事例で見る難しい子の対応 vol.6 質問への回答(5) - 2018.08.13 Mon
◆前回、後述するといった部分 「対人関係モデルの問題」
愛着形成、他者への信頼感などの、対人関係上の基礎部分が安定できていない子への対応の際、その子に意図的な信頼関係構築のアプローチや、受容、共感といった意図的な肯定のアプローチが始まっていない段階で、そのネガティブ行動が出てきた時点の対応にあまり注力しなくていい、どれほど頑張ってもあまり功を奏しないというのは、前回もそれ以前の回にも述べました。
これは、注意や叱るにといった関わりだけでなく、その場に際しての肯定や受容、それこそ包括的な受容の対応だったとしてもその可能性があります。
なぜか?
それはその子の持つ「ネガティブな人との関わり方」(ネガティブな対人関係モデル)の固定化、助長につながる場合があるからです。
注意して欲しいのは、「かまって欲しいから悪さをしている。だからそれには相手にしないのだ」といった一般に良くありがちな見解には落ちいらないことです。
これは背景に、子供を低くみる精神が隠れています。
その見方に踊らされてしまうのは、子供を大人よりも下の存在とみなし、管理、支配しようとする心の動きを助長することにつながります。
◆
専門的に保育を考える上では、その行動は「その子が獲得させられてしまった(獲得させられつつある)不適切な対人モデルゆえに、出さざるを得ない状況に置かれている」とみていくべきです。
子供がその生育歴の過程で、適切な愛着形成や他者への信頼感の獲得が十分に得られなかったり、行動面の過保護過干渉、さらには心の過保護、依存、大人からの否定の積み重ねや、疎外や無視、管理、支配、誘導されるような関わりを積み重ねられてしまうと、その子供は他者とどのように関わればお互いに心地よく過ごせるのかがわからないまま年齢を重ねていくことになります。
そうなると、(大人から見たとき)ネガティブな行動によって関わってくる子供が導き出されます。
これが「不適切な対人モデルを獲得させられた状況」です。
例えば、
・自分の失敗やうまくできないことを否定されたり、叱られてばかりきた子は、大人に対してそれらを隠そうとしたり、嘘をつく行動をとるようになる
・自分のよい姿に肯定的な共感をしてもらうことの少なかった子は、ネガティブな行動をとって大人に関心を持ってもらおうとする
・無視、無関心を重ねられてきた子は、大人が怒らずにはいられないことを行動としてせざるを得なくなる
・過保護、過干渉が常態となりそれで日常を送ることが当たり前となってきた子は、自分で解決したり乗り越えようとする行動をとらなくなり、最初から大人に頼るようになる。次第に、自分のうまくいかないことは大人のせいと考えるようになり、大人に当たったり、ごねたりする行動を出す
などなど。
このように、子供のネガティブ行動の根っこは周囲の大人が作り出していることがほとんどなのが実情です。
もっと具体的に言うと、
室内遊びの時間に「えほんよんで~」と持ってくる子は、大人も無理なく関われます。
これは、その子供が「こう関わればその大人と無理なく関われる」ということを、それまでの生育過程から理解しており、そこから無意識に互いに無理のない行動を選択して他者と関わっている姿です。
そうやって互いに気持ちよく絵本を読んで、その子も自分の要求を受け止めてもらったことに満足し納得して、その後自分の遊びに行ったり、保育者が昼食の準備があるからここまでだよと伝えたときにはすんなり理解することができる子(安定的な対人関係モデルを獲得している子)がいる一方で、そうはならない子もおります。
