「愛情」と「自己犠牲」は切っても切れない仲にある - 2018.02.21 Wed
おそらくこのあたりはキリスト教の観念から派生している言葉なのでしょう。
ですが、別にキリスト教徒でなくとも、多くの人が「愛情」という言葉や行為に持つイメージには、このような自己犠牲的なあり方を知らず知らず求める感覚を持っています。
先日、のぶみさんという絵本作家の人の作った歌詞が問題になりました。
なぜ、その歌詞が問題になったかというと、そこには「愛情」という文脈で、母親の自己犠牲を強要する視点があるからです。
「誰かの幸せのために誰かが犠牲になる」というビジョンをもう卒業しなければならない時代に来ています。
つぎのステージは、各人がみな(当然そこには子供・親も含まれる)がともに「自己実現」をしながら、ともに幸せになっていく対人関係や社会、組織の時代です。
「母親が犠牲になることで成り立つ家庭」
「母親が犠牲にならなければ成り立たない子育て」
「子供が犠牲になることで満たされる親の自尊心」
「妻が犠牲になることで、自尊心が満たされる夫」
「社員が犠牲になることで発展する会社」
「生徒や教員が犠牲になることで上がる学校の評価」
「選手が犠牲になることで盛り上がるスポーツ」
こういったことは明らかにおかしいと理解できる時代になっているはずです。
現実にはこういったことがたくさんあったとしても、「それを我慢して甘んじなさい」と言うのではなく、「どうしたらそれを改善していけるのか」を考える時代です。
しかし、子育てのなかで無造作に使われる「愛情」という言葉には、どうしてもそういった旧態依然とした考え方である、「親の犠牲の上に成り立つ子育て」という意味合いが、それを話すときに使う人の意図とは関係なく、切っても切り離せない状態で含まれてしまっています。
だから、「愛情」という言葉は、子育てが取り立てて深刻な状態でない人が聞いたときは、目くじらを立てるようなものでなかったとしても、そこに難しさや悩みを抱えている人には、とても大きなプレッシャーだったり、傷つける言葉となってしまうのです。
「それで傷つく人はそういう言葉を聞かなければいいだろう」と思うかもしれません。
しかし、それは浅い理解の仕方です。
なぜなら、そういった無造作に作り出された、雰囲気・空気が本来攻撃されるいわれのない人たちを攻撃する理由となってしまうからです。
しかも、それは「愛情」という「正義」をまとった攻撃になるので、大変たちの悪い攻撃です。
そこで攻撃される人は、反論もできず批判も許されず、味方もいない状況におかれます。
バス・電車内で問題となったベビーカー論争を思い出して下さい。
子育てポストが問題となったときの人々の声をいまいちど振り返ってみて下さい。
川崎市中1男子生徒殺害事件があったとき、被害にあった少年の母を責める声がたくさんあがったことを思い出して下さい。そのとき、加害少年の親を責める声がほとんどなかったこともあわせて考えてみて下さい。
これらの問題は、「愛情」という言葉を正義の盾にして、自分が傷つかないところから一方的にその人たちを責めているのです。
「愛情という価値観だけで計れないものがあるんですよ」と、そういったときに心ない中傷からその人たちを守れるよう、できるだけ多くの人、せめて子育てにまつわる保育・教育・子供関係者には知っておいてもらいたいと思います。
いまオリンピックをやっていますから、もう少しするとパラリンピックが始まるでしょう。
身体に障がいを抱えている人を、それを理由にさげすんだり、責めることのない時代になりましたね。
しかし、心の内面になんらかの問題を抱えていたり、その人のおかれた状況によって子育てがうまくいかず、人々がもてはやす「愛情」というステレオタイプの子育てができていない人は、いまだに責められる時代です。
本当は、もう一歩進めて、そういった人たちも社会的に援助して、ムリのない子育てをおくっていける時代にしなければなりません。
だから、いまだにさまざまな誤謬を含んでいる「愛情」という言葉を、子育ての終着点にしてほしくないと僕は思うのです。
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● COMMENT ●
いつもありがとうこざいます。
愛情という言葉が孕むネガティブな側面をモロに受けて、悩む日々です。
子どもが入園する前に見学に行った園の園長に「愛情が足りてないと、登園時になかなか離れず、帰宅時になかなか帰らない」と言われました。
その園には入らなかったのですが、今まさにその状況で、あの時の言葉がぶわんぶわんと頭の中にこだまします。
愛情が足りていないと子どもが感じているなら、くすぐりなどで心を近づければ良いと頭では思い、少しだけ実践はするのですが、目に見えた効果はすぐにはなく、「私なんかがやっても無意味なのでは」「もう手遅れなのでは」と思うことがとめられず…。(おとーちゃんのことは心から信頼していますし、批判する意図は少しもありません!)
