【子育て・保育】ムリのない関わりへ vol.2 - 2021.01.21 Thu
昨日の続きから。
スーパーのレジに並んでいる親子がいました。
3歳くらいの子とお母さんらしき大人。
子供が、レジ付近に陳列してある商品を触ろうとします。
「ダメ」
「やめて」
「いい加減にしなさい」
言葉と口調がだんだん強くなっていきます。
こうした関わりが一般的でしょう
子育ての基本が、否定を積み重ねることで、子供がそれで思い通りにならなければ、その否定の度合いを強めていくしかなくなってしまいます。
結果、子育ては怒る、叱るになります。
しばしば一般に、「怒るではなく叱りなさい」と言いますが、感情的に否定するか、やや理性的に否定するかの違いで、結局それはどちらも否定ですので、根本的にはさして変わらないことです。
この部分を、前に書いた事実を提示する方法に置き換えてみましょう。
例えば、
「それはお店のものです、触らないで下さい」
「買わないものを触るのは私が困ります」
「私は疲れているので、そうされるとイライラしてしまいます」
このときのニュアンスにおけるポイントなのですが、子供に思い通りの行動を取らせるために、「説得」しているわけではありません。
子供がすぐその通りにうごかなくてもいいのです。
事実をそのまま伝え、子供に考え、行動する余地を作っています。
それはあたかも、カードに描かれているものを提示しているようなニュアンスです。
さて、そうした対応をしてもすぐに子供がその通りの行動をするとは限らないかも知れません。もし、「やめて」等否定に類することをいうのであってもそれからでも遅くはないでしょう。
そうしたアプローチをしていると、毎回ではないかも知れませんが、ときどきそうした親の提示した事実を踏まえて子供がなんとなくでも、それに寄り添った行動を示すときがあったら、そこに肯定を送っていきます。
例えば、
・子供がそれを触ってみたけど手を引っ込めた
・商品ではなく自分のカバンのキーホルダーに気持ちを切り替えた
など。
こういうとき、「ああ、わかってくれたのね」「伝わってよかった」といった言葉をかけてもいいですし、そうしたニュアンスを込めてうなずいたり、微笑んだりすることでもいいかもしれません。
特に大仰にほめる必要はないでしょう。ほめは多用すると大人からの関わりのあちこちが作為的になってしまいますし、大人も気を張っていなければならないので疲れてしまいます。
小さな肯定を、必要だけだしていく感じで、「うん、そうだね」と目線で伝えながらうなずいていくくらいの関わりを試していくといいかもしれません。
さて、こうした積み重ねをしていくと、子供の姿を否定ではなく肯定で伸ばしていくことができます。
また、そこに過干渉、支配、コントロールの負荷が少なく済みますので、子供もそうした関わりからのゴネや反発を出す必要も少なくて済みます。
さまざまな個性や場面があると思いますので、一概にそのとおりに行くわけではないと思いますが、ムリせずにできる範囲でいいのでこうしたエッセンスをいれることで子育ての安定化がはかりやすいかと思います。
この関わりのポイントは、子供を「~~させる対象」ととらえていないことです。
「私がそうさせなければ」というスタンス(しつけや過干渉のスタンス)ではなく、「あなたは私のことを理解して必要なことをしてくれるでしょう」という大人から子供への信頼の上に自主性を尊重している点です。(この背景には前に書いた受容・肯定・信頼関係があります)
また、「あなたはすぐにできなくてもいずれそれを理解してくれるでしょう」という成長への信頼、逆に言えば今すぐ結果を出さずともよい「おおらかさ」を持っています。
このあたりの、大人の姿勢や気持ちのあり方が、子供の姿の安定にもつながっています。
書こうと思えば、まだまだいろいろあるのですが、とりあえずこんなところにしておきましょう。
ながながとおつき合い下さいましてありがとうございました。
スーパーのレジに並んでいる親子がいました。
3歳くらいの子とお母さんらしき大人。
子供が、レジ付近に陳列してある商品を触ろうとします。
「ダメ」
「やめて」
「いい加減にしなさい」
言葉と口調がだんだん強くなっていきます。
こうした関わりが一般的でしょう
子育ての基本が、否定を積み重ねることで、子供がそれで思い通りにならなければ、その否定の度合いを強めていくしかなくなってしまいます。
結果、子育ては怒る、叱るになります。
しばしば一般に、「怒るではなく叱りなさい」と言いますが、感情的に否定するか、やや理性的に否定するかの違いで、結局それはどちらも否定ですので、根本的にはさして変わらないことです。
この部分を、前に書いた事実を提示する方法に置き換えてみましょう。
例えば、
「それはお店のものです、触らないで下さい」
「買わないものを触るのは私が困ります」
「私は疲れているので、そうされるとイライラしてしまいます」
このときのニュアンスにおけるポイントなのですが、子供に思い通りの行動を取らせるために、「説得」しているわけではありません。
子供がすぐその通りにうごかなくてもいいのです。
事実をそのまま伝え、子供に考え、行動する余地を作っています。
それはあたかも、カードに描かれているものを提示しているようなニュアンスです。
さて、そうした対応をしてもすぐに子供がその通りの行動をするとは限らないかも知れません。もし、「やめて」等否定に類することをいうのであってもそれからでも遅くはないでしょう。
そうしたアプローチをしていると、毎回ではないかも知れませんが、ときどきそうした親の提示した事実を踏まえて子供がなんとなくでも、それに寄り添った行動を示すときがあったら、そこに肯定を送っていきます。
例えば、
・子供がそれを触ってみたけど手を引っ込めた
