子供の人権 Vol.2 『子供』の発見 - 2011.09.02 Fri
『子供』という考え方は、実は一種の発明品です。
しかも歴史的に見ればわりと最近の発明品なのです。
ヨーロッパで最初に『子供』という考え方を思いついた人は18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーです。
それまでの社会は「子供は小さな大人」しかも「半人前・未熟な大人」「文明的な人間以前の状態」と考えられていた。
人間が人間たらしめるためには教育が必要であるが、大人以前の状態では「子供」という固有の世界があり、大人文化の押し付けでなく、その世界のなかで即した教育のかたちが必要である。
ということを説いた人です。
ルソー以前はもちろん、その後も長いこと子供は「子供」として守られない時代が長く続き、国連が『子供の人権宣言』を必要としたように、いまでもその問題は解決しきっているわけではありません。
そういった時代の子供のあり方は、現在でも有名な文学作品などに多々みられます。
たとえば、『小公女セーラ』では父親が死亡し送金がなくなると寄宿学校の生徒から小間使いに落とされてしまいます。
現代的に見ればこれはひどい話なのですが、当時としては当たり前、むしろ温情的といえることであったかと思います。
またディッケンズの『オリバーツイスト』はルソーから50年後くらいが舞台であるが、孤児院でのひどい扱い、また社会的な受け皿のなくなった子供たちが犯罪組織に組み込まれてしまう様子が作中に描かれています。
こういったことはその当時の社会としてはあたりまえにあったことでした。
産業革命真っ只中のこれらの社会では、農村型の社会から都市型の社会へとの変革期であり、貧富の拡大や土地を失い一家離散など、そのしわよせはもっとも弱い存在である子供へとダイレクトにきたのでした。
身体の大きい大人よりも、子供のほうが炭鉱の坑道での作業に適していることから、長時間の過酷な労働を課せられ早死にしてしまうということがあっても、そもそも『子供』概念が無い(浸透していない)のでその子供たちを守ろうなどという考え方をするひとは世の中にいない時代だったのです。
ルソーが著作『エミール』のなかで『子供』の存在を提唱してから約220年たってようやく世界的な規模で子供の人権を認めようとしたのが、この国連の『子供の権利条約』(1990)なのでした。
日本は4年遅れの1994年にようやく批准していますが、国はもちろん我々日本国民も子供の人権をまもる義務があるわけです。
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● COMMENT ●
お久しぶりです
ろんさん
こみいったことになってくると適切なことを言う自信はないので、あくまで一般論としてですが。
>横目で睨んだり、「わかってるよ!」「いまやろうとしてたの!」
>「もう、うるさいなあ!」と言いながら近くにあるものを蹴飛ばしたり…
といった態度は、過干渉から導き出されることがよくあります。
子供は絶えず自立の方へと向かっていきます。もっといえば、自立と庇護のあいだをいったりきたりしてバランスをとっています。
5歳で女子ともなると自立心はそれ以前にくらべ随分と強まっていることでしょう。
それにたいして過干渉を重ねてしまうとストレスは大きいものになっていきます。
このコメントを読んで感じたことだけなので適切かどうかわかりませんが、僕の考えからすれば
>素直になれない「時期」のようなものだと理解もできる一方、そんな時期でも謝らなければいけない時というものはある、とも感じています。
更に祖父母や他人様に対する礼儀や尊敬の念はしっかり教えたいと思っています。(こちらは時間がかかりますね)
このまま受け止める努力をしつつ見守ってよいものでしょうか。すこし甘すぎたかな、とも思っています。
強制的に謝らせても何も効果がないという理由で「本人が自覚しているし反抗期だから?謝れなくても仕方ない」といったスタンスは家庭内では通用しても外で迷惑をかけられた方には通用しないでしょう。
内と外で親の言い分が違っていては子どもも混乱するでしょうし。
とおっしゃることは間違ってはいません。
しかし、以前にも記事で書きましたが正論を押し付けることだけでは子供は育たないというのも事実です。
「~~すべき」というのを強く持ちすぎてしまうと、過干渉に陥りやすいものです。またそのへんの意識が強過ぎれば反発も招きやすくなるでしょう。
子供が現在の状況に強い不満を感じると、まず暴言などの「言葉の暴力」がでます。
それは一種のサインです。
それでも自分の気持ちが受け止められないと、子供はあくまで無自覚的にですが、次の段階へすすみます。
それは「物への暴力」です。身近にあるものを投げたり、蹴ったり、壊したりという行動がでます。
これもサインです。別にその子が悪意があってやっているわけでなないのです。
