いじめについて考える - 2012.07.14 Sat
学校教育のあり方、親と子・家庭のあり方、公務員のあり方、隠蔽体質、学校の実質的な治外法権、世間一般の人々の子供への考え方などなど。
今回のように『いじめ』問題に警察が刑事事件での立件も視野に入れて動くというのは初めてのことではないでしょうか。
こういう新たな動きが、いじめの減少につながってくれればいいと思います。
学校・教育委員会の答弁の矛盾や二転三転する話の内容など、納得のいかない、不信感のわくようなこともあり、たくさんの批判が寄せられていますが、僕は別の視点からいじめについて考えてみたいと思います。
一応断っておくと、今回の大津の中学校や教育委員会を擁護しようと思って書いているわけではありませんよ。むしろ激しい憤りしか覚えませんが、いじめをなくすためにはということを僕なりの視点で考えただけです。
*7月18日追記 繰り返しますが、以下はいじめに関しての一般的な意見を述べたまでで、大津のいじめ事件についてではありません。
皆さん感じるところは多々お有りでしょうけれども、今回きっかけとなったので冒頭で触れはしましたが、以下は単にいじめについての僕なりの考えというだけです。
はじめからお断りしてあるように、以下の文章は大津のいじめとは別の見地から書いていますので、大津のいじめ問題とつなげて批判されるのはお門違いです。大津のいじめ問題の憤りを吐き出したいという方はどうか別のところでお願いします。
今回に限らず、いじめが大きな事件に発展してしまったとき、しばしば「いじめの事実はなかった・確認できなかった」ということを学校側はいいます。
僕はまずここをどうにかしたほうがいいと思う。
『いじめ』はどこにでもあるからです。必ずあります。
もちろん、ないところだって現実にありますが、それはたまたま幸福な偶然が続いているか、別のところでその要素をあらかじめ取り除いていたか、「今はまだない」と考える方が自然でしょう。
大人の社会にだってたくさんありますよね。
保育園の子供たちにも、意図的に集団で個人を対象にするいわゆる『いじめ』ではないかもしれないけれども、「意地悪」はたくさんあります。
ある意味でいじめは人間の本質の一部です。(これについては別の機会に)
問題なのは、『いじめ』にどう対処するのかというところなのです。
いじめがあるのが「いけない」のではないのです。
不特定多数の人々が集まるところであるならば、いじめがあることは前提としてそれにどう対応していくのか、すべきなのか、というところから出発しなければ、これからもいじめはなくならないでしょう。
「いじめ」があったことで世間が学校を指弾していれば、それは当然学校は隠すようになるでしょう。
学校側も「いじめがあることがいけない」と考えていたら、いつまでも「臭いものにはフタ」の対応になりがちでしょう。
この『いじめ』に対する考え方を、世間も学校も少しずつ変えていく必要があると思う。
『いじめ』はどこにだってあります。
皇室の子供が通う学校にすらあるくらいですよ。
ないところがあったらそれは大変な幸運でしょう。
「いじめはあります。でも、今現在このように対応しています。」
「対応した結果、○件あったいじめ問題のうち○件解決しました。対応中が○件あります」
学校側も胸を張ってそういうことを言えるようになることが必要だし、世間も「いじめがあること」をただ否定するのではなく、いじめに前向きに対応していることを認めていく社会でなくてはならないと思います。
また、学校の先生がいじめの対処に全責任を負うべきでもないと思う。
(もちろん学校内で行われることに対しては、当然責任はあるけど)
当然ながら、いじめは学校だけに原因があるものではないです。
家庭の問題。これがまず大きくあるはずです。
場合によってはその地域の特質からきていることだってあります。
学校というのはどうしても閉鎖的な世界になりがちですが、学校の中だけで対処しようとせずに、家庭やさまざまなところと一緒にいじめに関わっていくことも大切でしょう。
(これについてはいま少しずつ進んでいるようです)
そして、学校の先生はスーパーマンである必要もありません。
世間はとかく、こういういじめなどが起こると、「先生の熱意がたりないのではないか」というような見方をするようですが、熱血教師をいじめへのカンフル剤と考えることは僕は良くないと思う。
いじめに対してうまく対応できない「弱い先生」がいることも、当然なのです。
そしてそういう人がいることも、実は大切なことなのです。
「完璧な人間などいない」とは世間でよく言われる言葉ですが、これはそのとおりでしょう。
特に人間が人間を相手にするとき、合う人もいれば合わない人もいるものです。
どんなに優秀な先生であっても、全部の子供の助けになるとは限りません。
人を育てる場においては、たくさんの多様な人がいてそれを互いに補い合っていくことが必要でしょう。
もしも仮にですが、熱血教師しかいない学校というものがあったら、そこはそこでそれに特有の問題というものが出てきてしまうはずです。
アメリカはチームを組んでなにかをするのが好きな国ですが、こういった問題に対しても必ずと言っていいほどチームを組んで対応しています。
