子供を潰すための3ステップ vol.4 - 2017.11.29 Wed
子供を大切にすることはもちろんいいことです。
にも関わらず、なんだか子育てが安定しないという状況に突き当たっています。
「子供が大事」「子供を大切に」「子供を尊重して」
こういったことは好意的な考え方ではあるのだけど、実際に子供にどう関わるかによってそれが裏目に出たりもします。
しかし、それらは「よい」と思って行われるがゆえにそこに問題があってもなかなかそれが見えてきません。
結果的に、親の子供に対する「よかれ」という気持ちが、子供を潰すことにつながりかねません。
「子供を潰す」という表現は、かなり過激ないい方なので強すぎるかとも思うのですが、しかし本当に子供と親の人生に非常に大きな影響を及ぼしてしまうことがあるので、注意喚起と思ってあえてそのように記載しています。
では、見ていきましょう。
子供を大切に思い、子供に強い関心を向け続けていくと、ついついいろんなことに手を出したり、口を出したくなってしまいます。
いわゆる「過干渉」の状態です。
現代の子育ては「過干渉」がデフォルトの状態です。
ネグレクトのような行きすぎでないもので、バランスの取れた過干渉でないケースを探す方が難しいと言えるほど、みなさん子育てが過干渉を当たり前としてスタートしています。
これは別に現代の親が悪いわけではありません。
理由のひとつは明らかで、すでに前の世代が「過干渉」を良いものとして子育てを送ってきたからです。
つまり、いまの親の世代自身が過干渉で育っていますので、それをなぞってしまうのも当然のことです。
また、前の世代が「悪い」というものでもありません。
その世代の人たちは、その人たちなりに良い子育てを模索、追求した結果そのようになっていきました。
しかし、必ずしもそれがバランスの取れたものであったかというと、そうではありません。
なかにはバランスのとれたところを行きすぎて、針が振り切れてしまった子育てになってしまった傾向もあります。
一例を出すと、以前の記事で書いたような、我が子を「トロフィーチャイルド」化して、子供に入れ込みすぎてしまうケースなどがあります。また、子供の受験に親が血道を上げるといった過激な受験戦争などもそれと同じ傾向があると言えるでしょう。
さて、そういった背景を踏まえて乳幼児の子育ての場面を考えてみます。
例えば、2歳児が遊んでいるおもちゃがうまく使えていないようなとき、大人はそれを断りもなくヒョイと取って直してあげて「ほら、これで使えるよ」と渡したりします。
これ、大人の方に悪気などありませんよね。
大人は好意、親切でやっています。
もし、これと似たようなことを思春期の子にすると、とても強い反発を出すでしょう。
大人にやると、そのとき直接的な反発はしないかもしれませんが、それをされた人はモヤモヤや怒り、やるせない気持ちを心の中に引き受けることになりかねません。
そうされたからといって強い反発をしたりはしない小さな子であっても、そこになんの影響もないわけではありません。
これは大人からすると親切でやっているのですが、子供にとってはもちろん親切と受け取れる側面がある一方で、「なんだかなぁ」とモヤモヤを与える側面や、もっと端的に「なんで手を出すんだ!」と感情的な反発を覚えるケースや、反発は覚えないのだけどこういった経験が積み重ねられることで「依存」の状態を強めてしまう側面などいろいろなパターン、要素を与えます。
それがどうでるか?は人それぞれだったり、程度によるバランスの問題だったりします。
そういったものをトータルして、ここにあることを一言で表すとすると、ここには「子供の自己決定を奪う」という問題があります。
実は、子供には「うまくいかない経験をする自由」や「失敗する経験の自由」があるのですが、大人は、子供への関心の強さや過干渉な気持ちからそれらを知らず知らず奪ってしまっているのです。
これがいま例にあげたような、ごく小さいときの小さなおせっかい程度であれば、人生に影響を与えるようなそこまで大きな問題にはならないでしょう。
しかし、これが年齢があがってもそれに応じて、親の「よかれ」「親切」「あなたのためだから」「子供の一挙手一投足までもが気になる過干渉」などの介入が強まっていけば、大きな問題の原因になることがあります。
子供は、この自己決定をたびたび大人によって奪われるという経験を積み重ねていくと、自分の意見や思い、やりたい気持ちなどを無意識に自分でおさえ込むようになったり、そのおさえ込むことによる負荷をイライラやゴネやわがまま、多動的、暴力的な行動などで出し、さらにはその状態を否定されたり、否定的にとらえられるという結果につながる場合があります。
もし、みなさんの周りに小学校高学年から中高校生の子供が多数いたら、そのうちの幾人かが口癖のように「つかれた・・・」「めんどくさい・・・」「かったるい」「だるい」などの言葉を言う子を見かけるかもしれません。
これらは字義通り「身体が疲れている」という訳ではありません。
本来、子供時代からたくさん持っているはずの自主的な行動意欲、子供らしい挑戦する気持ちや好奇心や、そこからの達成感などを、大人からの「よかれ」や「干渉」により奪われてしまった結果、自分の心の中に持っている気持ちを外に出せないジレンマや、意欲・モチベーションの低下が、これらの言葉として口から出ているのです。
単に、言葉だけで止まっていればまだよいですが、この押さえ込まれた気持ちが受験などの大事な時期にあふれ出してきてとめられなかったり、不登校や引きこもりといった結果につながってしまうこともあります。
そこに至ったケースの多くにおいて、親自身は自分のしてきた、子供への「よかれ」や(過剰な)期待、そこからくる過干渉が、子供をそこに追い込んだということに気がつけません。
その親の立場からすると、子供を「否定」してきたつもりはありません。
たしかに実際にも、明確な「否定」の行為があったわけでもありません。
でも、子供は「自己決定を奪われる」ということによって、本来あった意欲や、その意欲が育つ伸びしろを奪われ続けてきてしまいました。
