「自己責任」の非難と子育て - 2018.10.25 Thu
それに対して「自己責任」と責める声がちまたに上がっている。
そこにある人々の心理に僕は日本の子育てのあり方の影響を見る。
安田純平さんは「自己責任」? 今井紀明さんが問題提起(ハフポスト)
このまえブログで書いた「他者に迷惑をかけてはならない」という教育にしてもそうだが、日本では集団から逸脱しないことを是とする文化が根強い。
その理屈自体が間違っているわけではないが、ここにある要素が加わると簡単に「はみ出した人間は叩いてよい」という価値観へと化学変化を起こしてしまう。
その要素とは、支配と否定。
「他者に迷惑をかけてはならない」だけであれば、それは一理あることではある。
しかし、この価値観を押しつけられつつ、他者から支配されたり、否定とそれにともなう自尊心への攻撃を積み重ねられると、「他者に迷惑をかけてはならない」という教えを受けた人間は、その抑圧されたものを「逸脱した存在を叩くこと」で憂さ晴らしせずにはいられないメンタルを形成させられてしまう。
子育ての中でときに大人から子供へ、失敗に対して「それはあなたの自業自得でしょ」という言葉が投げかけられる。
それは落ち着いてみれば、なんとも冷たく不寛容な言葉なのだが、それを大人から言われて育ったという人は少なくない。
3年間も武装組織に拘束され、日々命の危険を感じながら過ごしたというのは、常人には想像を絶するほどの辛い経験である。
しかし、それに対して「自分で勝手に行って捕まったのだから自己責任だ」と非難できる人は、もっともらしい「自己責任」という理屈に乗っかっているが、実は自身の持つ支配や否定の積み重ねからの抑圧に苦しんでいるのではないだろうか。
僕はこれまで保育と子供に関わってきて、意地悪な子を作るのがとても簡単なことであるのを知っている。
正論で子供の失敗をなじったり、おむつ替えに際して嫌な顔をしたり、臭い汚いと自尊心を攻撃したり、子供の主張を押しつぶしたり、子供が肯定して欲しい気持ちを逆手にとって否定してかかったり。こんなことを積み重ねれば、どんな年齢の子であれさして長い年月を経ずとも簡単に意地悪な子に仕立て上げられる。
もちろん、そんなことをする人ばかりではないが。
しかし、これらがソフトになったものや、これ類する行為を無自覚にする人がいることは知っている。
日本の一般的な子育てや教育の中に、ナチュラルに子供の支配や否定が入り込んでいる。
ここを乗り越えられる保育や子育て、教育にしていきたい。
そして、
分断ではなく連帯や共生の社会に。
他者への不寛容ではなく、寛容な社会に。
この教育や生育歴からくる 抑圧→他者攻撃 という流れは、さまざまなハラスメントや、差別につながっていることを思う。
また、他者とのコミュニケーションや関わりがしんどい現代の社会のあり方とも無関係でないことを感じる。
それが子供に対してであれ大人にであれ、他者を支配したり、否定せずとも生きられる社会にしたい。
僕は20年前さしてなにかを深く考えて保育士になったわけではないが、それらが全部つながっていることを日々感じる中でその思いを強くしている。
● COMMENT ●
迷惑と責任
うーん・・
ですがこのケースは、「ジャーナリストが危険地域で捕まった」というだけの話ではなく、背景がいろいろありますよね。この方、捕まるの4回目ですし、「自己責任で危険なところに行くのだから日本政府は口を出すな。自分でなんとかする」と啖呵を切って危険地域にいらっしゃっているようです。
自分の判断で「集団」から離脱し、他の人の助けが必要な状態になってしまった人のことを、おとーちゃんさんが理想とする寛容的な社会はどのように受け入れるべきだと思われますか?そういうことって時々ありますよね。中州でバーベキューしていて地元の人の忠告に耳をかさずに流されるとか、スマホ運転して事故するとか・・。私はやはり「何やってるんだ」と批判したくなりますし、例えば国や社会が悪いと言いはじめたら「いや、自己責任でしょ」と言ってしまうと思います。どのように反応するのが寛容な心持ちなのか知りたいです。これは嫌味とか煽りではなく、真剣にご質問です。
連帯や共生、他者に寛容な社会、というと、これまたスローガンのようになってしまい、「みんななかよく」とか「きずな」とか、何とも幼稚な発想になってしまうのでしょうね。
