努力・自己犠牲・感謝という道徳観について vol.2 - 2018.06.30 Sat
それはあの方向では、これからの社会その人が生きやすくならないからです。
これは世界の教育の潮流からも言うことができます。
いま世界の教育で、子供たちに持たせるべきと考えられているふたつの大切なことがあります。
1,意見表明
2,環境(社会)を変える力
このふたつです。
1,自分自身の感じていることを表明し人に伝えることができるスキル
そして、
2,もし、その状態、環境がそこで生きる上で不適切なものになっているのならば、それを改善することができるスキル
このふたつが重視されています。
これをもたせるために、それこそ小学生の内からこういったスキルを身につけさせ伸ばしていっています。
少し前に、アメリカで銃乱射による無差別殺人から、銃規制を求める数百万人単位のデモが起こったのを覚えている方もいるかと思います。
これは、最初に高校生がはじめたことでした。
ヨーロッパで難民問題が過熱化していたとき、ドイツの空港で、パイロットが難民の送還を拒否して(送り返されると処刑される恐れがあったため)何機もの飛行機が飛ばなくなったケースを報道で目にした方もいることでしょう。これはその後、あまり大きなニュースになりませんでしたが、トルコでも同じことが起こっています。
このニュースが日本で報道されたとき、ヤフーニュースなどのコメント欄の意見には、「他の乗客の迷惑も考えないで」といった、そのパイロットを責める言葉や攻撃的な意見が多く見られました。ネット上のコメントは過激なものが多くなるとは言え、これはいかにも日本的な考え方だと感じさせられました。
諸外国では、自身の意見を表明することと、ネガティブなもののあり方を改善しようとする、このふたつのことが重視されています。
日本では逆のことが重視されています。
子供が学校など外の世界で不遇な状況におかれていたとき、こういった考え方で子供を諭す人が多くいます。
「社会に出たらもっと理不尽なことがあるのだから、いまそこから逃げたらずっと逃げ続けなければならなくなってしまう。頑張って辛抱しなさい」
こんな言葉に類することです。
特にこの考え方をするのは男性(父親)に多いようですが、女性にももちろんおります。
これが例えば、我が子が
「実は自分のクラスで、いじめられている子がいる。自分はそれに加担しているわけでもないけれど、それを助けることもできない。そんな中で過ごしていることがとてもつらい。自分はどうしたらいいだろう?」
そのようなことを告白されたら、親としてどのようなアプローチができるでしょうか?
そのいじめという問題への対応が難しいだけでなく、これはとても難しいです。
なぜなら、私たち大人自身が、不適切な状況におかれたときにそこを改善するためのスキルというのを教育、その他の中で身につけさせられていないから。
耐えなさい、辛抱しなさい、努力しなさい、弱音を吐くな
こういった、自分を押さえ込んだり、自分に負荷をかけていく方向のものばかりを、いまの日本で生きる大人も持たされてきてしまっています。
自身の意見を表明するにも、実は気持ちのあり方だけでなく「スキル」が要ります。
不適切な状況を改善するのにも、そのための「スキル」が要ります。
先の4コママンガのその作者をそこに至らしめてしまったもの。
「頑張りなさい」「我慢しなさい」「文句を言うな」「わがままを言うな」「他者を責めるな」「弱音を吐くな」、こういった漠然とした道徳観や雰囲気の中で、子供たちは育ち、大人もそこで生きています。
では、試みに「意見表明」「環境を変える力」を踏まえた上で、あのシーンを考えてみましょう。
もし、周りの人が気づかずに、自分だけが大変な仕事をしていたとしたら。
「ねえ、知ってる?○○の仕事、ずっと私がやっているんだよ。
これまでなんとなく気がついた人がやるような感じになっていたから、私が気づくたびにやっていたのだけど、さすがに最近では私も他の仕事もいっぱいになってしまってかなりしんどいので、今度から順番でみんながやるようなシステムを作ってみない?」
このように、自分の意見(感想でも)を表明して、現状を変える手段をその人が持っていたら、「私だけが頑張っているのに・・・・・・」そういう思いから解放されることになります。もしかすると、その他の人も、私が気づかないなにか別の仕事を一人で頑張っているのかもしれません。そういったことも意見を表明し、話し合う場を作ったりすることで可視化することもできます。
ただ、黙って辛抱して努力することがいいことではないのです。