日本人は責任感の強い人が多いですが、一方で個人に責任を押し付けるということもしがちです。
自分でも手に余るケース、私生活を犠牲にしてようやく対応できるようなケースであっても、やってしまおうとします。
また、周りもそれを暗黙のうちに要求します。
その人がそれでもやっていけるほどの強い人であればいいですが、そうでなかったらそれを続けるうちに、擦り切れていってしまいます。そうなれば、対応は雑なものへとならざるをえません。
そして現実には、どんなに責任感があっても長期間それを続けていけない人の方が圧倒的に多いのです。
そしてそれは当然です。
個人にばかり責任を押し付けていたら、だれも大きな責任は抱え込みたがらなくなります。
保育園でも、あまりに手のかかるクラスや、対応に非常な困難がともなう保護者のいるクラスなど誰も希望する人がいないなんていうことも少なくありません。
しょうがないので、力量のある職員や、熱意や責任感の強い職員に「あなたでなければ務まらないから」とお願いして担当してもらったり、ときには事情をしらない新人や異動者に担当を割り振ってしまったりということすらあります。
その熱意や力量のある職員が、超人的な強さをもっていればいいですが、それを長年しているうちに燃え尽きてしまうことも少なくありません。
それで、いい人ほど早くに辞めていってしまうのもたくさん僕は見てきました。
大変なものを「誰かに押し付ける」これまでの、やり方を改めて責任を分担しつつより多角的な対応ができるようなチームで取り組むということも、いじめを無くしていくためには欠かせないことだと僕は思います。
また、現在の学校の先生は、基本は「勉強を教える人」なのですよね。
別に揶揄して言っているのではなくて、はっきりいって勉強も教えてもらいながら、『いじめ』のような根深い問題にも完璧に対応しろというのは望みすぎな部分があると思う。
日本では学校の先生が「人格教育」もするのだという考えが昔から根強くあるけれども、それができていた頃とは今は時代が違いすぎるでしょう。
明治時代から戦前までのように、学校の先生というものが庶民とは隔絶した知識人であり人格者であり、まずそのことで子供・保護者のみならず地域の中でも尊敬されていて、村や町の行事があれば先生には上座に座ってもらってみなが挨拶にいったなどという時代ではとっくにないわけです。
さらには、文科省の現場の声も無視したトップダウンで教育の仕方も二転三転するようななかで、教えなければいけないことが変わったり増えたり、それだけでもいっぱいいっぱいな状況でさらに教えるだけでなく、たくさんの事務仕事や、研修などもしなければなりません。
保護者対応なども年々難しくなっているはずです。
学校の先生が、給食費や教材費を払ってくれない親の心配までしなければならない状況です。
お医者さんだって、自分の専門外の病状が現れた時や、手に負えないようなものには、「ここでは対応しきれないので専門医を紹介します」ということをします。
学校の先生も「自分たちだけの手にはあまる。専門家を配置しろ」と言っていいと思う。
たぶん、そういう要望はたくさんだしているのだろうけど・・。
そして、日本も本格的にそれをしていかなければならない時代になってきているのではないでしょうか。
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● COMMENT ●
No title
名無しさん
見て見ぬふりをしてよいというような言葉はどこにも書いていません。
>もちろん学校内で行われることに対しては、当然責任はある
とも明記しています。
客観的に読んで頂ければ、お分かりになるかと思います。
こんにちは
幼稚園児の兄弟の母で日ごろからブログ拝見し、子育ての参考にさせていただいています。だた、「こうあるべき」と思ってもなかなか実践できず、反省の日々ですが、、
さて今回思いっきってコメントさせていただいたのは、今回のいじめについて私自身関心がとてもあり、おとーちゃんさんがどういった風に思ってらっしゃるかぜひ知りたいと思っていたからです。
私は大学で教育を学んだんですが、教師になる覚悟はできず、企業に就職したので何かを言える立場ではないのですが・・・
今回の事件、いろいろな方がテレビでコメントされてますが、私には「うーーーーん」と思うこともあり、今回のおとーちゃんさんの考えには「うん、うん」とたくさんうなずかされました。
その上で私が思ったことは「誰も大人が責任をとらず、一人ひとりが自分の行動を振りかえってみないんだな」です。
話が逸れますが、去年大震災が起こった時、メディアが一斉に東電と管首相を取り上げ、非難轟々でしたよね。確かに彼らには責められるだけの原因と責任があります。でも、私たちには何の責任もないんでしょうか?電気を使っているのは私たちです。その電気を作る燃料が足りないから政府は何十年前、原発を推進することを始めました。その経過で色んな人にお金が流れたそうです。でも私たちはそんなことも知ろうとしなかったし、ただ、電線から流れる電気を節約しようともしませんでした。そうしている間に今回の震災、一体何人の人が原発をもっと知ろうとか電気に頼らない生活を考えようとか行動したんでしょうか?
