慣れてはいけない ー子供のいじめを考えるー - 2018.03.31 Sat
ここ数年、どれだけこういったニュースに接してきただろうか。
社会的にいじめ問題への関心が高まってきた結果、それゆえにニュースになる件数が増えたということはあるかもしれないが、しかしそもそもそのようないじめが引き起こす問題の数は確実に増えているだろう。
ゆとり教育は社会的な批判に遭って頓挫したが、その頃はいまほど学校関連の子供の自殺は多くなかった印象がある。
いまや毎月、下手をすると毎週のようにこういった事件のニュースに触れる。
もはや、このようなニュースが特別なものでなくなりつつあり、それに慣れっこになってしまってはいないだろうか。
しかし、これに慣れてはいけない。
子供がいまのように次々と自殺するという社会はおかしいのだ。
この社会はすでに病んでいる。
そしてそれに慣れ、おかしいと感じなくなっている人たちもまたその病に感染しつつあるのではなかろうか。
だが、社会自体が疲弊しており、回復のための体力が出せない状況があり、そして、この病の他にも複数の病がありそれががんじがらめになっているので、この病を治そうとしてもその病巣に手が届かなくなっている。
この問題の一端でしかないが、僕にはこの病を治す端緒がある。
いじめをする側の子供の多くは、その理由を持っている。
その理由は多くの場合、親に持たされている。
そして、親もまたそれをしてしまう理由を持っている。
親のそれもまた、多くの場合誰かに持たされている。
いじめ問題が表出化する学校において、この子供・親、ふたつの問題を解決することはまずもって不可能だ。
子供の問題だけですむのであれば、それも可能だろう。
しかし、深刻なものほど、子供の一過性の問題ではない。
蛇口を閉めなければ、いくらバケツの水をくみ出しても、その問題は解決しない道理だ。
蛇口のところからアプローチする視点、そしてそれをできる人の存在が必要なのだ。
つまりは、保護者へのアプローチである。
学校にはそれはできない。親へアプローチする機会も権限も、またそれに関する蓄積ももっていないか、いちじるしく少ないからだ。
それができるところがある。
それが保育施設である。
しかし、現状のままでは無理だ。
現状の保育施設で、そこまでの専門性を持っているところ、保育士は多くない。
そもそも、公的保育があやふやになった現状で、利益追求型になった保育施設ではそれをする意欲や、そもそもそういった問題意識すらが希薄になっている。
また、営利化以前の認可保育園主体の時代だとしても、そこまでできるところは多くなかったのは事実だ。
ではどうすればそれが達成されるか。
大きく考えてそのためには2点必要なことがある。とはいえ実質的にはほとんど次の1点だ。
それは、まずもって保育予算の増額である。(ここでは保育に話を絞っているが教育予算も同様)
注)公財源教育支出GDP比 OECD平均4.9% 日本3.3%
その予算を、人員増、給与増額、質の向上に投入する必要がある。
(保育施設で預かる子供の定員増のテーマもあるが、ここでは別の事柄なので触れない)
なかでも給与の増額、職員待遇は重要だ。
日本ではお金の話を忌避する傾向があるが、現実問題としてこれを抜きには語れない。
現状の保育施設の内実をどれほどの人が知っているだろうか?
いま、少なくない施設において人員不足であり、それは非常に大きな問題となっている。ここまでは多くの人がご存じだろう。
しかし、問題はそこで終わらない。
保育の現場からはこんな声が聞こえてくる。
「とてもではないがこの人は保育士としていちじるしく適正を欠いている」
「子供へ虐待ともとれる行為を日常から行っている」
「他の職員や、保護者にハラスメントをする保育士がいる」
そういったことを、職員や施設長が使用者に訴えたとしても、返ってくるのはこの一点張りだ。
「他に人がいないのだから、ダメでもなんでもその人を使って下さい」
保育の仕事は、その人の人間性のウエイトが非常に大きい仕事だ。
しかし、保育がブラックな職場で待遇も悪いため、よい人材が来てくれない。来てくれても長続きできない。能力の高い人には、はるかにもっと給料のよい仕事があるからだ。
(しばしば、この話題をすると「福祉の心を持ってお金でなく」といったことを投げかけてくる人がいるが、その人には「やりがい搾取」という言葉を調べるようにお伝えしたい)
子供が好きで保育者になったのに、経済的、時間的、身体的に余裕がなく自身の子供を持てないなどといった悲しいことまで起こりうる。
これで、保育士によい人材を集めることなど不可能なのだ。
いじめ問題から遠のくので、これについて語るべきことが多いがここまでにしておく。
先に、ほとんどこの1点だと述べたのは、この給与・職員待遇が先になければ次の問題は画餅に等しいからである。
そもそも適正のない保育士にいくら研修をしても、意味がないことを考えてみればそれが理解できるだろう。
つぎの2点目は、子供の心の成長を適切に達成させることのできる保育人材の育成が必須である。
いまでも、「子供になめられるな」といったとても専門家とは思えない、保育士の自己流保育論がまかり通っている。
保育がこのようなレベルでは、子供の心の成長や、心の問題を解決できるわけもなく、むしろいじめる側やいじめられる側になる理由をたくさん子供に持たせることになる。
保育士への適切な研修が絶対に必要だ。
また、保育士への研修は、保育だけに限らず保護者への支援についての具体的なスキルまで目指すこと。
新しい保育指針にさらに大きく盛り込まれたとは言え、指針に書かれただけで現実の保育施設のスキルが上がるわけではない。
通り一遍のきれい事をなぞる研修をしたとしても、やはり無意味だ。
保護者へ適切な子育てをサポートできる人材の育成までを明確に目指す必要がある。
