承認欲求の保育と自己実現の保育 - 2019.11.20 Wed
これは、治したくても病の元がどうにも治療が届かないところにはいってしまっている状態の意味。
実は保育にもこの状況が起こることがある。むしろ頻発している。個人でそうなることもあれば、それがこうじて施設全体の体質になることもある。
それは自身の承認欲求を子供への関わりで満たしていくこと。承認欲求を持つことは少しも悪いことではないが、それが自分のために子供を搾取していく状態になってしまうと簡単に保育を不適切なものへと導いてしまいかねない。
このことはこのブログでも繰り返し書いているので、「承認欲求」で検索すれば該当の記事が複数みつかるだろう。
保育を続けていく上で、そこにおちいらない視点というのは大切だと思うのだが、個人の内面のものであるのでなかなか容易ではない。
少し、ここについての考えを書いておきたい。
◆モラルの押しつけではなくスキルとしての保育
「正しいこと」を子供に習得させること守らせること=保育
になってしまうと子供対保育者という対立の図式が簡単にできあがってしまう。
全ての子供が思うようになる子ばかりならば、その保育でも破綻しないかもしれないが現実にそんなことはありえない。
現在ニュースになっているような不適切保育も、こうしたモラル、規範意識によって保育を続けてきた結果導き出されている。
専門性をもって仕事に取り組むべき保育者が、モラル、規範によってしか子供に関われないのであれば、そこには専門性はない。
単なる規範の押しつけは、「一生懸命やっている」状態にはなるが、必ずしも「専門性のある保育」とはなり得ない。しかし、一生懸命やっているがゆえにその保育者はその状態を自身で客観的に見て乗り越えていくことが難しくなってしまう。
一生懸命やっているのに不十分であるという指摘は、自己承認に反することになってしまうので、なかなか専門性を高める方に受け取ることができなくなってしまう。
自己承認に飢えていない安定した自己を持てている人であれば、それが職務上の指摘なのだと理解し対応することができるが、それが難しい人にとっては、「自分が否定されている」と取れてしまうので、自己防衛から反発、攻撃的な心理を生みかねない。
実は、この背後に隠れていることがある。
それは、適切なスキルの欠如。
別の視点から見ると、子供への関わり方の問題を指摘されてそれが受け入れられない人は、自身のスキルで現状がいっぱいいっぱいであることを意味している。
他に取りうる手段をその人が持っていないからこそ、現実問題の解決ではなく自己防衛へとおちいり現実認識の回避へとつながる。
そのため、こうした問題は経験年数が長い保育者ほど解決が困難になってしまう。
スキルが低いのであれば、そこを認めてスキルの向上を心がければいいだけなのだが、それが自身へのプライドゆえだったり、自身の人格上の問題などから解決に取り組めないネックを抱えている人は、自分の外側に問題を置こうとする心理が強く働いてしまう。
例えば、「今年の子供たちはまとまりがない」「このクラスの親は子供にきちんと向き合っていない」など、子供のせい、親のせいという心理は顕著に見られるもの。
その他にも、他のクラスばかりが楽に見えたりやっかんだりという心理が生まれたり、子供と適切な信頼関係を結べる保育士に対して、「あの人はたまたま子供に好かれているのだ」というように、その状態を自身の問題ではなく、外に置こうとする気持ちになるので、努力や向上の方にいけなくなってしまう。
正直、この状態にすっかりはまってしまった人に適切な保育の手段を獲得させてくことはとても難しい。
これを防ぐ手立ては、保育士の初任者の頃から適切な保育を、保育スキルとして積み重ねていくことが必要。
子供への対応には、ある種の因果関係がある。
この因果関係を理解して、そこでの実践方法を具体的に身につけることができればよい。
しかし、それを知らないままだと、自分の持っているものからいっぱいいっぱいに関わることになるので、それがうまくいかないとき簡単に上記の状態にはまってしまう。
保育における因果関係の最たるものは、信頼関係を構築することで子供が保育者に寄り添うような姿を示してくれること。ここを実践上で理解できていない施設はあまりに多い。
