「感情」は学んで身につけている - 2017.03.24 Fri
しかし、子供は感情を確かに学んで身につけています。
では、どういうときに学んでいるのでしょうか?
例えば、
赤ちゃんをあやしてにっこり笑う姿を見て、「楽しいなぁ、かわいいなぁ」と感じて自然にほほえむ、すると赤ちゃんも釣られてまた笑う。
そのとき赤ちゃんはその互いに通じ合う心地よい心の動きを「いいもの」だと無意識に感じて身につけます。
他者と、他者のアプローチと、自身の心の動き、これらが一体となって「人と関わることの心地よさ」につながっていきます。
また例えば、
子供をくすぐって遊びます。
大人から関わってもらい、そこで互いに「楽しい」という感情を共感します。そのとき心が心地よく動きくことにより、心が動く行為を「いいもの」「楽しいもの」と理解していきます。
そうやって子供は、「楽しい、うれしい、おもしろい」などの心の動きを経験し、繰り返す中でその感覚を育てていきます。
それが「感情」となっていきます。
これは今例に挙げたようなことだけでなく、ほぼすべての子育てのシーンで行われています。
ご飯を食べたとき、お弁当を作ってもらったとき、なにかをしてもらったとき、遊びの相手をしてもらったとき、誕生日を祝ってもらったとき・・・・・・などなど。
こういった、「心地よい心の動き」を経験しないまま育ってきた子供はどうなっているでしょうか。
そのような情緒的な関わりを親子や家庭でしてもらうことがない、もしくはとても少ないまま育ってきた子も実際におります。
そのような生育歴をおくると、どのように感情を動かしたらいいのかがわからなくなってしまいます。
親子で楽しい時間を共有したりして、「楽しい」という感情とそこへの至り方を経験している子は、これが他の人、例えば友達であるとか、保育士であるとかにも同じようなアプローチをとることで、「楽しい」ということを再現することができます。
しかし、その経験がないとそれを再現することはできません。
他の子がするのを見て見よう見まねで同じようなことをして、だんだんそれを獲得してしまうといった子もなかにはいるでしょう。
一方で、そういった子がはまりやすいのは、「意地悪」という行為です。
例えば、他の子が大事にしているものを取り上げて、その子が困ったり悲しんだり泣いたりする姿を見るとそこで心が動きます。自分のアクションによって他者を動かすというリアクションがおもしろく感じるのですね。
その子は、他に心を動かす道筋を持っていないので、その行為を繰り返すこととなります。
感情を動かすこと自体は心地よいことだからです。
この状態にある子に、「意地悪はいけないことだ」という「道徳」は通用しません。
その子が心を動かす手段が現状それしか持ち得ないのであれば、意地悪を押さえつけること(一時的に出させないこと)はできても根本的な解決にはならないからです。
このような子を「断罪」することで落着としてしまう人を僕は専門性を持った人だとは思いません。
この子の問題は、理解し援助してもらうことを必要としています。
そのように、ほとんど誰も意識することはありませんが、「感情」は経験することで学び、育てていくものとしてあるのです。
このことに難しいところがあるのは、それが理屈ではないということです。
多くの人はそれを意識することもなく、子供と関わる中で自然に獲得させてしまうことができます。
ただ、現代では子供との関わり方をほとんどまったく知らない中で我が子の子育てに直面する人も増えており、ある程度意識的に「そういうことが必要ですよ」と伝えなければならないことも大きくなっています。
僕が、「受容が大切ですよ」「くすぐって遊んでみて下さい」などと言うのはその側面もあります。
しかし、本当にこういった「情緒的な子供との関わり」(心地よく心が動く子供との関わりのこと)がまったくできない人もおります。
