「がんばれ」に代わるもの - 2018.08.22 Wed
これは、その人の状況や文脈もあるから、「これ!」というものがあるわけではないけれど、少し考えてみる。
その前にまず二点を念頭に置いておく。
ひとつは、
現代の日本では「がんばること」が重要であると非常に強く思い込まされている人が、とても多いという前提のあること。
(こちらの過去記事http://hoikushipapa.jp/blog-entry-1189.htmlでは、「がんばること」という自分への強い思い込みが、自己犠牲的、またさらには承認欲求への飢えを生むことを書いた)
ふたつめは、そもそも「がんばっていない人っているの?」という命題。
「がんばっている」というのが、実のところ相対的な価値観でしかないこと。(常に自分基準での他者の推し量りになること)
例えば、商売をばりばりやってものすごくお金を稼ぐのが上手な人と、アルコール依存症で無職の人を比べた場合、一見、ばりばり稼ぐ人は「がんばっている」、アルコール依存症の人は「がんばっていない」と世間では見なされがち。
しかし、そのアルコール依存症の人も、例えば子供時代にされた親からの虐待のトラウマから逃避するために飲酒が常態となってしまい、結果アルコール依存症やアルコール中毒になってしまったといった理由があったとする。
その人は内心の葛藤としてはとても「がんばって」いる。目に見える社会的な結果としての他者の評価「がんばっている」は得られないかもしれないが、その人が「がんばっている」のは事実。
なんでも自分のすることがうまく行く人から見ると、やる気や誠意のないように見える人もいる。
これは、うまくできる人が自己の価値観を無意識に他者に押しつけて、そこからその人を否定している。
しかし、実際のところ、やる気や誠意のないように見える人も、その人なりにがんばっている。
そこを斟酌せずに、あたまから否定をしてしまえば、その人はさらにやる気や誠意を出せないところに追い込まれていく。すると、その人への「がんばっていない」というレッテル貼りは、より強化されていってしまう。
ネット上で「まじめ系クズ」などという言葉が見られる。
主に、他者とのコミュニケーションが得意でない人たちが、自虐的に自分を卑下するときに使われている。
思考がまじめすぎるがゆえにいろいろ考えてしまい、そこに他者への自己表現の苦手さ下手さがあいまって、実際の行動がうまくいかなかったり、そうなってしまった理由を説明することができないことから、「ダメな人間」というレッテル貼りをされ、さらにはそれを甘んじて受け入れてしまったり、そういった現実の場面での対処の難しさゆえに、他者と関わらないことを選ぶようになったり、をさしているようだ。
ある種の発達障がいの人もこの状況になってしまうことがある。
このように成果やがんばっている過程を如実に表せる人・見える人は「がんばっている」とされ易いが、それらができない人は「がんばっている」とされにくい状況がある。
これらを踏まえると、「そもそもがんばっていない人などいない」と考えることができる。
さて、前提が長くなってしまったけれども、これを念頭に置けばいくつかのことが見えてくる。
◆そもそも「がんばらせる」必要そのものがないこと
問題は、その人が「もっとがんばるか」「がんばらないか」ではない。
人は基本的に、みな「がんばって」生きている。
ただ、他者に見える結果につながるがんばりが出せるかどうかの違いがあって、そこには以下の理由がある。
a,結果を出すための行動の方向性がわからない
b,がんばれない状況を持たされている
c,その人の適正、能力と要求されていることが釣り合っていない
a,は前回の松岡修造のレッスンを考えるとわかりやすい。
「この方法ではうまくいかない?じゃあ、この方法もあるよ。一緒にやってみよう。うん、この方法もあなたには合わないようだ。じゃあ、この方法はどうだろう。あきらめないで試してみようじゃないか。おっ、これはなかなかいいようだ、すごいじゃないかあなたはこんなにできるじゃないか。あなたには、この方法が必要だったんだね。あなたの能力が低いわけでも、努力が足りなかったわけでもなかったね。いやーよかったよかった。本当に素晴らしいよ、私もうれしい」
最近の言葉で言うところの「チューター」の役割を持てる人がいれば、その人の「がんばっていないと見える」状況は解消される。
しかし、「がんばれ」を精神論にして他者否定になってしまうことの多い現状では、こういったチューターができるスタンスを持った人がとても少ない。
b,がんばれない状況は、簡単に周囲から持たされてしまう。そしてそれは、その人の努力が足りないわけでも、怠けているわけでもない。しかし、しばしばその本人自身も、周囲もそのように思い込んだり、決めつけたりしてしまう。そのことは、その元の問題以上にその人に生きづらさを与える。
例えば、親が食事や食べるものをほとんど用意していない子供がいたとする。しょっちゅうお腹を空かせてイライラした状況を持っている。この子が周りの子に暴力的だったとして、それは全部その子の責任か?その子がわがままで聞き分けのない性格なのか?
