いじめについて考える Vol.4 - 2012.08.31 Fri
「もしいじめられたとしても、それをはねのけるだけの力のある子にしよう」
前回出てきたこの考え方だけれども、家庭での子育ての方針としてそのように考えるのは必ずしも間違っていないとは思います。
ただ、行政や政治家、教育者など上に立つ人が教育論としての見解として述べるのは、前回書いた理由から適切でないと思います。
そしてまた、いじめる側に対するアプローチをなんら考慮せず、いじめられた側が黙ってさえいればいじめ問題は大きくなることもないというような、責任逃れな論理がそこには見え隠れしているような気がしてなりません。
前回書き忘れていたので補足でした。
ちなみに、それを家庭でどのようにアプローチしたら良いのかという以前あった質問に答えるとすると、いろいろあるかもしれないけど、ひとつには「自信」のある子ではないかと思う。
なんでもいいから「なにかこれは」と子供自身が、得意なもの誇れるものを持っていることによる自信を持てるようになっているといいとは思います。
ただ、良くない状況にならないようにどうこうして育てようというのは、ネガティブであまり建設的でないので、「いじめられないような子供にするために」という視点だけで「自信」のある子に育てようとするよりも、子供の得意なことを思う存分やらせてあげようなどポジティブな考えで行ったほうがいいのはもちろんです。
しかし残念なことに、いくらしっかりした子供になったところで、本当に悪質ないじめはその子の資質に関係なくおこなわれてしまいます。
さて、ここからが今日の本題です。
『いじめについて考える』のところで、「日本では伝統的に学校の先生に子供への人格教育を期待しているがそれは現代では難しいのではないか」ということを書きました。
その点についてもう少し考えてみました。
まず、教育の現場でそういう勉強を教えること以外の教育。道徳教育なども含んだ全人的な教育のことを、いまはなんと呼んでいるのかわからないので、とりあえずここでは「人格教育」と呼ぶことにします。
そういった人格教育が難しくなっているのではないかと書きましたが、現に学校でそういったことをねらいの内においていないわけではないし、実際学校という社会のなかで勉強以外のものを学ぶことも多々あると思います。
しかし、学校におけるそれというのは、基本的には学習を通した上で身につけるものの範囲に収まるものが中心なはずです。
どういうことかといいますと、スポーツを通してチームプレイを学んだり、合奏や合唱などで他者と共同してひとつのものを作り上げる達成感など、自然や生き物の観察を通して生命のあり方に触れたり、社会の授業や社会科見学などを通して社会の成り立ちや社会正義を学び、林間学校などを経験することで家庭からの自立や仲間との連帯などを育んだり、日々の掃除を通しての生活習慣などなど、直接教わる勉強とは別の人間的な経験というものを身につけていきます。
それらは学習がまずあって、それを行う過程や結果のなかから導き出されるものです。
基本的には学校における人格教育というものは、そういうものであると思われます。
しかし、その学習のいとぐちに着く前に問題があったとしたらどうでしょう。
例えば、学級崩壊などが近年大きな問題になってきています。
その学級崩壊を引き起こしてしまうきっかけとなったり、原因・中心になっている子供というのは、その「学習の緒につく前の問題」という現状にいるわけです。
そういった子供に対しては、学習を通しての人格教育以前に、学習でないところでの個別の対応というのが必要となってきます。
これは学習から身につけるはずの本来の学校教育における主たる人格教育に対して、従の人格教育と言えるでしょう。
たしかに、この部分においてもそれなりに教員の手腕というのは期待される範囲ではあります。
そして一般にはこの手腕を教師に大きく期待しているようです。
でも、僕が思うに上で、あくまで学習を通してが「主」であって、それ以前の個別への対応というのは本来の教員に課された職務内容としては「従」であるように、教員にすべてを押し付けていい部分ではないと考えられます。
小学校でも低学年においては、先生が体を使った遊びやスキンシップを意識的にたくさん行ったりして、子供たちの情緒的なところから安定をはかって、クラス運営につなげたりしているといった話も聞きます。
しかしながら、この個別的な問題が大きくなれば、学校におけるそれら個別的アプローチというものは早々に限界を迎えます。
