いじめについて考える Vol.6 - 2012.09.04 Tue
その前にまず、そもそもなぜ僕がいじめについて考えるのかそこのところを明らかにしていこうと思います。
僕がいじめについて考えるのは、大津のいじめ事件があったからではありません。
保育士をしていて直接・間接に関わってきた子供たちの中に、心に満たされないものを抱えたまま成長していく子供や、自分の中で処理できないほど大きな不満を抱えている子が年々増えてきているのを肌で感じてきたからです。
そういったものを抱えて育っている子の中には、どこかほかの部分で満たしてもらえたり、もともと持っている性格の良い部分がそういうものを吸収したり、コントロールできたりして健全に育っていける子もいることでしょう。
しかし、子供時代の不満は、まさに子供時代だからこそ容易には癒せない傷として、それを抱え続けて大きくなっていくしかないこともあります。
その子供たちは、その不満が自分だけでは処理しきれないものであるゆえに、ある子はその怒りをずっと溜め込んで大きくなってから親への強い反抗・反発という形で出すかもしれないし、ある子は不登校や「引きこもり」という形でそれを自分の中に深く圧殺していくしかないという子もいるでしょうし、またある子は他者へのいじめや暴力・犯罪などの社会的非行という形で出さずにはいられないという子もいるでしょう。
オーバーと思うかもしれませんが、そういう満たされないものを抱え続けている子供がとても多くなっています。
大きい子だけでなく、1、2歳のような乳児の中にも少なくありません。
そしてその不満を抱えたまま、問題行動をだしながらや、性格をよからぬ方向へねじ曲げながら大きくなっていく子をたくさん見ています。
さらには、そのまま小学校や思春期にもっと大きな問題として出さざるをえなくなってしまう子供も知っています。
そういった子供の満たされない気持ち、その多くは家庭のあり方や、親子・母子関係に起因します。
それは、いろんなものがありますから一口にはいえませんが、過去記事の中にも少しずつ書いていますし、これからも書いていくつもりです。
「いじめ」という観点で見れば、そもそもいじめがいいとか悪いとか以前に、人をいじめずにはいられない理由を持った子供が今たくさんいるということです。
だからこそ、今のまま行けば「いじめ」は増えるだろうしさらに深刻化もしていくと思われます。
僕がオーバーなのかもしれません。むしろ杞憂であってくれればいいとすら思います。
でも、子供に関わる仕事をしている人・保育・教育関係者のなかには、僕と同じような印象を持っている人は少なくないのではと思われます。
こういった問題の詳しい話・具体的な話は、また別の機会にしていきます。
では、ここから今日の本題になります。
いじめ問題のみならず、日本の教育のあり方はそろそろ大々的な見直しをしなければならない時期に来ていると思う。
なぜなら社会のあり方と、教育のあり方が、もはやそれが健全に機能していた時代とはどちらもが大きく変わってきてしまっているから。
頂いたコメントの中にもありましたが、僕らが中学生の頃は服装検査だ、頭髪検査だ、持ち物検査などさんざんされた記憶があります。
なんかの全校集会に集まりが遅かったからと、体育教師にお尻を全員がバットで叩かれたなんてことすらありました。
あの頃は、そういうものだと思っていたし、それがもちろん不満には感じたとしても、そういったこと自体が変とは特に考えていなかったように思う。そしてそれは大人たちもそうだったような印象がある。
しかし、よくよく考えれば、それらは一体何を目指していたのだろう?
中学校を卒業しだんだんと社会にでていく上で、社会的な身だしなみや社会規範を守ることや、時間を守ることを生徒に身につけさせたかった、そういう趣旨だったのだろうか?
もっともらしい理由を模索するとそういうことが浮かぶけれども、
本当にそうだったのだろうか?
もしそうだとしても、それは教育として取りうる最良(ベストと言わずベターでもいいけど)のやり方だったのだろうか?
日本の戦後教育は、それまでの軍国主義的な教育を否定するところから作られたというけれども、それにしてはずいぶん管理することや理不尽さに従えというようなことが随所にちりばめられていたと思う。
しかしまあ、その当時は世の大人たちもそういった教育のあり方を是認していたのだから、それなりに意義のあることだったのかもしれない。(好意的に解釈すればね・・)
だが、もはや自分の子供たちの世代にそれを教育として与えて欲しいとは僕は思わない。
また、そういった教育が現代の社会において実効性のある教育となるとも思えない。
もちろん、いまの学校では当時のような管理の押し付けや、理不尽な体罰など行ってはいないでしょう。
でも、方向性においてはそこから大きく変わったとも思えません。
自主性や自由な個性の発揮そしてそこから主体的に社会規範や人との関わりを学んだりするよりも、やはり管理し右へならえで従うことを子供に身につけさせるというところからは脱却できていないようにしか感じられません。
先日、防災の日の引取り訓練で息子の小学校に行ってきました。
その際、副校長がマイクで子供たちへの話をしたのだけど、そのマイクでの最初の言葉が「おしゃべりをやめてください」でした。
そしてしばらく「まだ聞こえます」「まだまだ・・」というのをしていました。
先生本人もそういった話し方に違和感を感じないのだろうし、そこにいた大勢の保護者も特におかしく感じないのかもしれないけれども、僕には「ああ、まだそういう子供を従わせるという方向で子供と関わっているのだな」と感じられてしかたがありませんでした。
学校の問題の根深いところは、教師も親の世代もそれを違和感を覚えずそのまま受け止めてしまうことにあると思う。
なぜなら、どちらもそのやり方で育ってきてしまっているから。
それゆえ、自己批判や反省、なにかに齟齬がでていても方針転換ができないというネックがあるのではないか。