やむにやまれず出てしまうサインなのです。
さらに進みますと「人への暴力」となっていきます。
これもサインです。
こういったサインがでているときは、いくら叱って矯正しようとしたところで直るものではありません。
また「~~すべき」という型にはめるようなことも通じません。
そのサインの根っこをみつけて対応して行く必要があります。
その対応の根底に大切なのは、援助される人への「全面的な肯定」です。
すべきでないことを野放しにしろという意味ではありません。
「~~するな。~~しろ」というのは結局のところ「いまのあなたはダメだ」と伝えていることと同じになります。
「おまえはダメだ」と言われながら、その言った人に好感をもち素直に認めていくというのはなかなかできるものではありません。
ことあるごとに否定で関わるのではなく、その根底にどういう思いがあるのかきちんと受け止めるためには肯定が必要なのだと僕は思います。
そこさえ受け止められれば、いまあるような暴言や反発などは「それをするな」と教えずとも自然と無くなっていくはずです。
実際の状況をしっているわけではないので、まったく見当違いかもしれません、ご参考までに。
ありがとうございました
ご指摘のほとんどは当たっています。第一子だからと気負ったり期待しすぎたり「○歳児ができること、できないこと」が見極められなかったり自分自身の理想が高すぎたり…過去記事を読んで過干渉の部分はいつも身に詰まされるのですが、心にとめているつもりでもなかなか常時実践というところまでいかないものですね。
夏休みに長期帰省したのには私の妊娠が伴っていました。つわりの激しい体質のため、子どもたちは祖父母に任せっきりで自分は寝ているという日々が続いていました。
長女が寝ているところにひょっこり顔を出してくれても、「今気持ち悪いから向こうで遊んでて」と追い払ってしまったり。
甘えたい、話したいのにできない、なのに怒る時だけ出てきて偉そうに怒る。これでは強い不満を感じて当たり前の状況でした。
実際、自宅に戻って2週間ほど経ち、多少のつわりは残っていても何とか相手ができるようになってきた途端、暴言を伴う拗ねかたは格段に減りました。物にあたることはまだ一度もありません。
良い関わりかどうか、という話以前に「ただ子どもと向き合う」だけでこれほど違うという事実を肌で感じています。
まだまだこれから「反抗期」に手こずらされることも多いと思いますので、いただいたアドバイスと今回の経験をしっかり心に刻んで日々を過ごしたいと思います。
ありがとうございました^^
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今日はまもなく5歳になる長女のことでご意見を伺いたくて。
夏休みに私の実家に長期帰省して、子どもたちは甘えまくり遊びまくりの楽しい日々を過ごして戻ってきました。
帰省中に気になったのは長女の言葉づかいや態度です。
ちょうど「反抗期」に差し掛かったのでしょうか、ちょっとした注意などをなかなか素直に聞き入れないことが目立ってきました。(最終的には聞きます)
横目で睨んだり、「わかってるよ!」「いまやろうとしてたの!」などといった感じです。それでも「自分が注意されるようなことをした」という自覚はあるようなので、言葉や態度が反抗的でも「そんな言い方されると悲しいなあ~」とやんわり言うようにしていたのですが。
大好きなはずの祖父母にまでそんな態度。「この人は甘える人、自分を叱ったりしない」と思っているのか態度は私に対するものより更にひどく
「もう、うるさいなあ!」と言いながら近くにあるものを蹴飛ばしたり…。
さすがに「なんてことするの!謝りなさい!」と怒るのですが絶対に謝りません。
ちなみにその出来事は「ペンを持ったままの手で妹を叩こうとしたので反射的に危ないと注意された」ものであって、決して長女にとって理不尽なものではありませんし、今までならちゃんと妹に謝れていました。
素直になれない「時期」のようなものだと理解もできる一方、そんな時期でも謝らなければいけない時というものはある、とも感じています。
更に祖父母や他人様に対する礼儀や尊敬の念はしっかり教えたいと思っています。(こちらは時間がかかりますね)
このまま受け止める努力をしつつ見守ってよいものでしょうか。すこし甘すぎたかな、とも思っています。
強制的に謝らせても何も効果がないという理由で「本人が自覚しているし反抗期だから?謝れなくても仕方ない」といったスタンスは家庭内では通用しても外で迷惑をかけられた方には通用しないでしょう。
内と外で親の言い分が違っていては子どもも混乱するでしょうし。
うまく言えないのですが「さじ加減」のようなものがまだ私の中で確立していなくて少し混乱しています。
お時間ありますときにアドバイスいただけると嬉しいです。
相変わらず長文のくせにまとまりがなくてすみません…。