「NO」の言える関係 vol.2 - 2017.05.02 Tue
>ぱたぱたと歩き回っておもちゃ屋さんのおもちゃをじーっとのぞきこんでいたその子に、友人は「〇〇(名前)!」と強く名前を呼んで別の場所へ連れていく……という光景を目にしました。「こうしないと、いつまでも見てしまうから」というのが友人の弁でした。その後も、色んなものを見つけてはあちこちへ歩いていってしまう1歳児に向かって、何度も強く名を呼んで連れ戻していたのです。私は「好奇心旺盛で可愛いのになぁ」と思っていましたが、やはりこの場合は「ショッピングモール(公共の場)だから(=大人にとっては困ることだから)連れ戻す」という友人が正しかったのでしょうか?
これについてです。(上は一部抜粋です。全文は前記事コメント欄をご覧下さい)
実際の子育て上では、僕がこれから述べることのように必ずしも厳密に考えなくてもいいかもしれません。またその対応をしてしまった人を責めるつもりもありません。
しかし、感情の機微なので確かに混乱しやすくわかりにくいところでもありますので、ちょっと細かいですがそこのところもお伝えしておきますね。
結果からいってしまうと、このケースは単なる大人の過干渉となってしまい、子供に管理的な関わりが増えることのデメリットばかりが多いだろうと思います。(文章からはうかがえないなんらかの事情があって必要な関わりだったという可能性も否定はしません)
なぜかというと。
僕は確かに
「大人にとっては困ることだから」という視点で、子供への対応をとっていい、またそれが必要でもあるといったことを述べています。
しかし、この場面で「大人にとっては困ること」がそのままそれに当てはまるかというと、ちょっと違うだろうなと感じます。
それはうまいこと文字で説明するのがちょっと難しいのだけど、
●明示的でない
・・・その大人の気持ちと求めている行動の因果関係があいまいで、その当の子供からとてもわかりにくい要求をしてしまっている。結果として子供からは「行動の押さえつけ」という種類の過干渉としてしか認識されないであろう点。
●おそらく先回りした干渉もしくは過保護になっているのではないか
・・・なぜ「いつまでも見てしまう」ことを問題視しているのでしょう?
上の「明示的でない」ということとも関連するのだけど、例えばこれがショッピングセンターのおもちゃ屋さんによくありがちなアーケードゲーム機が置いてあって、それをずっと見てしまうことにより強い刺激に慣れてしまうことや目が悪くなってしまうことを心配して引き戻すアプローチをしているのであれば、それはそこに因果関係の明確な理由がありおかしいものではありません。
(上と矛盾するようですが、このときその理由を必ずしも子供に理屈で明示的に伝えなければならないわけでもありません。本当にこのあたり伝えるのが難しくて申し訳ないのだけど、「ストレートな思いならOKでも、婉曲なのはちょっと違う」とでも言いましょうか・・・・・・)
でも、もしこれが「このままおもちゃを見せ続けたりすると、ほしいとダダをこねたりするのではないか・・・」といった先回りした心配をしてのことだとすると、それは正当な事実の根拠のない干渉でしかありません。
もし、使うべきでない商品であるおもちゃを使ってしまっているといったことがあるのならば、そこでの引き戻すという干渉ははっきりとした理由があり子供にも要求していいことです。
しかし、先回りの干渉をしているのだとしたら、それは管理的・過干渉としての関わりになってしまいます。
(先回りの干渉=婉曲な意図)
だからここはみかんさんのおっしゃる通り、子供としての好奇心からそれらは当然の行動です。
もし、なにか問題となることが起こる、もしくは明確に起こりそうという状態でなければ、なにも行動の規制という干渉をする必要はないと思います。
もし、その人の子育ての考え方として「お店の人に迷惑をかけてしまいやしないか」といった心配の気持ちが押さえきれないのであれば、そこは子供に要求を押しつけるのではなく、そういった場所に「私自身が」連れて行くかどうかという、自身の責任としての部分を考えた方がいいでしょう。
平たくいうと、自分が気になってしょうがないようなところに連れて行くこと自体をよーく考えようということです。
◆
実際問題として、このような「しつけ」や「正しいこと」といった「規範意識」から子供に規制をたくさん課してしまうケースは現代の子育てにおいてたくさん見られます。
しかし、実を言うと、「その意図による関わり自体がその問題を生む」という悪循環を含んでいます。
これは子供でも大人でもそうなのですが、人間の心は負荷をかけられると、その負荷がそうそう簡単に消えてなくなるわけではないという心のメカニズムがあります。