・商品ではなく自分のカバンのキーホルダーに気持ちを切り替えた
など。
こういうとき、「ああ、わかってくれたのね」「伝わってよかった」といった言葉をかけてもいいですし、そうしたニュアンスを込めてうなずいたり、微笑んだりすることでもいいかもしれません。
特に大仰にほめる必要はないでしょう。ほめは多用すると大人からの関わりのあちこちが作為的になってしまいますし、大人も気を張っていなければならないので疲れてしまいます。
小さな肯定を、必要だけだしていく感じで、「うん、そうだね」と目線で伝えながらうなずいていくくらいの関わりを試していくといいかもしれません。
さて、こうした積み重ねをしていくと、子供の姿を否定ではなく肯定で伸ばしていくことができます。
また、そこに過干渉、支配、コントロールの負荷が少なく済みますので、子供もそうした関わりからのゴネや反発を出す必要も少なくて済みます。
さまざまな個性や場面があると思いますので、一概にそのとおりに行くわけではないと思いますが、ムリせずにできる範囲でいいのでこうしたエッセンスをいれることで子育ての安定化がはかりやすいかと思います。
この関わりのポイントは、子供を「~~させる対象」ととらえていないことです。
「私がそうさせなければ」というスタンス(しつけや過干渉のスタンス)ではなく、「あなたは私のことを理解して必要なことをしてくれるでしょう」という大人から子供への信頼の上に自主性を尊重している点です。(この背景には前に書いた受容・肯定・信頼関係があります)
また、「あなたはすぐにできなくてもいずれそれを理解してくれるでしょう」という成長への信頼、逆に言えば今すぐ結果を出さずともよい「おおらかさ」を持っています。
このあたりの、大人の姿勢や気持ちのあり方が、子供の姿の安定にもつながっています。
書こうと思えば、まだまだいろいろあるのですが、とりあえずこんなところにしておきましょう。
ながながとおつき合い下さいましてありがとうございました。
| 2021-01-21 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
【子育て・保育】ムリのない関わりへ - 2021.01.20 Wed
以下はTwitterに書こうと思ったものの転載です。なので、その文意がでてきます。そのあたりご了承下さい。
【子育て・保育】ムリのない関わりへ
だいぶ長くなります。
本来ならnoteなどの記事化する方がいいのでしょうけれども、行きがかり上このままTwitterで書いていきます。将来的には加筆して記事化するかもしれません。そのときは有料化する可能性があります。そのため以下のツイートの転載は禁じます。
まずはじめにいくつかお断りを。
僕が伝えようとすることは、「こうすれば子供がこうなります」という、子供のコントロールのテクニックではありません。むしろ僕はそうしたものを使わないで済むようにしたいと考えています。(必要に応じてそれらを使うこと自体は否定しません)
お伝えしたいことは、子育ての構造、組み立て自体をムリのないものに組み替えていくことです。
先立つツイートで述べたように、一般的に子育てとしてとらえられているものは、問題を解決しようとする行為自体が他の問題を生むものになっているので、小手先のテクニックだけではなかなか変わりません。その構造自体になんらかのアプローチが必要です。
また、ここで述べられるのはあくまで一般論です。子供も子育てする大人も多様ですので、個々の人にピタリと当てはまる形で伝えることはできません。
なのでここで書くことは幅を持ってとらえて下さい。これをしなければ子供がとうにかなってしまうというものではありません。できないことがあっても構いません。「この部分を半分くらいならできそうかな」そんな風にとらえるくらいでいいかと思います。
文章では上手く伝えられないかとは思いますが、僕は大人がそれをできない状況を責めていません。また、そもそも子供の「できる」がいいこととも、「できない」姿が悪いとも思っていません。
大人のあり方も、子供のあり方も、常に「あるがまま」がスタートラインだと思っています。その「今ここ」の状態から、その人その人の子育てをどう組み立てて行くかが大切だと考えています。
◆「あるがまま」がスタートライン
おそらく僕の子育ての話にたどり着いた人の中には、「私の子育てはうまくできていないのではないか」「毎日怒ってばかりでよくない」といった気持ちを持っている方が少なくないのではと思います。
それは親としてある意味では当然もってしまう気持ちでしょう。そう思うこと自体少しも悪いことではありません。
しかし、この形で自身の子育てをとらえていると、子育てのしんどさはずっとつきまとってしまいます。
なぜなら、それらは自己否定に行き着かせるからです。
そう思う気持ちは否定しなくていいので、その上で「ああ、私のいまはこうなんだな」と現状を淡々ととらえる方向にちょっと視点を持っていってみましょう。
おそらくこれまでは、「こうあるべき」と「自分の現状」を比べて自身の子育てを見ていたと思います。この見方をすると、ほとんどの人が自己否定から出発することになってしまいます。
比べる必要はありません。「ああ、私はここがスタートラインなんだ」とちょっとだけでも思ってみましょう。
これは子供の姿に対しても同様です。
「こうあるべき」と「我が子の現状」を比べてみると、たいていの子育てがマイナス点からの出発になってしまいます。それだと、子供が多少成長したとしても大人から子供はまだマイナス点に見えます。これでは子供も伸び悩んでしまいますし、子育てする大人も疲弊してしまいます。
現状否定から始めなくて大丈夫です。
大人も子供も、今、あるがままがスタートラインなのです。