いまのこの協調・適応ということを求める教育のあり方は、戦後日本が復興していくにあたって、働き手として工場や会社での生産的な人間を育てることを主眼において整備されてきたと言われています。
もはや、そういう方向性で教育の意義を定めていかなくてもいい時代になったのではないかと僕個人は感じます。
社会は多様化し、文化も変化し「集団ありき」の考え方は、その弊害の部分も大きくなってきているのではないか。
その一例はVol.2で見たような、他者への蔑視すら生んでいるのではないか。
この部分。
「集団・協調・適応・管理」というような、これまで重視してきた教育というものを方針転換すべきときが来ているのではないかと強く感じます。
そして新しい方向性は、「多様な個性の発現」だと思う。
具体的には、感じる力をやしない、ものを考え、自分の意見を持ち、他者にそれを伝え、また他者の意見を聞き、他者と自己の意見を擦り合わせる力を持ち、そこから新しいものを作り出したり、問題解決をする力を持てるようにする教育です。
これについてもう少し続くつもりですが、長くなったので今日はここまで。
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● COMMENT ●
No title
No title
まさにそれです、集団、協調、適応、管理
ようは、先生があつかいやすい子供たちにしようとしてるんだろうなと。ぼんやり感じていたのですが、私が感じていたことはあながちズレてもいなかったようですね。
自由な幼稚園ではあるのですが、やはり担任の先生からすると、うちの子ははみ出しっこなのかな。マイペース過ぎるから。
これら4つって、大切な要素だし、日本人の強み(他の国の人と比べると)かなと思うので、必要なんだろうなと思いますけれど。
No title
五歳の女の子と、二歳の男の子の母です。
いじめと、教育。
私自身が、とにかく協調性を重視する人間です。
でも、ずっと生きにくさを感じていました。
自分の意見そのままを言ったことが、ないです。
はづかしながら(-_-;)
子供には、そうなってほしくないなぁと。
子供を育てていて、こちらのブログでも、たくさん
学ばせて頂いてくようになって、言葉では、
うまくあらわせない、違和感は、ありましたが、
何がおかしいのか、わからなかったのですが、
こうゆうことだったのかなと、はっとさせられました。
私は、中学の時、いじめをしていると先生によびだされました。
私としては、いつも一人でまんがを書いていて
みんなと遊ばないので、仲間にいれたくて、
誘っていました。
きらいではなく、むしろ仲良くなりたくて。
なんで、それが、いじめなのか、当時は、
わからなかったです。
いじめては、いけない。
仲良くしなければ、いけない。
仲間にいれてあげなさい。
仲間になろうとしてるのに、何がいじめなのかなぁと…
その子にとっては、嫌なことだったんですよね。
個人があって、集団があるということなのですね。
まちがってたら、ごめんなさい。<(_ _*)>
今、思うと、その子にひどいことをしていたなと、
反省です。
集団ありきが、自分にしみついてしまっているので、
それを変換していこうと、思いました。
子供が、来年、小学生です。
親の私が、しっかりとしなくては。
長々と、失礼いたしました。
また、遊びにきます。
いつも勉強になります。
ありがとうございました。
涙がでました。
入学してからも、しばらくは休み時間私語禁止。給食時間はみんな黒板をむいて(授業時間と同じ並びで)やはり私語禁止らしいです。子供たちはいったいどうやって友達をつくるのでしょう・・・
公立小学校、しかもモデル校の実話です。マイペースで個性的な息子ですが、先輩ママに「せっかくの個性なのに学校に潰されちゃうね」と言われました。
だから、「多様な個性の発現」と意見してくれたおとーちゃんの記事に涙があふれました。おとーちゃんの意見に強く強く賛同します。
ツヨポン2さん
ツヨポン2さんのお子さんのように、幼少期からそういう方向性で保育・教育していく施設もたくさんあります。
それで幸せになれるならばなんの問題もないのだけど、それをやってきた日本ですら、会社に適応さえすればもう終身雇用や温情主義でうまくやっていけた状況ではなくなっています。
そうなってしまうのなら、なんのために子供時代に集団に適応する訓練を嫌と言うほどされるのかわかりません。
いま日本は迷走中だと思います。
かえるくん。さん
協調性が必要な場面ではそれを必要な分だけ発揮できるのならば、あとはその人らしくいることで何の問題もない。
納豆が好きな人がいれば嫌いな人もいる、梅干が好きな人がいれば嫌いな人もいる。
「ああ、あの人は嫌いなんだな」「あの人は好きなんだな」
そう、そのままなんの偏見もなく受け入れることができるという、それだけのことさえあればいろいろなところでスムーズにいくことが増えるような気がします。
キウイさん
それがしかもモデル校とは・・・。
戦前かどこかの全体主義国家の学校の話を聞いているようですね。
それを見たら愕然とするのは当然でしょう。
そういうものが許容されてしまう土地柄なのでしょうか?
休み時間私語禁止なんてことをすることが、模範的な教育だと考えている人間が教育者の中にいること自体が異様なことだと僕は感じてしまいます。
本当に日本の教育どうにかしないとまずいですね。
No title
お忙しいなか、返信ありがとうございました。
わかりやすく、すっきりしました。
このあとの記事も興味深く、読ませて頂いています。
自分にとっても、一度じっくり考えていきたいの内容なので、
この機会に他のかたのコメントも読ませて頂きながら、
成長していけたらなと思います。
こういった場所が、あることに、感謝です(^人^)
また、コメントします。
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・・・そお、考えると・・・いじめる「理由」をもたない子供(世の中)が増えれば安心できるかな・・・「いじめ」とゆうコトバもなくなればいいのに。