その点、人間の心はバネのようなものです。
バネは押さえつければ、その重しが取れたとき必ずそれまでかけられた負荷の分だけ飛び上がりますね。
大人で考えると、なにか強いストレスを受けたときそれをなんらかの方法で解消しなければ消えてはなくなりませんね。
人によっては、誰かと話すことで解消する人もいれば、お酒を飲むことや買い物や散財をすることで解消したりもします。運動や寝ることで解消することもあります。
その負荷を解消をせずにため込んでいくと、心身症といった身体の反応として肩代わりして出てくることもあります。
子供は、上記のような管理的な関わりを受け続けると、その反応を大人の管理を逃れようとする行動や、より止められる行動をするようになることで解消しようとします。
押さえたバネは必ず跳ね上がるのです。
だから過干渉による管理的な関わりは、よりそういった過干渉による管理的な関わりを必要とする子を作り出してしまいます。
結果的に「過干渉」が雪だるま式に増えることになります。
それが子育てにイライラや怒りといった負の感情を大きくし、子育てそのものをしんどいものにしていってしまいます。
また、それが導き出すのは、怒ったり叱ったりといった「強い過干渉」です。
このあたりは拙著『保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」』でまとめたところです。
「しつけ」といった規範意識が、管理的・干渉的な関わりを導き出し、結果的に叱る怒るという子育ての大変さを生み出しています。
日本の子育てが「大変」になる理由の少なからずがここにあります。
よく「男の子だと子育て大変ね」といわれるようになってしまうのも、この部分が大きいです。
「しつけ」といった規範意識から、管理的な関わりが多くなってしまう特徴が日本の子育てには強いからです。
これは保育の現場でも実はよく見られる矛盾でもあります。
「座って話を聞けることが大事だ」と考える保育士が、「座って話を聞きなさい」というアプローチ、要求を子供にし続けていくと、かえって子供は「座って話を聞けない子」が作り出されてしまいます。
しかし、その人は「それができることが正しい」という「規範意識」を持っているので、それをただ押しつけるだけの一方的な「訓練」を課していくことになります。
すると子供がどうなるかというと、「その人の前だけ」その行動を取る子に育ちます。
子供はそういった大人に対しては、強い信頼関係をあまりもたず依存をしないので、その人のいうことを聞く状態になりますが、そう育てられた子は信頼する人、受容してくれる人、依存ができる人に対してはピョーンとバネの跳ね上がる姿を出します。
そのため、優しい先生や、家庭に帰ってから親に対してそういった奔放な姿を出すことでバランスを取るしかなくなってしまいます。
(ではどうすれば「座って話を聞ける子」を適切に導き出せるか?は別の機会にまとめます。ここでは話がそれちゃうからね。)
そのように、多くの人が無意識に「これが子育てだよね」と思っているものの中には、
「正しい行動を取る子を作り出そうとして、かえって正しい行動が取れない子を作ってしまうという矛盾」があります。
そのように、実はこのご質問をいただいたケースは、前の記事で述べている「NOの言える関係 」の問題よりも、「規範意識から管理的になってしまう大人の心のあり方」の問題のウエイトが大きいだろうと言えます。
この背景には、そういった「管理的な子育てをされてきたしまった自身」という親の方の問題や、そういった規範的な行動を子供と親に求める社会的な見方の問題がありますので、そのように感じて子育てする人を責めるつもりはありません。
「ああ、自分はそういう風に子供に要求してしまうんだな~」と、それを踏まえた上で、個々人のムリのない子育てを模索していただければと思います。
本当にこのあたりは心の機微の問題なので伝えること、理解することが難しいところです。
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● COMMENT ●
詳しく取り上げていただき、ありがとうございました
そもそも
1歳児の育ちにショッピングモールでルールを覚えるのなんか必要ないのに付き合ってもらってるのだから…
そこはも少し大人が謙虚にならなければ…
と思います。
子育て初めのころはそれが分からず、思い通りにならないことにものすごくイライラしましたが、
現代社会における大人の都合の方が本来不自然なことなのだと分かり、大人はもう少し謙虚にならなければ、と思えたらかなり楽になりました。
正直、ゆっくり本を読んだり、買い物したりさせて~!