子育てするとき、「ああ、そうなんだな~」というフレーズを覚えて置いて下さい。このフレーズは、いろんなところで子育てをムリのないものにしてくれます。
・「ああ、そうなんだな~私はいま子育てしんどいと思っているんだな~」
・「ああ、そうなんだな~私は毎日怒っちゃうんだな~」
・「ああ、そうなんだな~この子はいまこういう成長の姿をだしているんだな~」
◆ハードルを下げる
ハードルが高いと子育ては大変になります。
・前倒しの子育てと距離を置く
1歳の子に3歳で必要なことを求めれば、その子はうまくできませんよね。
このように言葉としてみれば当たり前のことが、子供を目の前にするとできなくなってしまうのが、実際の子育てです。
一般的な子育て観であるところの「しつけ」は、我が子に到達点を持たせることを大人に強迫的に要求する形になっているので、子育てのたくさんの部分がこうしたさして意味のない子育ての前倒しに陥りやすいです。
心身の発達段階がまだ明らかにそこに至っていない子に、いくら大人が過干渉をしてもオムツが取れるわけはありません。
その段階で「オムツ外し」を頑張ってしまうと、「大人から見たときオムツが外れたように錯覚できるところ」に子供を持っていくことが目的になってしまいます。
これでは意味がありませんよね。
手指の機能がまだ未発達な段階で早期にお箸を持たせたからといって、それができるようになるわけではありません。
場合によっては、子供に頑張りという負担をかけて、「できる」を作り出すことは可能ですが、子育てそのものとしてみたとき、そこにほとんど意味はありません。
人見知りをする段階の子供に、人見知りをしなくなるアプローチをする必要はほとんどありません。そういう発達段階にいるのですから、人見知りをするならすればいいのです。
このように子育てを前倒しで考えなくていいので、子育てのハードルは下げておきましょう。
・心配の先取りと距離を置く
「来年幼稚園に入るのに、友達と上手に遊べなかったらどうしよう。今のうちから友達と関わらせて練習させておいた方がいいかしら」
こうした、先を見て、できない状況を想定し、子供に早い段階で訓練を課そうとする子育ては、あまりに一般的です。
少なくない人がこうしたスタンスから一生懸命子育てをしてきているでしょう。
その方達に水を差すわけではありませんが、こうしたスタンスからの子育ては、過干渉や依存、子供自身の経験の低下、その過程で起こる大人への信頼感の低下など、あまりプラスにならないことが増えてしまう一方で、上で述べたように発達段階を先取りすることでもあり、子供の育ちという観点からみた場合あまり意味のないことです。
「そのときになってできないことなら、そのときその子自身が失敗しつつ身につけていけばいい」
これが、本当は子育ての本質です。
(繰り返しになりますが、あくまで一般論です。中には安全上の問題など、失敗しながらでは学べないことや、個々の個性により事前にある程度のガイドラインを引いておくことが必要な子もおります。このあたりは幅を持って捉えておいて下さい)
・不安は出していい
ただ、自身の子育てに対する不安が強いと、こうした前倒しの子育て、ハードルを高めていく子育てになってしまいやすいです。
子供に「できる」を達成させると、自身の不安が解消されるからです。
現代の子育ては、この形になりやすいです。
これを防ぐために、不安は子供に負わせてしまう前に、大人のレベルで多少なりとも解決するようにしておくといいです。なので、不安や心配を話すことはとても重要です。
子育てするパートナー間で、矮小化せず不安を出す、また相手はそれを矮小化せず聴く。これをポイントとして持っておくといいでしょう。
矮小化せず出すというのは、「こんな些細なことを話したらおかしいかな」と自分を抑圧しないことです。
子育ての不安は、その問題の大きさではありません。どんな些細なことと思っても心に引っかかることは出していいのです。
聴く側のときは、「それくらいたいしたことないよ」などと矮小化しないで受けていくことが大切です。
「ああ、そう感じているんだね~。なるほど、そうだよね~」と、不安心配を矮小化しないでそのまま受けていきます。
ここでも、「ああ、そうなんだ~」のエッセンスがでてきましたね。
ただ、そうした相手すらいないんだという問題があることもわかっています。
孤立した弧育て=「弧育て」というのも、現代の子育てにおけるとても大きな問題です。これも重要なテーマなのですが、ここではそれてしまうので他の機会に譲ります。
・自分を振り返ってみる
自身の子育てのハードルを下げるために、もしかすると自分のされたことを振り返っておくことが必要かもしれません。
自身が、過干渉や強い支配を受けてきた場合、我が子に求めるハードルが上がってしまう傾向があるからです。
例えば、
「ああ、そうだよな~私って食事のことですごく厳しく言われてて、子供時代それがつらかったよな~」
などと、「ああ、そうなんだ~」を使って、否定でも肯定でもないところに落とし込んでおくともしかするとハードルを下げやすくなるかも知れません。
このあたりにネックを感じる方には、有料記事になりますが過去に書いたものがあります。
ちょっと待った!「ちゃんと、きちんと、しっかり」子育て
https://note.com/hoikushioto/n/n40e769010157
ただ、そうした自分のあり方を振り返ることが精神的負担になる方は、それをやる必要はありません。自分を守るのは大切なことです。
◆子供の育ちのメカニズム
ここで少し、そもそも子供はどうやって育っていくのかという部分を見てみましょう。
このツイートの発端が、「なめられるな」「甘やかすな」という保育、子育てのあり方に対しての意見から始まったのですが、そこにあるものは、一般的に考えられているところの子供の育ちのメカニズムの一つといえるでしょう。
