「道徳」の落とし穴 vol.1 - 2018.07.03 Tue
グレーなものから、それこそブラックなものまで。
「道徳って正しいこと」という認識だけでは、これからの時代、子供たちの幸せにはつながらないかもしれません。
僕の感じるところを不定期で何回かにわけて書いていこうと思います。
さて、ではなにから話しましょうか。
切り口がたくさんありすぎて、迷ってしまいます。
◆「道徳」と「道徳観」は違う
コメントの中で「あいさつ」に言及しているものがありました。
僕は「道徳」を肯定しませんが、「あいさつをすることは大事なことだなぁ」とは思います。
ただ、「あいさつすること」を「道徳」として教えることは必ずしもその必要はないと考えます。
むしろ「あいさつ」を「道徳」で考えることは、危険ですらあります。
少し説明しましょう。
まず、「道徳」としてあいさつを考えているその仕組みを見てみましょう。
・「あいさつをするのは正しいこと」 という「道徳」が前提にその人の念頭にある
↓
・正しいことだから、子供に「あいさつしなさい」と教え込んでいく
↓
・子供があいさつできる子になる(満足) or 子供があいさつしない(不満足)
・不満足の場合、それをなぜしないのだと否定的な感情を覚える
↓
・あいさつするように、繰り返しアプローチしていく
別にこれ以外の感じ方や、アプローチをすることもあるでしょうけれども、とりあえず模式的に書いてみました。
さて、子供って本当にこの方向でものを身につけているのでしょうか?
ここに多くの人が、先入観として持っているひとつの誤解があります。
あるとき、妻にこう言われました。
子供たちのお箸の取り方が僕と同じだねと。
何のことをいわれているのか最初わからなかったのですが、自分で言うのもなんですが食に関しては僕は育ちがいいのです。実家がそれなりの料理屋だったもので。
で、僕は、お箸を取るとき置くとき、無意識に左手をそえて持ち替えているのですね。うまく説明できないけど、日本舞踊なんかでも扇子を取るとき置くとき左手で一度受けておいたりしますよね。あんなかんじ。
もともと無意識でしていたので、当然ながら子供に直接教えたということはありませんが、いつの間にか、子供たちにはそれがうつっているわけですね。
本当にいわゆるところの「箸の上げ下ろし」というやつです。
子供の成長の一義的なものは、実はこちらなのですね。
教えてやらせるというのは、子供の成長のメカニズムから言えば、二義的なものです。
多くの人が、子供のそういった「身仕舞い」を「教え込むもの」といった無意識の理解を持っていますが、それが子供へのアプローチの全てと考えては、子供の成長のメカニズムを見誤ることになります。
一義的なそれなしに、二義的なそれだけを頑張ったところで、そうそう身につくわけではありません。
逆に一義的な部分さえ押さえておけば、二義的なそれなしでも、子供に身についていきます。
(ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」の概念の基礎部分ですね)
あいさつに戻って考えてみましょう。
「道徳」としてあいさつを教え込まなくても、身近な人、子供が信頼している人が、それをしているのを環境的になじんでいれば、子供は教え込まれずともそれを身につけていきます。
ただし、「やりなさい」と強制するよりも、目に見える結果がでるのには時間がかかるでしょう。
しかし、子供は必要なときに、必要な場面でそれを自分でするようになります。これが本当の意味での子供の成長というものです。
大人に言わされたからする、言わせる人がいないと、怒る人がいないとしない、という状態になってしまっては、それは成長ではありませんね。それは動物の「調教」のようなものに近いでしょう。
こう見てくるとわかるかと思います。
「これが正しい」と教え込むことが、「道徳」=「道徳観」とはなり得ないわけです。
「道徳」として教え込まずとも、その子が適切に他者への信頼感などの心の成長を得ていれば、それをその人たちから引き継いで「道徳観」は形成されます。
まあ、僕はそれをわざわざ「道徳観」と呼ぶ必要性を感じませんが。まあ、身につくものは身につきます。
実際面として、「これが正しい」を前提としておくと、それができない状態に対して大人は、肯定的・許容的な見方が難しくなります。それどころか、否定的な心理になることを留められないこともあります。
結果、子供のできない状態に対して、注意する、怒る、叱る、こういったマイナス方向の関わりが増えていきます。
それゆえに、かえってそのものごとを気持ちよく身につけられないということが往々にして起こります。
この背景には、「正しいことを上下関係の中で押しつける」という「道徳」のもつ負の側面が隠れています。
◆「道徳」は「排除」を生む
「道徳」って実のところ、そんな素敵なことではありません。
「道徳」が燦然と輝く善なるものであれば、モラル(道徳)ハラスメントなんて起こりませんよね。
「道徳」を強調すればするほど、場合によって、人によって攻撃やいじめが起こりえます。
ある人が、思春期に「髪を伸ばしてはならない」「長髪は子供らしくない」「坊主頭にすべきだ」と大人から教え込まれたとします。
それに反発を覚える人もいるでしょう。
それをそのまま自身の価値観として取り込む人もいるでしょう。
反発を感じながらも、その価値観に同化していく人もいます。
これが、例えばどんな人格形成をもたらすか?