結局は自身を顧みない大人の姿が子供たちの大人への不信感を生んでいるような気がします。
今回のいじめの事件でも保護者会が行われたそうですね。でも大人たちはこぞって学校を責めました。でも今現在でもその男の子が自殺したことで苦しみを抱えてしまった他の生徒がいるはずです。そうでなくてもここまで学校がテレビに取り上げられ、心ないメディアが子供たちにマイクをつきつけ、、いったいこの子供たちは誰が守るのでしょうか?
学校と保護者は協力して子供を守るべきだと思います。
そしておとーちゃんさんが言われるようにいじめは必ずあると思います。そしてそれは子供たちだけで解決されるものもあるし、今回のように犯罪になるほど、卑劣なものもある。それはただ、一人の先生だけではなく、保護者も、地域も一緒にならないと解決しないと思います。
最後に私が一番気になったのはいじめた側のこころです。
相手が亡くなってまだなお、出てくるひどい言葉彼らをそこまでにさせたのは何なんでしょうか?おそらくだんだんエスカレートしていったんだと思うのですがそれらは彼らのSOSだったんじゃないか?「おれたちの心はここまでするほど荒れている誰か助けて」という、でも誰もそこに関わろうとしなかったんですよね。そして悲しい事件が起きた。
大人たちの無関心。決して他人事ではないと私も自分を戒めないといけないと思っています。
No title
今、4カ月の男の子を育てているものです。
以前から主人に「このブログは勉強になるよ。」と言われており、最近やっと読む余裕ができたので、この1週間で一通り今までの記事を見させていただきました。
正直、このブログを読むまでは少なからず子育てがつらいもの・自分を束縛するものと思っていましたが、ブログを読んでからは「子育ては素晴らしく、楽しいものなのだなあ。自分の息子がどのように成長していくのか楽しみだなあ。」と本心から思えるようになり、これからの育児に対して少し気楽にとりくめるような気になれました。
息子には、今まではねむそうなときにだけおしゃぶりを与えてねかしつけていましたが、とりあえずそれをやめ(授乳の時間、回数が増えましたが)、おもちゃをもたせる時もゆっくり本人がつかむまで待ってあげたり、こちらを見たときはちゃんと笑ってあげるようにしました。
たったそれだけのことで、息子がいままでよりさらに表情豊かになり、話すなんごの音も増えて、意思疎通ができているなあ。と感じることができるようになりました。
今までは、家に、「自分と赤ちゃん」がいる。という認識でしたが、今は「2人」でいるんだな。と思えるようになり、この子のために昼間はテレビもネットも当分はお休みして、たくさん遊んで、だっこしてあげようと思えるようになりました。
おとーちゃんさんがこうしてブログをやってくださったおかげで、私の息子は自分の母親からよりよい対応をしてもらえるようになりました。
私も育児というものがどういうものかおぼろげながらもわかり、勉強になりました。
そういうわけで、ブログをやっていてくださり本当にありがとうございました。という気持ちを伝えたくてコメントしました。
息子に積み木を買ってあげるのを楽しみに、明日も息子と楽しく過ごそうと思います。
おにーちゃんとむーちゃんのお話とてもかわいらしくて温かい気持ちになれますので、これからもよろしくおねがいします。
親として
優しい子だから親に心配かけたくないと話さなかった…で我が子の貴い命が消えてしまうなんて、どれほどにつらいことか…。
子供が自分の力で出来ないことを「助けて」と言ってくれる親になりたい。その声を受けとめて「助けることができる」親になりたい。
度を過ぎたいじめや犯罪が起きることが珍しくない今、親としてどう備えるのか、何ができるのか。どう子供を守り導けるのか知りたいと思います。
今回のことで色々と考えています。
幼児期からの受容の積み重ねが、思春期でも消えない親子の深い信頼関係を作ってくれるかしら…とも思います。
