まず、ひとつめこれらは「お気持ち」の問題になっている。
勉強や学問を「お気持ち」にしてしまうことは、ある意味で反知性の行いとなる。
現実問題で見てみよう。
「いいこと」としてたくさんの無意味なこと、または害になることすら現実には起こりうる。例えば、EM菌団子を河川に投入するといったイベントが自治体や学校、子供を巻き込んで行われてきた。専門家によれば雑菌を投げ込んでいるに過ぎないといわれる。また、東日本大震災のとき学校が子供たちに千羽鶴を折らせそれを被災地に送り、必要な物資すら届かない中で被災地はそれの処分に困ったことがあった。ご記憶にある人もいることだろう。
またこんなことがある。町内会で率先してどぶさらいなどをしてくれる「いい人」である男性が、家庭内では配偶者にDVやモラハラをしているといったことがある。
これらがなにを意味するか。「いいこと」というのはあくまで主観であり、それが適切に機能するとは限らないということ。
次にこのことは内面への介入となっている点。
日本国憲法では思想信条の自由が保障されている。いわゆる内面の自由。
学校教育において「これがいいことなのだ」と子供に刷り込んでいくことはこの境界を越える行いといえる。しかし「いいことを教え込んでいるのだから、その境界を越える行いはゆるされる」と看過されがちになる。
「いいこと」を理由に人の自由を奪う行いは歴史を振り返るとさまざまに見ることができる。ナチスドイツの行ったT4作戦(障がい者の組織的抹殺)などはその代表的なケース。
いま香川で起こっている「ゲームは良くないから規制する」という趣旨の条例にしても、東京都で制定された「東京都子どもを受動喫煙から守る条例」などのように、「いいこと」を理由づけに市民生活の自由を制限する法が実際に生まれている。
エセ歴史である「江戸しぐさ」がいいことを言っているのだからと言う理由で道徳の教科書に採用されていたケースもある。これも反知性的な行いであり学問として看過できることではない。これらは結局「いいこと」を理由に人を支配しやすくすることへつながる。
もうひとつの観点は、「いいこと」を刷り込むことで人はいいことをするようになるのか?という点。かりにその子がそれまでの生育歴の中で、肯定されることが少なく、自尊心を傷つけられたり否定されることが多いといった場合、その子は簡単に「いいこと」ができるとは限らないだろう。もし、そうであると「いいこと」を要求する大人から、その子を肯定的にみることは難しくなる。
人は、「いいこと」を教え込まれただけでそれができるようになるわけではない。それ以外の様々な要素があって人格を形成する。そしてそうした基礎的な部分の方がはるかに大切である。
また別の観点は、「いいこと」は一種の麻薬となる点。
麻薬とはどういう意味かというと、「自己承認」のためのバイアスのかかった思考となること。
一面で「いいこと」をし、他の面で「悪いこと」をしている。こういう自己の状況があったとき。人は自分に都合良く自己認識ができる。
現実にはどういう問題があるかというと、こんなことが起こっている。
日本には中小の企業経営者を対象にした全国的に組織されている団体がいくつかある。そのうちのいくつかは「いいこと」を前面に出している。みなで集まって「いいこと」がたくさん書いてある会の理念を唱和したりといったことをやっている。
しかし、一方でその経営者たちが自社に帰ると、社員に「いいこと」を強要しそれが自己犠牲を強いるタダ残業だったり。ノルマを達成できないことに対する「努力が足りない」「誠意がたりない」というモラハラだったりする。
「いいこと」はお気持ちの問題であり、こうした主観的運用が可能になる。そしてそれは他者の支配の理由へと発展する。
ちなみにこうした企業経営者を対象とした全国組織の中には、前身がカルト宗教であったものもある。「いいこと」を使って人を支配する点において、道徳とカルト宗教の類似点があると言えるだろう。
また、この麻薬は「いいこと」を教えているという立場の人間に強力な自己承認(自己陶酔)を与える。学校で言えば教員がそれにとらわれかねない。
さらに、内面の支配者になる自己承認(自己陶酔)が加わると、よりそれをする人自身をスポイルしていくこととなる。これは体罰などの教員の暴走を生みかねない懸念をもたらす。
いじめやモラルハラスメントは、それをする人からは「正しいことをしている」との認識で行われる。ゆえに「いいこと」「悪いこと」というお気持ちのファクターでこれを防止することはできない。
多様性の視点からも指摘ができる。
なにを「いいこと」と考えるかは、人によって幅のあることだろう。しかし、道徳の授業で点数をつけるといった行いにより、この幅を否定することになる。それは個性や多様性の否定につながり、全体主義的な人格形成をすることにつながっていく。
最後に。
道徳を「お気持ち」にすることはさまざまに問題があることを上でいろいろ述べた。
では、現代でその道徳の代わりになりうるものはなんだろうか?
それはお気持ちではなくリアルな自身の生活・身体と直接に関わる視点の提示であろう。
それが「人権」の学びである。
日本の教育で行われる道徳が、「人権」を教えた後に「いいこと」とはなんだろう?といったテーマでの議論を生むのならばそれはおかしなことではないだろう。
しかし、現在のところ人権を教えることをあえて避けた上で、お気持ちのすり込みを行っている傾向がある。これはその行為自体がすでに人権の侵害ともいえる。
人権の学びが、社会におけるおかしなことをおかしいと言える状況をつくり、労働や生活においての向上をもたらす。
また身体的な面での人権の理解は、性教育、他者や異性との関わりの適切な学び、痴漢のやセクハラの撲滅や自殺の防止といった学びへとつながるだろう。