むしろ、大変なことは大変、できないことはできない、そういった個々の人のあり方を出し合うことでよりよい社会、生きやすい状況を作り上げていくことが現代の人にとって大切なことになってきています。
「美徳」や「徳目」「道徳」。こういったことは、画一的な社会であれば機能します。
そこでは価値観がひとつなので、「これが正しい」「こうしなさい」ということがあって、それを学び、守っていれば人々はそこで気持ちよく過ごすことができます。
しかし、そういった時代はとっくの昔に終わりました。
これは良い悪いではなく、自然な時代・社会の変化というものです。
自分にとってはとても簡単なことが、他の人にとってはとても難しいものであることもあります。
こういったことは、その人その人が表明しなければわからないことです。
上のように、自分の意見を言うことを「それを許容していると、人はわがままになる。だから、そうするべきではない」と考える人もいます。
それは必ずしもそうではありません。
よしんば、それが単にその人のわがまま、自分勝手なことだったとしたら、それもみなで意見を出し合った上で、それが必要な意見なのか、単なる自分勝手な意見なのかということに、気づいていけばいいことです。
なので、個々が意見を言うようになると人はわがままになるというのは、思い込みに過ぎません。
◆
いま学校の教員の自主研修の中で、「トイレを素手で洗う」というものが、一部に人気を博しています。
僕はこれを大変恐ろしく感じています。
これがその人にもたらすものは、
「献身、自己犠牲、奉仕の心、人知れず努力すること、人に率先して人が好まないことを為すこと」
こういった、美談的道徳観です。
もし、こういったことが大切だと子供の頃から教え込まれていくと、人は上司からのハラスメントを我慢して受け続けたり、ブラック企業に勤めてしまっても、そこで自分の身体や心を壊すまで働き続けるような人間が作られないとも限りません。それこそ徴兵制だってこの理屈で通すことができてしまいます。
すでに、こういった方向の教育を受けて、そういった大人が大量に作られているにも関わらずです。
本当は、
「これっておかしいと思わない?」「こういう風にしたら、いまの状況をみんながいい方に改善できるのではない?」
こういうスキルこそが必要なのです。
美談的道徳観を大きく持っていくと、これは逆に人を攻撃する人間すら作り出します。
例えば、このブログの読者の方でしたら、産休や育休を取得するときどうでしたか?
こころよく送り出してくれた職場もあることでしょう。
しかし、そうではない人もいたことと思います。
自己犠牲を強いるようなスタンスでは、その負荷を受けるときにそこに大きな不満を持つようになってしまいます。
「あの人だけずるい」「独身者は損ばかりする」
こういうときこそ、状況をいい方にかえる力が必要なのです。
「課長、育休者が2名重なって、いま事務職員に負担が大きくなっています。こことここの書類はひとつでも問題ないので、一本化して負担を軽くできるように許可して下さいませんか」
例えば、こんな風に。
こういった方向で考えることができれば、その人を責める心理を持つこともなく、育休者が帰ってきた後も、むしろ仕事の負担は軽くなりますよね。
諸外国で、育休などが男性であっても当たり前にとれる状況が生まれているのは、このようなものごとを合理的に考え改善するスキルを社会の多くの人がもっているからこそなのです。
自己犠牲を美徳とする社会はもうやめませんか。
参考:
・米国 4分間は沈黙 共感広がる女子生徒の演説 銃規制
https://mainichi.jp/articles/20180327/k00/00m/030/114000c
・今回は違う! 銃社会アメリカを拒絶する賢い高校生たち
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/03/post-9743.php
・侮辱された銃規制運動の高校生、TV司会者に反撃 スポンサー続々撤退
http://news.livedoor.com/article/detail/14556556/
・イエローハット創業者が実践、熊谷の中学校でトイレ掃除 生徒や保護者ら109人、心とトイレ磨く
http://www.saitama-np.co.jp/news/2017/12/18/09_.html
・「素手で集団トイレ掃除運動」の政治性について
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20081109/p1
・「素手でトイレ掃除」は洗脳以外の何者でもありません
https://note.mu/matsuhiro/n/n7c9605cf68ad