その子の問題は、その子の努力や責任とは別のところに原因がある。
これは子供に限らない。
こういった状況をうわべだけ見て、否定し、「がんばっていない」とするのは簡単。
しかし、事実を見る目を持っていれば、その相手を否定しないで問題解決を一緒に考えることができる。
その元の問題が完全に解決しなかったとしても、誰かが一緒に考えたことでその人の持つ状況は前進する。
c,もしその人が仮に両腕がなかったとしたら、その人にビールケースを運べと要求してくる人はまずいない。しかし、人の持つ能力は可視化できるものばかりではないので、往々にしてこれが起こる。
子育てや保育の中でも、このことは非常に多い。
発達段階が至っていなかったり、その子には能力的に無理なことを押しつけていたり。
それだけならまだしも、その結果の「できないこと」に対して、非難をしたりなじったり、感情的な不快を示したり。
これでは、育つものも育たない。
これは、職場の後輩指導などでも同様。
ここには、その課題、要求を出す側の責任がまず第一に発生している。
しかし、そこに無自覚だと、その相手を責めることにおちいってしまう。
「がんばれ、がんばれ」
善意で言おうと、悪意で言おうと、要求を出す自身への視点を持っていないと、自分の非を他者に押しつけるという結果になる。
◆「がんばれ」という言葉に代わるもの
↑これらを、自身のスタンスとしながら、以下の言葉が考えられる。
解説しても心の機微までは表現できないので、言葉だけ書く。
・「あなたは十分にがんばっていますよ」
・「あなたはどう思うの?」
・「うんうん、ああ、そうなんだね~」
・「それでいいじゃない」
・「そうか~そう思っていたんだね~」
・「ええんやで~」
・「そこがスタートラインでいいんじゃないかな」
・ただ寄り添う
ブログのトップに載せているのだけど、気づいていない人も多いとのことなので僕のHPの「子育てカウンセリング申込みページ」ときどき貼り付けておきます。対面相談、メール相談、電話(LINE、スカイプ)相談があります。
保育士向けの保育相談、仕事の悩み相談も同様にやっています。
保育士おとーちゃんホームページ 「子育てカウンセリング」
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● COMMENT ●
感覚で
子供にはもしかしたらコントロール気味にがんばれと言ってたかもと反省しました。これから気を付けようと思います。
世間の価値観で”がんばること”を強要される社会は、生きづらい人をたくさん生み出してしまいそうです。
その通りですね!
頑張っていない人はいない。
目に見えて成果を出す人だけが頑張っていると思われがちですが、
人はみんな、同じ量、頑張っているんだと気付かされました。出力量が違うだけ、なんですね。
小学校1年生の息子は水が苦手で、
プール授業が始まり、顔つけもできない状況です。一緒にプールに何度も行って練習しましたが、
ついつい、顔つけをさせなければ、と感情的になってしまった経験があります。
息子はプールに限らず、小さな頃から、何でも、出来るようになるのが遅いです。(生活習慣全般、友達関係など)
それでも、おとーちゃんのブログに書かれている事を参考に、できない事も含めて丸ごと受け止めていこう、と、心に留めて子どもと接していますが、
目先の出来る、出来ないに、ついつい目がいってしまうのは、私自身、まだまだ修行が足りませんね(笑)
実際に、おとーちゃんのおかげで、オムツも、トレーニングと言われる部類はせずに、その他の部分の成長を促しながら、その時が来るまで待つことができましたし、
その他、できない事も、出来るところまででいいんだよ、と声かけしながら接する事ができたおかげで、何か出来るようになった時の息子の喜びは半端なく、全身で喜べるような子に成長しました。
それを体感して、実感して、子どもと一緒に、喜び、楽しんできましたが、
プールでは、親自身、それができずにいます。
おそらく、これが、私自身が持たされたマイナスの感情ですね。小さい頃に親に、勉強にスポーツにと色々やらされました。
「できない事があってはいけない」まではいかないにしろ、そういった感情を持たされていると自覚しています。そして、それを子供に強要してしまいます。
「顔つけができないといけない」と思う、この小さいけど厄介な感情をどうにかしたいです。いつか、できるようになるよー、と、おおらかにいたいな、と考えさせられました。
ブログ、また楽しみにしています!!
学生時代、家族の問題で追い詰められ、外では失敗続きの時期があったのですが、何も事情を知らない人から「がんばれ」「苦労は買ってでもした方がいい」などと言われていたことがあります。
精神的に参っていましたから、自分に足りないところがあるからそう言われるのだと自虐的に考えていましたが、あとあと、そう言っていた人が自分よりも問題に直面したことがなく幸せに暮らしていたことに気がつき、愕然としたことがあります。
人って自分では変えることのできない事情があり、その中でそれぞれの方がそれぞれできることをされているのですよね。
私は子供たちには、ちょうどいい加減にやりなさいと言っています。いい加減でええよという気持ちと、極端ではない中庸の道を模索してほしいという気持ちを込めて。
子供にはそういいながらも、考え込んでしまうタイプの私はついつい近視眼的になってしまいます。一歩引いて楽な気持ちで眺めれば本質は見えてくるのに、頑張ってしまうとダメですね。
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