いじめについて考える Vol.7 - 2012.09.04 Tue
次の話を聞いたことのある人も多いのではないかと思います。
外国人が日本人に対して、「日本人は外国人のことを『外人』と呼ぶが、それは不快だからやめてもらいたい」
それに対して、日本人側は「外人と呼ぶのは伝統的なもので、なんの悪意もない。そのように人の国の言葉に難癖をつけてくることこそ納得できない」
言葉やニュアンスは違うかもしれませんが、このようなことを聞いたことがあるかと思います。
ここにはある種の対立があるのですが、それは個々の文化の違いによるものなので、お互いが自分の主張をしているだけでは平行線です。
ここにたった一言「どうして?」を入れるだけで、その平行線を多少なりとも解消できるかもしれません。
「どうして、日本人は外国人のことを外人と呼ぶの?」
「どうして、外人と呼ばれることが不快なの?」
日本人がなぜ外国人を『外人』と呼ぶかといえば、海に周囲を囲まれ歴史的・伝統的に日本人かそれ以外かで区別するくらいの必要しかなかったこと。「外人さん」と呼ぶことにはなんの悪意もなく、むしろ尊敬や親しみを込めてそう呼んでいた経緯があるなど、「どうして?」と問われれば答えることができたでしょう。
また、外国人になぜ嫌なのか聞けば、
foreignerにしてもoutsiderにしても、異邦人という意味のalien(エイリアンvsプレデターのあのエイリアンと同じね)にしても、彼らの文化の中では蔑視的、排他的な悪い響きを持っていること、外国人に対するそういった見方から差別や弾圧、紛争、敵対などが起こってきた歴史的経緯があること。それゆえ『外人』という呼ばれ方に強い不快感を感じてしまうのだ、という返答が聞かれるでしょう。
そこから両者の意を互いに了見して、「外人という言葉に悪意はないのだけれども、そのように感じてしまうのだったら、こちらもそう呼ばないように気をつけましょう」というような理解に到達することができるでしょう。
このように相手の立場を考慮したり、理解せずに自己の主張だけを通していたら、簡単に対立を生んでしまうのだけど、たった一言「どうして?」という問をもつ習慣さえあれば、それをすりあわせて上手くやっていくことは難しいことではありません。
ここでは外国人と日本人という別々の文化の行き違いなのだけど、文化の違い・考え方の違いなど同じ日本人同士でもたくさんあります。
それを自己の立場の主張だけをし続けていたら、いたるところ他人への怒りや憎しみばかりとなってしまいます。
そんなことは言うまでもないことなのですが、ある程度の教育と人間性や社会性というものが獲得されていれば、そういうことは回避していけるものです。
しかし、今の時代なぜか大人であってもそれができなく、できにくくなりつつあります。
ずいぶん前の過去記事で「うざい、むかつく」で価値判断をする人が、子供だけでなく大人にも多くなっているということを書いたことがありましたが、この問題は社会を殺伐なものとしていく深刻なものを孕んでいるような気がします。
いまの世の中は、社会道徳や規範などのひとつの統一的な価値観を強制していくこと、これまでの学校教育でしているような価値観への適応・刷り込みというようなことで健全に回っていくような段階ではなくなってしまっていると僕は思います。
異なる価値観、異なる人があって当然。
そこから、人々はどのように対処していくことでうまくやっていけるのか。
その力を獲得することが必要な段階にあると思う。
少なくともこれまでのような学校教育では、もう世の中に対応しきれないという兆候はたくさん現れていると言えます。
いま学校は、理不尽・自分勝手な要求を声高に押し付けてくる親、いわゆるモンスターペアレンツに大変悩まされているし、恐れてもいます。
僕もそういうケースをたくさん知っていますから、それはよくわかります。
でも、ここで誰も指摘していないこと、多くの人が気づいていないことがあります。
「教育が人を作る」 「教育が人を作ってきた」と言えるならば、そのモンスターペアレンツ達も日本の教育を受けてきた人達なのです。
もちろん全てではないにしても、これまでの教育がその人たちを作り出してしまった、もしくはそうなってしまうことを防げなかった一端の責任はあるはずです。
彼らがおかしいのだ、理不尽なのだ、非常識なのだと非難することはできます。
でも、今の教育の中から、どうして彼らのような人を作り出してしまったのか、どうしたら防げたのかそういった自省の言葉は聞こえてきません。
もう、いまの教育のやり方の中に、人間を形成するだけの力はさして残ってはいないのではないだろうか。
いいかげん方針転換しなければ、学校自身も自分たちのしてきたことのつけを払い続けていくことになるのではないでしょうか。
モンスターペアレンツというのが、いま目に見える形で直面しているその問題のひとつだと思います。
