謝れる子、謝れない子 - 2017.12.20 Wed
例えば、なにか友達にしてしまってそこをその子が反省して相手の子に謝れるかどうかといったことが起こった場合。
その子が謝れるか、そうでないかは「自我の出し方」「感情のコントロール」などの発達上の問題もありますが、その子自身が自分をどれだけ肯定できる気持ちをもてているかが非常に重要です。
一般的な子育てのシーンで、なにか注意されるべきことをしてしまった子に「(相手の子や大人である自分に対して)ちゃんとあやまりなさい」といったアプローチを見かけます。
このとき、その子が自己肯定感をたっぷり持っている子であれば、その大人の対応も(それが良いとは言いませんが)まあそう無理なものではありません。
しかし、そもそもなにか注意されることをしでかす子、それが慢性的になっている子であればなおさらのこと、そういった子は自己肯定感うまく持てていないことが多いです。
すると、自発的にはもちろん、言わされた言葉でもうまく謝ることはできません。
言わせた大人からすると、そういった子供の様子は「反抗的な態度」と感じられるので、さらに感情的になり怒りやイライラが増大してしまいます。そしてその子に対する否定的な気持ち、不寛容な心情を持ってしまいます。
子供はそれを感じるので、本人は反抗したいと思っているわけではないにも関わらず、結果的にさらに反発的になってしまいます。
つまりは、謝れない子には理由がある。その理由のひとつとして「自己肯定感の低さ」があるというわけです。
これはイメージで言うと、お財布の中身みたいなものです。
謝ったり、反省したり、人にものを譲ったり、優しくしたりといった行為は、自分のお財布から誰かにそれを払ったり、分け与えたりする行為です。
子供はみな、ある一定水準までそのお財布に中身を誰かに入れてもらう必要があります。
一定水準以降は、それを元手に自分で増やすことができるようになります。
そういった「自分で増やせるところまでいった子のみ」を対象に考えられてきた子育てが、いま例にあげたような何かをしてしまった子に、注意や叱ったり怒ったりという否定的なアプローチで正しい行動を子供に強要していく子育て法です。
いわゆるところの「しつけ」の子育てはまさにそれです。
その状況が持てている子に限ってであれば、(過剰にならないことを条件に)「しつけ」の子育てでも子供を伸ばしていくことは可能です。
(しかし、過剰にならないようにする安全弁はないので往々にして過剰になる)
しかし、現代で直面しているのは、さまざまな理由や条件から、そこまでいくことが難しくなっているところから子育てがスタートしている状況です。
さらに言うとこの問題は何重構造にもなっていて、そういった子育てをしている当の大人が、すでにそのような子育てをされてきており自己肯定ができづらい状況から出発していることがありえます。
大人のお財布の中身が少ない状況から、子供のお財布の中身を増やさなければならないというのは、ずいぶん難しいことです。
場合によっては連鎖が起こってしまいます。(その連鎖は、単に繰り返されるという意味だけでなく、いろんな形ででる)
ただ、大人の方がそれに気づいていてバランスをとっていったり、その人以外の大人がバランスをとって子供のお財布の中身を増やしてあげることができれば、この問題や連鎖は防げます。
このお財布の中身というのは、もちろん「お金」ではありません。
また、子供が喜ぶモノやお金のかかるレジャーといった換金できる類いのものでもありません。
かといって、「愛情」といった精神的ななにかでもありません。
ただ、それらお金や精神的ななにかが、それになりうることはないわけではありません。
しかし、まあそれらではないと理解しておいた方が現実的には手っ取り早いかと思います。
では、その中身はなんでしょう。
実はすでに答えは何度も出ていますが、
それは「肯定」です。
子供が安定して健全に育っていくために必要なのは、
また、大人になってもバランスの取れた精神を維持して前向きに生きていけるためにも必要なのが、幼少期の「肯定」なのです。
