努力・自己犠牲・感謝という道徳観について vol.1 - 2018.06.25 Mon
【4コマ】ありがとうが薄れる(ハフィントンポスト)
この4コママンガを読むと、おそらく多くの人が共感するのではないでしょうか。
もしこれに反論する人がでてきたとき、その人たちは「なんて冷たいことを言う人なんだ」という印象を持つ人も少なくないことでしょう。
それを理解した上であえて言うのだけど、ここで述べられていることはまずいことだし、これからの教育のあり方としても方向を誤ることになります。
誤解のないように言うと、僕自身はこの作者と同じスタンスを持っています。
ですから、理解できるし、それどころかシンパシーすら感じます。
しかし、それでもこれは(自分も含めて)間違っていると言わなければなりません。
少し回りくどいですが、こういった感覚を持っている人の根っこから見ていきましょう。
これにシンパシーを感じ「その通りだ」と思う人は、例えばこんな教育を受けていたり、周囲の人からの影響を受けてきたことでしょう。
・「評価を期待してするのではなく、誰に認められずとも善行をなしなさい(努力しなさい)」
・「なにかをしたときにそれを鼻にかけるようなことはあさましいことだ」
なるほどそれは立派なことであり、もっともらしく聞こえます。
実際にそれをするのはなかなかできないことでもあり、こういった気持ちを持つ人はたしかに善人に類する人であることでしょう。
ここにはたしかに、高邁なモラリズム(道徳心)があります。
◆
でも、このモラリズムはこれからの時代、間違っているし、それどころか危険ですらあるのです。
これらの教えが導き出しているのは、
・我慢、努力、忍従、奉仕の心、自己犠牲、滅私
例えばこういった徳目です。
一見するとこれらはもっともらしい道徳と聞こえるのです。しかし本当にそうでしょうか。
これを強化していくことで人は健全に生きていけるでしょうか。
それで健全に人生をおくれる人もいるでしょう。しかし、そうはならない人もいます。
◆
5月に 『「感謝」という承認欲求』 という記事をこのブログで書きました。
このハフィントンポストの記事の作者は、頑張っているよい人を認められる人が少ないことを嘆くところで終わっています。
今後もこの人は地道でひたむきな努力を重ねていけるのかもしれません。
しかし、そうはならない人もおります。
そのことは僕の上記の過去記事で述べた通りです。
外の社会では「感謝など要求せずにひたすらに努力や我慢や自己犠牲をしなければ」と頑張り続けた結果、その心の負荷ゆえに家庭に帰って妻や子供に「誰のおかげでメシが食えると思っているんだ」などとすごまなければならない人も生んできたのです。
子育ての中で、自身の努力が認めてもらえない気持ちから、子供に負荷を強いるような子育てになってしまう人も現実にたくさんいます。
通常、こういった負の姿が、道徳のもたらしたものの裏返しと認識されることはまれです。
多くの場合、その相関関係が見えません。しかし、無関係ではありません。
だからこそ、こういった道徳や美談というのは怖いのです。
◆
こういった道徳観を、僕のような親の世代も、またさらにその上の親の世代も大きく持っています。もちろん、若い人たちもそうです。
いま、過労死や過労自死、過労ウツ、子供の自死の増加といったことが大変大きな社会問題となっています。
・人知れず努力しなさい
・弱音を吐いてはいけません
・わがままをいうな
・会社や同僚のために努力せよ
・権利を言うのは我慢の足りない人間だ
・周囲の人間に感謝しなさい
こういった道徳的な価値観にどっぷりと浸かっていることと、いま自分の身を削るほどに自己犠牲を重ねている人たちの存在が、まったく無関係と思うことはできません。
だから僕は冷たい人と思われようともなんでも、この4コママンガで描かれたことは、その人たちは大変立派ではあるが頑張る方向が間違っているとあえていいます。
これをこれからの時代を生きる子供たちに、そのままバトンタッチしてはなりません。
大変残念なことに、私たちの持っている道徳観というのは、大変古びており、もはや危険な代物なのです。
では、どういう方向に行くべきなのか、次回それを見ていきます。
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● COMMENT ●
自分の身を削ることを美徳とし、それを人々に要求する文化が危険ということでしょうか。
また感謝される側の問題としては、感謝されることを心の拠り所とする様なことがあれば、それは依存していると言えるかもしれませんし、自己肯定感が低いことが原因のこともあるかもしれませんね。
「満足させろ」という拮抗禁止令によるものの様にも思えます。
大半の人はそうではないと知りました。
自分がしたくもないことを勝手にやって感謝を要求することにズレを感じていました。
したくないならしなければいいのに
「ありがとう」では無いですが、「おはよう」(挨拶)について。
年中の子がおります、保育園に着いた時のこと。
中国のお子さんが同じクラスに居てちょうど会ったのですがまだ完全に馴染めておらず、言葉も少なく楽しそうでは無いなという印象のお子さんで。
他のクラスの先生ですが「おはようございます!」と大きな声でその子に声を掛けました。そのようなお子さんだったので無言で俯くのは私も予想できたのですが、その子の顔に顔を近づけて「おはようございます!」と更に大きい声で。最後は「おはようございます!(は?)」とダメ押ししてました。
お母さんも「挨拶してよ・・・」と言っていて、見てて悲しくなりました。そんな追い詰めるようにしないで欲しい。。
昨日は園の誕生会があり半日居ましたが、端々にそのような意地悪な保育が見受けられ(特に、良いなと思ってた受け持ちになったことない先生が、会でごねる年長児にその姿を写真で撮ってしつこく見せるという行為をしてたのがショックでした。。)
全面的には信頼出来ない園だなと思ってしまいました。こういうの、保護者は心で思いながら卒園してっているんでしょうね。
おとうちゃんメソッドが全国に広がるのを祈っています。
分かるようでよく分からないです
ちなみに実母は前者,私は後者ですが,母をみていると父(と弟)に言えない分,娘にシェアしてほしいと言ってきたんだなあと今になって分かります.父と母は本当に対等な関係ではなかったのかもしれません.
