これはよく言われるところだが、まず文章がすごい。
「文体がきれい」といったような意味ではない。
切れのある文章とでもいうのだろうか。しかし、ニヒルだったり捨て鉢な形で切れがあるのではない。
そうではないのだが切れがある。
おそらくこれは漢文の素養抜群のゆえなのだろうと思われる。
現代人の書くところの文章とも違う。それは中国古典を題材としたものだからではなく、中島敦が同時代を描いた作品であっても、現代人の書く文章とはちがう趣を持っている。
特に小説の書き出しの切れは、どの作品においてもすごい。
僕が中島敦に思い入れがあるせいかもしれないが、何度も読んでいてすら「すごい、すごい。天才だ。天才だ」と心の中で思わずにはいられない。
例えば『狐憑』の書き出し。
「
ネウリ部落のシャクに憑きものがしたという評判である。」
歴史背景も、地理情報もまったく知らされていないのに、いきなり「ネウリ部落のシャク」とあたかも周知のものごとについて語られているがごとく切り出される。
これによって読み手は、不思議とその世界に突き落とされたかのようになる。
ある意味、こういった手法は童話的であり、それゆえに文学としての位置づけを低く見る人もいるようだが、僕はまったくそうは思わない。
文章の切れは、単にムダをそぎ落としたシンプルな文体という意味だけでなく、読み手である僕もスパスパ、サクサクと切り刻まれて物語の世界に編み込まれ再構成されるそんな感じがするのだ。
それはかの有名な『山月記』の書き出しでも同様に言える。
「
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自らを恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。」
漢文の素読で鍛えられたであろう語調の研ぎ澄まされ方は、まさに声に出して読みたい日本語になっている。なおかつ、そのソリッドな文章が、目の前にその人間が、しかもその内面までももともなって、まさにいるかのような印象をもたらす。
たった一文でそのような感慨を持たせるその文章。「ああ、すごい、すごい」と何度読んでもため息とともに出てしまう。
だが、『山月記』では、最初の一段落目だけで、その後にはこの緊張感を読者に強いない。
二段落目からは、むしろ寓話的にふっと軽くなる。漢の官職名や中国の難しい地名が並ぶので一見そう見えないかもしれないが、そこを経ることで文体とその濃度を気づかないうちに自然に変えてくる。
この点、『山月記』とならぶ代表作となっている『李陵』の方では、ずっと最後までその文章のソリッドさ、読者への緊張感をぶつけてくる。
だから、一見似た作品のように見えて、実はまったく別の性格を持っている。
『山月記』は読後、もの悲しさをじんわりと感じさせ続ける後味を持っているが、『李陵』は虚脱するような悲しさ、うちひしがれさに激しく突き落とされる。
十代後半に感じた感情をいまも同じように持てるのは不思議なことだが、得がたいことと思う。これが中島敦を僕が繰り返し読みたくなる理由かもしれない。
他にも、中島敦の年齢と僕の今の年齢のこと。
ストーリーテラーを主人公とする作品の多さ、そこに堂々と、時に気恥ずかしげに自分を重ねる中島敦の自我、葛藤。山ほど述べたいことはあるのだが、これくらいにしておこう。
↑これは現行の「ちくま日本文学」シリーズのもの、僕の持っているものと表紙は同じだが収録作品がひとつ減っている。それでも他社の文庫よりも収録数は多い。注も多く見やすい位置にあるのでわかりやすい。
◆読書感想文について
また、僕は今回中島敦の作品集を読みながら、読書感想文の宿題について思わずにいられなかった。
小中学生にだされる読書感想文という宿題は、無理難題だよなぁと。
ある種の作品に対して、それから受けた感慨を言葉にするというのは容易ではないこと。
ネガティブな感想ならば簡単に出せる。
「ああつまらなかった。作者の自己憐憫が少しも文学として昇華しておらず、押しつけがましいだけで読むのが苦痛だった。こんな本を課題図書に選定する選者の気が知れない」
たとえば、こんなような。
しかし、そういうものが望まれているわけではないだろう。
本来は感想だからそれでもよいはずなのだが・・・・・・。
ポジティブな感想を前提としているところに、この種の学校の宿題のダメさがすでにある。
これが本でなくて、絵画や彫刻などの芸術作品だったとしたらどうだろう。
そこから受ける感慨を簡単に言葉にして出すことを人は要求するだろうか?
そうそうそれは求められないことだろう。
なにか感銘を受ける芸術作品を見たとき、それにより感情が揺り動かされる。
それを言語により明確に表せるのであれば、芸術家はそもそも作品を作るのではなく文章を書いているだろう。
言語化できないからこそ、別種の表現方法をとっているのだ。
本というのは、言語で書かれているので錯覚しがちだが、感慨を与えるような「作品」となっているものと、なにかの説明書や論述されているものはまったく違う性格であり、本来読書感想文の題材として出される作品たちが与えるものは、簡単に言語化できない類いのものだ。
また、もしなんらかの感慨を出すにしても、それを言語化するには、そこで得た感慨を自分の意識の中である程度明確化する必要がある。
そのためには、読書経験に限らずさまざまな経験の上で対照し形として導き出すことができなければならない。
小中学生にそれを求めるのは、その成長段階ゆえに困難ではないかと思える。
(感慨を抱くことが困難といっているのではなく、抱いた感慨を表現するのが困難という意味。なかにはそれが可能な子もいるだろうが)
だから、「おもしろかった」「すごかった」「たのしかった」「つまらなかった」とこうした表現になるのは当然だ。
そもそも、読書感想文のねらいとはなんなのだろう。
僕は、学校が出しているねらいの本当のところは、アリバイ証明なのではないかと思う。
本当に読んだことを証明させるため、それを書くことを要求しているのであって、それ自体にねらいがないのではなかろうか?
考えられることとしては、
1,文章を書くスキル
2,自分の感情を表現するスキル
これらも考えられなくはないのだが、それであればなにも読書感想文でなくともよい。
また、しばしば大人の望むような感想を求められてしまう傾向から、2,であるとは言いがたいだろうとも思える。
僕の提案なのだが、もし、「本を読むこと」と「文章を書くスキル」このふたつがねらいであるのならば、こういう出題の仕方にしたらいいだろうと思う。
「どんな本でもいいので、それを読んであなたの気持ちが動いたところ(うれしい、たのしい、かなしい、ひどい、などなどなんでもいい)の段落をまるまる書き写してみましょう」
僕はこれで十分だと思う。
むしろ、体裁ばった感想を求められて本を嫌いになるくらいならば、ずっといい。
そして、文章をうまくなるために、模写はとても有効。
「登場人物の誰々さんは、このときどう思ったでしょう?」といった国語教育をするよりも、子供にプラスになると思う。
(論述文ならば、「ここでいうソレとはなにを指しているでしょうか?」といった設問には意味があるのよ。でも誰がどう思ったかの内面の読み取りに正解不正解をつけること自体あまり意味がない)
ついでに言うと、本を読みたくない子供に無理やり読ませるのはとてもよくないこと。ましてやそれの証明に感想文を書かせるのはなお悪いこと。
もし、子供に本を読ませたいのならば、宿題として安易に「課す」のではなく、「どうすれば本を好きになるだろうか?」「本を楽しめるだろうか?」の視点で考える必要がある。
「楽しいは正しいに勝る」
これは僕が保育士研修をするときに使う言葉。子供に関わる大人は、目先の正しさに惑わされて、いつのまにか楽しいを見落としてしまう。
「楽しい」は子供に関わるにおいてなによりも大切なこと。