とは思いますが、子どもに合わせた早寝早起きは今までにない健康的な生活です。
先回りについて
記事中に書かれていることを例に取らせていただくと、「もしこのままおもちゃを見せ続けたら、おもちゃが欲しいとダダをこねるのではないか」という心配は、正当な事実の根拠がない干渉であると書いていらっしゃいますが、これは人によっては立派に根拠のあることに感じられる心配だと思います。逆に、「アーケードゲームをずっと見続けることにより、目が悪くなったり強い刺激に慣らされてしまうかもしれない」という不安は、人によっては根拠のない、「そのくらい大丈夫でしょ」と思えるかもしれない心配ではないでしょうか。
要は、人それぞれ、状況それぞれで、心配の内容は事実に即したものにも、全く見当はずれのただの杞憂にもなると思うのです。そして、それが実際に困った行動を引き起こしてしまったのか否かは、これはもう渦中にいる親にとっては分からないことである気がします。
親が子供に対して取る先回りはにはいろんな先回りがあり、それは子供のためを思ってする先回りが多いかと思います。「お店の人に迷惑を掛けることが予想されるのであれば、最初からお店には行かないようにする」という選択も、言ってみれば先回りの行動です。それがよい結果を生むか、悪い結果を生むかは、その親と子供の置かれた状況や、日常的な親の振る舞い、子育ての根幹となる親の価値観に拠ってくるようにおもいます。
要は、その子供にとって何がよい先回りなのか、それとも過干渉なのか、それをする当事者にはすごくすごく分からなくなっちゃってるんです。
分からなくなっちゃってる、私自身の話を少しさせて下さい。小1の長男は、スーパーに置いてある、とあるアーケードゲームが大好きです。100円を入れたらカードが一枚出てきて、それを使ってバトルゲームをすると同時に、カード自体を収集して楽しむという面もあるゲームです。
あんまり小さいうちから(父親の影響で年少の頃から始めました)、お金を入れてゲームを楽しむというのはなんだかな〜、と何となく思いつつも、父親と一緒に心からそのゲームを楽しむ息子を見ているとそれが根拠のない心配のように思えて、せっかく楽しんでいるし、時々やっているだけだし、それをやかましく干渉するのも却って不満を募らせるだけのように思えたので、ゲームをやることについては口出しはしないようにしていました。
それが最近では、自分の欲しかったカードが出なかったと、ゲームをやるたびに文句を言いながら帰ってくる息子を見て、すごくゲンナリしている私がいます。やはりアーケードゲームなんてやらせないほうがよかったのかなどと、そんなことを考えてしまいます。でも、そういった状況を避けたいと思ったとしても、ゲームで盛り上がる父と子は何を言っても止められるものではないです。
多分、氷山の一角だけを切り取って 、その先回りがいいものか、悪いものかを判断してしまうと、分からなくなってしまうのかもしれません。
私の場合、ゲームをさせるさせない以前のところで、もっと生活全般において、息子にそういったことを思わせてしまうような、つまりは息子にそのような価値観を抱かせてしまうような振る舞いを、親自身がしていたのではないかと思い当たっております。
それを考えると、今のこの好ましくない状態は、ちょっと子育てでどっかつまづいていないか考え直せよってことなのかもしれません。
或いは、息子が抱く不満も全て、息子を成長させてくれる経験であるくらいに捉えていたほうがいいかもしれません。(「NOの言える関係 Vol.1」にあるような、様々な〝思うようにならない〟ことによって生じる葛藤と、それを乗り越える過程を、まさにこのとき親も子も経験しているというだけのような気がします。)