その中にあるのが、
・子供の間違った行為に否定のアプローチをすることで、子供の正しい姿を大人が作っていく
・子供を普段から大人に服従する状態にすることで、子育ての安定の維持や正しさを習得させていく
こうした子育てに対する考え方です。
現代では、こうしたこれまでの子育ての考え方を、なんかおかしいのではと感じている人が増えているでしょう。
僕はこうした子育てのメカニズムとのとらえ方を、はっきり間違っていると考えています。
子供の育ちのメカニズムの本当のところは、「信頼する大人に寄り添った成長を示す」が原点です。
僕は子供の頃野球の巨人ファンだと思っていました。しかし、よくよく考えると別に巨人が好きだったわけではありません。父親が巨人ファンだったのです。
同様に僕は「緑色が好き」と言っていました。しかし、実際はそういうわけではありません。母親が「緑が好き」と言っているのを聴いたことがあったからです。
こうしたことは、皆さんにもあるのではないでしょうか。
別に親でなくとも、尊敬する人が好んでいるものを、いつの間にか自分も好んでいるといったような。
こうしたことが、子育てのメカニズムの原点です。
それが、「信頼する人に寄り添うように成長していく」です。
もし、大人である自分が、「食事は残さず食べることが大事」という価値観を持っているのならば、子供の幼少期から「食べ物を残す子は許しません」と強い否定を重ねていく必要も、「食べきるまで座っていなさい」と凄む必要も、「全部食べられたらデザートあげるね」と釣りでコントロールする必要もありません。
子供との間に信頼関係の形成を重ね続け、その過程で自分自身が食事を残さず食べていればそれで、子供はその信頼する人に寄り添うように、そうした価値観を共有していきます。
基本的には、これが子育てのメカニズムなのです。
「しつけ」の考え方で子育てをすると、この過程は希薄になりがちです。
なぜなら、「しつけ」は「今すぐ」に子供に正解の姿を出させようとするからです。
今すぐできる結果を出さないとなれば、支配やコントロールの方法を使わざるを得なくなってしまいます。
子供の人生のゴールはいまではありませんね。
言葉で言えば、だれもがそりゃそうだと思うことにすぎないかもしれませんが、この視点はちょっと頭の片隅に置いておきたいと思います。
「いまがゴールじゃない」「子供にはつねに未来がある」
◆信頼関係はどうやってできるの?
それは受容と肯定です。
それに加えて、安心・安全の確保です。
子供は大人の保護がなければ生きられません。
安心感の欠如と不安の中で生きています。
子供が安心して過ごすために、大人がそれを積極的に与えてくれる存在であることを求めています。
大人だってそうですが、自分の安心・安全を守ってくれる人を信頼しますね。
子供はなおさらです。
これが基礎としてあり、さらに受容と肯定を大人の側からその姿勢を持って接することで、子供はその大人への信頼を高めていきます。
受容と肯定とはなんでしょう。
例えば、赤ちゃんが目覚めてギャーと泣きますね。大人がそれを「どうしたの~?大丈夫だよ~ここにいるからね」とあやすことで安心します。
ここにあるのが、自分を受け止めてもらえた経験つまり受容です。
・「お腹減った~」「はいよ~今ごはん作るからまっててね~」
・「絵本読んで~」「うん、いいよ~じゃあ昨日の続きを読もうか」
ここにも、自分を受け止めてもらえた経験が隠れていますね。
ただし、この受容は自己犠牲をして、大人が身を粉にしてやりなさいということではありません。これについては後述します。
◆肯定は?
肯定は、さまざまなことで伝えることができます。
a,スキンシップ
よく言われるところですね。
スキンシップにはウソがありません。皮膚感覚として子供に伝わります。
スキンシップを通して子供には肯定が伝わります。
b,共感
・「これおいしいね~」「おいしいね~」
・「きれいだね~」「きれいだね~」
・「そうか~転んで痛かったんだね~」「うん、いたかったの」
人は不思議なもので、共感してもらうことで自分が肯定されたと感じることができます。
これは、大人も同じですよ。(というか全部大人も同じだね)
c,生活を共にすること
ご飯を作ったり、食べたり、一緒に寝たり、お風呂に入ったり、清潔にしてあげたりetc.
生活を共にすることで、そこには肯定が蓄積されていきます。
ただ、普通にするだけでも肯定になっていますが、その過程を肯定としてちょっと意識するだけでもそれはさらに大きくなることでしょう。
食事を「しつけ」の場にしてしまい、毎日怒られながらするよりも、「おいしいね~」と共感し合いながらするのでは、そこに違いが生まれますね。
生活は日々積み重なることなのでなおさらです。
d,肯定的雰囲気
人は不思議なもので、その人のまとう雰囲気として否定や肯定をかもしだすことができます。
例えば、自分の職場の上司が、いつもムスッとしてイライラを出しているような人だと、そこの部下でいる人はなにかいたたまれない気持ちになったり、過剰な緊張を強いられたりしますよね。
子供は、基本的に大人の保護を求めている存在ですので、そうした大人の様子に敏感な子もいます。
子育てする人は頑張って機嫌良くしていなさいという意味ではありませんが、もし、可能であるならばムリのない範囲で、肯定的な雰囲気を意識するといいかもしれません。
簡単にやりやすいところでは、大人が歌を歌うことです。子供に聴かせるためという意味ではありません。歌を歌っている人は、周りからその人はくつろいでおり、心が開示された状態(自分を受容してくれる状態)と見えるからです。
このことが、子供には肯定として伝わり、子供の姿の安定にプラスに働きます。
◆子育てにウソはいらない
大人であるあなたは、自分にたくさんウソをついてくる人を信頼できるでしょうか?
