う。
むしろ、「保育者の主観性を排除して客観的であれ」ということに重きを置いていたのが実際のところなのではないだろうか。
客観的であることは保育に限らず専門職として重視されるべきなのは、当然のことではある。
しかし、このスタンスがむしろ保育の劣化を招いてるところが明らかにある。
なぜなら、主観性を表明することを禁じられてしまうと、人はそれを抑圧し、我慢して、自己犠牲をしてことに当たらなければならなくなってしまう。
例えばこういうことが起こる。
その保育者が、特定の子供の対処に困っており、その対応におけるストレス、それを周りがどう見ているかというストレス、その子に対応するときの具体的な方法がわからない。こういった状態にあるとき、そこでの主観性の表明が禁じられており、なおかつ人間性(モラル論)によって職務への邁進をもとめられるとき、その人は弱音も吐けず、方法論のアドバイスを周囲に求めることもできなくなってしまう。
すると、そうした閉塞感、過剰なストレスの中でその子に「頑張って」対応することになるので、簡単に余裕はなくなりイライラが募る。そうした対応をいくらしても信頼関係が厚くなることはそうそうない。
結果的に、その状況は好転しないばかりか悪い方へと行きかねない。
周囲の同僚もそうした職務経験を積んできた人であれば、自分がした苦労を他者もするのが当然と考えるようになるので、具体的で明確なアドバイスなどよりも、「あなたが頑張らなければ」といったモラル論、精神論を突きつけてくる。もっと言えば、ダメ出しばかりをしてくる。それが同僚であったり上司であったり・・・・・・。
これが少なからぬ保育界の実態なのではないだろうか。
保育が簡単にモラル論からモラハラにおちいってしまうのは、これはそもそも日本の子育て観がそうなっているから。
「お母さんなんだから頑張って当然」
オブラートに包んで優しく言う人もいれば、冷たく言う人もいるが、どちらにしろこの子育て観からさして遠くないところで子育てを語る人がいまでも大変多い。
保育者もそうだし、学校の教員などもこの視点からものを言っていることが少なくない。
保育者の保護者への不適切対応の多くも、この視点に依拠した言葉だ。
実を言えば保育士自身も同様のものに縛られている。
もし仮に、どうしても心理的にこころよく受け止められない子供が自分のクラスにいたとしても、「私あの子の対応は、どうしてもイライラが募って過剰に強く当たってしまいそうになります」ということを正直に表明しようものならば、人間性で保育を担保しようとしていた従来の保育施設であれば、「そんなことをいうあなたは子供を大切に思っていない」とか「あなたはやる気がない」といった精神論で押さえつけられてしまって、とてものことそこに客観的な対応などできなくされてしまう。
「担任(保育士)なのだから頑張って当然」
という精神論、モラル論になっており、これが日本の子育てのあり方と構造的に同じものになっている。
これでは、専門的、客観的な対応を積み上げスキルアップしていく余地などなくなってしまう。
ただひたすら頑張りを重ねてしのいでいくしかなくなる。
これは場合によっては、将来的に不適切保育へと続く道になってしまう。
こうしたモラハラ子育ての枠組みから脱するためには、保育者の主観性を肯定的に取り出す作業というのが必要になっていると言える。
そしてそれを客観的に考察することが、むしろ専門性を高めることにつながる。
「保育者の主観をないことにする」
これまでの保育界はそういう方向性で進んできた。
これからは、「保育者の主観をも客観的にとらえ、それに専門的な対処をしていく」。
こういう方向を目指す必要があるのだと思う。
僕は常々この概念を持っていたのだが、なかなか明確化しきれていなかった。
しかし、このたび発達心理学者の京都大学名誉教授 鯨岡 峻先生の著書を読んで、この視点は間違っていなかったのだと理解できた。
鯨岡先生は、保育者と子供の心理面の接点を「接面」という言葉で概念化して、保育に新たな視点を持ち込んだと言えるだろう。
鯨岡先生は、そこを積み重ねていくためにエピソード記録の方法論を提示している。
僕はそれとは違う視点、自主性主体性の実践的対応で積み上げていきたいと考えている。
それは保育が人間を相手にする仕事だから。
正確に言うと、「人間(大人)が人間(子供)を相手にする仕事」だから。
そして本当に難しいのは、「人間(子供)」の方ではなく、「人間(大人)」の側の問題が大きいこと。
僕はもともと方法論のところだけでなく、それをする大人の心のあり方にも重要な点があると考えてきた。
これは、子育てにおいても、保育においても。
だから、僕の二冊目の著書保育士おとーちゃんの「心がラクになる子育て」 (PHP文庫)
既成の子育ての考え方でも大人の心のあり方を重視しているが、それは大人に対して自己犠牲や努力、我慢、正しさをしいるものであり、僕が前記事で指摘したところの「人間性」として保育を担保しようとするのと同様のもの。これは結果的に子育てと子育てを取り巻く空気をモラルハラスメントにしてしまい、かえって子育てを難しくしてしまうものになっているのが現実。