普段の生活や人との関わりの中で、いろんな形で「肯定」をもらうことができていれば、「しつけ」の子育てが望むような、規範的な行動のいちいちを大人が子供に刷り込む必要はさしてありません。(ここを大人が頑張ることで過保護・過干渉という別の問題が生まれる)
叱ったり、怒ったり、注意や小言のような、否定の方向での関わりであればなおさら必要ありません。
これを踏まえてみてみると、謝れない子に対して「謝りなさい!」と大人がイライラや怒りとともに、上から押さえつけるように居丈高に子供に関わっていく必要というのが、そもそも子育てのなかであまりないということがわかります。
その子は「謝らない」のではなく、「謝りたくても謝れないところにいる」という問題のあることが見えるからです。
では、その子への適切なアプローチは、「謝り」を強要することではなく、その子に必要なものを持たせて自発的にそれができるところまで押し上げてあげることです。
これを僕は、「子供の諸条件を整える」とか「個々の子への援助の視点」と呼んでいます。
親向けの話の中であれば、「”できる子”よりも”かわいい子”を目指そう」といった風にシンプルにしてお伝えしています。
今回は、「子育てにおける自己肯定」という問題を子供の側から見ました。
上で述べた「何重構造」の一番外側だね。
そのひとつ後ろにあるのは、「親の自己肯定」という問題です。
僕は「子育て」を考えていく仕事をしているわけだけど、それを考えれば考えるほどクローズアップされてくるのは、子供以上に大人の問題ではないかと感じることが多々あります。
なんとか少しでもそこに手を当ててあげることが大切だと感じます。
まあ、それについては書けるときに書いていきます。
さすがに年末でいろいろ忙しくなってきました。
もうすでに、インフルエンザやお腹にくる風邪など多発しているようですみなさまもどうぞご自愛下さい。
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● COMMENT ●
No title
小2の息子は、毎日のように友達を家に連れてきて一緒に遊びます。が、その時はもうびっくりするくらい、(息子含めて)めちゃくちゃな状況になってしまい、ほとほと手を焼いてしまいます。
挨拶もなしに上がってくる(こちらが挨拶しても目を逸らしてしまいます)、3歳の下の子を泣かせて面白がる、ほんのちょっとしたことですぐに拗ねて怒って喧嘩になる、拗ねて泣いた友達をからかって更に状況を悪化させる、こちらの言葉がなかなか通じず、簡単な質問をしても状況を理解しておらず答えられない、、、、、
初めの内は、(やんちゃな子たちだなぁ)くらいに思って口出ししないようにしていたのですが、あまりに目に余ってきたので注意するために喧嘩になった状況をそれぞれに聞こうとするのですが、長くなってくるともう自分のことではないかのように、まるでこちらの言葉が耳に入らないかのようにどこかへ行ってしまい、もう何をどう伝えていいのか分かりません。それで結局、手短に「友達に嫌な思いをさせたら謝らないといけないよ」と言うと「ハイハイ、ゴメンネー」と何がゴメンネなんだと腹立たしい一言。そして泣いていた友達はさらに怒って状況はより一層こんがらかってきます。
なるべくみんなの言い分を聞いた上で、言うべきことを言いたいのですが、上記のようにわやくちゃな感じになってしまってもうこっちが泣きたいくらいです。
ただ、からかわれて泣いて怒って壁を蹴った子に対して、「悲しいのは分かるけど、壁蹴ったら家が壊れちゃうからおばちゃん困るよ!」とはっきり伝えたら、後になって自分から謝ってきてくれました。自分の気持ちが通じたようで、嬉しかったです。(その子に対しては謝りなさいを言ってないです。)
友達が帰った後、息子とじっくり話をしてみましたが、「自分が悪いことをした」という感覚はあまりないように見受けられ(私と二人で話す時はこちらの話も聞いてくれるし、息子なりの意見も言ってくれますが)、その根底には、他人の気持ちを想像することの欠如があるように感じます。ひいては、自分を肯定できない気持ちがすでに出来上がって来てしまっているのを感じ、親としては途方に暮れるばかりです。(自分は子供をダメ出しばかりしてきちゃったなとか、そのくせ言うべきところではっきり言わず曖昧にしてきたばかりに、行動の指針が持てず自信を持てないのかも、と言う気もします。)