そしてこのモンスターペアレンツの問題は、人の意見を聞いたり、自分の意見を適切に主張し、他者との見解の合意を見出す能力をこれからの子供に身につけさせることが必要であるという、今回のこの記事の趣旨を端的に表しているとも思う。
なぜなら、そういった能力をまったく欠いているからこそ「モンスターペアレンツ」と呼ばれているわけです。
話が通じる人であるならば、強いクレームを持ってきたとしても、それなりに解決や合意点は見いだせます。
しかし、それが「モンスターペアレンツ」ではできません。
そしてしばしば、悪意のある「いじめ」をしている子供の親がモンスターペアレンツであることも、このことと無関係ではないと思う。
まずは感じる力をやしない、教え込まれた・押し付けられた価値観をなぞるのではなくものを自分で考え、そこから自分の意見を持ち、他者にそれを伝え、また他者の意見を聞き、他者と自己の意見を擦り合わせる力を持ち、そこから新しいものを作り出したり、問題解決をする力。
それを個々の子供たちが持つことによって、いじめそのものを子供たちの中でなくしていく、もしくは解決していくことができるのではないか。
また、徒党を組むような、集団の中に自己を帰属させて、居場所を見出さなければならないような、借り物のアイデンティティを求めなくてもすむような価値観を、子供たち自身に持たせることが可能になっていくのではないかと考えます。
いま世間で主に問題になっているのは、いじめに対して学校がどのように誠実な対応をするのか、適切に対処していくことができるのか、そもそも学校だけに望んでいいものなのか、そういうところにあるようです。
それはそれで大きな大事な問題ではあるけれども、ここで僕が言いたいのは、それ以前の「教育」そのものにいじめを起こさない、また子供達で解決するすべをきちんと持ってもらいたいというところにあります。
確かにいまの教育指導要領の中にも、考える力や話し合うことを重視していくというような部分は見いだせます。
しかし、これまでの学校のあり方を見直すことから始めなければ、それはうわべだけのものに過ぎないのではないかと思います。
模範的な価値観に子供を当てはめることを当然としているいまの学校の中でそれをしたところで、ある一定の模範解答を論述できる子供にするのが関の山でしょう。
一枚の絵をみて、日本と外国の子供に感想を聞くという実験がありました。
外国の子供がそこから感じたことをいろいろと10分以上にわたって話すことができたのに対して、日本の子供はそれについての知っている知識と当たり障りのない感想を1分も話すのがやっとでした。
なにが違うのでしょう。
当然ながら受けている教育が根本的に違うのです。
外国では小学生から自分のオリジナルな意見を発表するということを大変重視した教育をしています。
それに対して日本では「正解」を出すことを重視する教育がなされています。
学校の勉強が社会では役に立たない、と言われてしまう理由の一端もここにあるのではないでしょうか。
多くのものごとには明確な「正解」などはなかなかないのですから。
いじめをなくすためだけというわけではありませんが、そういうわけで考えたり意見を表明したりすること、同時に学校教育のあり方そのものを見直すことが必要だと思うのです。
そして、それができる絶好の機会が日本にも訪れたのですが、無残にも失敗に終わりました。
そう、「ゆとり教育」です。
僕はそういうこともあってゆとり教育は見るべき点も多々あると思うのですが、この前日本で行われたあれは本当にひどかった。
やる前からでも素人にも失敗することが目に見えていました。
そもそも「ゆとり」というならば、なぜひとクラスの学級定員を下げることからしなかったのか、数十年も前からそれはたくさん訴えられてきたのに、そう日本中の学校の先生たちは思ったことでしょう。
ゆとり教育についてもいろいろ書く事はありますが、それはまた別の機会に。
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● COMMENT ●
こんにちは
はじめまして。
いつもブログを読ませて頂いて、子育ての勉強をさせてもらっています。
相談なのですが、今7ヶ月の息子がいます。3ヶ月の頃から指しゃぶりをし始め赤ちゃんだから成長の一つと思い見ていたのですが、今では左手親指を起きてる時もですが、眠い時眠りに入る時には必ず吸っていないと寝ません。
赤ちゃんの指しゃぶりよりかなり吸っていると思うので、げんいんやどうにか無くなる方法や対応が無いか教えて頂きたくてコメントしました。
良く笑う子で大好きだよーとスキンシップをしたり、過干渉やダメダメなどは気をつけたり、普段の声かけなども気をつけているのですが、どこか満たされない所があるのでしょうか?