親であれば誰だって、可愛い我が子がいじめをしたり、されたり、いじめを目の当たりにして苦しんだりして欲しくはありません。
いじめがどこにでも起こり得ることだとしても、せめて少しでも起こらないように、立ち向かえるように、努力をしたいです。
1歳の我が子が育っていくのを見るにつけ、人一人が一人前になるのには、親として何と根気がいることかと疲れてしまいます。でも、ほんの些細な成長を見つけるだけでも、「この子は何て素晴らしいんだろう!」と感動したり、無邪気な笑顔で「まま~」と抱きつかれる度に、「うちの子が世界で一番可愛い!」と有頂天になったりと、折に触れて我が子の行く先が輝かしいものであるに違いないと希望を抱きます。
今回の事件の渦中にあった親子たちも、そんな子どもの成長に希望を託す日々があっただろうにと思うと、とてもやるせない気持ちです。
思ったことをまとまりなく書いてしまいました。長文乱文失礼致しました。
考えさせられます
この先我が子がいつどちらの立場に立つか分からないです。
先生方の対応にも問題はあったと思います。
でも一番思ったのは『いじめていること、もしくは、いじめられていることに気付ける親になりたい』『いじめられていることを言って周囲に助けを求められる子になって欲しい』ということです。
大人も子供もストレスの多い社会ですから、不安は多いですが、とにかく今は子供自身の話をきける親でありたいと思います。
No title
以前に長男の『吃り』について、質問させて頂いた向日葵です。
あれから半年近く経ち、昨日元気いっぱいに3歳の誕生日を迎えました!おとーちゃんさんから頂いた返信コメントを胸に、私自身が気にしないこと、受容と共感を心がけ、何より私も子供も笑顔でいられる時間を大切に…と過ごしてきました。結果、本当にいつの間にか吃りが一切なくなり!今ではとっても流暢におしゃべりしてくれています☆
たまに言葉が出にくいこともありますが、そこはまだまだ3歳♪頭の中で必死に言葉を繋げているんだな~♪お話したいことがたくさんあるんだな~♪と思いながら温かく見守っています☆
そして、今日コメントしたのは、またおとーちゃんさんに質問したいことが出てきたからで。今回のいじめの事件、本当に本当に心が痛み、憤りを隠せません。今回命を絶った男の子はムードメーカー的存在。そしてとても心優しい子だったと聞きました。なぜそのような優しい子が命を落とさなければならないのでしょうか…。
胸が痛むと共に、真っ先にやはり愛しい我が子のことが気になりました。無事3歳を迎えた長男も、本当に優しい性格で、戦隊物やたまにアンパンマンなども、『こわい。消すの~』と言います。保育園の先生方にも『Yくんは本当に優しいですね~』と言われます。
それはとても嬉しいことですし、今後も人の痛みのわかるやさしい男の子に育ってほしいとおもうのですが…優しいだけじゃだめなのかなと今回の事件で思ってしまう私がいます。
いじめはどこの世界にだってあるもの、私もそう思います。
だからこそ、そういったいじめや壁にぶつかった時、子供自身が周りにヘルプを求めることのできる力、また乗り越える力を養う為に、具体的に出来ることはあるのでしょうか?
おとーちゃんさんの考えをまたお聞かせ頂けたらと思います。
どうぞ宜しくお願いします。
向日葵さん
子供の成長の過程にはいろいろなことが出てくると思います。これからももしかしたらそういうこともあるでしょう。
でも、乗り越えていけないものなどないですから、今回のように出来ることからちょっとずつ積み重ねていけばいいのだと思います。
いじめられないということに限りませんが、子供の強さ弱さという個性の部分を親はどのように捉えていけばよいのかということを考えたことはあります。
コメントだけでは書ききれないのでいずれどこかで記事にしますね。
No title
『子供の強さ弱さという個性の部分を親はどのように捉えていけばよいのかということ』とても興味があります!