必ずみながそうなるわけではありませんが、中にはこのように感じたり、考えたりするようになる人もでてきます。
「髪を伸ばしているやつは、チャラチャラしていてダメなやつだ」
さて、甲子園の高校野球では、一時自由な髪型が増えたそうですが、近年はまた坊主頭が増えているのだそうです。
そういった指導者の中に、この価値観を持っている人がいたとしても僕は驚きません。
坊主頭でないからと言って、別になにか悪いことをしているわけでもありませんね。しかし、その人は過去に形成された価値観ゆえに、その価値観に適合していない人をこころよく思えないという人格を持ってしまっています。
価値観の統一化や、その強要というのは、実は些細なことであれ安易に用いるべきことではないのです。
もし、社会が均一で、その価値観にはみ出る人がいないような状況。例えば封建時代などであれば、そういったことでも社会は問題なく運ぶのかもしれません。
しかし、現実には、さらには現代では多様な人がいるのが当然です。
多様性への理解、多様性の尊重を踏まえておらずに、「道徳」を語ることは大変に危険な行為です。
今一度、あいさつの話に戻ってみましょう。
僕は保育士の研修の中で、もし「あいさつって重要ですよね?」と聞かれたら、「そうだね。重要じゃないってことが重要だね」と答えます。
なぜなら、例えばある種の発達上の個性を持っている子のなかには、あいさつがしたくてもできない子がいます。その子は心の中では、あいさつをしたい、しなければならないということを重々理解しているのだけど、対人関係に緊張があったり、「しなさい」と怒られた経験などから、かえってそれができなくなってしまっています。
「あいさつできることは正しいこと」という価値観を強く持った人が、その子に関わると、その子はひたすらに否定され続けることになります。
怒ったり叱ったり、否定的な関わりをしない人であってすら、「この子をあいさつできるようにしなければ」と思っていれば、「ああ、この人は僕のことだめだとおもっているんだな」という否定のニュアンスを子供にもたらしてしまうことを留められません。
すると、目先のあいさつができるできない以上に重要な自己肯定感や自尊感情、ものごとへの意欲、他者への信頼感などを損ないかねません。
あいさつは、放って置いてすら時期が来れば、また環境がそれを必要とすれば、子供はするようになります。するようにならなかったとしても、そこでできないという結果から失敗をすることで、その子なりに考え乗り越えていきます。
本当に大事なものを損なってまで、大人の満足感のために目先の「できる」をつくりあげるのは、子供の人格形成をする上で避けるべきところでしょう。
◆
「それは社会生活上、必要な習慣」と考えるべきことは多数あることでしょう。
しかし、それを「道徳」として、必ずしも「できなければ許されないこと」のようにしてしまう必要はありません。
しかし、大人の方がすでにそういった価値観をすり込まれている場合、なかなかそういった気持ちから抜け出すのが難しいのも事実です。
僕はこのあたりの問題を、「統一的価値観」と「規範意識」の問題として、研修などのなかでもテーマにしています。ここに多少なりとも、客観的な視点を持てないと子供に適切なアプローチができなくなりかねないからです。
僕の子供時代、生徒をえこひいきする教員がたくさんいたのを覚えています。
「こうすべき」という価値観を強く持っている人は、それに当てはまらない状況(子供)を許容することが難しくなってしまうのです。
ちなみに、これは保育士になってからも少なからず同様のものを見てきました。
「人の性」というもので、勉強や知識だけでは簡単に乗り越えられない類いのものなのでしょう。
だから、身につけるべきことを、「道徳」のように「絶対正しいこと」といった色づけをして持たせることはリスキーなのです。
今月末に出版のようですが、こちらの本がちょうど最近書いていた「自己犠牲」などの内容とドンピシャリのようです。
ご興味ある方はどうぞ。
『不道徳お母さん講座: 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか』 単行本 – 2018/7/27 堀越 英美 (著)
- 関連記事
-
- 認可外保育施設、6カ月男児死亡事故を受けて (2018/10/07)
- 「断乳」について考える (2018/09/01)
- 「がんばれ」に代わるもの (2018/08/22)
- 「がんばれ、がんばれ」の秘密 (2018/08/21)
- 「道徳」の落とし穴 vol.2 自己犠牲について (2018/07/10)
- 「道徳」の落とし穴 vol.1 (2018/07/03)
- 努力・自己犠牲・感謝という道徳観について vol.2 (2018/06/30)
- 努力・自己犠牲・感謝という道徳観について vol.1 (2018/06/25)
- 「しつけ」の誤謬(ごびゅう) (2018/06/22)
- 「過干渉」という病(背景にあるもの) (2018/06/18)
- 「過干渉」という病 (2018/06/04)
● COMMENT ●
前回に引き続き非常に興味深いです。
モヤモヤしているものが、、
今回の記事を読んで、浮かんだのは、長女との会話ややりとりの中で、私自身のモヤモヤ感、しっくりこない感じ、その感覚嫌だなぁと感じるものが日々色々な場面であることです。その違和感は根っこの所で全て繋がっていそうなのに「コレが原因だ!コレが嫌なんだ!」とハッキリとした答えは自分では見つけられずにずっといます。
ほんと細かいどうでもイイ事なんだけど、例えば「バイキンマンは嫌い!ウルトラマンはみんなを助けてカッコイイ!男の子は青!女の子はピンク!」等々、年少あたりから娘が口にすることがあり、どれも否定はしませんでしたが「・・・う~ん、何となく、、イヤだな、、」という感覚。主人に話しても「えっ何が変なの?」と言う返答。いや、別に変じゃないけど違和感が、、と話しても理解はしてもらえずでした。
横断歩道のない所を横断しているおじさんを見て「あの人はダメだなー!」と話す義父に対しても「いや、そうなんだけど、、でも、、」と言いかけて何もに言えないでいる自分に常にモヤモヤしていました。
そして上記のような長女の言葉は、娘がこども園に通いだしてから気になるようになりました。
・・・でも、今書いていて、、コレって、しつけ?!道徳?!と自分で(?)になってしまいました。
「良かれと思って」「善意から」の聞えの良さで、その一方的な押し付けがましさに気付かず、純粋な子どもたちをなかば洗脳していく事が大人には出来てしまうのかなぁ。。とコワく思います。
支離滅裂な長文、すみません!!
