「頑張る」ということ - 2017.02.10 Fri
どうも今回のこの記事でブログ通算1,000記事目になるようです。
よく続いたなぁと自分でも思いますが、どうしてそんなに続いたのかと問われれば、「書きたいことがあったから」というのが実際の所なのだと思います。
これが「ネタを探しながら」であったらこんなに続けることはできなかったでしょう。
[『大人は「結果」を作り出したくなる』のお話からふたつのこと ]の続きも書きたいなとは思うのですが、1,000記事目ということでちょっと子育ての根っこに関わるお話をしたいと思います。
それが今回のテーマ『頑張ること』です。
誰かに「やあ、頑張っていますねぇ」というとこれはほめ言葉になっていますよね。
子育てに関係なく「頑張ることはいいことだ」という認識があるわけです。
保育園や幼稚園などに見学に行っても、「子供たち頑張っているんですよ^^」と好意的に「頑張る」という言葉が使われるところによく出くわします。
多くの人が「頑張る」ということをあまり深く考えず「いいものだ」と思っているのだと感じます。
確かに、「頑張る」ことは悪いことではないですし、それが無理ないものならば素敵なことでもあるのはそうだと思います。
しかし、僕は子供たちと子育てする大人をずっと見てきて「頑張ることを無条件、無自覚に”いいことだ!”としているのはかなり危険なこと」だなと感じています。
◆「頑張る」の二重構造
子育ての中には「頑張る」がふたつ重なっています。
・子供に対して求める「頑張る」
・大人が「子育てを頑張らなければ」と自分に言い聞かせる「頑張る」
もっというと、「子供を頑張らせるために頑張る大人」という見方もあるかもしれません。
「これではいけない」「まだ足りない」「もっと上を目指さねば」
大人が思うそういったひとつひとつは小さいことかもしれないけれども、それが合わさってくると子供は日々が辛くなりますし、大人は子育てそのものがしんどくなります。
そしてさらに、それは「自己否定」を生み出します。
・「それが達成できない自分はダメだ」
・「これを子供に獲得させられない私は頑張りが足りない」
そもそも、元から「自己否定」が強くあるために過剰に「頑張らなければならない」と思っているケースも多いです。その場合は「自己否定」のマッチポンプによる悪循環となりますね。
しかもそれが「強迫観念」をともなうものとなる場合もあります。
別にだれにせっつかれたり否定された事実があるわけでなくとも(あればなおさらですが)、
・「自分の親がどう思うか?」を無意識にいつも探っている
・周囲の人の目線が気になる
・夫もしくは妻がそれをなんと思うかを意識してしまう
・周りの子との差が強く気になる
この「自己否定」や「強迫観念」がつのった結果「頑張る子育て」になってしまうと、これはあやうい子育てとなりやすいです。
その方向性で頑張れば頑張るほど裏目に出て、子育てがうまくいかない、子供の姿が安定しないというケースを山のように僕は見てきています。
◆「頑張る」という価値観の限界
これまで「頑張ること」は美徳であると日本では考えられてきたと思いますが、ウツや過労死、過労自殺、ニートやひきこもりといった問題の背景にはこの「無自覚な”頑張る”」ということが密接に関わっている時代になっています。
「自分は頑張りすぎだな。ちょっとセーブしよう」
「もう疲れたよ、別の生き方さがしてもいいよね」
と「頑張らない選択肢」をもし持てていたら、ウツや過労死や過労自殺にいたらずに済んだ人は大勢いるのではないでしょうか。
僕自身それに近い状況になったことがあり、その自分の存在意義を自分に問う葛藤のなかでたどりついたもののひとつがこのブログそのものでもあるので、よりいっそう実感としてそう思います。
◆キーは「モチベーション」
しかし、一方でテニスの松岡修造さんのように強迫的なところなしにカラッと「頑張れ頑張れ、もっと頑張れ」と言えるのは素敵なことではあるとも思います。
最近ではウツや心が弱っている人に対して「頑張れ」とか「大丈夫?」と声をかけるのは禁句という話はだいぶ広まっていますよね。
このふたつの違いは何だと思いますか?
