保育者の姿勢 vol.2 「信じる」 - 2018.11.14 Wed
vol.1からの続きです。
2,信じる
「信じる」とはなんでしょう?
子育ては、しばしば感情論・情緒論に引き込まれます。
一般の人が自分でそう思う分や、一般の人向けのエンパワーメントの言葉としてならば、感情論・情緒論でもいいかもしれません。
しかし、専門性あるプロの仕事の信条にそれを持ってきてしまうのは、専門性の放棄に等しいことだと僕は考えます。
「子供を信じる」ということで関して言えば、例えば「子供は天才」「子供は可能性のかたまり」といった情緒的な言葉があります。
一般の人がこういうフレーズを使って、子供や子育てが素晴らしいものだと思うのは少しも構わないことです。
しかし、プロがそういったことを仕事のバックボーンに置くのはあやういことです。
プロがプロに対して使うとき、これらの言葉は、
「子供は天才(だと信じなさい)」
「子供は可能性のかたまり(だと信じなさい)」
になっています。
言いたいことはわかります。
保育の仕事をする人の中にも、子供の能力を低く決めつける人がいます。
そういった人たちに対しての対概念として、こういったスローガンでそのような低い決めつけを防ごうというのでしょう。
そのような意図はわかるのだけど保育の専門性の観点から見たら、そういった不適切な子供への見方に対して感情論・情緒論で対抗しても専門性は深まらないのです。
しかし、現場レベルでの保育界がこの何十年とやってきたのはそれです。
論理性よりも感情論を重んじてきています。
この観点を持って保育士のフォーラムなどを見れば、そういった人がとても多いのがわかると思います。
もし、この子供への低い決めつけに対しようとするならば、感情論に持ち込むのではなく、「子供の尊重」や「子供観」の概念の理解や、子供の発達についての学びで補完していくべきことだと僕は考えています。
さて、前置きが長くなってしまったのは、ここでの僕が述べる「信じる」がそういった感情論としての「子供を信じなさい」というスローガンではないことを理解して欲しかったからです。
では、保育者の姿勢としての「子供を信じる」ということはどういうことなのでしょう。以下に述べていきます。
a,発達の理解
b,成長への理解
c,経験からの考察
これらの専門的な知見の上に、「信じる」は成り立ちます。
a,発達の理解
少し具体的に見てみましょう。
例えば、「もう2歳なんだからオムツは外して下さい」と保育士が言ったとしたら、それは専門的な言葉でしょうか?
この保育士は、オムツを外す理由を「2歳だから」を根拠としています。
しかも「もう」という主観が入っています。つまり、その人は「2歳なのにオムツをしていることが気に入らない」という心情を持っています。
子供は2歳になったら誰でも排泄が自立するわけではありません。
これは個々の発達への理解を持っていれば簡単にわかることです。
この保育士は、子供の発達についての専門的な理解ではなく、世間一般に流布する「オムツは2歳までに外すべき」といった価値観からの主観を重視して述べているというわけです。
ここからわかるのは、保育者はまず子供の心身の発達についての知識を持っていることが前提で、それを個々の子供に当てはめて考えられる専門性が必要ということです。
これがa,発達の理解です。
b,成長への理解
僕は成長についての理解をうながすとき、冗談半分に次のように言うことがあります。
「こんなことを言うと笑うかもしれないけど、すごく極端に言えばこの子が20歳になったときにオムツはいていると思う?」
これまで、これで「20歳でもオムツしていると思う」と言った人は一人もいません。
実は、これが成長に関するもっともピュアな理解です。
時間的なものだけで子供が成長することを、誰しもが頭では理解しています。
しかし、個々の子供に向き合う段になると、その理解がどこかへ行ってしまいます。
そうなると、結果的に過保護・過干渉に大人はなってしまいます。
また、同時に子供の姿に焦ったり、不安になったりして、子供からすると肯定的・許容的でない態度・姿勢が大人からかもし出されているのを感じることになります。
その態度から、かえって子供は成長を足踏みさせられてしまうこともあります。
上の例で出した保育士には、a,の発達の理解だけでなく、この「子供が時間的な変化でどうなっていくか」という成長への理解も欠けていたことがわかります。
ゆえに、子供の成長についての適切な理解が保育者には必要です。
c,経験からの考察
しばしば、子育てをしている人が「一人目の子供の時はとても気を遣ってほ乳瓶消毒したりしてたけど、二人目からはそんな神経質にしなくなった」といった話を聴きます。
これはつまり、経験からどこまでが必要でどこからが必要ではないという理解を得たということでしょう。
これは当然のことですね。
保育士は、このような理解を子供のさまざまな年齢、場面にわたって広汎な経験から得ていきます。
直接の経験だけでなく、事例研究や、情報収集、研修などから子供に関する知識を得ることで、それは一般の人に倍する知見となっていくでしょう。
しごく順調に成長していたと思っていた子の成長が、あるときから後戻りしたり。
あまりに成長がゆっくりだと思っていた子が、あるときからいちじるしく伸びて他の子の成長に追いついたり。などなど。
このように積み重ねられた経験と照らし合わせて、いま直面している子供の成長を客観的に見る視点を養うことができます。