例えば、
・自身が親からそういったことをしてもらったことのない人
・そういった情緒的な関わりを良くないものと認識している人
・うつや育児ノイローゼなどになっている状況で子育てしている人
などなど。
こういった人が子育てをしている状況では、誰かがその問題に気づいて教えてあげたり、その人に成り代わって子供と意図的に情緒的な関わりをしてあげることが必要になってきます。
もっと深刻なものになると、心地よく心が動くよい関わりがないだけでなく、その逆の関わり、責められたり、否定されたり、疎外されたり、自尊心を打ち砕く関わりなどをたくさんされてきてしまった子もおります。
悪意があってそれをしていたら精神的な虐待と言えるところですが、そのような意識なくそういった子供への関わりを積み重ねている人もおります。
そういった子供の出す姿はとても大変なものとなります。
僕が保育に携わっていてとても歯痒く感じるのは、こういった子供のケアが日本の一般的な子育て観ではできないことです。
例えば、こういった子が3歳なり4歳なりで保育園や幼稚園に入ってきたとします。
子供の姿に深い洞察と理解をもった人でなければ、多くの場合このような子に積み重ねられるアプローチは「否定」の方向でのアプローチになります。
注意したり、叱ったり。
子供が不適切な姿を出していると、多くの人が感じるのが「この子は甘やかされている」という認識です。
ですから、厳しさで関わることが必要と見え、否定の関わりばかりを積み重ねてしまいます。
これではその子の問題は解決するどころか悪化していきます。
さらに、大人一般への信頼感を低下させていくことになり、大人を信頼できないものとの認識を持たせてしまうので、その後、よりその子へのアプローチは難しくなります。
結果的に、その子は「大人の言うことを聞かない子」とそこの大人からは見えるようになり、「押さえつけることが必要なのだ」という認識を正当化していってしまいます。
これは悪循環です。
しかし、日本の子育てにおける子供の姿の認識は、この傾向がとても強いです。
意識している人は少ないけれど、子供の「感情」はそのように作られるものです。
かつての世代では、これは誰に教わる必要もなく大人たちは自然と身につけていたようです。
それができない人がいたとしても、親族や家族や隣のおせっかいなおばちゃんなどが、「あんたね~あかちゃんてのはこうしてあやすもんだよ」と実演して教えてくれたり、それでも足りない分は自発的に肩代わりしてくれたりといったことで補完されているといったこともありました。
しかし、現代は社会や人とのつながりの形が変わったので、そういうことは望めない時代になっています。
それ自体は僕は悪いことではないと思います。
それは時代の変化であって、それがよくないから昔に戻せという考えは幻想を追いかけるようなことです。
これからの時代はそれを社会福祉が補っていく時代になっているのだと考えられます。
それが本当に必要な育児支援だと僕は思っています。
先日、6ヶ月の赤ちゃんをあやす機会がありました。
僕が赤ちゃんをあやすと、それを面白がって笑ってくれたり反応してくれる。すると僕も楽しくなってまたそれを繰り返す。
こうやって、大人と子供は心地よく心を動かすキャッチボールをしているわけですね。
僕は、そういうことができない・知らない・わからないという人がいることを知っていますし、理解しています。そういう人がいたらなんとか力になってあげたいとも思っています。
だからこそ、自分がそういった赤ちゃんとの関わりを楽しいと感じられることが、どれほど幸運なことかをあらためて感じるのでした。
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● COMMENT ●
わかります!
