事例で見る難しい子の対応 vol.2 質問への回答(1) - 2018.07.28 Sat
とても勉強になります。ありがとうございました。どれもこれまでのブログの中に書かれていたことですが、こうして事例の中でまとめられていると、実際の対応に生かしやすいです。
一つ質問です。わたるさんの立場の保育士が、他の子供たちから「Bくんはダメなことばかりするんだよ」と言われたら、その子達にはどのように返してあげたらよいでしょうか。また、一時的にネガティブ行動が増えた段階で、援助の関わりをしていることについて他児が「なんで怒らないの?」と言うような場合はどうでしょうか。
◆
子供たちの中には、「○○くんのこと怒って」と直接的に要求してくる子すらおりますね。
その子は、周囲の大人や保育者の関わりとして、「不適切な行動をしたとき怒る大人」を見てきたり、自身怒られる関わりを重ねてきたのかもしれません。
また、規範意識からの注意・過干渉をすることでの保育空間の安定のなかで過ごしてきたのでしょう。
これを強調していけば、他者の非をあげつらい断罪しようとするメンタリティを子供たちに獲得させてしまいかねません。
これは、いじめやモラルハラスメントの底に流れている暗い川でもあります。そこを保育者がさらに強調することはさけたいですね。
(しかし実際のところ、日本のしつけや規範意識からの子育てではここを強調していくので、いじめ、モラハラを防げない)
では、そういった周囲の子への対応について、方向性のひとつを書いておきます。
その子と保育者である自分の信頼関係を使い、B君を悪者にしないようにするのです。
対応例1
子「Bくんダメなことばかりするんだよ」
保「うん、そうだね。彼にもいろいろ理由があるんだよ。でも僕はB君のこと好きなんだよ」
対応例2
子「Bくんダメなことばかりするんだよ」
保「そうだね~。でも、それも受け止めてあげてほしいんだ。あなたはそれが受け止められると僕は思うよ」
対応例3
子「Bくんがたたいた~」
保「どうしたの~、ああそうか~。それは痛かったね~」
(被害をこうむった子の気持ちを受け止めることに着目し、B君を責めることでの解決にしない)
対応例4
子「B君がまた○○した~。B君のことおこって~」
保「あら~どうしたの~、ああそうだったんだ~。うんうん」
(この受け止める関わりだけで済むならここまででいい。さらに「怒って」を要求してくる場合↓)
保「僕はそれで怒ったりしないよ。あなたのことも怒ったりしたことないでしょ。きっとB君は自分でわかる力を持っているから、僕はそれを待っているんだよ」
◆
保育者である自分自身と、周囲の子供との信頼関係ができていれば、これらの対応でB君をつるし上げることを防げるはずです。
例えば対応例3などは、信頼関係があればこそ、その人に受け止めてもらえたということで、その子は納得できるわけです。ですので、その言ってきた子を丸め込んでいるわけではありません。(信頼関係のルートの関わりが使えない人は、同じ対応でもここが丸め込みやごまかしになってしまう)
子供との間に普段から厚く信頼関係を築くことにより、子供は保育者の気持ちを自分の気持ちのように共感してくれるようになっているはずです。もちろん、個人差はありますが、基本的にはそういえることでしょう。
これらにより、B君に対する周囲からの「悪い子」というレッテル貼りを防ぎます。
レッテル貼りがなされてしまうと、B君の立場にいる子は、肯定不足と自己否定がさらに募りやさぐれてしまい、余計に安定化が難しくなってしまいます。
◆
このような対応を示すと、保育者によっては「周囲の子が可哀想だ」という見解を持つ人もいます。
「ネガティブなことをするB君ばかりが優遇されて、ネガティブな行動を取らない周りの子が割を食っている」
という見方ですね。
これは専門性のある見解とは言えません。
なぜなら、福祉における「量的平等」と「質的平等」ということが、根本的に理解されていないからです。
B君は優遇されているわけではありません。
人が健全に生きていくための一定ラインへの到達点から遠い位置にいるB君をそのラインへより近づけさせるために、必要な援助をしているのです。
そのラインをすでにクリアしている子や、そのラインへの到達が近い子に対しては、そこまでの手をかける必要がないだけです。
量的平等でこういった問題を見てしまう人からすると、「不公平である」という見解がでてしまいます。しかし、それは福祉職として浅い見方と言わざるを得ません。
質的平等に照らし合わせてみれば、なにも周囲の子をわり食わせているわけではないのです。
もちろん、これを言うことができるのもその子たちとの信頼関係があればこその話です。
もともと、子供全体に管理、支配の関わりをしていたり、その子たちの健全育成を心がけていないような保育をしていた場合は、量的平等の働きかけしか存在しなくなりますので、それ以外の見方ができなくなることでしょう。
◆
はっきり言って、「量的平等」の概念で保育をしているところの質は大変低くなります。
保護者の方がこういったことを園に言われたといまでもしばしば耳にします。
・「あなたのうちのお子さんだけ特別扱いはできません」
・「ひとりの子だけ優遇するなんて不公平です」
育ちが安定的でなかったり、発達に個性があったり、障がいがあったりする子の保護者がしばしばこのような言葉を突きつけられ、大変苦しむことになります。
