保護者支援における保育者の意識改革の必要性 - 2019.03.05 Tue
社会の変化に保育士の意識の方がついて来られておらず、この意識のままでは保育士、保育業界全体の社会的評価が低下していってしまう。
自分たちの持ってきた考え方にそのまま固執するのではなく、現代の社会のあり方や、現実の保護者の状況を踏まえて保育士の意識もアップデートしなければならないだろう。
◆「子供がかわいそう」という視点
以下のことは僕自身の自戒、反省も込めて述べる。
保育者は子供を第一に考える。
そのこと自体は必ずしもまちがっているわけではない。
しかし、これまでその見方が、親に対する否定的スタンスとして結実してしまっていた。
例えば、長時間保育の必要な家庭に対して「長く預けることは子供がかわいそう」といったスタンスでその保護者や子を見ていたり、実際にその趣旨のことを保護者に伝えたり。
このスタンスの元をたどれば、大正時代以降外国から流入しその後日本の中で発展していった母性論的子育て観にある。
それは、「母親の献身的な子供への愛」を主柱にした子育て観であり、母親の自己犠牲を暗に求めていく。
現代では、ことさら「母親の」と限らずに男親も含めてその考えが主張されているかも知れないが、結局のところそれも母性論的子育て観の拡大版と言えるだろう。
それは母親限定から、「両親の自己犠牲による子育て」になっているに過ぎない。
ただ、現実を見ればいまでも「母親の自己犠牲」の文脈の上で、保育士が母親に対して子供への注力を要求する関わりは多い。
それの象徴的なフレーズが、「子供がかわいそう」というものである。
保育士が、保護者に対してこのフレーズを出すとき、それはその保育者に親を責める意識がなくとも結局のところ親を責めたり、批判するメッセージとなって親に届けられるものになる。
これからの時代の保護者支援として、「子供がかわいそう」という見方は間違っている。
今後もこのスタンスでいたら、保育士が社会的に専門職として尊重されることにはならないだろう。
◆子供&保護者への一体化した援助
この「子供がかわいそう」という視点は、子供と保護者を分離されたものと見ているところから始まっている。
また、それは「子供の姿を親の責任」とする、「しつけ」の子育て観の影響もあるだろう。
「子育ての支援」を考えるとき、子供と保護者は分離不可能な一体化した存在と見るべきである。
そのスタンスから支援をスタートしなければ、保護者を責めるスタンスから保育者は抜けられない。
そのことは、保護者のためにも子供のためにもならないし、保育士のためにもならない。
「親が悪い」というスタンスを持ちながら、日々家庭に関わることは、保育者の精神的な疲弊につながる。
(職場の劣悪な労働状況により、すでに精神的に疲弊しており保育者がストレス解放のために「悪者」を探す心理になった結果、親への風当たりが生まれるケースは、子育て支援以前の問題)
本当に子供のことを考えるのであれば、保護者と子供は不可分な存在であり、両者ともを良い状態にしていくことが欠かせないのは、「母性論的子育て(母性神話)」というバイアスから自由になったところから見れば自明のこと。
保護者を責めるだけで、子供の問題が解決するのであれば保育者が専門職である必要などない。(このことは学校教員にも言える)
「子育て支援の上では、子供と保護者は一体化した不可分な存在」
これをスタート地点としたところから、今後の子育て支援は考えられるべきである。
これは新しくなった保育所保育指針にも書かれていないので、これを読んだ保育関係者の方はぜひこのスタンスを今後持っていってもらいたい。
◆情緒論ではなく、専門家の知見によるアプローチを
「長時間保育で子供がかわいそう」
この意見は、情緒論でしかない。
専門職の人間による客観的な意見やアドバイスにはなり得ない。
「子育てには親の自己犠牲が欠かせない」という、これまでの「母性論的子育て観」が言わせているものだ。
(繰り返すがその人がその対象を母親に限定しておらずとも、この考え方の源流は母性神話にある)
だから、こういった考え方は年配の人ほど強い傾向がある。
優れた保育実践者であっても、このスタンスの人は少なくない。
もし、その子供に長時間保育によるなんらかのネガティブな影響がでており、それがその子の生育に問題があると考えられるならば、それはあくまで専門家としてのスタンスで考え、保護者にもアプローチすべきである。
・現状の子供の姿(客観的事実)
・私たちがそれをどのように考えているか(考察)
・保護者の現状の共有
・子供へのフォロー、安定化のためのアプローチの共有
すごくざっくりとだが例示すると、
・お子さんは現状こういった姿があります。
・私たちは経験や知識から、その原因はこういったところにあり、それはこういった成長への影響があるのではないかと考えています。
・保護者の家庭や仕事での状況はどうですか?家庭で困っていることはありますか?お子さんの成長に関して気にしていること、心配していることはありますか?