心配でなりません。もしアドバイスなどあればよろしくお願いします。
ふと思い出した事。
昨年の出来事です。
小学1年生だった娘が授業で朝顔の観察記録を描いていました。
娘の朝顔の絵だけ色とりどり、自由な発想で色を塗っていました。
授業内容や先生の趣旨からすれば「見たとおりの形、色を描きましょう」だったのですが・・・。(^^;)
先生が毎回「見た物と同じ色を塗ってね」と言った事と思われます。
しかし、娘はクレヨンの全ての色を使って塗っているのです。
母親から見ると、朝顔の成長が嬉しくて嬉しくて、色々な色を使って描いたのが一目で分かりました。
個人懇談で色覚異常の検査をして来てくれるよう言われました。
もちろん、検査をし異常が無い事を先生に報告しましたが。
何とはなく、些細な子供の感性をなぜそうなったのか理由を聞かず、頭ごなしに否定し、服従させる。
この事はほんの些細な出来事でしたが、子供から見るとそれが積もり積もって不信感や不満が心を満たして行くのかなと思いました。
親の身勝手な思いなのかもしれませんが、
幼稚園から小学校に上がりましたとは言え、押し付けるような事はせず、心の機微に心傾けられるような授業、学校教育が出来てくれたらと思った出来事でした。
(人数も多いし、そこまで気が回らないのかもしれませんが…。)
心に引っかかっていた事なのでちょっと吐き出させてもらいました。
失礼しました。
大津のいじめが取り上げられてから、全国でいじめ問題が次々に発覚していますね。それと同時に、いじめはもはや犯罪であるとか、加害者を不必要に保護するのはおかしいとか、少年法をもっと厳しくするべきだなどの意見もよく見かけます。
確かにいじめを行った人たちに対し、何らかの罰を与えるのはおかしくないと思います。けれどそれだけで、いじめが少なくなるとは思えません。
おとーちゃんさんが仰るように、いじめをするような子は、満たされていない子が多いのではないかと私も思います。だとしたら、罰を厳しくするだけでは、その子たちの本当の更正は望めないはずです。罰されるのが怖いから、悪いことはしないようにしようと思うよりも(これはこれでとてもネガティブな考えだとは思いますが)、罰されないように隠れて悪いことをしようと考える子たちが増えるだけではないでしょうか。現に大津の加害者の少年たちは、現在なお「遊びのつもりだった」と供述していますし、転校先ですでに暴力沙汰を起こしている子がいるとも聞きます。
1日も早く、加害者少年が自らやったことを認め、罪に対する罰を受けて欲しいです。それと同時に、なぜいじめを行うようになってしまったか、もう二度と同じことが繰り返さないように、根本的な心のケアを施して欲しいです。
いじめを起こりにくくする教育制度や、子どもに対するよりよい福祉が実施されるようになればいいですね。
そもそも、親や周りの大人からたくさんたくさん可愛がられる子どもが増えることを願います。
他者への想像力
>まずは感じる力をやしない、教え込まれた・押し付けられた価値観をなぞるのではなくものを自分で考え、そこから自分の意見を持ち、他者にそれを伝え、また他者の意見を聞き、他者と自己の意見を擦り合わせる力を持ち、そこから新しいものを作り出したり、問題解決をする力。
これは本当に大人になって痛感します。
高校を卒業するまで(いや、大学を卒業するまでかな・・・)、自分で物事を考え、そこから自分の意見を持つ、ということを本当の意味で実感していなかったなあと思います。
社会に出てからは明確な「正解」などないというのはほんとですよね。
20代の頃は仕事でよく悩んだものです・・・
そして自分の想像力や問題解決能力のなさに呆れたものです。
私自身、けっこう過保護・過干渉で育てられたと思います。
何でもダメダメ言われていた記憶の方が多いですし。
もちろん両親には今でこそ感謝していますが、
自分の子どもには他者への想像力豊かな、そして自分で物事を解決できる力を持つ人に育ってほしいと思います。
そのために、おとーちゃんさんのブログを参考にしながら日々子育てを楽しんでいます。
2歳半で成長期真っ盛り、うまくいかないことも多いですが・・・私自身、心に余裕を持って少しずつ息子との関わりがうまくいってきている気がします。
おとーちゃんさんのおかげです!
