子育てのカルト化について vol.3 もっとも身近なカルト化 - 2019.03.01 Fri
子供たちの未来のためにもう少し書くべきことを書いてしまいましょう。
いろいろいただいたコメントの中で、「さん付けしないで名前を呼んでいることに違和感を感じた」というものがありました。
これをコメントしてくれた人が悪意なく言っているのはわかるのだけど、この意見、実は社会の中にカルトがすでに浸透してしまっていることの証明の最たるものと言えます。
◆エセマナーというカルト
社会のカルト化を取り巻くもののひとつに、エセマナーがあります。
「お辞儀ハンコ」
「ノック2回はトイレノック」
どれも、社会的、文化的な知識や経験を持っていれば、「バカバカしい」と気にも留めずに済むようなものです。
しかし、これらは「○○するのは良くないこと」という文脈となっており、真面目な人や気にしてしまう人にとっては、ある種の不安を覚えさせます。
(名前の画数が何画なのは縁起が悪いと誰かに言われるあの感覚と構造的に似ている)
そして日本人はこの手の同調圧力にとても弱く、真面目さも相まっておかしいと思いつつもそれに従ってしまったりもします。
もし、周りにそういったことを真に受けている人がいた場合、その人から非難されることもあり、そのようになるとそれは「ウソも突き通せば本当」という事態になっていきます。
このようなエセマナーは、なぜはびこるのでしょう。
ひとつには、マナー教室などの商売のためです。
禁忌を作り出すことで人を不安にし、そこに「私たちが真実を知っているので従いなさい」とばかりに現れてきます。
これは、まんまカルトの手法ですが、一見さほど害がないので社会的に通用してしまっています。
(大手マナー教室の中には、経営者が関連団体の役員になっていたり実際に日本会議とつながっているところもあります)
もうひとつは、支配に都合がいいからです。
「それはするな。こうしろ」というものを個人的な横暴さで出せば、その人は良く思われませんが、「マナーだから」という文脈で他者に求めていくことにより、自分は悪者にならず、他者を従順に支配していくことができます。
これにより、その組織や社会の中で支配構造が強化されていきます。
「お辞儀ハンコ」が当然のものとされている会社に所属しているとしたらさぞ窮屈だろうなと僕は思います。
「へりくだれ、へりくだれ」と無言の内に求められているわけです。
それはまるで、合法的な土下座の強要みたいなものです。
もしくは身分制度があるかのようです。
人権についての適切な認識を持っている人ならば、会社の役職といったものはあくまでその組織内のものであり、職務外や、直接職務命令の範囲内でなければ、人としての存在に上下はないという理解ができます。
しかし、誰かを自分の支配下に置きたい者にとっては、そのような理解は気に入らないことでしょう。
ハラスメントが横行する会社や、社員を不当に労働させるような会社においては、暗黙の内にへりくだりを要求するそういったエセマナーは支配のためにとても有用になっていきます。
◆マナー、モラルによる支配
「目上の者には従え、尊敬しろ、感謝しろ」
こういったマナーや道徳的なものも、支配には好都合です。
子供たちの学校において、二分の一成人式や親守詩(おやもりうた)などが親に感謝を強要することは、ここにつながっています。
いまもあるのかな。以前新宿に始業時に社員を店の外に並ばせて、大声で客への感謝を叫ばせる大手メガネ屋があったのだけど、これも誰かへの感謝というのを名目に支配に従順な人間を作るマインドコントロールの手法です。
◆「○○させていただいております」の異様さ
先日、僕はある説明会に説明を受ける側として参加しました。
その説明をする会社の人たちは、40代50代のおじさん達なのですが、敬語が崩壊しているのです。若い人が適切な敬語が使えず、一生懸命敬語を使おうとして変な日本語になっているのであればわからなくもありません。
そのおじさん達の敬語が崩壊しているというのは、敬語が使えないと言う意味ではなくて、へりくだり(謙譲)ばかりが多い異様な敬語(っぽいもの)だからです。
自分たちが作成して持ってきた資料なのに「23ページに書かせて頂いております○○をご覧になって頂いてもよろしいでしょうか」
なんなんだろうこの蛇にハムスターがプレゼンしているような日本語は。