絵本を持ってくるだけ持ってきて、さして聴きもせず大人がそれにうんざりしていたり、イライラしてきていても、それに気がつく余裕もなく繰り返し要求し、つきあうだけつきあった後でも、食事の用意などどうしても必要な事情で終わりにすることを伝えても、それに納得できずごねたり暴れたりする子がいます。
こういった状況の子を、保育者が感情的にとらえてしまえば、「わがままな子」「しつこい子」などの否定的な見方におちいってしまいます。
しかし、実際はそのようにその子自身の性質に問題があるのではなく、どのように関わればお互いに心地よく過ごせるのか、またそれがわかっていたとしてもそれをするだけの心の余裕がない状況に置かれているといった、その子が他者と関わる際の対人関係の問題があります。
つまり、「ネガティブ行動は大人によって作り出されている」わけです。
もう少し正確に言うと「ネガティブ行動は、それまでの大人の関わりにより形成された対人関係モデルの結果出ている」のです。
それを叱ったり注意したりしたところで、その対人関係のモデルが変わらなければ、そのネガティブ行動がなくなることはそうそうありませんし、さらにその根っこになっているその対人関係のモデルを作り出した大人の関わりが変わらなければ根本的には解決しないものです。
保育者は、個々の子供の人格形成にたずさわっているのですから、それが適切なものになるようにサポートしていく必要があるでしょう。
そこで、この現状の「ネガティブな対人関係モデル」を「適切な対人関係のモデル」に変えていってあげることに配慮しなければなりません。
そこで、その不適切な対人モデルを持たされた子にどのようにアプローチすればいいのか?それを次回まとめます。
つづく。
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● COMMENT ●
この部分が、うちの子そのもので、ドキっとしました。
私は、過保護、過干渉を辞めようにも、なかなか辞められず、意識して、少しずつ改善しているとは思うのですが、なかなか難しいのが現状です。
それは、私の弱さが原因なのですが。
根底に、強い「不安」があります。
多分、私は子供へ強く依存していると思います。
私は、子供が生まれてから2歳くらいまで(もしかすると今も)ずっと、どこかで、私が母親ではいけない、私は子供から認めてもらえない、子供から母親と思われていない、私は相応しくない、という思いがあり、子供が奪われるような感覚がつきまとっています。
そう思い込むようになったきっかけは、義理親からの子育ての過干渉でした。
私は、バカなことに、子育てに自信がなかったので、義理親に言われるままに子育てをし、いい母親になるために必死でした。正しい人の言う通りにすれば、上手く子育てできる、と思い込んでいました。
しかし、頑張っても、義理親のように正しくなれないのです。
おそらくそれはきっかけに過ぎず、私の中にある弱さや自信のなさ、自分を認められない気持ちがあるからだとは思うのですが。
その不安を拭うように、過保護過干渉を繰り返してしまうのだと思います。
いつか、義理親の元に子供が行ってしまうような気がして、私は、子供を自分に依存させようと必死になっているのだと思います。
私のように、母親自身に、不安がある場合、どう自身を改めたら良いのでしょうか。
どうすれば、子供に依存しなくなるのでしょうか?
今は、義理親とは距離を置いていますが、いつまでも逃げることはできません。
このままでは、本当に子供は、私を選ばず、義理親を選んでいくと思います。
それは、悲しいことですが、私は、それを受け入れていかなくてはいけないのでしょうか。
どうすれば、強さを手に入れることが出来るのでしょうか。
うさこさんへ
まずはそれを認めて、自分を癒してあげてください。
今出来ていることを探してそれを認める。
ない!なんて思わず見つけようと意識してみる。(絶対あります!)