これからもブログ応援しています。
No title
・・・オレは、いじめをするヤツは許さない。殴ってでもやめさせる。
オンナをなぐるオトコは最低だetc・・・。
立派なコト言ってたけど
じっさいは、オンナも殴るし胸ぐらつかむし罵声もあびせるし・・・包丁で新品ソファーぶっさすし。
かと思えば怒鳴り散らして手首切って警察ざたになったクリスマス。
血まみれの割れたガラスだらけの家を掃除するのは
いつも「オレを怒らすから」・・・ワタシの役目。
花火大会でトイレに行ったワタシが間違ってると怒り、置き去りにしたり
・・・忘れたい。
息子は三歳前だったから覚えてないんだろうな~
オレを、そうさせるお前が悪いと。お前は狂ってると・・・。
離婚を決意するまで、自分が悪いから・・・って信じきってた。麻痺してました。
今現在も・・・たまに来るメールでは優しいコトバの後は・・・自分と子供は被害者。ワタシは破壊者呼ばわりされます。
離婚で「環境」を変えたコトで、少なくとも「いじめる人も、いじめられる人」
もいなくなりました。フツウに生きてられる日常が幸せです。
支離滅裂すみません。
はぁー・・・
そして今後の日本てどうなっちゃうんだろう・・怖いです。
女の子二人の母親として毎日のニュースが恐ろしくて。
悪質ないじめにしても悪質な犯罪にしても増えているんでしょうか。
おとーちゃんさんの仰るように日本の教育をいますぐ変えてほしい。
でもすぐには変わらないだろうし、そもそもこういう視点が国の中枢に無さそう。
自分の子育てにおいて子供たちにこのブログにあるようなアプローチを心がけていますが、長女の通っている園ではやはり協調性第一、禁止事項が多い、保育士さんたちはダメダメと悪気なく連発していて、長女はよく「先生がダメっていっとったからダメねんよ!」、「みこ、おりこう?おりこう?」と言います。
一人の母親として私ができることってなんでしょうね?
私が通っていた高校は校則や制服が無く、時間割も自分で組む大学のような高校でした。その高校ではいじめのようなものは無かった、と思います。一限ごと違うメンバーで、いじめが起こりずらい環境だったと思います。
中学校って毎日同じメンバーが一日中一緒でだいたい成績とか性格も把握できちゃってて校則で縛られてみんな思春期で、容易にいじめが起こる環境だなっておもいます。何か変えられないのかな・・
No title
学校での教育も大事ですけど、家庭で出来ることもありますからね。
僕は、人間形成には、家庭での接し方が大事だと思いますね。
親に思いやりの心があれば、子どもの立場に立って考えれるから、自分の考えを押し付けずに、子どもの考えに耳を傾けることが出来るでしょう。
こういう雰囲気があれば、子どもも自信を持って自分の意見を言えると思うのです。
また、自分の考えを受け入れてもらえれば、相手の考えを受け入れる余裕も生まれてくると思うのです。
だから、誰がどうこう言う前に、まずは自分が思いやりの心を持つことでしょうね。
ロンロンさん
自分の意見をもつ、主張できるようにするというと、中には自己主張ということだけになってしまうこともあるかと思います。
だから、意見を言える教育というのは、ものを感じるとことや、客観的に人の意見を理解することなどとワンセットで見通しをもってなされる必要があるでしょう。
そういう点も教える立場に立つ人がきちんと理解していないとならないと感じます。
幼少期は、自我が芽生え自立していくとはいえ、やはりそれでも親と自我を共有している部分はたくさんあって、だからこそ学校以前の家庭でのあり方が大事であり、一方でオリジナルな自己を獲得する過程である学校と車の両輪のように大切なのでしょうね。
マメくりちゃんさん
でも、普通の指しゃぶりよりもかなり強いということですと、中には特に指しゃぶりがクセになる子もいます。
それでも大体は月齢・年齢の増加とともに、他の興味関心などがでてくるのでだんだんとですが収まっていきます。
ケースにもよるのですが、深刻な指しゃぶりとして捉えるのは3歳を超えても著しい場合などですので、まだまだ気にする時期ではないかもしれません。
発達上の特徴や個性の強さなどでそういう風になることもありますが、単に気になる点が指しゃぶりだけというのであれば、まだしばらくは様子見でいいような気もしますが、あまりにも頻度や状況が激しいというのであれば、健康診断や発達相談などの際に様子をみてもらったり、小児専門医で相談してみてもいいでしょう。
「なんでもない」とか「気にしすぎですよ」と言われるかもしれませんが、それで安心できるならば無駄ではありませんからね。