時間的、人員配置、子供の人数的に、学校の範囲内でできることというのは、無制限に人格教育ができるほど余地はないはずです。
また、教員の資格を取るにあたって、学習を通して人格に寄与することを目指したり、意図をもってのカリキュラム作りなど学ぶことはあっても、学習以前のところにいる子供に対しての個別のアプローチなどを身につける課程はほとんどないか皆無でしょう。
このことはとりもなおさず、教員としての主たる人格教育が学習を通してのものをメインに想定していることを意味します。
そして、小学校低学年くらいの子供といえども、学習以前の態度に現れるようなその子の生育上の問題を改善するというのは生易しいことではないはずです。
これが高学年・中学生と年齢があがっていけばなおさらのことです。
ここで一度まとめましょう。
・学校における人格教育というものは、どのような子供の育ちの問題でも解決を期待できるような無制限な人格教育というものではないこと
・その達成というのは、あくまで学習を通してのものが中心であること
・学習以前の部分に関しては、実際的なアプローチが限られること
これまで、学習以前の問題については、家庭への伝達・相談という形を主として行っていたと思われます。
いわゆる、「呼び出し」というやつですね。
学習以前の問題とは、すなわちその多くが家庭における問題とも言えますので、それは当然のことであり、学校で出来ることに限りがある以上それはもっとも効果を期待してよいアプローチであったはずです。
しかし、これもいまでは難しくなっているのではないでしょうか。
ネグレクトの増加や、家庭での養育力の低下、子供への関心の低さ、親の多忙などなど、問題点や対応策などを学校側が親身に伝えたとしてすら、なかなか効果を上げられないということが増えてきている or 今後さらに多くなることが考えられるからです。
小学校一年生の息子のクラスでも、入学当初から放任気味で、夜になっても帰ろうとしない(自分の家に帰るように教わってすらいない。また帰ってくることも期待されていない)子供がすでに数人いるということでした。
学校にはそういった、学習以前の個別対応の難しさが深刻化しているという問題点があるはずです。
その中で「いじめ」問題への対応というのは、相当に難しいものだと思われます。
しばしば、「道徳教育をもっと強化すべきだ」というような意見を聞きます。
僕が思うにいじめなどの問題は道徳教育を強めたところで、それが減ったりするという類のことではないのではないかと感じます。
道徳教育で効果があげられるのは、ある一定程度の「育ち」を得ている子でなければ、そうそう響かないと思われます。
いじめなどをする子供の問題というのは、そういった後付けの知識・教育で解決できるよりも以前のところに大きな原因があるのであって、それにはもっと根本的なアプローチをしなければならないでしょう。
学校も当然ながらそのことについてはずいぶん以前からわかっています。
そこで、平成22年の教育指導要領から新たに加わった点があります。
長くなったので、次回に続きます。
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● COMMENT ●
No title
大人社会の縮図
いつも楽しみに読ませていただいています。
ワタシは某発展途上国で生活しています。
一般的に国民が子供好きで、子育てがしやすいと感じています。
この国では、日本のようないじめはないと聞きました。
わが子はまだ2歳なので、実体験でそれが真実がどうかは分かりませんが、『いじめは??』と夫(この国の人)の親戚などに尋ねてみても、あまりいじめというものが何なのかさえ分からないようです。
現地のママ友と市内を歩いていました。
すっごく太った(関取並みに・・・)お母さんに手を引かれる幼稚園児とすれ違いました。ワタシは素直な気持ちで、『あんな太ったお母さんで、幼稚園で他の子たちにいじめられないの??』と聞いてみると、そんな理由でいじめられることは絶対にないと断言しました。
日本だと、きっといじめの理由になる気がします。
それは親がその太った母親を見下したり、悪く言ったり思ったりするのを、子供が感じ取るからだと思うのです。
子育て中の主婦が見る時間帯のワイドショーなんか、意地悪&妬み&厭らしい好奇心なんかが満載で、『こういう番組を日常見てる母親に育てられたら、歪むわな・・・』ってつい感じます。
子供がいじめるのは、大人の社会の縮図なんじゃないかなあ、と思うのですか。おとーちゃんはどう思われますか??