…というより、まさに私が知りたい内容です☆
優しいだけじゃダメ!って私が思うことも、そのように息子に接することも違うことだと思うので・・・。
どのように捉えればいいか、また記事としてアップされるのを心待ちにしています☆★☆
同感です!!
私は娘が産まれるまで中学校の教諭として2つの県で働いてきました。いじめは、どこにでもありました。しかし、その対応はほぼ担任に任されており、不登校の家庭訪問などは当然勤務時間外でした。
ノート点検や授業準備は当然、虐待の恐れのある生徒の見守り報告書、担当になれば学年会計として大きなお金の管理、若い教師は運動部担当で土日も部活、夜は保護者の電話クレーム対応、不祥事があればそのたびに職員会議…思い出すだけでうんざりします。
そんななかで学級経営をし、よりよいクラスにしようとしている先生はたくさんいます。でも、本当に限界があります。生徒に罪はないから、大変なことを言い訳には出来ませんが、それでも教師はブラック企業並の労働時間と環境で働いています。私もいじめについて常に関わってきましたが、一生懸命やればやるほど私生活は荒れました。
結果的に、このままでは子供が作れないと思い退職してしまいましたが、本当にいじめを解決する仕事をしようと思うと、家庭との両立はなかなか難しいのが現状だと感じました。なんとか横の連携がうまくいく、教師を勇気づけるシステムがあれば…と記事をよんで思いました。
honotan♪さん
法律的な面ももちろんだし、学校の体質的なところもそうだし、保護者にきちんと影響力を維持し続けられるようななんらかのバックアップというものも必要になってくるでしょう。
一朝一夕にはどれもできないことですが、行政民間ともに起こっているいじめに真剣に取り組もうという機運が少しずつ実を結んでくれることに期待したいと思います。
honotan♪さん
そんな幻想を日本の社会は学校に求めて、学校もそれを維持すべく方向性の違う努力を積み重ねていた、そんな気が僕はします。
先進国と呼ばれる諸外国をみても、学校に求めるものはもっと現実的でドライです。
子供のいわゆる「しつけ」やなんやかやまで学校が責任をもってしなければならないというような意識のほうが極めて珍しいといえるでしょう。
そのあたりの学校に求めるものが過大になっていることの遠因は、戦前戦中のあまりに統制的な学校のあり方にもあるかと思いますが、今の時代はそういう「学校観」を変えていく必要というものもあるのではないでしょうか。
「学校が万能である」ために、学校は自らの不都合なことは表にだせず学校外のだれの協力も求めずに解決しなくてはなりませんでした。
学校が勉強だけでなく、まるで警察や親の代わりのようなものまで求められてしまうので、体罰を振るう教師など必要悪も生み出しました。
「学校は万能ではない。また万能である必要もない」という人々の考え方が浸透しなければ、学校というものの将来はなかなかスムーズに流れないと思います。
不祥事は隠すのではなく、いま学校でどんな問題が起こっているのかということをどんどん開示して、学校をよくするためになにが必要なのかという議論が人々のあいだに起こることが今後重要になってくるでしょう。
そのかわり不祥事を責任問題にして責めていたら、けして解決はしません。
地域や日本の教育のためになにができるのかを一般の人が考える視点をもてたらいいのですが。
しかし、そういう人々の意識を高めることの元には、人々が受ける教育というものがあるわけで、このことは「鶏が先か卵が先か」ということになってしまうのが、たいへんもどかしいものです。
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この度のいじめ事件については私も深く心を痛めました。
おとうちゃんの、今回の記事を読み、違和感を覚えました。先生は勉強を教えるもので、スーパーマンである必要はなく、
いじめ問題に対して弱い先生がいる事も事実、
だとしても、学校内で起きているいじめを見つける目をもった大人は先生とゆう立場の人間であり、それを見てみぬふりする事は許される事なのでしょうか?根深いいじめ問題に教師1人が全責任を追う必要はないと私も思います。しかし、見つけ出しそれに目を向けていれば、今回のいじめ事件もこうはならなかったのではないでしょうか。
冒頭で擁護しているわけではないと書かれていますが、今回の教師の対応に擁護していると読み取れました。