私も,次のお父ちゃんさんの考えを拝見するのを楽しみにしています.
共感力がものすごく強いというか、他の人がこうしてほしいんやろな、ということに直観的に気づき、やってしまっている感じがするのです。
道徳観からやっている人は、余計なおせっかいになってしまっているように思える時がありますが、共観力の強い人はさらりと、それこそありがとうを言うのも忘れるほど自然といろいろなことをやってくれていたり、欲しい言葉をかけてくれたりしませんか???
わかります・・・・・・
自分の場合、極限までストイックに自分を追い込むわけではないのですが。
相手の心境や状況を察して「せざるえない」と判断してついつい我慢してしまいます。そうして、「我慢」したことを「正しい選択だ」と思い込もうとすることが多々あります。その「我慢」の結果、どんなに自分へのストレスを自覚したとしても、です。
相手(子供であったり、夫であったり、自分の親であったり)の嫌な顔、不満げな顔に対して過敏に反応してしまうんです。
また、自分の不器用さ、段取りの悪さなども影響しているように思います。なにごとも、「自分がうまく立ち回っていれば、もっと努力や勉強していれば、回避できたことだから・・・・・・」と言う思いが心のどこかにあり、我慢に繋がってしまいます。
私の場合、日頃から相手からの要望に自分が応えられていない事への罪悪感はとても大きいです。
私はフルで共働きです。
夫は激務のため、家事のほか子どもの学校、保育園、療育、習い事など、家のことはほぼ全部私です。
子どもは惣菜や半調理品は味を嫌がってあまり食べないので料理は手作り、夫は喘息なので掃除もわりとしっかり。
できるだけいろいろやろうとがんばっているのですが、大変さのあまり、夫に感謝を求めることが増えました。
でも、それって、自分の気持ちの落とし所をほかの人任せにしているってことなんですよね。
夫ともケンカが増えたので、そういうのはやめようと思っているところです。
考えてみたら、家事も育児も、全部私がやりたいことなんです。
手を抜かないのは、私が抜きたくないから。
そのことをしっかり自覚しようと思いました。
時には手を抜いて、無理しすぎないようにしようと思います。
ちょうどつい最近、この問題について考えさせられる出来事がありました。
というのは、以前育児相談などでお世話になった助産師さんが私の働くお店にお客様としていらしたのですが、その態度の悪さにひやっと肝が冷えたのです。
暴力や暴言など見てわかる(トラブルに発展する)ほどのものではないですが、地域の開業助産師さんとして活躍されている時との落差があまりにも凄まじく、こんな別の顔があったんだなぁと驚きました。
そういえば、その助産師さんはご自身も小さなお子さんを何人も抱えながら頑張っていらっしゃったのに、旦那さんの理解を得られず、主催しておられたネット上の子育てサロンには何者からか脅迫コメントが送りつけられ、無料ベビーマッサージ教室には態度の悪いユーザーが押し掛けるし、と様々な困難も抱えていらっしゃいました。
ご家庭の事はご本人のぼやき以上の事は知りませんが、子育て支援活動については一参加者でしかない私から見ても助産師さんは酷い仕打ちを受けており、安価なのをいいことに助産師さんを都合よく使い捨て・使い潰すような冷酷な人々がなんと多いんだろうと思いました。
そういった出来事が助産師さんの心を荒ませ、小売店のしがないレジ打ちの私に八つ当たりさせたのかと思うとやりきれないです。
こうなるくらいなら報酬も無しに人の為に頑張る事を美徳とするような道徳観は棄てないといけないのかも知れません。
その半面、報酬をかけていたら成り立たない事も多いだろうと思います。地域の清掃活動やPTAの仕事など、お金で外注するとしたらそれを人々は払う事が出来るだろうか?と。
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私自身は、両親が少々変わり者でして、このような一般的に言われることをあまり言われずに育っており、お恥ずかしながらこのモラリズムを心から理解しておりません。
大人になり、この価値観で社会は動いていると気がついたものの、どうにもこうにも苦手な考えでして、今の今まで身につけずに過ごしております。
苦手な理由はまさに、おとーちゃんが指摘しているような副作用があると感じていること。身につけようと努力していくと、人がしてくれたことより態度が気になる。何かを成した人に嫉妬した時、嫉妬心をごまかすのに使ってしまう。他の人に強制したくなる。などといったことが自分の中で起こり、しんどくなってやめてしまうのです。もう少し器用にコミュニケーションツールとしてくらいに使いたいのですが、不器用なタイプでしてうまくいきません。なので多少変わり者と思われてもいいやと開き直っています。。。
どのような方向性を見出されたのか、続きを楽しみにしています!