「23ページに記載がございます○○の箇所をご覧下さい」丁寧に言うとしてもこの程度で十分なはずなのに。
「23ページを見て下さい」でも丁寧な表現としてなんら問題ありません。
昨今耳にすることの多くなった「○○させていただいております」、この表現もへりくだりを強要する言葉の使い方です。
このようないい方を暗黙の内に求めていくことで、上下の支配構造が強い人間関係が強化されていきます。
ちなみに、元々はやくざや暴走族などの社会で多用されていました。
近年これが広まったのは芸能界からかもしれません。
◆さんをつけろの構造
3.11の東日本大震災のときのことを覚えていますか。
あのときあまりの災害の大きさに動揺したり、不安や心配があったりしました。
しかし、なんだかそれ以外の部分でも異様な雰囲気がありました。
デマがたくさん流布したり、「○○は不謹慎だ」このような主張で、他者を責める人が非常に多く出てきました。
「不謹慎」を盾にとってそんなことにまでというものも多数ありました。
僕はこのときに、日本人はパンドラの箱を開けてしまったんだと感じます。
他者をモラハラで叩いたり、他者の頭を押さえつけることの快感を、多くの人が継続的に味わってしまいました。
モラルやマナーを用いて他者を攻撃する。攻撃するまでいかずとも、それを指摘することで、他者に対しての優越感や自己顕示欲を満たす感情を解放する。
これらは結果として、マナー論により人々の頭を押さえつけておくことを可能にしていきます。
上記のエセマナーや、へりくだりの強要と同じような他者の頭を押さえておくことにつながり、カルティックな支配構造を社会にもたらしていきます。
◆感覚の問題を、社会的問題のように錯覚させる危険性
コメント機能のあるサイトの記事などで、例えば「安倍が」などと安倍首相のことを標記したりすると、コメントには「一国の首相を呼び捨てにするなどけしからん」のような、コメントが山のようについているのを見ることがあります。
一方で、外国の俳優などの記事や、日本人でも野球選手の記事などでは、呼び捨てで書いていても、ただの一件も「さんをつけないのは不謹慎だ」などというコメントがつくことはありません。
このこと、以前道徳についての思考実験として提示した、マグロの解体ショーの構造と同じものがあります。
つまり、その人の感覚次第で恣意的に論理を融通しているという構造です。
(ちなみに、政治家を呼び捨てにしていい理由はかつての公民の授業を受けた人はわかるはずです)
この、論理性や合理性、科学的根拠に依拠するのではなく、根拠のないことや感覚によりものごとを判断していくのは、エセ科学やスピリチュアルなどでアプローチをするカルトと底流するものです。
感覚で恣意的に判断することを社会がたくさんもてあそんでいくと、一部の人の感覚で大きなものごとを判断することが社会的に容認されるようになってしまいます。
「障がいを持つ人は社会に有用でない、だから去勢が必要だ」
「生活保護には不正受給がある。だから生活保護はなくしてしまえ」
このようなことが。
モラルやマナー論がそんなものにまでなるわけないと思う人もいるかもしれません。
しかし、日本は第二次世界大戦に至るなかでそれを散々してきているのです。
例えば、「外来語は敵性語だから使うべきでない」
そう言われて多くのものが、英語などから急造された和製語に変わっていきました。有名なことなので多くの方がご存じでしょう。最初はなんの罰則があったわけでもありません。でも、人々が口々につぶし合い、あっという間に外来語はなくなりました。
これを言い出したのは軍隊や政府ではなく、なんと新聞社です。
障がいを持つ人へ強制不妊手術は、なんと戦時中どころか戦後に実際に行われた日本の施策です。
こういったマナー論によって人の頭を押さえつけることが、こんにち現実に起こっている最前線は、なんといっても辺野古でしょう。
そこに本当の正当性があれば、その必要性を論理的合理的に主張したり、対話で融和点を探るといったまっとうなアプローチをすればいいだけです。しかし、それができず無理筋の要求であることがわかっているものだから、反対する人たちを「交通の妨害をしている」などのマナー論を持って主張を押さえ込もうとしています。
(不当な身上調査や恫喝などそれ以外のもっと不適切なこともしていますが)
◆
