「こうであれ」に疲弊する子供たち Vol.2 - 2019.09.03 Tue
それは、親自身がすでにたくさんの「こうであれ」を望まれてきており、そうした形で自身の内面を形成されてきてしまっているということ。
自分自身が「こうであれ」をたくさん要求され、それに頑張ったり、我慢したり、努力して応えてきているがゆえに、他者がそこから逸脱している姿を許容することが心理的に困難になってしまう。
このことは、他者に対してはモラル論から否定や攻撃をする心理を生む。または他者に対して「ずるい」という心理を生み出す。
(例えば、「私は二回もPTA役員をやったのに、一回しかしていないあの人はずるい」こういった心理。この問題、本当はイヤイヤやらされているPTAという構造そのものに向けられれば健全なのだが、努力や我慢や自己犠牲を美徳とする文化的なものがそれをはばみ、本来対立する必要のない自分と同じ立場の人に矛先が向いてしまっている)
他者であればその程度で済むが、これが「我が子」となるとそうした感情にどうにも歯止めがかからなくなることがある。
これがいまの子育て世代をして子育てを困難にしているとても大きなもの。
これにより子供の人格形成に大きな影響を与えてしまったり、不登校などの原因に発展してしまうこともある。
◆大人の問題としてとらえる
自分でも感情に歯止めがかからないほどに、子供に対しての「こうであれ」を止められないといった状態になっている場合。
それはもはや、子供の問題ととらえない方が良いと言える。
その大人からすれば、子供が自分の要求を達成してくれさえすれば自分はイライラしたりしないと思える。
しかし、それまでの過程でたくさんのその大人からの否定、不寛容にさらされてきてしまった子供は、それが達成したくてもどうにもできない状況に置かれている。
人が誰かの要求に応えるためには、ある種のエネルギーが必要。
子供にとっては、それはその大人からの「肯定」というもの、僕が子育ての基礎を「受容」と言ってきているのは、幼少期にその肯定を蓄積する必要があるから。
こうした状況にはまっている場合、子供はそれまでの親の要求に応えるためにすでに自身の中に蓄積してきた肯定は使い切ってしまったり、すり減らしてしまっている。
だから、応えたくても応えられなくなっている。
ゆえに、大人の方が「自分の望むこの簡単な要求に応えて欲しい」という視点で子育てを考えている限り、この問題は解決しようがなくなってしまう。
その場合大人が取り得るのは、子供の管理・支配しかなくなる。
これでは、子供に負の影響を長きにわたって蓄積していくことになる。
解決のカギは、大人自身の問題として考えることなのだ。
大人自身の問題とは、自己肯定感、子育て以外の何かに我慢し日々自己犠牲をして生活している問題。過去における対人関係のわだかまり。自己有能感、自尊感情の問題など。
子供が大人の要求に応えるためには、肯定という心のエネルギーが必要と述べた。
このことが大人自身にも言える。
子供に「こうであれ」をたくさん望むことで子育てが難しくなってしまっている人は、まず、自分自身を肯定するところに視点を変えてみるといい。
だが、大人になってしまうとなかなか他者が明確に積極的な肯定をしてくれることは多くないだろう。
そもそもそれがふんだんにあったのならば、そうした状況にはそうそうおちいっていない。
だからできることは、自分自身を自己肯定すること。
そうはいっても、あからさまな自己肯定は簡単ではない。
そこで、「自分を甘やかすこと」からスタートしてみる。
できる範囲のことからでいいので、我慢や努力や頑張りとちょっと距離を置いてみる。
自分に課している「こうであれ」をちょっとずつやめてみる。
例えば、「毎日手作りのご飯を用意しなければならない」と自分に課してしまっている人であれば、それをできる範囲でゆるめていく。
今日は外食してしまおう
今日のおかずはお総菜を買ってきてしまおう
もう今日はレトルトのカレーでいいや
毎日掃除をしなければならないと自分に課してしまっている人であれば、そこを手を抜いてみる。
こうして多少なりとも、自分で自分にかけている負荷を減らしていくと、子供のできない姿、やらない姿を許容しやすくなることもでてくるだろう。
そうなると子供の心にも余裕が生まれる。
結果的に、そのように自分の心をゆるめることにより、子供もそれが達成しやすくなっていく。
こうしたケースの多くのものは、実は子供の問題としてではなく大人の問題としてあることが多い。
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● COMMENT ●
ありがとうございます。
外から…
電車に乗っていて、赤ちゃんが泣き出してしまい「いつまで泣かせるんだ!」とおじさんに怒られた事もあります。そんなに長時間の電車に乗ってた訳ではないんですが。
泣き止ませられない親が悪い、親なら、特に母親ならこうであれ!と。これでいいんだと思っていても、外からの圧力も半端ないですよね…。
跳ね返す
これが私なんだ、と思えていれば、それがあなたなんだね、と言えると思うんですよね。
私、たぶんいまいちな母親だと思います。
でもね、それが私で、無理のない姿だから仕方ない。
娘もね、理解してくれてるのかなんなのか、私に〜だったらいいのに、とか言ってきませんね(態度でも)。
親子の形も様々なんだな、と最近思います。
娘が、荒波に揉まれることがあれば、いつでもありったけの力で守る自信だけは持っていますよ。
私のことだ・・・
私は、今思えば、母親の「こうであれ」にとても敏感で、学校でも優等生、次々と要求に応えられる子供でした。母親の意見が自分の意見だと思い込んで生きてきました。そして、「こうありたい」と自分で考えることが出来ない、空気を読むばかりの中身のない大人になってしまいました。