・そういうわけなんですね。そういった子供の難しい姿に対しては、こういったアプローチが安定化に役立ちますよ。(具体的アプローチの提案)
私たちも、ご家庭の状況を踏まえて園で最大限こういったフォローをして、お子さんの姿の安定化に配慮していきます。(子供の姿の責任を保護者に押しつけるのではなく、ともにその責任を分かち合っていくスタンス)
◆サービス業的保育のあり方に情緒論で対抗しない
「子供がかわいそう」といったスタンスを持つ人が、むしろ誠実な保育者に多いことは僕自身も理解している。
特に、昨今のサービス業化する保育施設のあり方に危機感を持っている人ほど、このスタンスが強まってしまうこともわかる。
そうした保護者に対するサービス業化した保育施設は、子供の情緒や成長がどうなろうとも構わずに、保護者のニーズを満たすことばかりに視点が行ってしまっている。
これは大きな問題だ。
しかし、昔の子育て観を強調することでそれに対抗しようと思っても、それが社会的に大きく容認されていくことはない。また、それを理解して一生懸命協力してくれる保護者に対しても、苦しめることにつながりかねない。
ただでさえ、「私がいたらないから我が子にかわいそうな思いをさせている」と自分を責めるスタンスの保護者は多い。
本当に子供のことを考えるのであれば、その子と保護者は不可分な存在というところに気づきを持ち、子供と保護者の一体化した支援を考えるようにしてもらいたい。
文中で触れた「母性神話」についてはこちらに詳しい↓
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● COMMENT ●
私も
朝から夜まで預けられている保育園は、適切な保育にも限界があるので、子ども自身も生活が精一杯
これも可哀想な子どもの姿のような気がします。
でも正直「家庭での不満を吐き出すためにこの子は日中泣いているわけではない」と言えるくらい子供のことはわかっています。年に1回の発表会、会の間うちの子に手を添えてくれた先生はいませんでした。できた時には見ていない、泣き叫んだときだけ注意する。そんな人の言うこと大人だって聞きません。
仕事していることにも子供との休日の過ごし方にも何の後ろめたさもありません。日中子供と向き合ってくれている保育園に多くを求めることもしません。
でもきっと私が罪悪感でいっぱいで苦しんでいる母親だったら、もっと親身に話を聞いてくれるのでしょう。
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やはり、特に自分の親世代は、「子供を預ける=かわいそう」という見方と、幼いうちは、親の元(特に母親)で子供と密接に関わることを良しとされていて、私も妊娠してすぐに仕事を辞めるように説得されましたし、子供に常に意識を置くようにすすめられてきました。
一見良いことのようで、息苦しさもありました。
特に子供が幼いうちは、スーパーの買い物に付き合わせるだけで、子供の頭を撫でて、付き合わせてごめんね、と胸をいっぱいになり、泣きそうなくらいに罪責感を感じたり、罪責感ではなく、感謝しなくては、と過剰に子供にありがとうと伝えたり、良いことのようで、非常に子供に気をつかっていたように思います。
保育士おとーちゃんのいうように、保育にたずさわる方にそういう考えが強い方もいて、私は、身内にそういう方がいたので、特に罪責感は強かったです。
今にして思うと、子供と全く対等ではなかったし、とても自己犠牲的でした。
そういう考えの方がいても良いのですが、保育に関わる方から言われることと、そうでない方から言われることは全く違うので、せめて保育に係わる方には、そう言った苦しみもある、と知ってほしい、と切に願います。
私情をはさんだコメントを失礼します。
いつもありがとうございます。