まず、それは難しいですよね。
子供も当然ながら同じです。
本当は子育ての中でウソは使うべきでないのです。
しかし、日本の一般的な子育てでは、ウソが多用されています。
「帰らないなら置いていきますよ」
公園などで遊んでいれば、それこそしょっちゅうこうした関わりを目にすることができます。
これ、それを言う保護者の方は、実際に子供を放置してかえるつもりがあるわけではありませんよね。
つまりウソです。
しかし、子供をコントロールする手段として、ウソの自覚もない中でこのウソを言っているわけです。
「オニが来るよ」
「お巡りさんに怒られるよ」
なども同様ですね。
これが、一般的な子育てとして認知されており、ひんぱんに使われている現実があります。
ウソは信頼関係を低下させるので、そのときはカンフル剤的に効果を発揮するけれども、使えば使うほど子育てを難しくしていく可能性があります。
しかし、こうした脅しとしてのウソを使わないと子供が動かない状況になってしまっている人からは、じゃあどうすればいいんだと怒ってしまうかも知れません。
その代わりの方法は実は指して難しくないのです。
ウソを使わないためには、本当のことを使えばいいのですね。
では、本当のこととはなんでしょう?
それには2種類あります。
1,周囲の事実
先ほどの公園から帰るケースでみれば、例えば。
・「もう帰る時間です」
・「寒くなってきたので帰ります」
これらは現実の事実ですね。
2,私の感情の事実
次に、子育てする大人である私の感情という事実を正直に使うことです。
・「私が疲れたので帰りたいです」
・「もういま買い物に行かないと困る時間なので、帰ります」
これらは大人である私の内面の事実なのです。
こうした部分、世間一般に流布する、「子供に尽くすことがよい子育てなのだ」とか「子供に自己犠牲的に関わることが愛情なのだ」といった価値観のままでいると、こうした事実は覆い隠すことがいいことなのだと(ほとんど無意識にでしょうけれども)考えがちになってしまいます。
しかし、こうした大人が気持ちを正直に出すことは、実は子供の幼少期からとても大切なことです。なぜなら、こうした正直さが、子供に葛藤の経験の余地を持たせ、それが依存を防ぎ、自立を援助していくからです。
(こうした方法が「“私”を主語にする」とか「Iメッセージ」などと呼ばれることもありますね)
この自己犠牲的、自己抑圧的な子育てする大人の価値観が、現代の子育てを難しくすることの大きな原因の一つとなっています。
子供にウソをつかないだけでなく、自分にもウソをつかないようにしていくといいです。
そして、この事実は、私の負の感情であってすらいいのです。
・「あなたにそこでごねられてしまうと、私はイライラしてしまいます」
これもまったく嘘偽りのない自分の気持ちですよね。
ただし、受容や信頼関係の構築にネックを抱えている場合、強い肯定不足の段階にある場合は、この負の感情の表出というアプローチが子供に大きな否定として感じられてしまう場合があります。そうした状態のときは、避けておくほうがいいかもしれません。そうしたケースの場合は今回のテーマと外れるので、ここでは割愛しておきます。
こちらは、有料記事になりますが、このウソにまつわる点をより詳しく掘り下げている記事です。
子育てで避けるべき2つのウソhttps://note.com/hoikushioto/n/n37cc4eb214e6
こちらは余談になりますが、子育てにおけるウソについての考察です。
http://hoikushipapa.jp/blog-entry-791.html
(これは私のブログになりますので有料記事ではありません)
◆肯定で積み重ねる子育て
さて、いま嘘ではなく事実を使って子供にアプローチしていく方法をお伝えしました。
さて、事実を伝えれば子供がたちどころに大人の要求どおりに従うでしょうか?
冒頭に、僕はテクニックを伝えるわけではありませんと述べたように、これは子供を思い通りに動かすテクニックではありません。
ここにあるのは、子供の主体的な行動の余地を残すことであり、その上で主体的な成長を育むための前提条件を整えたのです。
例を使って言うとこういうことです。
次回に続く。
【子育て・保育】ムリのない関わりへ
だいぶ長くなります。
本来ならnoteなどの記事化する方がいいのでしょうけれども、行きがかり上このままTwitterで書いていきます。将来的には加筆して記事化するかもしれません。そのときは有料化する可能性があります。そのため以下のツイートの転載は禁じます。
まずはじめにいくつかお断りを。
僕が伝えようとすることは、「こうすれば子供がこうなります」という、子供のコントロールのテクニックではありません。むしろ僕はそうしたものを使わないで済むようにしたいと考えています。(必要に応じてそれらを使うこと自体は否定しません)
お伝えしたいことは、子育ての構造、組み立て自体をムリのないものに組み替えていくことです。
先立つツイートで述べたように、一般的に子育てとしてとらえられているものは、問題を解決しようとする行為自体が他の問題を生むものになっているので、小手先のテクニックだけではなかなか変わりません。その構造自体になんらかのアプローチが必要です。
また、ここで述べられるのはあくまで一般論です。子供も子育てする大人も多様ですので、個々の人にピタリと当てはまる形で伝えることはできません。
なのでここで書くことは幅を持ってとらえて下さい。これをしなければ子供がとうにかなってしまうというものではありません。できないことがあっても構いません。「この部分を半分くらいならできそうかな」そんな風にとらえるくらいでいいかと思います。
文章では上手く伝えられないかとは思いますが、僕は大人がそれをできない状況を責めていません。また、そもそも子供の「できる」がいいこととも、「できない」姿が悪いとも思っていません。