多くの場合、こういった言動をする保育者は、「ちゃんと、しっかり、きちんと」といった「規範意識」からの保育観を持っており、それに当てはまらない子を心情的に許容できないというスタンスから、それのもっともらしい理由として、上の「ひとりだけ特別扱いできない」というモラルで論陣をはっています。
でも、それって福祉の概念ではないのです。
それならばその人は、「いくらの対価をもらったらこれこれのことをする」「いくらもらわなければそれはできない」というサービス業をした方がよほどいいでしょう。
◆
もし、保育者が周囲の子の心情をそのまま受け入れて、「B君が悪い」というレッテル貼りをしてしまえば(意図していようとしていまいと)、B君に不利益になるばかりではなく、その他の子にも「他者への不寛容」という心の成長を得させてしまいます。
逆に考えれば、B君への保育者の寛容の姿勢を通して、周囲の子も「他者への寛容さ」を学べる機会なのです。
だから、対応例1や対応例2の関わり方が出てくるわけです。
◆
>援助の関わりをしていることについて他児が「なんで怒らないの?」と言うような場合はどうでしょうか。
に関しては、つまりその「怒る」は「規範意識」からの、「正しいか正しくないかに照らし合わせたときの正しくない行いに対しての怒る(叱るでも同様)」ということでしょう。
乳幼児に関して、というよりも人間の人格形成の基礎部分では、この規範意識からの正論はあまり意味を成さないからです。それどころか、そもそもB君のような肯定不足の状況を大きくしてしまう主な原因が、この「規範意識からの正論」です。
子育てに対してまじめで一生懸命で、特にこういったしつけや規範意識からの子育てになりやすい人が、現在子供の肯定不足、否定の蓄積、そこからのネガティブな姿の増加という子育ての問題に苦しんでいます。
◆
「怒る」というのとはちょっと違うのだけど、もし、感情を露わにしてB君にアプローチするときがあるとすれば、それは「私」の感情からの嘘のない関わりの場面です。
例えば、B君が保育者に対して、ネガティブな行動で攻撃するような関わりを取ってきたときや、他児に対して、またはB君自身が危険な行為をした場合。
「私は、それは本当にイヤです!」
「そんなことをしたら私は本当に困る!」
「それは私は悲しい」
規範意識からではなく、「私メッセージ」として感情を入れたアプローチをします。
なぜか?
「正しい行動だからしろ」
「正しくない行動だからするな」
これは規範意識からのアプローチです。
これは、子供との情緒的つながりとは別次元の関わりです。
それに対して、
「私が本当にイヤなのでやめて下さい!」
といった、私の感情に基づいたNOの関わりは、規範意識ではなく、子供と大人の信頼関係に基づいた情緒的関わりです。
年齢が小さい子ほど、この関わりが重要なのです。
B君は年長ですから、本来は規範意識の部分が多くなりつつある年齢ではあります。しかし、B君の問題は、心の発達で言えばもっと前の時点での課題なので、こういった情緒的な関わりを重視すべきなのです。
◆
これを踏まえて考えると、世間に流布する
「怒るんではない、叱りなさい」
という子育てのある種のメソッドが、絶対のものではないことがわかります。
情緒的安定や、他者への信頼感の大きな形成、社会性、自律心、自立心(依存の減少)こういった課題がクリアされた一定ラインを超えた子に対してであれば、規範意識からの叱るが機能します。その場合であれば、大人の自ままな感情からの否定的なアプローチよりも、理知的な叱るといったアプローチの方が良い場合もあります。
しかし、まだそういった心の成長の課題が一定程度確立されていない子に対しては、むしろ信頼関係に基づいた、情緒的なアプローチの方重要なのです。
※
B君を悪く思わないように周囲の子への働きかけの点は、
字面だけをみると、ハラスメントへの対応を書いた『ハラスメント対応のお作法 』の記事における、ハラッサーへの対応と矛盾して、ダブルスタンダードになっていると感じる人がいるかもしれません。
その理由を簡単に言ってしまえば、「大人と子供の違いだから」の一言ですむでしょう。
子供は、大人に守り慈しまれ、導かれなければならない存在です。
子供はその行動に責任能力をもっているわけではありません、その責任を負うのは周囲の大人です。保護者しかり、保育者しかり。
だから、大人に対するのと違って、B君に対しては「悪いものは悪い、被害をこうむっている人がいる以上、あなたを許しません」という対応は適切ではないのです。
もし、その対応が子供に対して許されてしまえば、その子たちは将来他者へ怒りを抱えた人間として、その子自身がハラッサーになったり、大きな生きづらさを抱えて生きていくことになりかねません。
だから、正義のものさしで子供を測るべきではないのです。
ここを踏まえると、「ネガティブな行動を出さざるを得ない状況を持たされた子」という考え方が理解できることでしょう。
※少々多忙なので、他の質問に関してはまた時間のあるときに答えていきますね。
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● COMMENT ●
すごく参考になりました。
ありがとうございます!