・素手でトイレ掃除させる会社は完全にブラックと言い切れる理由
https://roudoutrouble.net/toiket_barehand/
・ホッピー採用ページの「素手でトイレ掃除」が話題に 「不衛生」「さすがに食品企業がこれだと気分は良くない」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw3319551
↓トイレを素手で洗うを推進しているケース 子供への洗脳の過程としてみると興味深い
・【2006年の記事 イエローハット鍵山さんの講演会感想】
https://blog.goo.ne.jp/hime1961/e/08ef005cc4416f9455e7c7269fd55954
https://blog.goo.ne.jp/hime1961/e/23221b5ca84082dc97d1ba6902ac613d
・新入社員研修におけるトイレ掃除の意味と意義についての研究
http://www.eco.nihon-u.ac.jp/center/industry/publication/research/pdf/31/31ohmori.pdf
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● COMMENT ●
ようやく分かりました
海外で子育てしています
2,環境(社会)を変える力
本当にこれは大事です。そして1と2はセットで成り立つことが多いと思います。自分の思いを言葉にのせて、そのうえで皆がより良い方向へ向かえるように提案する。1も2も伝達ツールとして言語が必要ですね。私は家事育児から体験しています。自分の思いを言葉にすることで、相手(主人=日系アメリカ人)にどう思われるか、言い合いになるのを避けたい、言っても分かってもらえないよねなどと勝手に決めつけて意思表示せずに内に溜めてドッカーンと爆発してしまっていました。急に爆発されても主人は、全く意味がわかりませんよね。これまで何も言わずに淡々と家事育児をこなしていて(表情はしかめっ面かも!?)何も問題ないと思っているんですから。「言葉にしないと、君がどう思っているのか何も伝わらない。」と主人は言いました。仕事しながら家事、育児の大半を担うのは体力精神的に厳しいことを伝え、その上でここは貴方出来ますか?と提案もしています。この作業は訓練されて少しずつできるようになりました。私自身は日本で育っていて自己肯定感は決して高くない上に1、2の訓練がなされていなかったからだと思います。小さいうちから1、2の機会が多ければ多いほどいいと思います。
また、アメリカでは、子どもたちの学校探しは重要で、自分の子どもに合う学校を探します。また、入っても合わないとなれば会う学校が見つかるまで転々とすることはよくあることです。学校に子どもを合わせるのではないのですね。それぐらいいろんなタイプの学校があります。
長くなりましたが、共感する内容でしたのでコメントさせていただきました。
まさに!
と思い当たる節があり、コメントさせていただきます(^^)
ご近所で、我が子の友達の事で負担が大きくなってきているのですが、
やっぱり、私のこの感覚は、別に間違っていないのだ、
ストレスを溜め込んでまでいい顔する事ないのだという、
事をアドバイスいただけたようで、なんだか心が軽くなりました。
我が子にできたせっかくのお友達だからと、始めは我慢していましたが、
毎日くる、勝手に家に上がってくる、から始まり、
先週は、その子の母親が仕事を始めるにあたり、
子供をみてもらう施設への申し込みをしないまま
私へ、毎週水曜日見てもらえたら助かる、、、のような話をされ、
自分からは、大丈夫、毎週見てあげれるよ、とは、
言わず、その件から、なんとなく距離を置くようになっていたところです。
私は、子供を預かる代わりに預かってくれない?とお話する勇気までは持ち合わせておらず、
ストレスが溜まると、図々しい人から逃げるように生活してしまいます。
コソコソ生活するようで、何だか楽しくなく、いい方向へと変わりたいなと感じていたところです。
もともと、私は人にいいように見られたい性格なので、
いい顔しすぎる面があります。
でも、1.2のスキル共に、全く持ち合わせておりません。
小さい頃から指示待ちで、自分で考える事が苦手です。
ですので我が子には、1.2のスキルを持たせてあげたいなぁと思っています。
(私も獲得したいです)
私なりに考えて見たいと思います。
おとーちゃんに背中を押してもらえたようで、
感謝しております。
次回の記事も楽しみにしております。
暑い夏がやってきますね、どうぞご自愛くださいね!