大人のあり方も、子供のあり方も、常に「あるがまま」がスタートラインだと思っています。その「今ここ」の状態から、その人その人の子育てをどう組み立てて行くかが大切だと考えています。
◆「あるがまま」がスタートライン
おそらく僕の子育ての話にたどり着いた人の中には、「私の子育てはうまくできていないのではないか」「毎日怒ってばかりでよくない」といった気持ちを持っている方が少なくないのではと思います。
それは親としてある意味では当然もってしまう気持ちでしょう。そう思うこと自体少しも悪いことではありません。
しかし、この形で自身の子育てをとらえていると、子育てのしんどさはずっとつきまとってしまいます。
なぜなら、それらは自己否定に行き着かせるからです。
そう思う気持ちは否定しなくていいので、その上で「ああ、私のいまはこうなんだな」と現状を淡々ととらえる方向にちょっと視点を持っていってみましょう。
おそらくこれまでは、「こうあるべき」と「自分の現状」を比べて自身の子育てを見ていたと思います。この見方をすると、ほとんどの人が自己否定から出発することになってしまいます。
比べる必要はありません。「ああ、私はここがスタートラインなんだ」とちょっとだけでも思ってみましょう。
これは子供の姿に対しても同様です。
「こうあるべき」と「我が子の現状」を比べてみると、たいていの子育てがマイナス点からの出発になってしまいます。それだと、子供が多少成長したとしても大人から子供はまだマイナス点に見えます。これでは子供も伸び悩んでしまいますし、子育てする大人も疲弊してしまいます。
現状否定から始めなくて大丈夫です。
大人も子供も、今、あるがままがスタートラインなのです。
子育てするとき、「ああ、そうなんだな~」というフレーズを覚えて置いて下さい。このフレーズは、いろんなところで子育てをムリのないものにしてくれます。
・「ああ、そうなんだな~私はいま子育てしんどいと思っているんだな~」
・「ああ、そうなんだな~私は毎日怒っちゃうんだな~」
・「ああ、そうなんだな~この子はいまこういう成長の姿をだしているんだな~」
◆ハードルを下げる
ハードルが高いと子育ては大変になります。
・前倒しの子育てと距離を置く
1歳の子に3歳で必要なことを求めれば、その子はうまくできませんよね。
このように言葉としてみれば当たり前のことが、子供を目の前にするとできなくなってしまうのが、実際の子育てです。
一般的な子育て観であるところの「しつけ」は、我が子に到達点を持たせることを大人に強迫的に要求する形になっているので、子育てのたくさんの部分がこうしたさして意味のない子育ての前倒しに陥りやすいです。
心身の発達段階がまだ明らかにそこに至っていない子に、いくら大人が過干渉をしてもオムツが取れるわけはありません。
その段階で「オムツ外し」を頑張ってしまうと、「大人から見たときオムツが外れたように錯覚できるところ」に子供を持っていくことが目的になってしまいます。
これでは意味がありませんよね。
手指の機能がまだ未発達な段階で早期にお箸を持たせたからといって、それができるようになるわけではありません。
場合によっては、子供に頑張りという負担をかけて、「できる」を作り出すことは可能ですが、子育てそのものとしてみたとき、そこにほとんど意味はありません。
人見知りをする段階の子供に、人見知りをしなくなるアプローチをする必要はほとんどありません。そういう発達段階にいるのですから、人見知りをするならすればいいのです。
このように子育てを前倒しで考えなくていいので、子育てのハードルは下げておきましょう。
・心配の先取りと距離を置く
「来年幼稚園に入るのに、友達と上手に遊べなかったらどうしよう。今のうちから友達と関わらせて練習させておいた方がいいかしら」
こうした、先を見て、できない状況を想定し、子供に早い段階で訓練を課そうとする子育ては、あまりに一般的です。
少なくない人がこうしたスタンスから一生懸命子育てをしてきているでしょう。
その方達に水を差すわけではありませんが、こうしたスタンスからの子育ては、過干渉や依存、子供自身の経験の低下、その過程で起こる大人への信頼感の低下など、あまりプラスにならないことが増えてしまう一方で、上で述べたように発達段階を先取りすることでもあり、子供の育ちという観点からみた場合あまり意味のないことです。
「そのときになってできないことなら、そのときその子自身が失敗しつつ身につけていけばいい」
これが、本当は子育ての本質です。
(繰り返しになりますが、あくまで一般論です。中には安全上の問題など、失敗しながらでは学べないことや、個々の個性により事前にある程度のガイドラインを引いておくことが必要な子もおります。このあたりは幅を持って捉えておいて下さい)
・不安は出していい
ただ、自身の子育てに対する不安が強いと、こうした前倒しの子育て、ハードルを高めていく子育てになってしまいやすいです。
子供に「できる」を達成させると、自身の不安が解消されるからです。
現代の子育ては、この形になりやすいです。
これを防ぐために、不安は子供に負わせてしまう前に、大人のレベルで多少なりとも解決するようにしておくといいです。なので、不安や心配を話すことはとても重要です。
子育てするパートナー間で、矮小化せず不安を出す、また相手はそれを矮小化せず聴く。これをポイントとして持っておくといいでしょう。
矮小化せず出すというのは、「こんな些細なことを話したらおかしいかな」と自分を抑圧しないことです。
子育ての不安は、その問題の大きさではありません。どんな些細なことと思っても心に引っかかることは出していいのです。
聴く側のときは、「それくらいたいしたことないよ」などと矮小化しないで受けていくことが大切です。
「ああ、そう感じているんだね~。なるほど、そうだよね~」と、不安心配を矮小化しないでそのまま受けていきます。
ここでも、「ああ、そうなんだ~」のエッセンスがでてきましたね。