個人の感覚によって誰かの頭を押さえつけていく行為は社会のカルト化を招く大変危険なものです。
たくさんの人が今からそれをしていくようになれば、私たちの子供が大人になる頃には立派な全体主義国家が出来上がっていることでしょう。
人々が批判的意見を口にできない世の中になれば、カルトも世に広められるし、民主主義も終わりにできます。
批判的意見を潰すのはそれに論理的に対抗するよりも、マナー論モラル論で頭を押さえつけ、それの同調者を呼んできてずっと繰り返すのがもっとも効率的です。
ネット上では、カルトを擁護する人たちがすでにそれをしているのをいくらでも見ることができますね。
ましてやカルトの擁護者でもない人が、「それはマナーとしていかがなものか」と言い出すようになれば、他者を押さえつけ支配したい人達は高笑いしながらほくそ笑むことでしょう。
すでに、カルト化の効果が社会に浸透していることの証だからです。
ベビーカーと電車に乗ることをマナー論で攻撃してくる人を思い出せば簡単にわかるかと思いますが、マナー論、モラル論は、マウンティングや他者支配をする際のもっとも手軽な方法です。
そしてそれは、カルト化のもっとも基礎的な手法です。
大人だけでなく、すでにいま道徳の教科化によって子供たちが小中学校でそういうメンタルに育てられています。
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● COMMENT ●
私もそう感じていました、難しいですね
ベ●ッセ
私は、世間ではとても評判の良いベネッセの出版物にいつも疑問を感じています。
たまごクラブひよこクラブ → 「●●していいこと・悪いこと」の特集が多い、●ヶ月には●●ができるようになるべき、させるべきと思わせる載せ方、乳幼児に社会性をつけること(=貸して・どうぞ)を推奨している(しかも1才7か月ごろから)
教材しまじろう → 支配的育児の典型、男尊女卑もあり。特に2015年頃までのアニメが。
利用者の多い雑誌、教材なだけに懸念していますがTwitterでもほとんど話題に上がらないですね。
ベネッセは広告露出が多く、妊婦、ママ初心者の初歩段階情報になっておりなんの疑いもなく信じてしまいます。私もその一人でした・・・。
私もでした
公民はすっかり忘れていましたし…実は前々回から書かれている日本会議も知らなくて調べました。
そんなものがあるんだとびっくりしました。
小さなところから始まっているように見えて、とても大きな日本全体の話なんですね。
幼い頃海外にホームステイし、帰ってきた時に感じた日本のよさと窮屈、違和感に似ています。
幼かったので、自分に合う国を選べばいいやなんて偉そうに単純に考えていたのですが、その後嫌という程自分が日本人なんだと思いしり、子供が産まれてからはこの先どうなるんだろうと思います。
普段は忘れて生活していて、流されればなんてことないのかもしれません。実際、気づかなければ幸せだなと思ったこともあります。
歴史や敬称などのマナーについては多国籍の人が働く職場にいて、お互いの習ったことや考えがまったくちがうことに驚きました。
国の呼び方一つで大問題になったりすることもありました。
ひとりひとりの考えは渦のように流れを作っていますね。
アメリカがオバマとトランプで変わったなと感じるように、日本も他国からみたら何か違ってきているんでしょうね。引いた目で見ないとなにも見えなくなりますね。
「敬称つけろ」という意味では無かったのですが、この考え方の背景になにがあるか分かりました。
ただ、私は、スポーツ選手や外国人の方が呼び捨てで呼ばれているのも気になってしまう方なので(それでテレビ局に苦情を入れたりしたことはないですが、心の中でもやっとしています)、かなり重症なのかもしれません…。
敬称つけろ、というよりは、同じ文章の中で、つけている人(自分と考えが同じ人)とつけていない人(考えが合わない人)を区別していることに違和感を感じたように思います。感覚だけで判断してはいけないのでしょうが。
いつきままさんがコメントされていたように、そこに攻撃性のようなものを感じて不快に思ったのです。
もう少し色々調べたり考えてみたいです。
他の方のコメントにもあったように、もっと大きな視点から物事を捉えられるようにしていきたいと思います。
コメント取り上げていただいてありがとうございました!