「頑張れ」がプラスに働くのとマイナスに働くものには、その当事者の「意欲・モチベーション」の違いがあります。
自己否定や強迫感情がつのってモチベーションそのものが枯渇している人に対して「頑張れ」をたたみかけることは、たとえそれが善意であっても(善意であればこそなおさらの場合も・・・)余計に自己否定や強迫をつのらせる「敵」になります。
一方、今現在壁に当たっていてうまくいかない状況におちいってはいるけれど、モチベーションそのものがある人に対してであれば、「あなたのことを応援していますよ。いつでも力になりますよ」という気持ちでかけられる「頑張れ」という言葉なり、関わりや思いはプラスとできることもあるでしょう。
この違いがあるのです。
これは子育てにおいても同様です。
そこに気がつけると、「頑張って達成できること」や「”頑張れ!”という関わり」そのものよりも重要なことがわかります。
それが「意欲・モチベーションをつちかってあげること」なのです。
特に子供の幼少期に親ができることとして、このことがとても大きなことなのです。
そのことについては少し前の記事『子育てをシンプルに』のシリーズで簡単にですがお伝えしました。
これについては今後も掘り下げてお伝えしていきます。
◆連鎖する子育て
子育ての理屈としては
「意欲・モチベーションをつちかってあげること」
がもっとも幼少期の大切なことであるのは間違いありません。
そのために、「かわいがること」「受容」「肯定」「ありのままを受け止めること」などを積み重ねる方向で関わっていけばいいこともわかっています。
しかし、「子育ては理屈ではない」という現実がそこに立ちはだかります。
自己否定や強迫観念の強さがあって、それで子育てに取り組んでしまう人はその人がやらないとかできないとか努力や能力が足りないといったわけではなく、その人自身そのような生育歴を送らされたために同様のことを感じずには、繰り返さずにはいられないという「子育ての連鎖」の問題があります。(これは親だけでなく、保育士としてや教師としてにも同様にあります)
さらにその親自身も同様に・・・・・・と繰り返されていることがありますので、理屈だけで「はいそうですか、じゃあそうしてみます」とできるものではなという根深いものです。
今現在、このことによる子育ての行き詰まりがとても多くなっています。
僕は育児相談などを受けていますが、その多くにこの問題が関わっています。
どうにかしてそれを解決していくことが現代の課題なのだと思いますが簡単ではないようです。
基本的には、親に対しても「肯定」と「受容」が不可欠であることを感じます。
こういうケースでは、目の前の我が子の「子育ての”問題”と見えること」はむしろ「問題」というよりも、「”親の持つ問題”の結果のひとつ」であることが多いです。
僕はもともと保育士ですので、こういった臨床心理や精神分析とは直接的に専門性を持っているわけではありませんが、ですが結局これらの問題を抜きにしては子育ても語れないのだということをひしひしと感じるこの頃です。
なぜならこういった問題はちっとも特殊なことではないからです。
特に大変さを感じているわけでもない子育てをしている人にも、子育てのことで大変悩んでいる人、どこの保育園や学校で出会う子供・家庭の問題の背景にこの「子育ての負の連鎖」をしばしば見て取ることができるでしょう。
現代はこの負の連鎖を断ち切る時代に入っているのだと僕は感じています。
これが「怒り」や「自己否定」を際限なく生み出し、「生きづらさ」を拡大していることが現代の大きな問題のようです。
これは子育てに留まらない問題だろうとは思いますが、僕は子育ての分野からそれに関わっていきます。
そのことを今後
・保育に関して →子供を肯定できる保育
・家庭での子育てに関して →ムリのない子育ての具体的なあり方
・子育てする大人そのものに対して →親自身の肯定
3つの方向からアプローチしていきたいと考えております。
明日は聖蹟桜ヶ丘での『保育士おとーちゃんと紡ぐCafé』当日です。(現在定員に達したため募集は締め切っております)
いらっしゃる方はどうぞ気楽に来て下さい。
僕自身、文章は理屈っぽいし見た目も硬く見えるので「もっと厳しいことを言われると思いました」という方も少なくないのですが、「否定したところでなにも生まない」というスタンスでおりますので、構えないでいらしていただければと思います。
今日東京は雪交じりの曇り空でした。明日は晴れてくれたらお子さんもCaféの前の野原でたくさん遊べますよ。
- 関連記事
-
- 逃げること、自分を守ること (2017/08/31)
- テレビゲームに子供を向かわせる本当の理由 (2017/08/26)
- お盆休みに見る男性の育児参加意識 (2017/08/15)
- 昨日のブログ記事と「いじめに荷担する教員」の関係性 (2017/08/07)
- 恥ずかしい言葉もこともなげに (2017/05/12)
- 「頑張る」ということ (2017/02/10)
- 「子供と過ごすことに楽しさや喜びを見いだせるかどうか?」 (2016/09/28)
- 日本人と「自己犠牲」 (2016/08/23)
- 子育てを「怒り」にしないためにできること (2016/08/17)
- 「自由研究」から考える教育のグランドデザイン (2016/08/15)
- 失われた感覚 vol.2 (2016/07/30)
● COMMENT ●
今まで本当に困ったときのこちらのブログでした。そして、本当の意味で育児が辛くなり始めて、こちらのブログにたどり着いたのは、子どもが3歳を越えてきた頃でした。