「自己決定」を奪われてしまうと、結果的に「自己表現」も奪われることになります。
「子供のために親である私が正しいことを教え込まなければ!」とばかりに、いろんなことに管理・干渉をしていったとします。
着る服や、髪型や、選ぶお菓子などなど・・・・・・。
ただこのあたりの機微はバランスの問題なので、一般化して語ることで理解してもらうことはなかなか難しいです。
例えば、
a「子供が1歳児で、虫歯にならないようにチョコレートのついたお菓子はあげないようにしている」
というのと、
b「子供はもう小学生で、周りの子は自由にお菓子を買い食いしているが、それはさせたくない」
というのと、
c「子供はもう小学生で、周りの子は自由にお菓子を買い食いしているが、子供がチョコレートを食べたいと考えることすら許さない」
という、この3つは同じではありません。
同じではないと僕は言えますが、この3つの違いがわからないという人がいることを僕は否定しません。
aは、子供が小さいことから子供の健康のための判断を大人が多くする年齢の範囲です。
ここで、子供に「チョコレートをあげない」という判断は、健康面を保護者として守っているのであって、これは必ずしも「自己決定を奪う」ことにはなっていません。
bは、そう思う人のなかであっても、現実の態度はさまざまです。「まあ、友達といるときは仕方ないわよね」と柔軟に思える人から、「子供に外で勝ってに食べないといったルールを課して守らせよう」とする人など。
これらは程度の問題によって、「自己決定を奪う」ことになるケースから、そうでないケースまでさまざまでしょう。
cは、「考えることすら許さない」というこの状態は、確実に「自己決定を奪う」といったレベルにきてしまいます。
これを徹底的にされて育った人のなかには、大人になって親から独立した後になってもこういった親からの束縛が生きにくさになったり、対人関係の難しさになったりするケースもあります。
その難しさの一点は、「自分がどうしたいかを言えない」つまり「自己表現ができない」というものです。
そこには、「自分がどうしたいかを決められない」という「自己決定ができない」ということが密接にからみ合っています。
こういった現代の子育ての注意点は、「子供を低いものと見なさない」ということだと思っています。
子供に「よかれ」も、実は、「子供だからどうせ自分でできないよね」という親切ではあるけれども、子供の力を低く見積もった気持ちが背景にあります。
僕は保育士への研修のなかでは、「過渡期としての存在」と子供を見る視点をお伝えしています。
それは「いまはまだできないけれども、もうすでにその力を秘めた存在」として見ようというものです。
こういう話は、本当にその人がどう感じるかという「心の機微」が関わってくるものなので正確にお伝えすることが難しく感じます。
この記事のなかでも補足を入れるべきポイントがいくつかあるのだけど、いま多忙な時期なのでそれができるかどうかは未定です。できなかったらごめんなさい。
余談ですが、不思議なことになぜか、この「自己決定」「自己表現」を奪われて育った人と、「オタク文化」の親和性がとても高いのを感じます。
なにかそこには、フィクションに仮託するなかで自己表現欲求を満たすことができたり、自由で抑圧されていない主人公の存在など共感を呼ぶものがあるのかもしれませんね。
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● COMMENT ●
「自己決定」「自己表現」を奪われて育った人と、「オタク文化」の親和性
わかります
娘が幼稚園に通うようになってから、担任の先生が「こうあるべき」という思いが強い方なので、お迎えに行った際よく先生にアドバイスというかお小言を頂きます。
もしかしたら先生も、親からそんな風に育てられたのかな、と思うし、そうなると教育のプロでもなかなか支配的な指導から離れた方法で子供と接する、というのは、そうとう難しいのだろうな、と感じています。
とはいえ、そういう親とは違うタイプの人間に接する機会も勉強と捉えるならば、娘は毎日幼稚園で社会勉強してるんだ、と思えば心配する気持ちも軽くなりますし、アドバイスはありがたく心に留めておこう、と前向きにもなれます。
私もオタク文化は大好きで、ありがたいことに親にも咎められたことはないのですが、周りを見てみると、確かに親との関係が良好とは言い難い人はたくさんいました。
しかし巡り合わせというのでしょうか。
親に否定された分、自分の好きな物に共感してくれる人、自分を認めて大切にしてくれる人にどこかで出会えるんですよね。
なので、もし我が子に否定的に接してしまう、支配的に関わって自己嫌悪に陥るお母さんがいたら、今その問題に気づけたなら大丈夫だし、子供ってけっこうなんとか楽しく生きていけるもんだよ、と伝えたいです。
そうしたら、「こうしなくちゃ!」という気持ちが少しは消化されて、子供を信頼する気持ちが芽生えてくれるといいな、と思います。
余談について
例えば、漫画やアニメなどの中にはいろんなキャラクターがいます。それこそ、人に迷惑を掛けてしまうような厄介な性格のキャラクターも。それでも、そのキャラなりの良いところがちゃんと周りに認められている、いわば一人一人のキャラクターの個性が受け入れられている、その世界の中でちゃんと役割を持っている。個性を発揮しているからこそ、受け手の目に魅力的に映るのでしょうし、仰るようにフィクションに仮託したりするのだと思います。
それなのに、目の前の我が子の“厄介な”個性をなかなか受け入れられない自分がいて、なんだか滑稽に思えてきます。
「ファンタジーは行きて帰りし物語である」というのを聞いたことがありますが、帰ってくる場所があまりにも自分を生きられないところであるなら、ファンタジーから帰りたくないと思ってしまいます。
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