先回りについて書いているのに、よく分からない方向に話が進んでしまいすみません。必要、かつ適切な先回りの難しさについて述べたいと思い、書きました。私は元来、計画だの先回りだのが苦手で、いつも場当たり的なことをしては失敗をしたり、或いは親の都合100%な先回りをしてこどもを振り回し、反省することもしばしばです。なので、どの程度がよい先回りなのかがよくわかっておりません。それこそ、トライアンドエラーで経験を積んでいくしかないのですが、なかなか難しいものです。「親は子供に対してこうあるべきだ」という理想に縛られて、苦しくなるときもよくあります。
大人の指示に従えない子
2歳なりたての子を保育園に預けていますが、気になったものに寄って行って手を出さずにいられない、座って話が聞けない子です。
保育士さんに、すぐいなくなる、ウロウロすると言われています。家での食事中もすぐ動き回り、外でも手を振りほどいて行ってしまいます。
今回の方のように、名前を呼んで、行かないで、座って、と声がけをしている状況です。
過干渉てますよね。でも保育園で困るし‥と悩んでいます。
座って話が聞けない子へのアプローチ、書いてくださるのを楽しみに待っています。
お陰様で、周囲の声や噂に迷わされず子育て出来てると思っています。
本当にありがとうございます。
赤ちゃんの頃から「座って話を聞ける子」だと思っていた子が、幼稚園参観の際に、実はそうでなかったことを知りました。
緊張感がある中ではそれができるのに、優しい先生や、優しい祖父母の前ではそれが出来ない様子です。
「座って話を聞ける子」を適切に導き出せるか?について是非知りたいです。
記事にして頂ける日をお待ちしています。
ひとつ、いつでもいいので教えていただきたいことがあります。
両親がどちらも生育歴に問題があり、一方がそれに気づいている場合、気づいているほうが防波堤になれば、子どもの心を守ることはできるのでしょうか?
守るというのは、とにかく私はあなたを愛していると子どもに伝え続けるくらいしかできないのですが。
いちごさん
興味のあること制限したくないと思って、やりたいことやらせたら逆にそれによるイライラが出てげんなり・・・あります。
私の一人息子は記号が大好きで、携帯電話でひらがなやアルファベットを打ちたいと言われました。私がメール等を携帯で打っているのを見て、したくなった様子。
携帯電話は誤操作されると困るし、プライベートにより近いと感じているので他人のを使うことに慣れて欲しくないこともあり、自宅のパソコンのワードでも打てることを教えました。子供がやりたいと言ったら、長くならない程度に自由にさせてます。
が。
できない!どうやってやるの!?これやって!!の連続にイライラーーー。
パソコンなんて早い、与えなければ良かったと言われればそれはそうなのですが。でも興味を持ったときが初め時。ここで禁止して、あと数年したらもっとやれ!なんて都合が良すぎるような気がして。
イライラしたときは、子供に伝えます。そんな言い方されたらイライラする!そんなに言うならしなくていい!出来ないなら出来なくていい!お母さんが忙しいときは手伝えない!(こっちもイライラしてるから、強く言うことが多いです・・・)
って言ってたら、子供が色々言ってくることが減りました。彼が疲れてるときはダメだけど。
ゲームしながら毒づいてるのって、しない人からみると嫌なものなんですよねー。夫もするけど、本当に嫌。ならしなければいいのにって思う。
そういうのも含めて楽しい人もいれば、周りで見て不快に思う人もいる。色々な人がいる。そういうのを子供に隠さなくてもいいのではないかな。
と、思いました。長々すみません。そして方向性が違っていたらすみません。
ゲームとかパソコンとかだから迷っちゃうけど、他の遊びでも同じようなことは起こるのではないかな。スポーツだと、失敗してイライラしてるのってそんなに不快にならないんですけどね。努力が目に見えるからかな。不思議。
クロワッサンさん
>一方がそれに気づいている場合、気づいているほうが防波堤になれば、子どもの心を守ることはできるのでしょうか?
