保育者の姿勢 vol.4 なにが支配なのか? - 2018.11.20 Tue
姿勢の問題を浮かび上がらせるために、方法論や具体的なアプローチに触れています。
しかし、読む人によってはまったく別の問題に直面してしまう人がいます。
それは、保育における自己承認・承認欲求・自己同一化のテーマです。
保育の問題であまりこれについて取り上げる人は多くないですが、僕は現場の保育を考える上で、これらは避けて通れないことだと感じています。(すでに過去記事でも取り上げています)
自己承認すること、自己の承認欲求を満たすことは少しも悪いことではありません。
職業上の自己同一化も、仕事をしていく上で欠かせないことです。
これが例えば、なにか製品を作って販売する仕事だとしたら、良いものを企画してそれがユーザーから良い評価をされ、たくさん売れたといったとき、それらが満たされることでしょう。
保育ではどうでしょうか?
保育の場合は、
○クライアント(子供、保護者)の利益 : 保育者の自己承認、自己同一化
×クライアントの不利益 : 保育者の自己承認、自己同一化
当然ながら前者でなければなりません。
しかし、保育の現場では後者のことが起こり、しかもしている当事者はそれに気づかないまま常態化するといったことが起こりえます。
簡単に自己承認できるのは、子供を自分の思い通りにしたときです。つまり支配。
・座りなさい
・静かに待ちなさい
・話を聴きなさい
・残さず食べなさい
・挨拶しなさい
・謝りなさい
(命令形で書いてあるが、優しい言い回しでも同様)
※他には、行事の立派さや制作物の立派さも自己承認のより所となり得る
こういったことをさせることが正しいと考えて、それを子供にさせれば、簡単に自己承認を得ることができます。周囲の保育士も同様のスタンスであれば、自己承認のみならず周囲からの賞賛、尊敬すら得られるでしょう。
しかし、それが子供の本質的な成長や心の形成に寄与していなければ、専門的な仕事とは言えません。
子供を威圧して大人の要求に従順にすることが上手な保育士、しかし一方で子供はその負荷からのゴネやダダを保護者が迎えに来たときや家庭に帰って出させるようなケース。これは本来、子育ての専門性を用いて子供や保護者の利益としなければならない立場である保育士がその逆をしています。
こういったものは、強い支配なのである程度客観的に見る視点を持てればまだわかりますが、優しい支配は見えにくいです。
このようなことは保育指針では書かれていませんし、保育士養成学校でも教えるところはまずないでしょう。
気がつかないままそれを使い、それが当たり前の保育なのだと思っていたり、長年それを保育現場でしてきている人も大変多いです。
それに自信を持ってきており、そこで自己承認、保育の仕事の自己同一化をその上に成り立たせている人がこの指摘を受けると、
「自分の仕事を否定された」 → 「自分の存在を否定された」
と感情的に取ってしまう人もいるでしょう。
(これを僕は「保育スキルの属人化の問題」として考えています。これについてもまたいつか)
この一連の記事は、方々で紹介してくれている人もいるので、この記事だけ読んだ人でそういう取り方になってしまう人が増えるのもなおさらかもしれません。
以前の記事から読んでいる人はご存じかと思いますが、僕は保育士個人を責めようとはしていませんし、だからこそどういった対応を取ればいいのかを理念的にも具体的にも複数の記事で書いてきています。(それらを体系立ててブロマガなどで有料化してもいいかもしれませんが、これまで全て無料で公開しています。なので具体策や周辺の理念を知りたい方は、過去記事を調べてみて下さい)
人は、自身のより所となるものを否定されたと思うと怒りや感情的な反発がわくものです。
そこまでいかずとも、自己防衛に感情が動きます。
僕は別に責めているわけではありませんが、不特定多数の人が読める媒体である以上、そう取る人がいたところでそれは仕方のないことでしょう。
僕自身もかつて、子供を自分の望む姿・正しい姿に近づけることや「しつけ」をすることが保育だと考えていました。
それが正しいことと先入観で思っているがゆえに、それが支配であるかどうかなど気づく視点すら持てません。