大事なことはわかっているのに、本当に理屈じゃなく辛いんです。そんなお母さんが周りにたくさんいます。
スマートに明るく振る舞っていて、楽しそうに育児をしているように見える人でも、実は苦しんでいるということが少なくないんです。その現状を知って、みんな同じだとほっとするというよりは愕然としました。
連鎖ということばと怒りというキーワード、今現在実感しています。
知り合いが保育士なのですが、親がヒステリックだったからと自分は叱らない保育、育児をする、といいながら、自分の仕事の都合で子どもを頻繁に親に預け、世話の仕方を親に対してヒステリックに指示をしています。
知人は二人目を産んで現在育休中なのですが、上の子を保育園に預け(このあたりのことは最近の過酷な保育園の入園待ち状況に無縁の私には何も言えないのですが)、下の子にかかりっきりになっているためか上の子が甘えが足りないのか、大人の気を引くために飲食店内で走り回ったり、他の子のおもちゃを取ったり、下の子の顔を蹴ったりつねったりという行動が目立ってきています。ですがそれに対して知人はなにもリアクションをしません。まるで子どもの存在が見えていないかのようです。
叱らないという本人の信念が、端からはただの放置にしか見えなくなっています。
ヒステリックな親になりたくないと、子どもを愛する親を目指していたはずなのに、です。
はじめはそんな知人を苦々しく思っていたのですが、もしかしたらこれも連鎖の呪縛なのかもしれないと思うようになりました。
彼女を含め、親たちにも受容が必要なんだと今回の記事で気づいたのと、今こそこれまでわかっていて目をそらしていたことを直視する時なのでは、と痛感しています。
長文失礼いたしました。
連鎖に気づいていて断ち切りたいけど、親としてのモデルはヒステリックで非受容的だった自分の親しかいない。
だからどうしていいかわからない。それゆえの育児に対する焦りが、怒りが、親に、子どもに向いてしまう苦しさ、辛さ。
そして育児の責任の殆どが母親の肩にかかっている重い現実。
このことにもっとたくさんの人が気づいて欲しいと切に願っています。
いのうえさん
「人間万事塞翁が馬」という故事があるように、将来なにが幸いしてなにが災いするかは、これは実際のところだれにもわからないことなんです。
将来困った状況にならないように・・・と予防線をたくさん張って子育てしていくことはできなくはないですが、それをしたとしても子供が無理なく育つとは限りません。そしてそうしたとしてもきっとなんらかの問題は起こってしまうものです。
むしろ、かえってそれらの予防線を張る大人の関わりは子供の自立を奪ったり、依存を助長させたり、過干渉の悪影響を蓄積させるリスクの方が高くなるだろうと僕は思います。
しいてあげるならば「健康面」に関することは大人が管轄することであると言えるでしょうか。
難しいことを言うと、「頑張らせる」という考え方は、大人が子供を「対象」として「どうにかしなければ」という心情から発しています。
これは過干渉と紙一重ですし、大人が介入することでそのものごとは達成させられたとしても、それでは一方で自主性や自立心を伸ばさない、もしくは損なうという場合もありえます。同時に自己肯定感も低くしてしまいかねません。
大人が介入して「頑張らせ」なくても、その物事に取り組める子供を作るために、「○○ができる」といったこととは関係のないところで、子供らしい屈託のないモチベーションを培ってあげることが重要なのだと思います。
しかし、「しつけ」という先入観によって、子供の管理・支配での関わりを無意識にしてしまう現状では、それを大人が不安なく「それでいいんだな」と思えるようになるのはなかなか難しいのが現実だとも痛感します。
僕個人は、我が子に勉強にしろなんにしろ「○○を頑張らせよう」とはみじんも思っていません。
僕が親として子供に持たせられるものは、「自分で頑張りたいと思える目標を自分で見つけられる力・意欲」を培ってあげることだと考えています。それさえもてれば子供は、「頑張らさせられる」のではなく自分から「頑張り」ます。
そしてそれは、「子育てをシンプルに」のところで書いたように、本当に子供たちは「かわいがられる」(肯定する)だけでそれを自主的に持てるようになります。
トラックバック
http://hoikushipapa.jp/tb.php/1000-ae6244d8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
頑張るの二重構造、モチベーションと頑張るの関係、するどい分析ですね。
なるほどなぁと、すっきり気持ちよく理解できました。
長らくお箸が使えなかった4歳の息子、そのうち使いたいと言いだした時にまた持たせてやればよいと、しばらく忘れていたのですが、「おれ以外はみんなお箸やねん」とぼそっと言ったので「使ってみる?」と差し出してみました。
すると驚いたことに何も言わないのに正しい持ち方で、器用に最後までお箸で食事できました。おとうちゃんさんが以前に書いておられた通り、4歳ごろにすんなり持てるようになるんですね。
一方で先日小児歯科で、下の顎が小さいと指摘され、いつも口が開いていて舌で下あごが押せていないとのこと。口が開いているのは以前から気になっていましたが、そのうち閉じるだろうとのんびりしていたので、口を閉じなさいと言ってやればよかったと後悔しています。
どんなことは頑張らなくてもそのうち自分で成長していくのか、どんなことは頑張らせないと取り返しがつかないことになってしまうのか。
お時間のあるとき(いつもお忙しいと思いますが)、具体的に教えていただけるとうれしいです。