僕は実際の保護者の声に、保育士でない立場として触れてきた。
そこでは、保育士・施設に直接言えない本音を耳にする。
保育士から、
「お子さん愛情不足になっています」
「子供がかわいそう」
「家でもちゃんと見てあげて下さい」
このように言われて苦しむ人が、いまだに後を絶たない。
このスタンスにいる現状の保育士たちに「親の支援は大切ですよ。さあ、みなさんも頑張って」といった表面をなぞるだけの、指針の文言や、研修をしたとしても進歩はないだろう。
これらの言葉に問題があることにすら気づいていないのだから。
抜本的な保育士への研修が必要なのだ。
これには、少なくない時間とお金がかかるだろう。
しかし、ここにそれだけのリソースをつぎ込み、子育ての最初の段階から、子供と子供を育てる親にアプローチできる手段を社会の中で確保できることにより、現状のいじめ問題の根っこの少なくない部分を緩和・解決することが射程に入る。
それにより、子供のいじめや、それを苦にした自殺が少しでも減らすことができるのならば、その価値は必ずあると僕は言いたい。
社会のリソースをもっと保育に下さい。
これからの保育士たちは、必ずやよい仕事をします。
もう、いじめやいじめによる子供の自殺のニュースを見ないですむ社会を目指しましょう。
(参考:OECD予算関連)
http://www.oecd.emb-japan.go.jp/pdf/educationataglance2016_Japanese.pdf
http://www8.cao.go.jp/shoushi/shinseido/meeting/kodomo_kosodate/b_19/pdf/s5.pdf
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-21/2017092101_05_1.html
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku/81/4/81_460/_pdf
https://synodos.jp/education/1356
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpab200901/1295628_005.pdf
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● COMMENT ●
家でちゃんと見てください、もっと気にかけてください
子供が自殺するような社会はよくないという事には同意します。
また、保育施設の人の質、人の数についての記述もおおむね理解できます。
しかし保育の段階に社会のリソースを投入することが、どうやっていじめの問題を緩和、解決することにつながるのかわかりませんでした。
比較的教育支出の高い海外の国でもいじめで自殺するこどもはいますが、
それらの国と違いは、保育の教育にあるのですか。
また、
>学校にはそれはできない。親へアプローチする機会も権限も、またそれに関する蓄積ももっていないか、いちじるしく少ないからだ。
なぜ保育だと親へアプローチできるのでしょうか。
保育士にカウンセラーのような技術を身に付けさせるというのが、
私の解釈なのですがあっていますか?
名無しさんの投稿に関して
やはり幼児期は人格形成を培う時期だからと考えてます。
特に親子関係というのは大きな影響があります。
保育と学校との違いは、福祉施設か教育機関か…ということになりますが、
保育所保育指針にも家庭、保護者への支援は記述されている通り、
保育園には保護者とともに子供を保育することが求められるため、
学校より保育園は親にアプローチしやすいのではないでしょうか。
保育士にカウンセラーの技術といいますか、人の話を聞く、相談に乗れる技術はあったほうがよいと思います。
ご返信ありがとうございました。
最新のエントリーも読ませていただきまして、保育のスキルのことが少しわかりました。
私がこの記事にコメントしたのは、いじめが保育のスキルでどのように止められるのか疑問に思ったからです。
(いじめはなくなった方がいい、保育に力を入れた方がいい、この二つの意見にそれぞれ賛成なのですが、繋げる論理がわからないという事です)
私はどんな素敵な人でも集まれば何らかの個体差が生まれ、
集団の中で違いが認識され、対立が生まれると考えています。
統計データでいじめの件数は増えても減ってもいなく、
小中高生の自殺者についても横ばいと出ています。
(いじめが問題になり、隠れていたものが可視化され、数字上は増えましたけど)
一定の数のいじめは、生まれてしまうものなのでしょう。
子供たちにはその時に、逃げることの大切さ、法で戦うことの大切さを
教えることでしか救えないと思います。
もう少し根拠や論理、具体案が知りたかったです。
人様のブログで偉そうにすみません。
子供の教育やいじめ問題を考えるきっかけをくれてありがとうございました。
未然に防ぐ策を講じるのは無駄ではないと思います。
たとえば、いじめを仲裁する人がいれば、いじめはエスカレートせず、救える命もあります。
確かに逃げることも時には大切ですが、逃げずにすむ環境も作ってあげたいです。
おとーちゃんさんの過去の記事もよかったら読んでみてください。
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今思うと問題行動もあったので言わずにはいられなかったんだろうなと思うのですが
当時は精一杯やっているのにこれ以上何をすればいいの?と思っていました。
責められていると感じ余計に心を閉ざしてしまっていました。
責めずに話を聞いてもらうだけでも大分ちがうんだろうなと感じます。