保育の基礎 ~安心安全~ - 2019.04.05 Fri
新年度当初なので初心に戻って当たり前のことを書こうと思う。
そしてたぶん「当たり前」と世間で思うことほど勘違いされていたり、見落としていたりするもの。
保育の基礎とはなんだろう。
それは、子供に安心安全を提供していくこと。
多くの人は、そこを見落としたり、軽く見たりして、次のことに視点がいってしまう。
次のこととは、「できる」こと。成長や行動の到達点。
・泣かないで過ごせる
・ご飯が食べられる
・午睡ができる
・遊べる
・友達と関われる etc.
これらはすべて「できる」に分類されること。
このような目に見える「できる」は、本当は副産物でしかない。
保育者が、子供に安心安全を提供していくことを徹底していけば、子供はそこで屈託なく過ごすことによりさまざまな経験を自ら得、それによりだんだんと獲得していく。その結果「できる」は目に見えてくる。
安心安全をすっ飛ばして、「できる」を子供に持たせようとする人は少なくない。
しかし、安心安全が不十分なところで獲得された「できる」は、多くの場合大人により与えられたり、作り出されたものでしかない。
場合によっては、大人側の錯覚であることも多い。
例えば、威圧の保育によって「いい子」になっている状態などは、それ。
安心安全を子供に提供し続けていけば、そこには自然と子供からの本当の意味での信頼関係ができあがる。
「なになにをしてあげた」
「おもしろいことをして子供の歓心を買った」
こういったことでも、ある種の子供との関係性はできあがるが、安心安全を提供することによる信頼関係には及ばない。
それが悪いことではないが、安心安全の提供の上でそれをすれば、さらにそれは意味あるものとなるだろう。
0~3歳児といった、精神的な自立が未発達な状態の子供たちにおいては、さらにこの安心安全を担保していくという保育上の配慮はより大きな意味を持つ。
「安心安全?そんなのわざわざ配慮に入れるまでもなく当たり前のことだ」と考えてしまう人は、いまいちど見直した方がいいだろう。
なぜなら、安心安全を提供していくためには不断の配慮が必要だから。
「大丈夫。できている」と思ってしまえば、そこからほころびは始まってしまう。
また、子供の姿は日々変わる。
だから、昨日の配慮と今日の配慮は同じではないこともあるだろう。
安心安全を当たり前のことゆえに、軽視しないで欲しい。
ここに注力すると、子供との関係性がこれまでにないほどの姿として現れてくるだろう。
それを実感できることは、保育士という仕事の本当に素晴らしいところだと思う。
保育士である自分に信頼を寄せ、屈託のない姿を出す。
文字ではうまく伝えられないのだが、それは子供に「できる」を作りだしそれにより自己承認を得る保育の何倍も素晴らしいものだ。
では、安心を子供に提供していくためにはなにがあるのだろう?どうすればいいのだろう?
これについて思うところを書いてみたいが、必ずしも正解のあるものではないので、まずは保育者のみなさんひとりひとりが自身のスタンスから考えてみて欲しい。
- 関連記事
-
- 【保育】コメント「2歳児の食事」への返信 (2019/06/04)
- 【保育】主体的成長について (2019/05/31)
- 慣らし保育と母性神話 (2019/05/06)
- 乳児保育の不備と物理的管理の悪循環 (2019/04/26)
- 保育園、学校における承認欲求のあやうさ (2019/04/11)
- 保育の基礎 ~安心安全~ (2019/04/05)
- 保護者支援における保育者の意識改革の必要性 (2019/03/05)
- 支配と保育 vol.2 (2019/03/03)
- 支配と保育 vol.1 (2019/02/20)
- 体罰は続くよどこまでも (2019/01/10)
- 保育者の姿勢 vol.5 支配の連鎖を断ち切る役目 (2018/11/22)
● COMMENT ●
トラックバック
http://hoikushipapa.jp/tb.php/1305-9d12a230
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)