サンタクロースの正体について - 2017.12.07 Thu
いま息子は小学校6年生ですが、たしか4~5年生だった頃、友達からからかわれる+馬鹿にされる調子で「おまえまだサンタなんか信じているのかよ」と言われたことがあったようです。
上のことはあとからわかったことなのですが、この時期息子はしばしやさぐれました。
妹に対してなんだか意地悪な関わりや言葉をぶつけるのです。
そのなかで「サンタは本当はいないんだぞ」みたいなことを言っています。
そういうことがあるなかで、妻に「本当はサンタクロースはおとうちゃんとおかあちゃんなの?」と聞いてきます。
妻はそれに対して、「どうしてそう思うの?」とたずねたところ、上記のような事情がわかったということです。
その相手の言ってきた子も幼少期から知っている子でしたので、なるほどそういういい方もするだろうなと理解できることでした。
妻はそれに対して特に否定も肯定もせず、「ああ、そうなんだねそう思う人もいるかもしれないね」と答えていました。
僕も妻も子供は子供らしさをふんだんに持ったまま大きくなるべきだと考えてきましたので、息子にも娘にもある種の子供らしさ、幼い部分というのを残してあります。
それがこのとき味方しました。
子供は「信じたいものを信じる」のです。
息子は、どうも毎年サンタクロースのプレゼントを用意しているのは親だということを感じてはいるようです。しかし、その一方で並行して、サンタクロースがいることやプレゼントをくれるのは実はサンタかもしれないという思いも持ち続けています。
僕は子供のそういったファンタジックな気持ちは本当に素晴らしいものだと感じています。
やがて時間と共に、いつのまにかそう思う子供の部分は消えてしまうことでしょう。
おそらくそれが子供時代の終焉です。
その日が来るのが一日でも遅ければいいなと僕は思います。
妹にいたっては、兄よりもはるかにメルヘンの世界に生きているので、兄にそのようにちょっと悪意を込められて言われてもまったくのほほんと受け流せるのでした。
娘のこの個性には周りの人間みんなが、ほんとにいろいろと助けられます。
さいごに、
このサンタクロースのことに限らず、ある種の心のダメージを子供がどう消化していくかというのは、これは子供自身の問題です。
「親が解決してあげる」or「将来それで困らないようにしてあげる」ことではありません。
もっというと、そこで「葛藤する権利」を子供は持っています。
親が子供への心配のあまり、そういったある種の「心のつまづき」が将来ないようにといった方向で子育てをするのは、これは「心への過保護」になってしまいます。
コメントにあったように、親自身が「まだそんなこと信じているのか」などとあえて心を傷つけるようなことを言ってしまうのは論外ですが、そうでなければ子供はどういった形であれ自分で乗り越えて成長していくことができるでしょう。
しかし、「心への過保護」を親が頑張りすぎてしまうと、子供はかえってさまざまなことに挑戦しようとしたり、立ち向かったり乗り越えていったりする力をしぼませてしまうこともあります。
将来、子供がそれで悩むのならば悩めばいいのです。
それが本当の意味で、子育てというものだと思います。
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● COMMENT ●
我が幼少期のサンタファイナル
サンタの思い出
子どもの頃、親からクリスマスプレゼントを買ってもらっていましたが、サンタさんから貰う形ではなかったので、大きくなるにつれ不思議に思うようになりました。
近所の人や保育園の先生は「良い子にしていないとサンタクロースは来てくれないよ。」というので「わたしが良い子じゃないから来てくれないのかな?」と悩んだり。
そんなことを母に相談すると、「世界では戦争してる国や、ご飯を食べられない国の子がたくさんいるのよ。サンタさんはそういう子のところに行くの。あなたは毎日ご飯もおやつも食べられるし、お父さんとお母さんがプレゼントを買ってあげるからね。」と言われて納得した覚えがあります。
でもある年、隣の家の友達が「サンタさんからプレゼント貰ったよ!」と言って、びっくりしました。それでも私は「隣のお母さん、いつも怒ってて怖いから、サンタさん可哀そうに思ってプレゼントあげたんだな。」と勝手に納得していました。
そんなわけで、わたしはサンタクロースの存在を否定する機会なく大人になってしまいました。
「良い子だけにサンタクロースが来る」というのは子ども心に良くないですね。
いいですね!
「本当はサンタクロースはおとうちゃんとおかあちゃんなの?」
と問われて、
「そうだよ」と「ちがうよ」以外の
答え方があるなんて!
なんだか目から鱗というか、
参考にさせてもらいたいと思いました。
ありがとうございます
色々と、考えさせられる内容でした。
「子供時代の終焉」という言葉に、ハッとしました。
私が、サンタの正体に気づき始めた頃に抱いていたモヤモヤした感情、寂しさは、親の「サンタ終了の演出」がどうだったかという問題ではなくって、私自身が「子供時代の終焉」を感じていたからかもしれないと気づきました。
高学年になり、受験戦争に駆り立てられ、競争社会=現実と感じるようになっていて、心がささくれだっていましたし、そういう毎日の中で、自分の中から、大切な幸せなファンタジーの世界が、こぼれ落ちて色褪せていってしまうような感覚でした。
「サンタの正体を知ってどう感じるのか」は、その時、その子がどういう現実を生きているのか、によるのかもしれないと思います。
私がサンタ終了の仕方にこだわってしまったのは、そんな風に自分がある種の「辛さ、わだかまり」を感じた思い出からでしたが、他の方のコメントを拝見したりして、幸せなまま、楽しい思い出のまま、すんなり乗り越えられることもあるのだな、と思いました。
また、本文でもご説明ありますが、この記事のカテゴリが「過保護と過干渉」になっているところからして、うーん、とうなってしまいました。やはり、自分は「過保護、過干渉」だな、と。
サンタのことで、子供が友達にバカにされる、という状況は思いついていなかったのですが、そういうことがあり得るとなると、かわいそう、未然に防ぎたい、という気持ちがやっぱりちょっとわいてしまう自分に気づきました。
子供が自分の「子供らしい部分、ファンタジーを大事にする心」を否定しないでほしい、そのために・・・とついお膳立てしたくなってしまいたくなりますが、そうではなくて、「自分の力で幸せな形で乗り越えていける」ような毎日を歩んでいるか、そうした心を育んでいくことの方に敏感でありたいと思います。
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サンタクロース、我が幼少期?は「あなたたちもそろそろ気づいていると思うけど、サンタは実はお父さんお母さんでした……今年からは手渡ししますね」「やっぱりか……」とバラされながらプレゼントを受け取った翌朝、枕元に別のプレゼントがあり「えっ……ヤバい。マジでサンタいる。」というサンタファイナル思い出があります。親も楽しんでくれていたんだろうな、と、色々なことに……今振り返ると感謝ばかりです。(なのに、いい子にしていた辛い思い出もずっとのしかかるんですよね、子育てって奥が深い!!!)