おそらく少なからぬ保育士が、そこを通ってくるでしょう。
では、みながそこを乗り越えられるかと言えば、そうではありません。
むしろ、そのまま定年退職に達するまでも続ける人も多いです。
・周囲の同僚の保育から自然と支配でない保育を身につけられた
・その人の元々のパーソナリティやセンスから自然と支配の保育を脱することができた
・先輩などの明確な指導により、支配でない保育を身につけられた
・自身の学習や研鑽から身につけられた
逆もあります
・子供の支配こそ適切な保育であると考え、自信を深めていく
・属する施設が支配の保育を推し進めており、そのままその保育をしていく
・そもそも子供の支配をしたくて保育士になっている(自身のパーソナリティが支配を志向している)
◆保育と自己承認
保育の仕事をする上で、どこに自己承認を得ればいいのかというのは実はとても大きな問題です。
実際には、保育の理念や理論や方針、方法論などよりも、保育の質にダイレクトに影響するのは、保育士たちのこの問題です。
だから、僕は不適切な場所(クライアントの不利益)から、適切な場所(クライアントの利益)へと保育士の自己承認を付け替える、もしくは意図的に認識することが必要であると思っています。
(これを主要なテーマとしたものは、また別の機会にまとめられれば)
これを克服するのに重要なポイントは、まず自身のそれに気づけるか気づけないかです。
その状態を自己防衛して「私は支配なんかしていない」「私は子供を自身の満足のために利用していない」と思いたければ思い続けることができます。
だれもそれを強制することなどできません。
なにも感情論や情緒論に持ち込んで僕の口を塞ごうという面倒なことをする必要もありません。
「保育は人対人」というのであれば、だからこそ保育の専門家として保育者自身の姿勢、心情も自己検証していく客観性を持たなければならないのです。
◆言葉と姿勢
・「残しちゃうと給食の先生が悲しむかも」
・「食べてくれなきゃお野菜きっと泣いちゃうよ」
これらの言葉の構造を見ると「否定」の論法になっています。
しかも、感情とモラル(正しさ)から反論や例外の余地を持たせない構造になっているので、結構強い否定とすら言えます。
・残したら他者を悲しませること
・残すことはお野菜が泣くこと(子供が感じている本音はそんなファンタジックな理解ではなく、この人がそれを望んでいないということを敏感に察知している)
そういわれて食べることができ、なおかつそこに達成感を感じられた子にとっては最終的にその保育者から向けられた否定のニュアンスはプラマイゼロになるかもしれませんが、それができない子、またはできたとしても達成感を感じられなかった子(大人がいうからしぶしぶ食べた。否定されるのが辛いので頑張った、など)には、否定のニュアンスで関わられた事実が残ります。
こういった方法を多くの保育士が悪意なく使うのは知っています。だから個々の保育者を責めているわけではありません。
そういう方法は、日本のスタンダードな子育て法である「しつけ」が導きだし、一般にも多用され、おそらく保育者自身もそれをされて育っているからです。
なぜ、否定の論法が多用されるか?
そこには「正しい姿にしなければならない」「正しい姿にすることが子育て」といった先入観が根強くあるからです。
また、そこにプレッシャーがともなうので、強い関わり方である「否定」の方向のアプローチが自然と導き出されます。
保育者は、ここを客観視する視点を持てなければ、「無自覚さ」におちいります。
「優しい支配」は、この無自覚さのひとつです。
◆問題は言葉そのものではない
さて、では言葉を考えたとき、否定の逆のニュアンスを使うこともできます。
・「今日のご飯おいしかったって伝えたら調理の○○さん喜んでくれるかな」
・「あなたに食べてもらえたらお野菜喜ぶね」
こちらの方が、先に述べた否定の構造の言葉よりは支配の関わりは弱まっています。
しかし、言葉にその構造は見えずとも、保育者の姿勢、ニュアンスに「子供の(ネガティブと見える)現状に対する否定」「こうあるべしという保育者の願望の投影」がまったくないかと言えば、どうでしょう?