自分はどうしたい?って自分に問いかける。
それが実際に叶わなくても、自分はこう思っているって、認めてあげる。
親や子供じゃなくて、自分自身を中心にもってくる。
親の意見や子供の感情を受け入れる必要はなく、受け止めるだけでいいと思います。
あなたはそうなのね~、私はこうだけど参考になるわ~、って。
そうすると強さっていうより、今の自分でいいんだって思えてきます。
今のうさこさんでOKなんです。
自分のこと自分で認めてあげましょ♪
なんて偉そうに書いていますが私も同じように自分のこと認められませんでした。
でも上のように意識(訓練(笑))することで、大分楽になりました。
ご参考まで🌼
あやこさんへ
〉親の意見や子供の感情を受け入れる必要はなく、受け止めるだけでいいと思います。
という言葉に、ハッとして、気持ちが楽になりました。
私は、「すべての人を受け入れなくてはいけない」というような道徳的で、理想主義的なところがある、と気が付きました。
私は、自分と他人に線を引いてしまうことに、躊躇しがちで、自分自身、線を引かれてしまうことに強い不安があります。
子供の時に、自分の母が親戚から疎まれてしまったり、母が母の友達に陰口を言われていたのを聞いたことがあり、はたから見ると些細な出来事ですが、私の中では、それが些細なことに出来ず、母親は誰からでも受け入れられていて欲しい願望や、母親を守りたい気持ちが、潔癖にさせたのかもしれません。
自分の母親が誰かに受け入れてもらえなかったことを知った時に、深く傷ついていて、しかし、母親にもいい加減なところはあり、私は、そんな母親でも受け入れてほしかったのだと思います。だから、私は、誰であってもどんな人でも受け入れる人間でありたい、そうでないと、母を守れない、と思っていたと思います。
受け入れなくても、受け止めることで、十分に、ちゃんと人とつながっていけるのですね。線を引くことにはならないのですね。
受け止めることなら、出来そうな気がして、希望が持てました。
私と他人は違う存在だけど、それは悲しいことではないのですね。
あやこさん、ありがとうございます。
すごく大発見です。フッと気持ちが軽くなりました。
あやこさんに出会えたことを感謝しています。
うさこさんへ
現在5歳男児と2歳双子男児を育てていますが、私も育児には全くもって自信がありません。
というかおとーちゃんさんのブログの読者はおそらく全員何かしら不安や悩みを抱えて、検索してたどり着いたりするはずなので、自信がない方の集まりだと思います(笑)
育児に向いてない、母親が私じゃなくてもっとうまくやれる人だったら、そんな思いにかられることもたくさんあります。
でも最近やっと少しずつ、こんな風に思えるようになってきたのです。
私、自信がなくてよかった!って(笑)
もし自信があったら、子どもを平気で叩いて育てる親になってたかもしれない。
過干渉になんの疑問も持たずに育児していたかもしれない。
子どもが難しい姿を出すようになったとき、自分の関わりのせいだなんて思わなかったかもしれない。
息子が少し発達の遅れがあって、その知識を少しでも仕入れたことにより、発達障害の子への対応なども少しわかるようになりました。
それも自分に自信がなかったから、私が知識を得ようとした結果です。
友人の子にも発達障害の子がいますが、遊びにきたとき我ながらうまく対応できたなと思う場面がありました。変に自分に自信があってそんな知識を得ようともしなかったら、間違った対応でその子のパニックを助長してしまった可能性もあります。
あぁ、私自信がなくて本当によかった。
不思議な話ですけど、そんな風に思えます。
うさこさんは自分の育児について、自分自身について、深く考察されてますね。
育児について向き合ってますね。
問題点を理解して、そこを変えようと努力もされている。
なかなかうまくいかないのは、しんどいですよね。
でもそれってすごいことですよ。
自分を変えようと思うとすごく大変なように思いますけど、もううさこさんは変わってます。子どもを産んで、子どもが変えてくれたんです。
正しい子育て、いい母親、そんなのあるんでしょうか?
いい母親じゃないと子どもは母親を嫌いになりますか?