自分に余裕が無いせいか、子どもに何か要求される(お水持ってきて、追いかけっこしようなど)とうんざりしてしまいます。
子どもは今風に言うとツンデレ、ひねくれ者で、素直になれなくて苦しそうにしていることもあります。(本当は大人の言うことが正しいと思っているのに、その通りにしたら自分が折れそう、と思っているように見えます。こちらが怒鳴って泣かせるまでいうこと聞かないことも多々あります。ただの投影かもしれませんが。その時に、本当は一緒に楽しくにこにこ過ごしたかったんだよね?と聞くとぽろぽろ涙をこぼして泣きます。)
そんな状況の私ですが、愛情の記事で少し心が軽くなりました。おとーちゃんの記事にはいつも救われています。いつもありがとうございます。
これからも応援しています。
自己肯定
おかあさんの歌詞、なんじゃそれ、でした(笑)
歌としてはまだ聞いてないので、歌い手さんの気持ちは汲んでませんが…。
二人目育児を通して感じることは、育児は楽しい、って事です。長女でつまずいたからこその今なんですけれども(笑)
長女はもうすぐ年長さんです。
自分の世界を持ち始めたのを感じます。
長女との今もめいいっぱい楽しみたいと思います!
こんばんは。
私は2歳になった子を育てながら幼稚園で働いているのですが、上司や長年のお付き合いのある業者さんに「幼稚園や保育園の先生はそもそも自己犠牲しながら働くものである」「でも今の人はそれができない。だから保育士離れなんて問題がある」と言われ、自分の子を犠牲にする事が良いこと…という価値観の中で仕事をしなければならないことが疑問でストレスでした。
子どもが好きでこの職についたのに、何より大切な我が子を犠牲にしなければ、園の子ども達を大切に思っているとを認めてもらえない。その事が納得できずモヤモヤ…な状態。
でも、「愛情と自己犠牲は別物」の言葉に、まさに私の言いたかったことはこれだ!とスッキリしました。
自分の生き方、仕事の仕方を諦めず、これからも頑張ります!
Re: こんばんは。
いかに、愛情や自己犠牲を称揚する人たちがエゴイスティックかが端的にわかるおはなしですね。
自己犠牲型は、母親の理想?
正しく、かつ犠牲的にも子供に尽くせる母親が素晴らしいと思ってしまい、それが出来る完璧な義理親を前にして、子供が自分には相応しくなく、義理親が育てた方がいいに違いない、という苦しみでいっぱいでした。
保育士おとーちゃんのブログを探せたことは、私には、本当に幸運で、子育ての目指す姿を私は、ガラリと変えることができました。おとーちゃんの言う、いい子よりも可愛い子を目指す、というのは、私にはぴったりで、立派な子にしなくてはいけない、という思いが徐々にやわらぎ、子育ての楽しみを感じることが出来るようになりました。私は立派な母親でもなく、子もイイ子ではありません。ただ、子がかわいくて仕方ないという思いと、子は、私を「かわいい」「だいすき」と私にかえしてくれます。早期教育をして、子が賢くなるように頑張っていたときには、得られなかった大切なものを私は取り戻すことが出来ました。おとーちゃんには、いつも感謝ばかりです。いつも素敵やブログをありがとうございます。長々となりましたが、本当は、もっともっと言いたいことがあります(笑)。長くなりますので、失礼いたします。
自己犠牲こわい
その考えに疑問すら抱かなかったので、あの時期はとても苦しい思いをしました。
恐ろしいことに、苦しむことすらも悪いことだと思ってしまうんです。
そんな時、おとーちゃんの「気持ちよく関われないときはしなくてもいい」(言い回しが違ったらすみません)という言葉は衝撃的でした。
気持ちよく関わるときは「自己犠牲」ではありませんもんね
そこから私の育児が徐々に言い方向に向かっていった気がします。本当に感謝感謝です!
絵本作家さんの歌も賛否両論みたいですが、
本当は○○したいのに…我慢して育児をする
こころよく関われない
だから子も親もモヤモヤが残るんだなぁと
↑旦那がため息つきながら皿洗いをしてくれた時、感謝すべきなんだろうけど…ため息つくほど嫌ならやってほしくない。全然嬉しくない。と思ったとき、気持ちよく対応したほうが相手も嬉しいということに気がつきました…お恥ずかしい
いつもタメになる記事をありがとうございます!
これからも応援してます!
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という連鎖が広がればいいなと思います。
幼稚な発想ですが、クッキーが缶からあふれている人と一緒にいる時は確かに自分の缶にもクッキーが増えている感じがします。