こうと思うと人に何を思われようと気にしないところがありまして、主張することに抵抗はないのですが、怒りに任せてしてしまうところがあり、どうにかしなくてはいけないと思っているところです。この力の土台に自分で自分の気持ちをなだめ落ち着かせ平和な心に持っていく力が必要だと日々感じています。
また、この力と共に、相手の意見を受け取る力が大切だと思います。自主保育をしているのですが、自分の意見を言っているだけの人に、「自分の思い通りにしようとしている」「めんどくさい人」などと言っているのを見かけます。子どもの頃から意見交換の練習をしていませんので、そういう風にとってしまうのも仕方ないのでしょうか。
わかるのですが
自己表現や改善スキルはそれらの道徳心が十分染み込んでいる前提で、それを実践するには不適切な状況(いじめやブラック企業等)では「そこまで自己犠牲せず、嫌なことははっきり言うべき、相手からどう思われるかを気にしすぎず、合理的に考えては?」というように、現実世界への適応スキルとして後から教えるのではいけないでしょうか。
こうした道徳心のような昔ながらのいわゆる「小さいうちのしつけ」は、そのままではうまく機能しないことも多く、運用論として成長に合わせてアドバイスを受けたり、経験の中で本人が現実世界とのすりあわせをしながらその人の人格を形作っていくものだと思うのです。
例えるなら、前提として「誰にでも挨拶するのはいいこと」と教えた上で、それができるようになった子には、「世の中いい人ばかりでないからむやみに話しかけない方がいいこともあるのよ」と教える、という順番が大切で、いきなり「知らない人には話しかけちゃダメ」と教えるのは違いますよね。
大きくなってもその辺に気付けず「お国の為に命捨てる」と言い出したら止めるけど、現在のわが子が何かの場面で自己犠牲を選んだら、そこは褒めてやりたい・・・。
興味深い
このような考え、スキルを学ぶのに何か良い書籍があれば教えていただきたいです。
きちんと勉強したいのですが、とっかかりがわからなかなくて……。
いつも気付きのある記事をありがとうございます。
Re: わかるのですが
その背景には、そういった道徳観を適応してうまくいける範囲と、問題がある範囲の境目が目に見えるものではないことがあります。
もうひとつは、「道徳」には負の側面と、もっと問題のあるダークな側面もあることです。
こんど時間のあるときにそれを書いてみたいと思っています。
Re: 興味深い
ビジネスシーンででしたら、こちらの本が、ちょうどこのテーマに沿うかと思います。
『仕事の「生産性」はドイツ人に学べ』(隅田貫/KADOKAWA)
コメント返しありがとうございます
「おしん」というドラマを思い出しました。かつての日本人の価値観を色濃く反映したドラマです。今回の一連の記事の内容を踏まえてみるとまた違った視点で面白いかもしれないと思いました。うろ覚えですが、貧乏でも幼児期に母・祖母に愛された為か安定した人格を獲得、奉公先ではひどい仕打ちに合うも、勤勉さ、忍耐、正直さなどで信頼を得て、人並みの幸せを手にするような話だった気がします。ただしここ一番の場面では、自己主張や行動もできる強い芯をもっていたと思います。そして、サクセスストーリーかと思いきや晩年のおしんはあまり幸福でなかったような。自己犠牲な生き方だった為でしょうか。
個人的には、健気に頑張るおしんから前向きな気持ちを貰えるので子供と見ようと思っていたのですが、良くないかな。でも、辛さに耐え人のため自分を犠牲にした良い爺さんが報われるというのは昔話全般にありがちな話だし、そこまで気にすることないのかな。
我が子がブラック企業に殺されるのは勿論嫌ですが、多少損な生き方であっても人が嫌がる仕事を黙々とできる人になってほしいという思いもあります。私自身が、そこに価値を見出だしている(自己犠牲する自分に自己肯定感を支えてもらっている)という側面があるのかもしれません。
彼らの辞書には「美徳」も「自己犠牲」もありません(笑)
こちらが日本人らしい「美徳」でもって接すると依存・パワハラ・モラハラ攻撃が始まり、あっという間にこちらが病気になってしまいます。(あくまでも我が家の場合、ですが。。)
どうするかといえばやっぱり、こちらがしっかり自己主張すること。ぶれずに自信を持つこと。あなたとわたし、という境界を明確に示すこと。それから環境の整備。
そうすれば夫も子供も、ちょっと変わってるけど、ピュアで能力も高い人間に!まるで生まれ変わったかのように(笑)
まさにおとーちゃんさんの言う通りなんですよね!