お茶碗持ち上げて!、お口閉じて噛んで!と言いながら、「こりゃ調教だな」と内心思っています。ベターな方法ではないと思いつつも、じゃあどうすればよいのか・・・と悩むところ。
本人はこぼしたくないという気はあるものの、一口食べたらお茶碗持ち上げるのも口を閉じて噛むのもすっかり忘れて、よそ事考えながら食べています。
価値観
目安があったほうが、自分なりの価値観を形成しやすいと思うからです。
ただ、親の価値観に縛られるのは避けたいですね。
それには、子どもの反抗期にどう接するかが大切だと思います。
反抗期は、大人の価値観への反発であり、自分なりの価値観を形成する時期だと思っているからです。
何かこう、恣意的な意図を感じます。
息子が近所の子に意地悪されたとき、
「あの子は道徳を習ってないから悪いことが分からないんだ!」なんて言ってて、
まいったなあ〜洗脳されちゃってるなぁ〜苦笑と思いました。
価値観から外れる子供でした
おとーちゃんのブログのお陰で、子育ては楽しんでいますが、大人に対して怒りのプールを貯めており、規範意識の高い人に対して自分でもセーブできないような怒りを感じることがあります。周りと違う自分の価値観に苛立ちを感じる一方、ご指摘の通りの道徳の負の面の被害者という意識があります。
本当に良いものでしたらこのような感覚は抱かないはず。
今は自分も他人も大切に行きていこうとは思っていますがなかなか難しいです。
オススメの本ですが、cakesの連載を読んでいました。とても面白いですよね!
ある程度の躾は必要だが、厳し過ぎてもダメ!
なんだかんだ出来ない=ダメな子という、色眼鏡もあったりする。
親戚から小言を言われたり、ママ友から見下さたり・遊んじゃいけません。
特に、レベルの高いお付き合いが多いと・・・・
※ダメな保育士・教師にも、似たような傾向がありますね。
でも挨拶・マナーを求め過ぎると窮屈で、子供らしくノビノビ遊べない。
それらは表面的な道徳であって、本当の道徳とは違います。
ストレスから意地悪するようになれば、まさしく本末転倒になる。
トラックバック
http://hoikushipapa.jp/tb.php/1192-f5a425b7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
先日、4歳の娘のピザパーティーでの出来事を思い出しました。何種類かのピザがあり、取り分けてくださる方がペパロニかチーズかベジタブルか聞いてくださるわけです。娘は「Cheese」と答えたところを、私はすかさず「pleaseでしょ。」と。たまたま次に取りに来たお子さんも「cheese 」と答えて偶然にも、その保護者も日本人で「pleaseは?」と付け加える。次はローカルのお子さんが取りに来て「cheese 」。でもそのこの保護者は何も言いません。その時、私はハッとしました。「私は、こうして娘に言うのは自分の子どもが他人からどう見られてるのか気にして言ってるのではなく、育てている自分がどう見られてるか気にしてるんじゃないのか?」Cheese, pleaseといい直した娘にホッと胸を撫で下ろしている自分の姿が私が小学生の頃、毎日のように「近所の人に挨拶を忘れずにしなさい。」と言っていた祖母に重なりました。
私の好きな日本語「ありがとう」も一緒かな。教え込んで言わせるものではないですよね。周りの私たちが、おとーちゃんのお箸のように呼吸しているかのようにできている言動は、子どもたちにも言わずもがな入っていくんでしょうね。「pleaseは?ありがとうは?」と、できなければ許されない事のように価値観を刷り込ませていないか今までの自分の行動を振り返るきっかけとなりました。いつも素晴らしい気づきをありがとうございます。
(ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」は初めて聞いたので調べてみます。)