「意地悪」という行為
実はつい先日近所の児童館に行ったのですが、ひとり、とても意地悪な男の子がいたのです。
年齢は2歳前後。パタパタと室内を走り回る元気な男の子だったのですが、その日児童館に来ていた同月齢の子たちと比べて、明らかに様子が変でした。
・うちの娘(11ヶ月。つかまり立ちがやっとの0歳児)とおもちゃの取り合いになると、娘の手を物凄い力で引き剥がす。
・その勢いで顔を叩こうとする。
・↑この後、仕方なくこちらが男の子のそばを離れて別の場所で遊んでいると、なぜかまたパタパタと走ってきて(何もしていないのに)顔を叩いてこようとする
・おもちゃの三輪車を娘にぶつけようとする
これまで、子供同士の多少の接触は気にせずに見守っていた私ですが、さすがにこの男の子ほど乱暴な子は見たことがなく、心底びっくりしてしまいました。
そしてその子の母親をよくよく見てみれば……児童館にいた二時間ほどの間、まったく子供を見ず、ママ友とおしゃべりしっぱしだったのです。
男の子は私たち以外の子供にも、突き飛ばす、叩く、ぶつかる、など様々な意地悪をしていました。母親はろくに見もせず、ときどき思い出したように「〇〇くん、だめでしょ」と笑うばかり。男の子はむっつりとうつむいたまま母親の言葉を聞き流し、その後はまた、同じように意地悪を繰り返していました。
そのとき私が感じたのは、「乱暴で嫌な子だな」ではありません。「なんてかわいそうな子なんだろう」ということでした。
そんなふうにして放置されてしまった子供って、なんというか、「目の輝きが失われてしまっている」んですよね。目が鋭く細くなって、いわゆる「目が据わっている」状態というのか…。口もむっつりと結んで。そのとき、「あぁ、これがおとーちゃんさんの言っていた『かわいくない子供』ってやつかぁ」、と実感しました。
ちなみに、その日児童館にはもうひとり2歳くらいの男の子がいたのですが、その子はほぼ付きっきりでママとキャッキャと遊んでいて、とても目がキラキラしていたのです。
私たちが帰るときには(見ず知らずの他人なのに)「バイバーイ」と笑顔で手を振ってくれたりして。とってもかわいいお子さんでした。
心の満たされた、かわいい子供。
そうするための子育てが一番大切なんだなぁ、とおとーちゃんさんのブログでしみじみと実感している日々です。
いつも素晴らしい気付きを下さって、本当にありがとうございます。
このブログに出会えて、本当によかったです。
おとーちゃんさんの子供さんは幸せですね。どんなお金持ちの子に生まれて贅沢をさせてもらうよりも、
大好きだよ、かわいいね、なんて1度でも言ってぎゅってしてもらったら、どんなに嬉しくて幸せだろう……。
それだけであなたの為に何だってする。
子育てをしていると、自分の子供の頃を思い出したりします。
母は私が覚えている限り、私の目を見て話をした事はありません。何かまともに話をした事がないのです。
私に関わる時と言えば、
指示するとき、注意するとき、怒るとき、否定するとき、兄弟のついでの用事のとき……。
私は保育士に嫌われている子供でした。
でも誕生日の時だけは、膝に抱っこして写真を撮ってくれるんですね。
そのときに、あぁ膝ってこんなに柔らかくて気持ちがいいんだ、と思った記憶があります。少しくすぐったいような。
えぇ大変な姿になりましたよ。そして私は今、母と絶縁しています。
おとーちゃんさんのブログでたくさん大切な事を教えて頂きました。
自分の子供にはたくさんの温かい関わりをしてあげようと思います。
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おとーちゃんのブログで子育ての奥深さや、単純さみたいなものに触れて、子供に触れる仕事がしたいと思うようになり、もともとの持っていた資格がついに役立ち、暴力にさらされてきた子供のカウンセラーをやるようになりました。
おとーちゃんの子育て論を心理学の世界では、まさに愛着形成とよび、これが不完全になると陥る愛着障害が今現場では大きな問題になっています。保育士のおとーちゃんには、釈迦に説法かもしれませんが。
愛着形成の重要性はもう随分前から言われているところですが、じゃあ実践としてどうしたらいいのかってところは心理学の本にはあまり書いてありません。おとーちゃんは、本当に、ここを噛み砕いて説明されてて、素晴らしいと思います。
ちなみに私が一番感動したおとーちゃんの子育て話は、子供を見守るっていうところです。目を見て、笑い合う。いないいないばあの、何が面白かという説明をされていたと思うのですが、あれは子供を見て目を合わせて笑い合うからだっていうお話だったと思います。私は正直びっくりしました。こんな簡単なことだったんだ!子供を受け止めるってこんなことの繰り返しだったんだと。
それまではあんまり意識しなかったそういう遊びが、子供にとって意味あるものなんだと思うと、こちらも思わず回数を増やしちゃいますよね。
いつも更新を楽しみにしています。