甘やかしや棚上げを「美徳」のオブラートに包んだって、行き着くところは家庭崩壊に過労死に…本当に命の危険に直結するってことを日本人はもっと知るべきと思います。
周りに自分を犠牲にしてすごいね~とか
会社に貢献してくれてありがとうと言われたいのかな?
自己犠牲で自分に酔っているだけにみえます
ただ耐えるだけの自己犠牲で報われることはなく
自分を真の意味で大切にして
自分の人生を自分で切り開くことで報われるのだと思います。
本当に
私自身はモヤモヤしつつも自分の中での落としどころというか、、素手でトイレ掃除派と距離を置いたりやり過ごしたりもしていますが、子供が就学したときそのような価値観の教員にあたった時にはどうしたものかと今から悩んでいます。
道徳が教科になると決まってから少し調べてもみたのですが、これまたモヤモヤしています。
人当たりが良い一見優しそうな人が多く、嫌われたくないから引き受ける、後で不満ブーブー。私ばっかり損してると他人に愚痴の嵐を向ける。あるいは私忙しいアピールが激しい。
協力して欲しいなら欲しいと言えばいいのですが、言えず損な役回りばかり。
本来自己犠牲精神とは不満を抱いたり、感謝を求めるものではないはずです。こういうタイプの人は自己犠牲ではなくただ、頑張ってる自分に酔ってるだけです。ひとの役に立てて嬉しい、それに価値を見いだせて自分を肯定できるなら本物ではないですか。無理してやるのは感謝や承認欲求のためのパフォーマンスに過ぎません。
私個人の考えでは、日本人としては自己犠牲精神は持っていて欲しいです。それは決して無理や不満を持つものではなく、自然に人の喜ぶことをしようと。もちろん理不尽なことにはもの申す強さもなければいけませんが。
日本人は世界一歴史の長い国です。日本古来の道徳心といったことを否定的に見られると少し悲しい気がするのです。グローバルな社会だからこそ日本人のアイデンティティは道徳に学ぶべきこともあるのではないかと思うのです。
訳のわからないことをベラベラとすみません。でも私は日本が好きです。日本文化は大切にしたいと思った次第です。
子育てをしていても、子供に合わせる時と、自分に合わせてもらう時がバランス良く保たれている時が一番上手くいく感じがします。
今の日本人はバランスが悪く、忍耐を良しとし、自己犠牲を美化し、出る杭を打つというものがまだまだ根強く、そこから打破するには、すこし大げさでも、
人に迷惑かけてもいいよ!
自分がしたいことを言えばいいよ!
我慢せず、好きなことしようよ!