なんか、謝れるかどうかよりも、まず話を聞けるか聞けないかみたいな流れになってしまいました。
余談になりますが、我が家に来る子で一人だけ、ものすごく話の通じる子がいます。挨拶もしっかりしており、ハキハキ喋って、こちらの言うこともよく理解してくれます。嫌味な物言いはしませんし、下の子にも適度に気を遣って接してくれます。(小さい子に自然と優しくしてくれる感じで、でも無理な我慢はせず、嫌なことはキッパリ断ります。)遊ぶのもとても上手で、みんなをよくリードしてくれます。まぁ、やっぱりやんちゃではありますが。(この子がいないとだいたい戦いごっこに流れて行って、いつのまにやら本当に仲間割れしている、或いは単なる物の見せ合いばかりになったり、部屋にあるおもちゃを取っ替え引っ替えするだけでじっくり腰を据えて遊ぶということがまずありません。むしろ、遊びを楽しむことができず、人をからかったりすることそのものが遊びになっているような感じさえします。)
長文の上、趣旨がずれた話になってしまい申し訳ありません。以上です。
こどもは柔軟で成長していきます
とはいっても批判したいわけではありません。
読んでいて、なんだか自分の子どもの頃を思い出し少しだけ苦しくなったのです。
一言で申し上げると
「それが子ども」なんだと思います。
とくに男の子はその傾向が強く、その子がそのまま成長するわけではないですし、どこかで必ず気が付き反省し改善していきます。(と信じています)
ゆりこさんの気持ちを察すると、私自身もきっと同じように感じるし思うと思います。でもできるだけ大人が介入しないように努力します。
ただ、「私自身が嫌だ」と感じたことはゆりこさんのように素直に言うと思います。正しいしつけではなく、私自身が個人的に嫌だと思うこと。それは自信もって伝えられるからです。
保育士とおちゃんの言葉ですが、私が常に「なるほどなぁ」と実感するのが「子供はみな発展途上である」という言葉です。
本当にその時点の子どもで判断してはいけないな と。
だから、考え過ぎずるのも良くないのかな と思いました。
できるだけ鈍感でいて見守っているほうが楽しいのかなと思いました。
謝ること
上の息子もなかなか謝らない子だったのですが、最近やたらと謝るようになりました。
ちょっとでも語気を強めると、ごめんねーごめんなさいママ〜‥と。
時間がなくて親が焦っているだけの場面でもゴメンネゴメンネ言っています。
親の顔色をうかがうようになってしまったのかなと思って、大丈夫だよ謝ることしてないよと伝えてますが‥。
下の子が生まれて怒り方がキツくなってしまって、自分はダメな子だと感じたり親を怖がったりしているのではと不安です。
お財布の中身
肯定ですか・・・
怒ったり叱ったりしたい時がありました。
肯定するのが、難しいときもありましたね。
怒ったり叱ったりはしないけど、肯定することに抵抗感がありました。
この感情を抑え込んでいたら、イライラしてきました。
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本当にこれですよね。自分でも分かっているんです。
子どもの頃に嫌だった親の言葉や態度や視線など、あんなに嫌で寂しかったのに、子ども達にしてしまうんですよね。
子ども達は何も悪くないと分かるのにイライラしてしまう等があり、これは私の弱さから来るものなのに、子ども達に向けられてしまっています。
私自身、小さいころから、大人の顔色を伺う、会話で相手の正解を言葉を探ってしまうなどのクセがあり、それが抜けないまま大人になり、人間関係がかた苦しく苦痛です。
そんな私のように育って欲しくないと思うのに、そのレールに載せてしまっている気がして怖いです。
自己肯定が出来ない親から育てられても、子ども達は自己肯定感を持ち、自信を持って生きていけるのでしょうか…。
本当は大らかに接したい。子ども達と笑っていたい。また、おとーちゃんさんの記事を何度も読み返して、プラスな関わりが一つでも多くしてあげたいです。新しい記事も楽しみにしています。