僕が心を重視するという言葉で指しているのは、それとは真逆のこと。
子育てする側がムリのない心の状態になることで、結果として子育ての安定化を求めるというスタンス。
ここで保育に話を戻すと、保育者が子供に接するときの心のあり方に対しても専門的な視野を注がなければ、適切な保育が担保しきれないのではないかという視点を僕はこの頃特に強めている。
この視点を明確に示しているものは、これまでの保育の研究の中でもあまりなかったのだと思う。
むしろ、「保育者の主観性を排除して客観的であれ」ということに重きを置いていたのが実際のところなのではないだろうか。
客観的であることは保育に限らず専門職として重視されるべきなのは、当然のことではある。
しかし、このスタンスがむしろ保育の劣化を招いてるところが明らかにある。
なぜなら、主観性を表明することを禁じられてしまうと、人はそれを抑圧し、我慢して、自己犠牲をしてことに当たらなければならなくなってしまう。
例えばこういうことが起こる。
その保育者が、特定の子供の対処に困っており、その対応におけるストレス、それを周りがどう見ているかというストレス、その子に対応するときの具体的な方法がわからない。こういった状態にあるとき、そこでの主観性の表明が禁じられており、なおかつ人間性(モラル論)によって職務への邁進をもとめられるとき、その人は弱音も吐けず、方法論のアドバイスを周囲に求めることもできなくなってしまう。
すると、そうした閉塞感、過剰なストレスの中でその子に「頑張って」対応することになるので、簡単に余裕はなくなりイライラが募る。そうした対応をいくらしても信頼関係が厚くなることはそうそうない。
結果的に、その状況は好転しないばかりか悪い方へと行きかねない。
周囲の同僚もそうした職務経験を積んできた人であれば、自分がした苦労を他者もするのが当然と考えるようになるので、具体的で明確なアドバイスなどよりも、「あなたが頑張らなければ」といったモラル論、精神論を突きつけてくる。もっと言えば、ダメ出しばかりをしてくる。それが同僚であったり上司であったり・・・・・・。
これが少なからぬ保育界の実態なのではないだろうか。
保育が簡単にモラル論からモラハラにおちいってしまうのは、これはそもそも日本の子育て観がそうなっているから。
「お母さんなんだから頑張って当然」
オブラートに包んで優しく言う人もいれば、冷たく言う人もいるが、どちらにしろこの子育て観からさして遠くないところで子育てを語る人がいまでも大変多い。
保育者もそうだし、学校の教員などもこの視点からものを言っていることが少なくない。
保育者の保護者への不適切対応の多くも、この視点に依拠した言葉だ。
実を言えば保育士自身も同様のものに縛られている。
もし仮に、どうしても心理的にこころよく受け止められない子供が自分のクラスにいたとしても、「私あの子の対応は、どうしてもイライラが募って過剰に強く当たってしまいそうになります」ということを正直に表明しようものならば、人間性で保育を担保しようとしていた従来の保育施設であれば、「そんなことをいうあなたは子供を大切に思っていない」とか「あなたはやる気がない」といった精神論で押さえつけられてしまって、とてものことそこに客観的な対応などできなくされてしまう。
「担任(保育士)なのだから頑張って当然」
という精神論、モラル論になっており、これが日本の子育てのあり方と構造的に同じものになっている。
これでは、専門的、客観的な対応を積み上げスキルアップしていく余地などなくなってしまう。
ただひたすら頑張りを重ねてしのいでいくしかなくなる。
これは場合によっては、将来的に不適切保育へと続く道になってしまう。
こうしたモラハラ子育ての枠組みから脱するためには、保育者の主観性を肯定的に取り出す作業というのが必要になっていると言える。
そしてそれを客観的に考察することが、むしろ専門性を高めることにつながる。
「保育者の主観をないことにする」
これまでの保育界はそういう方向性で進んできた。
これからは、「保育者の主観をも客観的にとらえ、それに専門的な対処をしていく」。
こういう方向を目指す必要があるのだと思う。
僕は常々この概念を持っていたのだが、なかなか明確化しきれていなかった。
しかし、このたび発達心理学者の京都大学名誉教授 鯨岡 峻先生の著書を読んで、この視点は間違っていなかったのだと理解できた。
鯨岡先生は、保育者と子供の心理面の接点を「接面」という言葉で概念化して、保育に新たな視点を持ち込んだと言えるだろう。
鯨岡先生は、そこを積み重ねていくためにエピソード記録の方法論を提示している。
僕はそれとは違う視点、自主性主体性の実践的対応で積み上げていきたいと考えている。
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