これらの知見を積み重ねることで、a,発達の理解、b,成長への理解もより深まっていきます。
「もう2歳なんだからオムツは外して下さい」と言った保育士だって、1歳になったばかりでオムツが取れてしまった子も、3歳までオムツをしていた子も見ていたはずです。
この経験からの考察を適切に蓄積させることができていたら、「もう2歳なんだから」という見解からは卒業できていたことでしょう。
◆子供の発達・成長を理解しそれを信じられる保育者
さて、今回のテーマは「信じる」という保育者の姿勢についてでした。
この「信じる」姿勢は、これら
a,発達の理解
b,成長への理解
c,経験からの考察
の上に、個々の子供の成長や力を「理解し信じている」ということです。
この「信じる」姿勢を獲得している保育者は、「私はこの子の成長を信じています!」と熱く感情的に前のめりになった姿ではなく、おそらくどこか望洋としておおらかであっけらかんとした姿になっていることでしょう。
保育者の話ではなく学校の先生の話ですが、だいぶ古い本ですがベストセラーとなったので名前くらいご存じの方も多いかと思います、黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』という本があります。この中で描かれるトモエ学園の小林先生の姿が、まさにこの信じるという姿勢が結実している姿です。
子供の短期的な姿を作り出すことは、実は比較的簡単です。
しかし、子供を伸ばすことは難しいです。子供を伸ばすためには、この「信じる」ことがその人に具現化していなければできないからです。
この本が出た当時は、発達障がいといった言葉はなかった頃です。むしろ、今あらためて読むとあらためていろいろとわかることがあるようです。
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● COMMENT ●
言葉の厚み
同感します
という言葉にはじめは、私も惹き付けられて、のちにその言葉に苦しみました。。。。
この言葉はすごく魅力的ですが、
発達が早いこと
秀でた能力があること
普通よりずっと出来ること
というのに、観点が行きがちになり、
子供の能力をいつも無意識に評価しがちになります。(そうならない人は良いのですが)
うちの子は、常に発達は遅めで、頑張らないと他の子供に追いつかないのではないか、と思い、私は子育てをしていてもいつも恐怖心と不安でいっぱいでした。
それでも、頑張ったら追いつけるよ!という励ましがさらに追い詰めるのですね。
特に早期教育を推進する方は、早いことや秀でていることを褒めたり、注目するので、最初は褒められて嬉しくても、段々と評価されることが怖くなりました。
賢いね、運動が出来るね、言葉が早いね、などと褒められるのは嬉しいことですが、それが一般的なひとから言われるのと、プロから言われるのでは、全く意味合いが変わります。
そういう気持ちを理解できないプロの方も居て、さらに母親を無意識に追い詰めていることに気が付いてくれたら良いのですが、なかなか難しいのです。。良いことを指導しているという自信があるのです。
もちろん、私自身の弱さにも原因があるのですが、頑張れ頑張れと言い続けられてしまうと、本当にまいってしまうのです。。。
結局は、そういう方と距離を置くしかありません。
能力の高い子供を作ることで、普通の子供やそれ以下の子供を、排斥するつもりはなくても、やはり母親は疎外感を感じてしまうのですね。。。
じゃあ、能力の高い子供に育てるように工夫すればいい、と返されると、何も言えなくなってしまいます。
能力の高さは魅力的ではありますが、そこに意識がいきすぎることは、非常に危険だと私も感じます。
私は、それにずっと苦しめられました。
今でも苦しくなることがあります。
そんなときは、保育士おとーちゃんのブログを読んで、自分を立てなおしています。
いつもありがとうございます。
小林先生について
しかし一方で疑問に思ってしまいます。「トットちゃん」が刊行されてから長い年月が経ち、非常に多くの人に読まれ共感されてきたはずなのに、どうして日本の教育及び子ども観は小林先生以前のままなのだろう、トットちゃんを退学させた先生とそれほど変わらないのだろう、と。
それは、読んできた多くの人が「小林先生は素晴らしい人だ、トットちゃんはいい先生に恵まれた、なんと感動する話だろう」という情緒的なところでストップしているからではないかと思うのです。
小林先生は非常に素晴らしい人です。だからこそ、彼の打ち立てた理論や実践を研究して現実に活かしていくことは十分意義のあることですし(現代においては不適切な理論もあるでしょうが)、そういった動きがもっとあって然るべきだったのではないでしょうか。
しかし小林先生に関しては「トットちゃん」のような美しいおとぎ話のような物語は好まれても、専門的な実践書はないようですし、随分以前に刊行された小林先生の理論を詳しく紹介した人物伝はとうの昔に絶版しているようです。
小林先生の「信じる」という姿は、彼の経験や研究などの膨大な試行錯誤に裏付けされた論理や専門性から来るものであって、感覚的で主観的な個人の性格だけに依るものではないということがもっと広く認識されて欲しいと思います。そして、トモエ学園を「かつて本当に存在した奇跡の学校」などというふわふわした存在に押しとどめずに、トモエ学園が実践してきた教育を可能にする世の中になっていって欲しいと切に願います。
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