こうした指数はデータとして目に見える形で出ているものから導き出されているが、実際には目に見えない形の部分もさまざまに男性と女性のあり方の違いとして私たちのまわりにはある。
「当たり前にあるもの」に違和感を感じることは難しい。
子育てをする上で、そうしたことに無自覚であれば子供たちにも、こうした大きなジェンダーギャップを知らず知らず習得させていきかねない。
だからこそ、「0歳からの性教育」のスタンスが必要となる。
じゃあそれはどんなことだろうか?
「名探偵コナン」という全国放送のアニメにもなっている漫画では、女性が入っている風呂をのぞいたり、女性の身体に触るシーンがジョークとして描かれている。
有名な作品なので、これが子供向けのものであることはご存じの方も多いことだろう。
これに違和感を感じる人は現実にはごく少数かもしれない。
しかし、それこそがまさにジェンダーギャップ121位が真に表していること。
私たちは、こうした表現になにも問題を感じない、もしくはジョークとして消費できることだと無自覚にとらえてしまっている。
こうしたビッグネームの商業タイトルには、当然ながら日本の大手企業が関わっている。出版社、放送局、スポンサー。
この企業、そしてその中で働く関係者の人たちのだれも、これをおかしいと声をあげなかった。もしくは、声をあげる人はいたがそれが実行されるところまでいかなかったということである。
ここには、
「女性は男性により性的に消費されるべき存在」という認識が隠れている。
作り手がそうであり、こうしたものに日常の中で関わる子供たちも、知らず知らずのうちにそうした感覚を取り入れていってしまう。
「たかがアニメでしょ。なんだそんなこと」と思う人もいることだろう。
だが、それこそがジェンダーギャップを自身の中に内在化していることの証であると言える。
これが公共のものとして流れ、しかもそれが子供向けであること。
それが社会に認知されていること。
これはつまり、「女性を性的に扱っていい」という認識を日本の社会が持っていることでもある。
私たちの社会が持っている「当たり前」という感覚は、現在の世界の価値観からすると「異常」だ。
◆性教育は子供たちを将来の加害者にすること、被害者にすることを防ぐ
また例えば、日本テレビ系列で放送されている「世界の果てまでイッテQ!」という番組がある。
この中で女性芸人と言われる人たちが、わざと自身の胸やおしりを露出したり、股を広げる描写を強調されたりしている。
これは一見その人達が自主的にやっているように捉えることができる。しかし、実際は、制作する側、消費する側のニーズに応えるものである。いわゆるウケを狙ったところが、そこになっている。
ここにも、「性的に消費される女性」がある。
女性を消費したい側からすれば、これは「女性とは性的に消費していいのだ」という女性を下に見る感覚を養うことにつながる。
また同時に、女性からしても「女性である自分の性は提供することで他者に喜んでもらえるのだ」という感覚を心の内に養うことにつながりかねない。
(積極的にではなくとも、消極的に「自分は女性なのだから性的に見られることは仕方ない」という価値観もそれである。
こうした価値観が、「セクハラされることを我慢しなければ」といった価値観、生き方へとつながり。「女性ゆえの生きにくさ」などとして今現在ある。)
これが「笑い」として提供されていることはとても怖いこと。
なぜなら、笑いに還元されることで、女性を蔑視していること、性を消費(商品化)していることに提供者も受給者も無自覚でいられるから。
つまり「差別の矮小化」を社会全体が共有することになる。
こうして、ジェンダーギャップは人々の心の内に知らず知らず形成されていっている。
私たちが子育てしているいまの日本社会は、こうしたことに現代的価値観からすれば驚くほどに無自覚な社会であることを、いま子育てしている人は多少なりとも認識しておく必要があるのではないだろうか。
我が子はちょうど男女一人づついる。
先ほどのような、女性が自身を性的に提供し、それで他者を面白がらせたり、喜ばせたりする表現を何も知らずに触れていくことで、息子は将来性加害をするリスクを、娘は性被害を受けるようになるリスクや、女性としての生きづらさのリスクを少しずつ積み重ねていっている。
これは子を思う親として本当に恐ろしい。
現在の日本社会はこうした性差別に対して驚くほど無自覚であり、子供を育てている大人の世代も以前の価値観にどっぷりとつかっているので、なにがよくなにが問題かといった視点すら持たせてもらえていない。(大人世代の性教育の不備の問題)
性教育についての関心を深め、大人自身も自身の価値観のアップデートを図り、子育てにおいては自衛していかなければならないだろう。
こうした社会の末端で起こる性差の問題を、些細なこと看過するのは大変あやうい。
なぜなら、このようなちょっとしたジョークのような感覚から、昨年発覚した医学部入試における女性差別のような社会問題は地続きだからだ。