教育勅語問題から見えてくるあるレトリックについて - 2017.03.18 Sat
問題になっているだけでなく、復活させたくてしようのない人たちが元気になっています。
ついに松野博一文部科学大臣までが
”憲法や教育基本法に反しないような配慮があれば「教材として用いることは問題としない」との見解を示した”
とのことです。
1948年にすでに他ならぬ国会で教育勅語は「排除および失効確認」が決議されているのです。
国会議員が国会の議決を無視するってどうなのという問題はさておいて、そもそもすでに「公的に使わない」ということが決まっていることなのですから、いまさら議論をする余地もないことです。
先般、稲田防衛大臣は「道徳的に見るべき部分はある、だからごにょごにょ」的なことを言って人を丸め込もうとしていました。同じ文脈でこの問題を提起する人たちが少なくありません。
教育勅語についてはすでに失効が決まっていることなので、その再利用を議論すること自体に意味はありませんし、その問題点についてもすでに多くの人が語られていることなので僕が言うことはなにもありません。
ただ、ここに気づいておくと、弱者を攻撃したり国民を丸め込んで自分たちの利益にしようという人たちにだまされにくくなるというポイントがひとつ隠れていますので、それについてだけ書いておこうと思います。
この頃、こういった論法の意見をたくさん目にするようになっています。
いわく、
「障がい者は国の税金で生かされているのだから、もっと納税者に感謝しろ」
「生活保護をもらうことをもっと恥じるべき。昔の日本人は恥ということを知っていた」
「大学は国の助成金をもらっているのだから、学生に国歌を歌うことを義務づけろ」
「人工透析が必要になった人間は自堕落な生活をしたからそうなった。健康保険など払う必要がない」
「保育園は国の助成金でできているのだから、入れたことに感謝しろ文句を言うな」
あと原発事故避難者へのいじめにも同じ文脈が見えていましたね。
「お前たちは賠償金をや助成金をもらっているんだろ!」
などなど。
これらの論法には、なんとなく「そのとおりだ」と同調させるものがあり、うなずけるものがあるように聞こえてしまいます。特にそれを聞く人の側に、それらとはまったく関係ないことであってもなんらかの不満や不公平感、怒りなどを抱えていればなおさらです。
実はこの論法は現代においては、そこには聞く人をだまくらかそう、もしくは扇動しようという作為が隠れています。
今回、教育勅語がクローズアップされたことで、逆にそのことが顕著にわかりやすくなりました。
いま上に上げたようなことは、ともすると教育勅語が実効性を持っていた時代においては至極正当な言説となり得ます。
そのポイントは、「国」と「国民」の位置関係の定義づけにあります。
明治憲法下=教育勅語の精神の元においては、「国」があって「国民」があります。
つまり、「国民」は「国」のために存在しているわけです。
「国」が主で「国民」が「従」ということです。
現代はもはやそうではありません。
それが真逆になっています。
教育勅語は道徳的な部分が問題なのではなく、この国と国民のあり方を現代からすると逆転した状態で固定化する概念になりうるところが問題なのです。
現在は、「国民」があって「国」があるということですね。
「国民」が「主」で「国」が従ということです。
国民は国に奉仕する存在ではなく、国が国民に奉仕するというあり方に変わったのです。
「奉仕する」という語にはやや違和感がありますから、「国民の幸福のために国がある」と言い換えてもいいかと思います。
このようなことを言うと、「人権意識ばかりを肥大化させた甘っちょろい人間の世迷い言」のように批判する人がいるかもしれませんが、そうではありません。
誰もが知っている文章にそれが明文化されています。
それは日本国憲法です。
「主権在民」ときちんと明記されています。
国の「主権」を持っているのは、国家元首でもなく、議会でもなく、「国民ひとりひとり」ということですね。議会などはそれを代行しているにすぎません。
あくまで、国民が主なのです。
これが戦後以来現在の日本という国のシステムのあり方なのです。
これが「主権在民」ということであり、そしてそれが民主主義というものです。
いまの与党の中にはこの「主権在民」や「基本的人権」まで「なくせ!」と言う人がいるには驚きを隠せません。
もし、そうなったらそれはすでに民主主義国ではないよね。
それでも民主主義といっている国はいまのところ「北朝鮮民主主義人民共和国」だけだと思います。
さて、このことを理解していると、上であったような人の頭を押さえつけたがる人の主張に恐れ入る必要がなくなります。
「お前たちには税金から金を出してやっているんだ。もっと小さくなって生きろよ」と言ってくる人がいたら、「あなたはなにを言っているんだ、それであたりまえじゃないか。私たちこそが国の主権者だ」と堂々と言っていいわけです。
しかし残念ながらこのように補助金や助成金などを盾にとって、また、それに同調する世論をバックに様々なところで自由を削り取る動きがすでに出てきてしまっています。
教育や福祉にもそれは顕著です。
それらは国民の幸せや豊かさに直結することでしょう。
この論法には「おかしい」と気づけることが大切ではないかと僕は感じます。
ここ最近文科大臣、副大臣になっている人たちはあわよくば本気で今の子供たちに教育勅語を刷り込ませたいと思っている人たちばかりなので、下手をすると日本全国が森友学園化しかねないかもしれません。
僕は基本的に政治には興味のない人間なのですが、直接子供たちに害が及ぶとなれば座視することもできませんね。
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● COMMENT ●
政治への興味
教育勅語を暗唱したり、運動会でなぜか安部首相を応援していた子どもたちは大きくなったらどう思うんだろう。考える力もなくしてしまうのかな。
「あれっておかしかったよね」とどうか笑えるように育ってほしい。
自民による保守化に怖い思いがある一方で、「民主党ショック」が頭から離れず、選挙で他党に入れる気も無くしてしまいます。
「自民だってちゃんとしてないと足元すくわれるぞ!!」となるべき出来事だったのに、「やっぱまともに政治できるのは自民しかいないのか...」と消去法的に逆に足元を固めてしまったのが残念でなりません。
誰に託せばいいのかわからず、選挙ではいつも困ってます。
おとーちゃんさんの今回の記事にもとても考えさせられました.「ありがたがって生きていかなくてはいけない」みたいな精神論が日本では素晴らしいとされますが,正当な主張をすることがもっと当たり前になるといいのになぁと思います.
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お恥ずかしながら、選挙にも行けるときに行くスタンスです。
だけど、子育て世代、私のような人間がたくさんいると思います。
テレビのニュースだって忙しくてあまり見ません。
そんな私たちはこのブログを読まなければおとーちゃんさんが危惧しているようなこと自体にも気付くことができません。
知らないうちに子どもたちにとって良くない方向に社会が動いていく怖さを感じています。