ただ、そうした相手すらいないんだという問題があることもわかっています。
孤立した弧育て=「弧育て」というのも、現代の子育てにおけるとても大きな問題です。これも重要なテーマなのですが、ここではそれてしまうので他の機会に譲ります。
・自分を振り返ってみる
自身の子育てのハードルを下げるために、もしかすると自分のされたことを振り返っておくことが必要かもしれません。
自身が、過干渉や強い支配を受けてきた場合、我が子に求めるハードルが上がってしまう傾向があるからです。
例えば、
「ああ、そうだよな~私って食事のことですごく厳しく言われてて、子供時代それがつらかったよな~」
などと、「ああ、そうなんだ~」を使って、否定でも肯定でもないところに落とし込んでおくともしかするとハードルを下げやすくなるかも知れません。
このあたりにネックを感じる方には、有料記事になりますが過去に書いたものがあります。
ちょっと待った!「ちゃんと、きちんと、しっかり」子育て
https://note.com/hoikushioto/n/n40e769010157
ただ、そうした自分のあり方を振り返ることが精神的負担になる方は、それをやる必要はありません。自分を守るのは大切なことです。
◆子供の育ちのメカニズム
ここで少し、そもそも子供はどうやって育っていくのかという部分を見てみましょう。
このツイートの発端が、「なめられるな」「甘やかすな」という保育、子育てのあり方に対しての意見から始まったのですが、そこにあるものは、一般的に考えられているところの子供の育ちのメカニズムの一つといえるでしょう。
その中にあるのが、
・子供の間違った行為に否定のアプローチをすることで、子供の正しい姿を大人が作っていく
・子供を普段から大人に服従する状態にすることで、子育ての安定の維持や正しさを習得させていく
こうした子育てに対する考え方です。
現代では、こうしたこれまでの子育ての考え方を、なんかおかしいのではと感じている人が増えているでしょう。
僕はこうした子育てのメカニズムとのとらえ方を、はっきり間違っていると考えています。
子供の育ちのメカニズムの本当のところは、「信頼する大人に寄り添った成長を示す」が原点です。
僕は子供の頃野球の巨人ファンだと思っていました。しかし、よくよく考えると別に巨人が好きだったわけではありません。父親が巨人ファンだったのです。
同様に僕は「緑色が好き」と言っていました。しかし、実際はそういうわけではありません。母親が「緑が好き」と言っているのを聴いたことがあったからです。
こうしたことは、皆さんにもあるのではないでしょうか。
別に親でなくとも、尊敬する人が好んでいるものを、いつの間にか自分も好んでいるといったような。
こうしたことが、子育てのメカニズムの原点です。
それが、「信頼する人に寄り添うように成長していく」です。
もし、大人である自分が、「食事は残さず食べることが大事」という価値観を持っているのならば、子供の幼少期から「食べ物を残す子は許しません」と強い否定を重ねていく必要も、「食べきるまで座っていなさい」と凄む必要も、「全部食べられたらデザートあげるね」と釣りでコントロールする必要もありません。
子供との間に信頼関係の形成を重ね続け、その過程で自分自身が食事を残さず食べていればそれで、子供はその信頼する人に寄り添うように、そうした価値観を共有していきます。
基本的には、これが子育てのメカニズムなのです。
「しつけ」の考え方で子育てをすると、この過程は希薄になりがちです。
なぜなら、「しつけ」は「今すぐ」に子供に正解の姿を出させようとするからです。
今すぐできる結果を出さないとなれば、支配やコントロールの方法を使わざるを得なくなってしまいます。
子供の人生のゴールはいまではありませんね。
言葉で言えば、だれもがそりゃそうだと思うことにすぎないかもしれませんが、この視点はちょっと頭の片隅に置いておきたいと思います。
「いまがゴールじゃない」「子供にはつねに未来がある」
◆信頼関係はどうやってできるの?
それは受容と肯定です。
それに加えて、安心・安全の確保です。
子供は大人の保護がなければ生きられません。
安心感の欠如と不安の中で生きています。
子供が安心して過ごすために、大人がそれを積極的に与えてくれる存在であることを求めています。
大人だってそうですが、自分の安心・安全を守ってくれる人を信頼しますね。
子供はなおさらです。
これが基礎としてあり、さらに受容と肯定を大人の側からその姿勢を持って接することで、子供はその大人への信頼を高めていきます。
受容と肯定とはなんでしょう。
例えば、赤ちゃんが目覚めてギャーと泣きますね。大人がそれを「どうしたの~?大丈夫だよ~ここにいるからね」とあやすことで安心します。
ここにあるのが、自分を受け止めてもらえた経験つまり受容です。
・「お腹減った~」「はいよ~今ごはん作るからまっててね~」
・「絵本読んで~」「うん、いいよ~じゃあ昨日の続きを読もうか」
ここにも、自分を受け止めてもらえた経験が隠れていますね。
ただし、この受容は自己犠牲をして、大人が身を粉にしてやりなさいということではありません。これについては後述します。
◆肯定は?
肯定は、さまざまなことで伝えることができます。
a,スキンシップ
よく言われるところですね。
スキンシップにはウソがありません。皮膚感覚として子供に伝わります。
スキンシップを通して子供には肯定が伝わります。
b,共感
・「これおいしいね~」「おいしいね~」
・「きれいだね~」「きれいだね~」
・「そうか~転んで痛かったんだね~」「うん、いたかったの」
人は不思議なもので、共感してもらうことで自分が肯定されたと感じることができます。
これは、大人も同じですよ。(というか全部大人も同じだね)
c,生活を共にすること
ご飯を作ったり、食べたり、一緒に寝たり、お風呂に入ったり、清潔にしてあげたりetc.