と言う必要があります。
それは、ワガママで自分のことしか考えない人間になるためではありません。
バランス良く、自分も他人も大切に出来る人間になるためです。
過ぎたるは及ばざるが如し。
まさにそのとおり。ただ、フラットな自分にもっていくために、今、必要なことは何か。
保育士おとーちゃんのブログには、そのヒントがいっぱいあると思います。
自己犠牲を良しとする人は、自己主張をワガママと捉えます。自己主張を良しとする人は、自己犠牲する人を弱い人間に捉えます。
そうではなく、どちらを良しとするのではなく、バランスの悪い状態で生きにくさを感じた時に、どうバランスを取るか、と言うことだと思います。だから、「〜することが良いことだ」と教えこむ道徳は、それに反することを否定していることと同じです。色々な意見があって良い。良い悪いで判断する必要はない。まさに自分はどう感じるか、自分は何が好きなのか。善悪で物事を決める時代は終わり、感情や心の時代が来ているように思います。
そちらに寄り過ぎてしまっているよ、という客観的な事実を伝え、それが生きにくさにつながるならば、こうしていこうよ、という現実的な提案に捉えています。
自己犠牲、素晴らしい!!
ではなく、自己犠牲したら褒める必要はなく、良しとする必要もないのです。
かといって、もちろん否定する必要もない。
そうなんだ。
くらいで良くて、自己犠牲したらだめよ!とか言う必要もない。
自己主張しなきゃダメよ!
でもない。
どうする必要があるか、どうしたらよいか、
自分の気持ちや自分の感情にもっと目を向けることです。
他人の決めた善悪に従って生きるて、自分を失うのです。
非常識でもいい、非道徳的でもいい。
自分の感情や気持ちに目を向けてほしい。
そこからでないと、本当の意味では他人の気持ちを考えたり、他人を大切にすることは出来ない。
まず、自分を認め、自分を大切にする。
子育ての始まりはそうだったはずです。
それは、すごくすごく大切なことなんです。
自己犠牲を否定したりする必要は全くない世界です。
親子とも自己主張が苦手です。
どのようにしたらそのようなスキルが身につくのかとても知りたいです。
教室みたいなものがあれば通いたいと思ってしまいます><
専業主婦からの一歩!
私は人からのアドバイスで、自分は全てを子育てに捧げすぎていたことに気が付きました。
専業主婦は素晴らしい。人に我が子を預けるなんてありえない。今だけの時期なので楽しむべきだ!と思い込んでいたのです。
子育ては楽しいです。我が子は可愛いです。でも正直、大変な日もあります。食事も給食のようにはいきません。子どもは子どもとの関わりも求めます。
今度、保育園の見学に行ってみることにしました。
ありがとうございます
子育てでも、子どもに自己犠牲の押し付けはしないようにしなければ、と思いました。美徳として、我慢を強いるのは、自分がそれをよしとして育てられたからかもしれません。
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他人が喜ぶことを、何も言われないのに善意で率先してやってくれる人たち。でも、それが当たり前になると人は感謝の気持ちが薄れて「ありがとう」を言わなくなる。
もし周囲からのありがとうが薄れてきて、善意でやっていることが負担に思えて来るようなら、周りからの感謝の表意を期待して我慢するのではなく、自分から現状を変える提案をして周りの人と話し合いをし、お互いが納得出来るように変えていけるようになるのが好ましいのではないか、そういうことでしょうか?
とてもとても腑に落ちました。
確かに、善意の心は人が生きていく上で大切だし必要なものだとは思います。しかし、社会は善意だけで成り立つものでは決してない。善意や献身に大きすぎる価値を置いてしまうことは、昨今よく取り沙汰される“やりがい搾取”に繋がってしまう。
誰かの善意に寄りかからなければ成り立たないのであれば、それはシステムとして破綻しているのであり、早急に改善されなければならない。
もちろん、自分が好きでやってることで人からの感謝や報酬なんかどうでもいいと心底から思えるなら善意を貫くのもいいとは思うのですが、そう思い込んで無理を続けてしまったり、或いは人からの謝意に依存してしまう可能性もあるのではないかと思います。
実は今の自分も正に「善意の泥沼」にハマりかけており、今回の記事を読みそれに気付かせてもらいました。
現状改善の方向へ、考えをシフトしていってみます。本当にありがとうございました。