息子は正義感の強いところがあり、たまーにですが、誰かが息子の考える「ダメなこと」をしているとき、「おかーさん、あの子、あんなことしてるよ。あれやっちゃダメだよね?」と聞いてきます。
私は、「そうだね。お母さんはしない方がいいと思ってるけど、あの子はそう思ってないのかもしれないね。いろんな考え方があるからね」とか、明らかにやらない方がいいことの場合は「そうだね。あの子はしない方がいいって知らないのかもね」というふうに答えます。
後者の場合、息子は「じゃあ、教えてくる!」と相手に近寄っていって、同じくらいの歳の子には強めの口調で「それやっちゃダメなんだよ。〇〇だから」、幼い子には優しく「あのね、それ、やらない方がいいよ?〇〇だから」と言っています。
私はそんなことほっとけばいいのに、と思うことも多く、少し正義感が強すぎるような気がして気になっていました。
今後はこの記事を参考にして対応していこうと思います。
もう一つ困っているのが、他の子から「この前〇〇(息子の名前)が僕のこと叩いたんだよ!」などと言われた時の対応です。
これはわりとよくあって、私としては、お互いに何か理由があった上でのトラブルでお互い様だと思うので「そんなことがあったんだね〜」で流したいのですが、それでは相手の子がスッキリしない様子です。
根に持たれて今後の息子との関係が悪くなるのも残念なので、実際には「そんなことがあったんだ〜。ごめんね」と謝ります。そこで息子に謝らせることはしていません。
相手の子はたいていそれで満足してくれるのですが、「自分が正しく、相手(この場合は息子)が間違っている、という認識が正しい」という経験を積ませてしまうことになってしまい、その子にとってはよくないのではないかと気になっています。
公平な「保育者」としての立場ではなく、悪いことをした(と思われている)子の母親として、どういう対応をしたらいいでしょうか。
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いるいる、息子のクラスにもこんな子いる、というより大半がこういう子だなぁと思いながら読ませて頂きました。
受け止めてもらいたい上に、小学校の低学年ともなると幼児よりもしっかりとした規範意識を持っているからでしょうか、誰かが悪いことをすれば「〇〇さんが悪いことをしてる」と訴えてきて大人に裁いてもらいたがります。更にやっかいなことになってるなと思うのは、「〇〇さんが授業中に立ち歩いてる、ムカつく、叩いてやりたい、ねぇ、何とかして」と尋常ではないイライラを感じてしまったり、あまつさえ自分自身がわざわざ授業中に歩き回っては「〇〇さんがこんな悪いことをしてる、ムカつくんだけど」と何度も先生に報告しにいく(その行動自体が授業を乱すものになっていることに気付いていないのか、それとも悪を糾弾するためであれば許されると思っているのか、その辺は分かりません。しかし大人でもこういう人は少なくないのですから、この子だけがおかしいのだとは思えません。むしろ子どもをおかしくしてしまってるのは、私も含めた大人達に他ならないと思います)、自分もふざけた態度を取っているにもかかわらず「〇〇さんがふざけてる〜、ちゃんと叱ってよ〜」と訴えて来る(ワザとなのか?本気なのか?大人を敢えて挑発しているようにも感じられました)などなど…。
なんというか、大きな問題を抱えてクラスを乱す張本人となっている子どもほど、他人が悪いことをした時に糾弾したがる傾向があるような、ないような……実際の授業風景を見てそのように感じました。(まぁ、それでもいろんなタイプの子がいます。真面目に(でも比較的穏やかに)悪を追及しようと大人に訴える子(この子達は大抵真面目に授業を受けようとして頑張っている)、おふざけ半分で「わーるいんだ、わーるいんだ」と囃すように、煽るように糾弾する子(このタイプは周りの雰囲気に乗っかって騒がしくする子が多い)、そして自分も同じようなことをしているにもかかわらず他人の悪事は許せなくて執拗なほどに大人に糾弾を求めて来る子、、、、、、)
抱えているものが大きくなりすぎて、根が深くなりすぎて、学童期の子どもの援助は並大抵ではないことを痛感します(幼児期の子どもの援助が簡単であると言いたい訳ではないです)。その上、学習を支援する以前の子どもの援助に特化した職員が、学校という「出来ることを前提とした」場であるが故に、手薄になってしまっているという現実。(実際私が住んでいる市は、乳幼児に対しては割と手厚い援助をして頂けるのですが、学童期以降の子ども達の援助に関しては、どこに頼んだらいいのか分からないような状況です)
おとーちゃんさんのブログはあくまで乳幼児への接し方についてを書いてらっしゃるとは思うのですが、今回のシリーズは大変参考にさせて頂いております。続きを楽しみにしております。