入社したてのころ、おじいちゃん部長が「ハンコはこう押すもんや」と言っていましたよ。
おかしなマナーといえば、スーパーのレジ係の人が「ありがとうございました」と言って決まって両手をおへその前でそろえるのがありますね。
きっとどこかのスーパーが始めたことなんでしょうが今や全国に浸透していますね。
近所の地のスーパーでは「ありがとね~」と自然に言ってくれるのですが、そっちのほうが血の通った人間と接しているのが感じられてずっと気持ちがいいです。
まぁ、日本人は世論が少しどちらかの方向に傾けば、ダーっとみんながそっちに傾いてしまう傾向にあるので、エセマナーもはびこりやすいんでしょうね。
ただ、少し時がたてばみんなすっかり忘れてしまうのも我々日本人の特徴なので廃れるのも早いですけどね。
ある考え方が妥当なのかどうなのか吟味できるマチュアな人を増やすには、あれはよい、これは悪いということを教える道徳授業ではなく、ひたすら哲学する授業が必要なのではないでしょうか。
らっしーさんの違和感
私には、
年上は敬語で話さないといけない
他人を否定してはいけない
という強迫観念のようなものがあって、
私は、大体の方からは、礼儀正しく、他人の悪口を言わない良い人だと思われます。
でも、実は裏を返せば、
敬語を使わない人に対して、否定的に見てしまうし、
他人を批判する人を、未熟だ、などと無意識に考えてしまいます。
保育士おとーちゃんが心屋さんを批判したのは、保育士おとーちゃんの信念として、批判する必要がある、と判断されたゆえだと思いますが、おとーちゃんが他人を批判することに対する違和感は確かにありました。
ただ、保育士おとーちゃんは、説得力ある文章を書ける方なので、正直、違和感がありながらも、納得もしたわけです。
それが、単なる批判であれば、私は、何も言わずに、おとーちゃんから離れたかもしれませんし、反論したくなったかもしれません。
複雑な思いはあっても、私は、やっぱりおとーちゃんに違和感を感じたとしても、おとーちゃんが好きなので、変な話ですがおとーちゃんに嫌われたくない、というような感情がわいた、というのが私の正直な気持ちです。
100%の意見のすり合わせは、不可能でも、何か共感性があれば、つながれるんじゃないか、と思います。
しかし、保育士おとーちゃんの文章は、すごく説得力があり、本当にすごい才能だとびっくりします。
批判することは、けっして悪いことではないけれど、もちろん相手を傷つくたくはないし、おとーちゃんも心屋さんを批判されたことは、すごく労力がいったかと思います。
良い子ぶってしまってごめんなさい(*_*;
本当にこのブログにどれだけ助けられたか。。本当に子育ての困りごとはここにきたら、その答えが見つけられる
こんなに具体的に子育てにどう向かえばいいかわかるものが他の子育ての本やどこかにあるのでしょうか
私はこのブログに出会えてラッキーでした。
第一子の時はひどい子育てでしたが、
このブログと出会い
第二子はブログで勉強したことを生かせました。子育ての自信をもつことができました。
上の子もこのブログのおかげで安定傾向です。第一子のときは生真面目に育てるのが正解だと思っていました。。
現在第三子を妊娠していますが、
可愛い子に育てる自信があります。
小学生になったので久しぶりにのぞいて、この記事を読んで考えさせられました。
うちの娘はアレルギーがあったり、そのほか性格のことなどで「お母さんが悪い」など根拠がないのに、責められたことがありました。子供が○○なのは、お母さんが○○のせいだなど。この記事を読んで、そのときのもやもやがはっきりしました。
それから、今小学校で感じる違和感。何か「おかしい」と思い続けてきたことがおとーちゃんさんの文章ではっきりしてきたような気がします。
もちろん、親に感謝することは大切です。でも、それをイベント化して、参観日で手紙で発表するなど何かが違うような気がします。今は二分の一成人式だけではありません、2年生、3年生でも何かしらさせられます。
それから、お弁当をつくろうというイベントがあり、写真を展示するので、はっきり言って親の見栄の張り合いになっていて、本末転倒です。
何か、何かがおかしいんだよなといつも思っています。
相変わらず心配性で干渉しがちな母ですが、ただ、8歳の娘は優しい子に成長してくれました。小さい子の面倒をよく見てくれると周りのお母さんから感謝されます。赤ちゃんのころからお世話になったこのブログのおかげだと思います。
小学生に入って、友達に命令し、支配するようなかかわりを持つ子に何人か会います。親に同じようなことをされているから、友達にしているのかなと考えさせられます。
この記事、本当に考えさせられました。
これからも楽しみにしています。
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私も実はおとーちゃんさんのさん付けの有無にモヤモヤを感じたことがあったので。なんか、普段より攻撃的に感じたんです。
でも確かに芸能人にはさん付けしないで違和感ないですね。
まだしっかり記事の意図を理解できていないですが。。
そしてどうやら公民の授業をきちんと理解していなかったようです。。(^_^;)
ちょうど「他人に迷惑をかけるな」は正しいようだけど、行きすぎると息苦しさの原因になっている(公園でボール遊びをしない、家族の写真入り年賀状は良くない、など)と友達と話していて、通じるものを感じました。誰にも迷惑をかけない、ではなくお互いさま、にできるといいのに。
違うのかな?違ったらすみません💦