近代的市民社会とは何かを深く考える機会が要るように思います。
海外で危険な目に遭っている人を助けるのは、国家の基本的な機能ですよね。そのための税金だと思います。
この方は何度も捕まりすぎです。
そして国家が国民を助けるのは当然ですが
本人は国の警告を無視し自己責任で行くと言っていたのに
人質保険もかけず捕まったら助けてくれ…
彼の行為に不愉快な思いになる人が多いのも当然です。
いつも楽しみに読んでいます
私もそう思います。
しかも、正しい立場に自分を置きながら(もしくは自分でそう信じながら)、子どもに意地悪をする、意地悪な子を作っていくということが、十分可能だと思いました。
怖いと思いました。
私の子どもがまだ6歳&3歳なのですが、子育てしながら、驚くほどの自分の力の大きさを感じます。私はその気になれば子どもたちを支配できてしまいますし、私の言うことが絶対だ、私が正しいと信じさせることができてしまいます。私が間違っている時にも、私を正当化することが簡単にできてしまいます。
外の社会では、私はたいした権力を持っていません。ただのパート主婦で、もっと力がある人がその気になれば、簡単に軽んじられ、支配されます。
なのに、子どもに対しては私は非常に大きな力を持ってしまいます。
稚拙なことを書きますが、時々、パワハラやいじめ、力関係の差、支配等・・がそこら中に存在するという事実を見て、胸が痛み、悲しくて仕方ありません。
また、自分がそういう諸々に対して無力だとも感じます。
でも、おとーちゃんの日記を読むと、勇気をもらえます。
自分の考え方を不特定多数に対して明らかにするということには、大きな勇気が必要だと思います。
これからも日記や記事を楽しみにしています。
個人的にはリスクを好む、所謂衝動性の高い傾向のある方かなぁと思います。
小さいうちなら叱られるわけですが、いい大人が自分の命を危険に晒す行動を繰り返すわけですから、
批判されるのはある意味優しい社会なのではないかと捉えています。
ただバッシングは最近過剰になりやすいですね。
攻撃対象を欲している人が開放先をみつけて思いのまま発散しているようで、
そういうエネルギーの矛先を自己実現に位置付けていく工夫が
社会として不断の努力が要るところだろうと思えます。
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息子のクラスに、授業中に騒いだり立ち歩いたりするという子が何名かいます。先生はその子達に対して、授業を真面目に受けるようにという指導をしてらっしゃいます。でも、その子達がなぜ授業を受けられない状態なのかという根本的な原因にアプローチはなされているのか、そこは疑問です。(そもそも、担任の先生がそういったアプローチが出来るよう、学校側がきちんとバックアップ体制を整えているのかが甚だ疑問です。)
中には、明らかに家庭環境の影響からそういった行動を出してしまう子もいます。せめてちょっとでも、その子に親切にしてあげたい、そう思ってその子に接したりもしました。その子は随分私を慕ってくれるようになったのですが、一方で、私の知らないところで他人に迷惑をかけるようにもなっていたのです。その行為は、十中八九、私のしたお節介行為がきっかけとなっているであろうことが察せられました。
良かれと思ってしたことが、回り回って誰かに迷惑をかけることに繋がってしまった。結果を予測せず、ただ善人振りたいがために余計なお節介をしただけではないか、と大変ショックでした。
「人間は誰しも他人に迷惑をかけながら生きている」、頭では重々承知しているはずなのですが、やはり心の底では他人に迷惑をかけてしまうのがすごく恐ろしいという気持ちが、依然としてしっかり根付いているのに気付きました。そして、(その子に対して)責任を取れる立場でない私が、この子に接していくことは果たして正しいことなのかすごく迷っています。親に面と向かって言えないワガママ(というか甘え)を、親でない私が受け止めてあげることはこの子にとって、そしてこの子の周囲を取り巻く人たちにとって為になるのか。(いま正しいか否か、いま為になるか否かといった、今だけを見て価値判断するのもどうかとは思うのですが)
迷惑をかけることと責任を取ることは、なかなかに密接な関わりを持っているように感じています。