ajisaiさん
僕もまさにそう思います。
次の記事でそのことについて書こうと思っていました。
しかし、日本の場合は単にカリキュラムがというだけでなくて、学校組織自体が問題解決や自己決定というところにではなく、適応・協調というところを基盤にして動いていること、教師たちがそういった学校教育の中での優等生であったということ、さまざまな問題があるのではないかと思います。
本記事のなかではあまりそこまでは書いていませんが、学校自体の力でいじめが解決できるようなレベルにはもはやない気がします。実際のところ、本当に深刻なケースは「呼び出して」などということはほとんど効果がありません。
学校側もそれはわかっていても、なすすべがないというところにいるのでしょう。
もはや社会自体が変わってしまっているので、これまでのような既製の古い学校の考え方では抜き差しならないところに来ています。
大きな方針転換のようなものが必要なのでしょうけれども、国にも行政にも、そして一般市民の意識の中にもそういうビジョンはないようです。
まあ、僕のブログなど無力なものですが、少しでもいまの状況に一石を投じるようなことを書いていければと考えています。
まきりんごさん
それは大いにあると思います。
いじめに限らず、子育ての問題を見ていくと社会そのものの問題とどうしても切り離せなくなります。
子供の身近な大人の意識が、子供のいじめの原因となっていることもたくさんあると思います。
地方に転勤したらものすごく排他的な地域で、学校にもいじめや差別が蔓延してたということを知人からきいたこともあります。
どうしていじめることで、自分の自尊心をみたしたり、精神のバランスを取ろうとするひとがこんなにもたくさんいるのでしょう。
もっと前向きに幸せを追求したほうがよっぽど建設的だろうと思うのだけど。
なんだかいまのバラエティなんだかニュースなんだかわからない、あれらの番組をみていると「情報が娯楽化」しているような気がします。
ニュースを聞いての一喜一憂も、大衆が娯楽としてしまう世の中は一歩間違えると、簡単に操作されてしまう状態になってしまうのではないかと感じます。
そのへんのあやうさもあって、教育に自分で考える力を持たせて欲しいというこれらの記事を書きました。
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我が子に幸福感と生きる力を持った子供に育って欲しい願っている母親です。
No.3の時にも迷ったと思うのですが、私はアジアにいじめや自殺が多く、
ヨーロッパに少ない理由を比較すると答えが見えてくるのではないかと思っていました。
私はそれは教育と文化にあると思いました。
日本では個々で問題解決をする能力や自分の意見を伝え話合う能力の向上を目的とした教育がほぼありません。
あと、テストなどで点数化して評価する文化のため、優劣を意識しやすい状況です。
これは世界の中で幸福度が低い原因にもなっていると思います。
我が子が通っている幼稚園では、園児は日々の活動内容からトラブルまで自分達が主体になって行い、先生はサポートに徹しています。
ナビゲーションという考え方と伺いました。ここは小学校も同じ仕組みをとってるそうです。
これを続けていると何かあるとみんなで話し合う事が当たり前になるので、先生が個別に呼び出して話を聞くとかそういう世界にそもそもなりません。
いじめも深刻化しようがないそうです。
大きな話なので難しいとは思いますが、私は日本の教育そのものがそういった生きる力のようなものをメインにしてもらえたらいじめも解決していくのではないかと思っています。