幼少期の私は、親に肯定されたい一心で、母の「こうであれ」に応え続けていたのですね。(父は仕事一筋だったため、母も子供に熱心になりすぎていたのだと思います)
上の子妊娠中にこちらのブログを知り感銘を受けました。我が子の育児では、とにかく受容を意識し、上の子は、自分の考えを持ち、大人と心のパイプが通じ、じっくり遊べる子に育っていると思います。
それなのに、下の子が生まれ、夫が単身赴任となり、最近は下の子の自己主張も強くなり・・・と加速度的に私の余裕がなくなり、気がつけば、否定、ダメ出しの嵐、上の子への受容は、ほとんど出来なくなってしまいました。(してはいるものの、圧倒的に足りない)
それどころか、まだ遊びたい、帰りたくない、下の子への意地悪、お風呂、ご飯の拒否など困った姿が出た時に、「どうしてお母さんを困らすの」「そんなことするなら、もうあなたのお世話はできない」と、おとーちゃんさんのブログを読んで学んできたとは思えない残酷なことを、瞬間的・感情的に言ってしまいます。
私が過剰に「こうであれ」を押し付けるあまり、子供はもう、応えたくても応えられない状態だったのですね。
「私自身を自己肯定すること」
ここをクリアしないことには、せっかく積み上げてきた子供との信頼関係が修復不可能になってしまいますよね。
難しいですが、やってみます。
それでも、たまにスイッチが入ったかのようにこうあるべきに捉われますし、どこかで今は本気じゃないから仕方ない、本当はもっとちゃんとできるはず!なんて思っています。でも、出来ません。ぐうたらです。周囲のサポートに思いっきり甘えて、甘えれる私エライわ!なんて思ってます。謙虚?我慢?世間の目?知ったこっちゃない!と思いつつ、周囲の圧力を感じると思いっきり腹を立てて傷ついて、夫に愚痴っています。
こんな感じですが、子どもたちは可愛く、優しいです。苦手なバックで駐車したら3歳の娘に「がんばったね。うまくできたよ。」って言ってもらえます。5歳の息子は「うちの子が転んだ時心配したのは息子だけだった」とママ友に報告されます。小2に娘は「ママたいへんそうだから、お手伝いするね」と言ってくれます。子どもたちから多くのものをもらっています。
おとーちゃんのこの記事に自分が今までしてきたことが間違ってなかったと言われたようで救われる気持ちです。本質的に正しいことは優しく、それを知ってる方も優しくて温かいのだと、改めて感じ入りました。
と子供は思っている。
ということを心にとめておくと良いんだと思いました。
自分自身を律するための言葉でなくて。
そうなると頑張ってるんだから辛くないですか。
この言葉、きっと必要なときに発動するんだと思います。
今やらなきゃ、焦ってる時ではなく、必要なときに。
それまでは自分をちょこちょこ労ってイライラしないようにするのが先決なのかなと最近は思います。
私はチョコレートが好きなので子供があっちいってる隙にぱくっと食べたりしてます。1日に数回も。
おとーちゃんさんの言葉を知っているのと知らないのとでは
雲泥の差だと思います。
心にとめておけただけでもうけもんなんだと思います。
べきべきべきの世界
ワイドショーやニュースを騒がせている事や、こんな悪い態度の親、子供がいた、こんなママ友は嫌だ、などなど他人に対して気に入らないことがあると、こうすべき、ああすべき、べきべきべき。。そんな『べき』を有名人が簡単に発したりするので、影響力もおおきいですよね
『べき』はその人の意見で、それぞれ違いませんか?またそれは『自己責任』と同じく、まず自分自身に課すことで、他人に振りかざすものなのでしょうか
子供がうるさく泣いていても、親が申し訳なさそうにしていれば許せる、なんていうのもよく聞かれます。それこそ、その親の行動ではなく、自分の感情次第ということになりませんか
子供や子をもつ親を優遇しすぎだというのも、よく言われる言葉です
親だったら早く泣き止ませろ、自分が好きで産んだんだろ、という無謀な言葉。公園で水遊びするな、シャボン玉するな、泥遊びさせるな、周りを見ろ。
わかります。ただ、子供にも楽しんでほしい。立場をわきまえろ、状況を考えろ、という漠然としたプレッシャー、そこに正解も限界もない。こんなことを親になってからいつも感じています。でもいつも模索、迷いや間違いの連続です。
強い反対の意思は、強い表現となり強い力をもって、なぜだかその勢いで物事を動かしてしまうのですね
冷静さや、優しさ、関心のなさは、その勢いに勝てなかったりします
恐ろしいことです
心の余裕のなさは、お金と結びついているかもしれない。でも、このままの社会で仕方ない、もっと悪くなっても仕方ない、とは私は思えないのです。
わたしたちは、他人よりまず自分自身を疑うことを、学んできたのでしょうか
自分は正しいと思う、でもそれはなぜか、
固定観念や偏見にとらわれていないか、
そう思わない人はいるのか、
それはどういう考えからなのか、
そういうことを考えることを忘れてしまっているように感じます
私自身も、この気持ちが『べき』論でないと言い切れないです。結局私も、他人にべきを振りかざしているかもしれない
多様な価値観を許容する社会であってほしい
そこを本気で目指す教育であってほしい
なのでまずは私が子供に、そのまんまで大好き、と伝えていくこと、なのですね
ずっと、なんとなく息苦しかったので、おとーちゃんさんと、このブログの読者の方々に、愚痴を吐き出してしまったような感じですね。
長々と失礼いたしました、
ありがとうございました。
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できない母でもいい。十分に頑張っている。
少しは自分を認めたら。と。
それができたら苦労はしない。。
だってすでにけっこうサボってるし。。
と思いましたが、真髄はやはりそうなのですね。
バランスが難しいですが
頑張ってみます。
いつも読ませていただいています。
ありがとうございます。