大きくなって親が嫌になる時期はくると思います、親より祖父母のがいいと言い出すかもしれません。
それはいい母じゃなかったからではなくて、成長です。ちゃんと大人になってる証拠です。
いい加減なおかーちゃんでも、不思議と子どもは好きでいてくれるものですよ。
「いつか来るかもしれない」不安に恐れを抱くよりも、今の子どもとの時間を楽しめたらいいですね。
子どもってうまくいかなくて失敗しちゃうことたくさんあります。そういうとき、叱ったりせず失敗を認めてあげよう、というのはうさこさんならおそらくご存じの知識だと思いますが、
うさこさん自身も、自分の失敗を許してあげてくださいね。
自分に優しくできないと、他の人の失敗も許してあげられないですから。腹立ちますから。笑
大丈夫、また次頑張ればいいんですよ。
子どもには未来がありますから、育児には時間制限ないですから(^^)
↑おとーちゃんさんのお言葉で私が大好きな言葉です。
こまゆかさんへ
コメントいただけて、嬉しいです。
確かに、私も良かったことといえば、やっぱり保育士おとーちゃんのような考え方を知れたり、他にも色々と多様な考え方が出来るようになってきたことです。
正しいことがすべてではない、というような、もっと本質的なあり方というか。
もしかすると、このつまづきが無ければ、私は、虐待する親や、子供を放任しがちな母親を見下し、自分の過保護を正当化するような母になっていたかもしれません。
自信がないことが、素晴らしいと思えるのは、本当に強みですね。
つい自信をつけないといけない、と思いがちですもの。
私も自信が無くて無くて、だから、一生懸命やるのに、やっぱりないんです(笑)。
だって上には上がいますから。
上や未来ばかり見ていたら、今を見失うのですね。
上も下もなく、私は、お母さんだし、大人だけど、弱さも強さもある単なる人間に過ぎません。
こうして、子供のように拗ねた私に、答えてくれるこまゆかさんの気持ちがとても嬉しく思いました。
本当にありがとうございます。
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今回の一連の記事と、息子のクラスで起きていることに関わって思ったことは、どれもこれも深く繋がっていると強く感じています。
もう一つとても気になっているのは、学級でネガティブな行動を出している(出さざるを得ない)子どもたちは、アダルトチルドレンの特徴にとてもよく当てはまるのではないかということです。“「死にたい」という言葉は自罰感情から出てくるもの”というおとーちゃんさんの記事を読んで、このような考えに至りました。また、以前から私自身もアダルトチルドレンの特徴を持っていると感じており、普段からネガティブな感情に支配されて「自分は劣った存在である」という思いに強くとらわれていたのですが、その時の私の状態とクラスの子ども達に通じるものを感じたのです。
だから、クラスの子ども達に今いちばん必要なものが、「自分をありのまま受け止めてくれる存在」であると(勝手な推測かもしれませんが)痛感するのです。
でも、学校は保育所とは違って“出来ることが求められる場所”、“秩序や規律が重視される場所”であるから、学級崩壊の立て直し方、問題を抱える子ども達への接し方は、流布しているメソッドでは子ども重視ではなくどうしても秩序重視のやり方になってしまっているように感じます。旧態依然とした学校教育の在り方こそが変わっていくべきなのに、逆に通用しなくなったものに今の子ども達を合わせようとするやり方に、どうしても疑問を持ってしまいます。これだけ時代が変わったのに、学校の在り方は、学制が布かれた明治時代と(根本的なところは)どれほども変わっていないのではないかと思います。(流れとしては、大正デモクラシーの辺りで“自由教育主義”の思想が出て来て、子どもたちに寄り添う教育を実施しようとした教育者もいたそうですが、時代が戦争に突入していったためにそういった考えが受け入れられなくなり、戦後になっても依然として大人主導型の教育が主流であり続け、現代に至るといった感じのようですが。)
とはいえ、現場の先生だけで現在の教育体制を急に変えてしまうことは現実的に不可能なわけで、現場が取り得る対策となると、教師がしっかりとイニシアチブを取ってクラスを「安定」した場にする事で、学習環境を整えていくのが最善であるとは思います。
ただ、「イニシアチブを取る=管理・支配を強める」の方向に進んでいるクラスを見ると、やはり「肝心の子ども達はどうなるのか、教育の場で最も重要な、“子どもの自発的な成長や勉強への意欲”は置き去りになっているのではないか」と、思わずにはいられないのです。(それとも、管理や支配をしていかないと維持できないところまで、現在の教育体制は崩壊しているのでしょうか?)
おとーちゃんさんの書かれているような子ども達に寄り添う在り方が、(理想論と言われようが、甘やかしと言われようが、遠回りと思われようが、)最終的には子ども達に最も響くことを、色んな子ども達に接しているうちに実感してきた最近です。だからこそ、そうではない現実の在り方にとても葛藤しています。