ここからわかることは、「こう言えばOK」という言い方の問題ではないということです。
「え~、そんなに残したら私嫌よ~」
と直接的な否定の言い方をしたとしてすら、その保育者の姿勢、心情のあり方しだいでは、少しもその子への否定・支配にならない関係を維持することも可能です。
キーは、姿勢・心情、信頼関係、自主性・主体性です。
その一方で、肯定の文法を使って明るく優しく「わ~、○○ちゃんが食べてくれたからほうれん草さん喜んでいるね~。○○ちゃんすごいね~」と言ったとしても、保育者の姿勢、心情によっては子供は敏感に支配やコントロールされていることに気がつきます。
だから、僕はこの一連の記事でタイトル通り、「保育者の姿勢」を訴えています。
「待つ」専門性はとても難しい、それを理解できるためには「信じる」専門性が獲得できている必要があるとも本文中に書いていますね。
「信じる」とはa,発達の理解 b,成長への理解 c,経験からの考察 から成り立つとさらに細かく説明もしています。
子供への関わりのなにが支配で、なにがそうではないかというところで悩む方は、言葉の問題と思う前に、このa,発達の理解 b,成長への理解 c,経験からの考察について知識を吸収し、それを実際の子供の姿や、自身のこれまでの経験と照らし合わせて考えるといいでしょう。
知識の吸収の方法は、手近なところでは保育所保育指針の各年齢ごとの発達段階を読み、それと実際の子供の姿と照らし合わせることで基礎的な視点が養えていくでしょう。
指針には繰り返し書かれていますが念のため言うと、それら発達の姿は「できなければならない姿」ではなく、あくまで「発達の目安」ですので、これらができるように保育者が求められていると理解する必要はありません。そう考えてしまうと、保育士、施設はどうしても支配的な保育になってしまいます。
指針には「○○できなければならない」というところは原則としてひとつもないはずです。
だから、保育者は子供を支配してまでそれを達成させる必要はないのです。
「○○できることは正しいこと」といった規範意識の強さは、自身に対して抑制的である方が保育者としては望ましいです。これはその保育者のパーソナリティや生育歴などに影響されますが、自身のそれを否定しなさいということではなく自覚的になっておくことで対応します。
これをすることで、ネガティブな姿が多発している子を許容的、肯定的に見る余地を大きくとることができます。
そうでないと保育が適切不適切以前に、自身の仕事におけるストレスが非常に高まり、保育の仕事における充実感を得ることが困難になってしまいます。結果的にそれゆえに、さらに子供への無意識の支配へと駆り立てられてしまいます。
この「保育者の姿勢と子供の成長発達の因果関係」を文章で伝えるのは難しいです。
ましてやそれまで子供への干渉を重ねて正しい姿を作ることを保育としてやってきた人であればあるほど、それを理解してもらうことは難しくなるかもしれません。
一番いいのは、一緒に保育をして支配や干渉を少しもしていないのに子供が成長していく姿を目の当たりにしてもらうことです。
しかし、これを目の前でやったとしても、保育の仕事における自己同一化の問題をネックとしてその人の内に抱えている人は、「それはたまたま」とか「あの保育者は特別」といった正常化バイアスによって、自ら認識を拒否する人がいることも知っています。そういった人たちもたくさん見てきました。
結局のところ、僕の立場からそれを強制することはできません。それを変えるも続けるも自分次第です。
もし、自身のその問題と向き合いたいという明確な意図があるのであれば、僕のホームページから保育士カウンセリングも設けていますので、申し込んでいただければなんらかのサポートをすることはできます。(内容は子育て相談に準じますので、メール、対面、電話などで可能です。ただ内容が込み入ったことになるのでメールよりも対面や電話を強く推奨します)
また、対面の保育士カウンセリングは、特別に保育についての小さな学習会として使うこともできるように設定しています。これは3名まで同一料金で承っています。興味のある方はお問い合わせ下さい。
保育士おとーちゃんホームページ
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● COMMENT ●
ありがとうございます
支配があると
日々いろんな角度からの保育の視点を書いて下さり、とても参考になりますm(_ _)m
私は現在パートで保育士をしています。
私の働く保育園の主任先生は、子ども達にとても人気がありみんな大好きです。
ただ大好きが故に、主任先生がクラスに保育に入ると、良い子な自分を見せたくて子ども達は頑張っているように見えます。(主任先生は担任クラスは無く、担任が休みの日に代替えで入る日が時々あります)
そして主任先生が抜けると子ども達は荒れた姿を出すようになります。3歳以上児さんは特にそうです。
大好きで頑張ってしまうのも、後に荒れてしまうのなら支配になるのでしょうか?
主任先生自身も、自分が抜けた後はクラスが荒れるのは自覚があるようです。
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待つ専門性、正解は無い世界ですね。本当に難しいです。
まだまだ勉強おとーちゃんさんの記事で勉強させて頂きます。
できたら保育の専門学校時代に習いたかったと切に感じます。子供の病気や福祉全般の内容の授業を延々と聞いていた記憶が強く、肝心の子供に対する姿勢、子供の心理など、日常の保育に直結することはほんの僅かな時間しか教わった記憶がありません。
私は幸運にもおとーちゃんさんの記事出会い、自分が感じていた保育のやりにくさ、これでいいのかという疑問がここで取り上げてくださっていたので、子供の保育の専門性を改めて考え直す機会ができました。
これから保育を志す若い人たちに、おとーちゃんさんの発信されているこの内容を聞ける日が来ることを願っています。