生活を共にすることで、そこには肯定が蓄積されていきます。
ただ、普通にするだけでも肯定になっていますが、その過程を肯定としてちょっと意識するだけでもそれはさらに大きくなることでしょう。
食事を「しつけ」の場にしてしまい、毎日怒られながらするよりも、「おいしいね~」と共感し合いながらするのでは、そこに違いが生まれますね。
生活は日々積み重なることなのでなおさらです。
d,肯定的雰囲気
人は不思議なもので、その人のまとう雰囲気として否定や肯定をかもしだすことができます。
例えば、自分の職場の上司が、いつもムスッとしてイライラを出しているような人だと、そこの部下でいる人はなにかいたたまれない気持ちになったり、過剰な緊張を強いられたりしますよね。
子供は、基本的に大人の保護を求めている存在ですので、そうした大人の様子に敏感な子もいます。
子育てする人は頑張って機嫌良くしていなさいという意味ではありませんが、もし、可能であるならばムリのない範囲で、肯定的な雰囲気を意識するといいかもしれません。
簡単にやりやすいところでは、大人が歌を歌うことです。子供に聴かせるためという意味ではありません。歌を歌っている人は、周りからその人はくつろいでおり、心が開示された状態(自分を受容してくれる状態)と見えるからです。
このことが、子供には肯定として伝わり、子供の姿の安定にプラスに働きます。
◆子育てにウソはいらない
大人であるあなたは、自分にたくさんウソをついてくる人を信頼できるでしょうか?
まず、それは難しいですよね。
子供も当然ながら同じです。
本当は子育ての中でウソは使うべきでないのです。
しかし、日本の一般的な子育てでは、ウソが多用されています。
「帰らないなら置いていきますよ」
公園などで遊んでいれば、それこそしょっちゅうこうした関わりを目にすることができます。
これ、それを言う保護者の方は、実際に子供を放置してかえるつもりがあるわけではありませんよね。
つまりウソです。
しかし、子供をコントロールする手段として、ウソの自覚もない中でこのウソを言っているわけです。
「オニが来るよ」
「お巡りさんに怒られるよ」
なども同様ですね。
これが、一般的な子育てとして認知されており、ひんぱんに使われている現実があります。
ウソは信頼関係を低下させるので、そのときはカンフル剤的に効果を発揮するけれども、使えば使うほど子育てを難しくしていく可能性があります。
しかし、こうした脅しとしてのウソを使わないと子供が動かない状況になってしまっている人からは、じゃあどうすればいいんだと怒ってしまうかも知れません。
その代わりの方法は実は指して難しくないのです。
ウソを使わないためには、本当のことを使えばいいのですね。
では、本当のこととはなんでしょう?
それには2種類あります。
1,周囲の事実
先ほどの公園から帰るケースでみれば、例えば。
・「もう帰る時間です」
・「寒くなってきたので帰ります」
これらは現実の事実ですね。
2,私の感情の事実
次に、子育てする大人である私の感情という事実を正直に使うことです。
・「私が疲れたので帰りたいです」
・「もういま買い物に行かないと困る時間なので、帰ります」
これらは大人である私の内面の事実なのです。
こうした部分、世間一般に流布する、「子供に尽くすことがよい子育てなのだ」とか「子供に自己犠牲的に関わることが愛情なのだ」といった価値観のままでいると、こうした事実は覆い隠すことがいいことなのだと(ほとんど無意識にでしょうけれども)考えがちになってしまいます。
しかし、こうした大人が気持ちを正直に出すことは、実は子供の幼少期からとても大切なことです。なぜなら、こうした正直さが、子供に葛藤の経験の余地を持たせ、それが依存を防ぎ、自立を援助していくからです。
(こうした方法が「“私”を主語にする」とか「Iメッセージ」などと呼ばれることもありますね)
この自己犠牲的、自己抑圧的な子育てする大人の価値観が、現代の子育てを難しくすることの大きな原因の一つとなっています。
子供にウソをつかないだけでなく、自分にもウソをつかないようにしていくといいです。
そして、この事実は、私の負の感情であってすらいいのです。
・「あなたにそこでごねられてしまうと、私はイライラしてしまいます」
これもまったく嘘偽りのない自分の気持ちですよね。
ただし、受容や信頼関係の構築にネックを抱えている場合、強い肯定不足の段階にある場合は、この負の感情の表出というアプローチが子供に大きな否定として感じられてしまう場合があります。そうした状態のときは、避けておくほうがいいかもしれません。そうしたケースの場合は今回のテーマと外れるので、ここでは割愛しておきます。
こちらは、有料記事になりますが、このウソにまつわる点をより詳しく掘り下げている記事です。
子育てで避けるべき2つのウソhttps://note.com/hoikushioto/n/n37cc4eb214e6
こちらは余談になりますが、子育てにおけるウソについての考察です。
http://hoikushipapa.jp/blog-entry-791.html
(これは私のブログになりますので有料記事ではありません)
◆肯定で積み重ねる子育て
さて、いま嘘ではなく事実を使って子供にアプローチしていく方法をお伝えしました。
さて、事実を伝えれば子供がたちどころに大人の要求どおりに従うでしょうか?
冒頭に、僕はテクニックを伝えるわけではありませんと述べたように、これは子供を思い通りに動かすテクニックではありません。
ここにあるのは、子供の主体的な行動の余地を残すことであり、その上で主体的な成長を育むための前提条件を整えたのです。
例を使って言うとこういうことです。
次回に続く。
| 2021-01-20 | 日本の子育て文化 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
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