◆人格と保育スキルを切り離すこと
保育のスキルを人格論をより所にしてしまうと、自身の保育への指摘は、自分の人格に対する攻撃ととらえるようになってしまう。
だから、保育の専門性を担保するのに、精神論や感情論、人格論を用いるべきではない。
また、同時にこれらを保育の専門性の担保にしていると、その施設はモラルハラスメントが起きやすくなる。
そこまでは行かずとも、働きにくい職場になる。例えば、有給がとりづらい、慣習的なタダ残業があるなど。
保育を人格論にする必要はない。
各大学で保育が学べるように、保育とは学問のひとつになっており、人格論精神論などにせずともそれの向上をしていく方法はいくらでも確保されている。
◆支配者である自己効力感
保育において承認欲求を満たす行為の端的なものは、子供を支配すること。
保育施設は、単に子供の支配になっていないかを普段からよくよく気をつけていく必要がある。
子供を支配することは、直接に自分の思い通りになっているという自己効力感を簡単に与えてくれる。
しかし、自身の承認欲求を満たすために子供の支配をする人が、自分からその問題に気づくことは容易ではない。
それは、「子供のため」「必要なのだから」という理屈でいつでも正当化されてしまうから。
◆するにもしないにも全てに配慮が必要
ねらいや配慮が考えられていない状況だと、そこには簡単に支配が入り込む。
・時間を決めて全員をトイレに行かせる
・トイレの前で並んで待ち、終わった後でもまた並んで待たせる
・乳児や0歳児まで幼児の行事に参加
例えば、こういった保育が行われていた場合。
その行為には、なんのねらいがあるのか、どんな配慮があるのかを保育者は説明できる必要がある。
また、それがその個々の子供たちの発達段階に合っているのか問われた場合、それにも答えられる必要がある。
しかし、往々にしてねらいや配慮の前に「子供を思い通りにすること」が先に立ってしまいかねない。
これは、「無自覚な保育」と言える。
保育が専門職たり得るには、こうした自身の承認欲求を満たすだけのものになっては社会的に認められる日は来ないだろう。
僕は、保育を適切なスキルとして身につけて、自己承認ではなく、専門性の上に自己実現できるところを目指す必要があると考える。
それはその気になれば何ら難しいことはないし、むしろ保育がラクになっていく。
なぜなら、それが優しいものであろうと厳しいものであろうと、支配的な関わりは子供たちに確実に負荷をためさせていく。それゆえに一度支配をし出すと、よりその度合いを強めて行かなければなくなる。
結果として、「大変な子供たち」ができあがる。しかし、無自覚な保育をしてそれを生み出した保育者たちからは、その姿を自分たちの保育が作り出したとは見えない。
ゆえに、「子供たちがいうことを聴かないので仕方がない」という理屈がなりたち、より支配を強めたり、人手を多くすることで対処しようとするようになる。
はっきり言ってしまうと、これは保育の破綻した状態と言える。
例えば端的なところでは、支配が蔓延している保育施設では子供たちは午睡につこうとはしなくなる。
それは、安心感と大人への信頼感が欠如しているために、寝たくても寝られない心理状態を持たされているから。
子供に対して支配的な傾向を持つ保育者は、子供たちが寝ようとしないという現象面を見て、より強い支配を正当化してしまう。結果、にらんだり怒ったりして寝かしつけることになる。
これが日々のことともなれば、保育者は疲弊する。
支配的なスタンスを持たない保育士や、新人や実習生などでは子供たちは野放図な姿を繰り出し、まったく寝ようとしなくなってしまう。
すると、それを支配的傾向の保育士からは、「あなたが甘いからだ」というように見えてしまう。
これでは保育はちっとも楽しいものではなくなる。
支配することを保育にしてしまえば、保育者になった意味がなくなってしまう。
保育は子供の成長のメカニズムや対人関係スキルの因果関係の積み重ねの上に成立させていけば少しもムリのないものとなる。
それを獲得した上で、自己実現できる保育を目指したい。
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