守るというのは、とにかく私はあなたを愛していると子どもに伝え続けるくらいしかできないのですが。
このことはとても大きな力になるであろうことは間違いありません。
いろんな実際のケースを追っていくと、子供が本当に絶望してしまったり、生きる力を失ってしまったり、生育歴上の問題から精神を病んでしまったり、このような問題の大きいケースに追い込んでしまうことの背景に共通してくるのは、誰ひとり守ってくれない、理解してくれない、肯定してくれない・・・こういったことがあります。
例えば、父親が自分に明らかに不当な暴力を振るっているのに母親は「あなたがお父さんを怒らせるようなことをするからでしょ」「あなたにも悪いところがあるのだから・・・」などと自分の味方になってくれなかったり、父親から性的虐待を受けているのを母親が見ないふりをしていたりといったケースです。
こういったことは極端かもしれませんが、逆に見ると理解者、肯定してくれる存在、守ろうとしてくれる存在がいることがセーフティーネットとなっていることがわかります。
もなさん
息子も今や小学生、この歳にもなってくると今までと違ってダダのこね方も可愛げがなくなってきたせいか、こちらが受け止めるのがなかなか難しくなってきた、というのもあるのかなと思いました。子供の否定的な姿を受け止めるのって、ほんとにものすごく疲れますよね……。もちろん、嫌なことは嫌ときっぱり言っているのですが、この歳になっても年少のときと同じようなダダをこねる(そして、年齢が上がったぶん口が達者になって、なんとも憎たらしいことをワァワァ言ってきます(泣))ので、ほとほと手を焼いております。寄り添いはするけれど、嫌なことは嫌だとはっきり伝える、そして子供自身が乗り越えられるよう見守る、基本スタンスとしてはこのようにしているつもりなのですが、如何せん私の接し方がよくないのか、はたまた息子の元々の気質なのか、ゲームに限らず、思う通りにならないときは万事こんな感じで疲れてしまいました。でもやはり、ゲーム関連だとイライラも2割増しである気がします。(やはり心のどこかで、ゲームは良くないといった気持ちがあるからかもしれませんね。ここら辺、自分で気持ちに折り合いをつけていきたいです。)
聞いていただきありがとうございました。ちょっと息抜きしながら、めげずにやっていきます^_^
ありがとうございます
夫の機嫌を損ねないために子どもを責める。
危うく子どもの敵になるところでした。
肝に命じて子どもを可愛がります。
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今回の記事で取り上げていただき(まさか取り上げていただけるだなんて思いませんでした!)、また、非常に詳しくお答えいただいて、抱いていた疑問がスッキリしました。本当にありがとうございました。
前述のケースはやはり過干渉になってしまうとのことで、とても勉強になりました。
「先回りの干渉」というご指摘が非常にしっくりきました。
その友人は非常に真面目な性格をしていまして、お子さんを連れ戻すときも決して「むやみに怒鳴りつける」ようなことはしないのです(だからこそ、私も「ああやって連れ戻す方が正しいのかな?」と本気で悩んでしまったのですが)。
ただ、真面目ゆえに、お子さんにも品行方正な振る舞いを求めているようで。たとえば「手が汚れたり床が汚れて大変だから、手づかみ食べは一切させなかった」と言う風に、常に先回りの躾をされている様子でした。
私自身も、きっとこのブログに出会っていなければ、その友人と同じように行動していたと思います。
つまり、「品行方正」で「いい子」でいることを子供に強いてしまっていただろうな、と思います。
子供は、子供自身にしっかりと育つ力がある。
そのことをおとーちゃんさんのブログで初めて知りました。私にとっては一生の財産となる言葉です。むりやり「いい子」にしなくとも、子供を信じてサポートしてあげれば、きっとうまく育っていく。それを信じて子育てに励んでいきたいと思います。
いつも素晴らしい記事をありがとうございます。
これからも拝読させていただきます。