その前に、一応確認できるところとしては、授乳量や離乳食をしているのならばその量なども、いまのお子さんの必要な量にあっているのか?というところがあります。
子供が成長しているのに、前の段階の量のままで「お腹が減っている」せいで指しゃぶりという行為に駆り立てているのかも、という可能性があるからです。
けっこう、この点から赤ちゃんの様子に影響していろんな問題がでているというケースが少なくないので、一応確認してみてください。
あとは、環境不安から安心安定を求めてしているという可能性があります。
例えば、戸外の騒音が聞こえたり、明るすぎたり、テレビなどをつけっぱなしにしているなどのために、赤ちゃんが安心できずに、指しゃぶりで安定を求めるといったケースです。
これは物理的な環境だけでなく、赤ちゃんが起きてみたらお母さんがいなかったりする経験をしばしばしたために、不安感がついてまわるようになってしまったという、人的環境ということもあります。
そういった人的環境という意味では、夫婦喧嘩が頻繁だったとかいうことも含まれます。
あくまで可能性ですが、そういった不安要素がないか確認してもしあれば、そこを改善してみるのもひとつの手でしょう。
ちょっと個別の状況に関することなので、僕からわかるのはこれくらいです。
もしなにか原因があるにしても、直接的にどうこうできるということはまだこの年齢ではないと思いますので、どちらにしてもあまり心配しすぎずに接してあげることも大切かと思います。
また、過去記事ではおしゃぶりは好ましくないと書いていますが、こういうケースで指が傷ついてしまうなどの場合はまた別ですので、必要と思われるならばおしゃぶりなどつかってもいいかもしれません。
あと、歯がためなどは用意してありますか?
この時期は歯茎がむず痒くなる時期でもあるので、なにかを噛んだりすることをしたがります。歯がためを与えることで、ゆびしゃぶりからそちらにちょっとずつ移行するかもしれません。
歯固めも、木やラバー、プラスチックなど様々な素材のものがでてて、子供によって好みがありますので、何種類か用意してみて好むものを見つけてあげるのもいいです。
上のところで書き忘れましたが、お母さんの精神状態というものも赤ちゃんには大きく左右することがあるものです。
マメくりちゃんさん自身は、心身ともに安定していますか?
もし、なにかあればそういうところから、子供が不安になってでているということも考えられます。
なにかあるならば、そこから治していくのも必要かもしれません。
コットン100%さん
特定の色だけならまだしも、全色使ってしまうくらいならば色覚異常などではないことはちょっと考えればわかりそうなものだけど・・。
でも、学校の先生にそういう人が多いことはよくわかります。
一言でいってしまえば杓子定規な人が多いですからね。
その杓子定規さゆえに、ご自分の子育てがうまくいかない人も多いです。
悪気があってやっているのではないのかもしれないけれど、日本の教育の体質ということなのでしょうね。
でもときとして、体質は悪気よりも根深くて改善していくことはある意味難しいのですよね。
とかちさん
ほんとにね、そこに尽きるんですよ。
どんなに子育てが下手でも、親が忙しくても、親が多少偏屈だとしても、可愛がられて育った子供はそれなりにきちんと育つのですよ。
子供の問題の非常に多くが、まさにその「可愛がられてきたかどうか」と関わっていると思います。
丁寧なお返事ありがとうございます!
書き忘れていましたが、一度四ヶ月検診で指しゃぶりについて尋ねた事あるのですが、心配いらないと言われて様子を見ていました。
お返事の中で、授乳量と目覚めた時の不安感という二点が気になりました。
実はここ最近母乳があまり出なくなり一日の半分以上ミルクになっている為、決まった量以上与えるのは良くないと思い飲み終わりにまだ欲しそうでも「ごちそうさましようね。」とそれ以上は与えていません。
一日のミルクは230cc〜240ccを3回〜4回と母乳を2回くらいです。
次のミルクや母乳までに泣いて欲しがる事がないので足りているのかなと思っているのですが、やはり足りていないのかな?
このことで起きるいろいろ問題はどんな事があるのですか?
離乳食はアレルギーの心配などからまだ始めておらず、来月辺りから始めてみようかなと思っています。
あと、お昼寝の時に私が家事をしようと思い、息子は静かな部屋で寝かせている為チョコチョコと様子を見に行くのですが、息子が目が覚めた時は側に居ない事がほとんどです。
以前は泣いて起きてましたが、最近は泣かずに遊んで居るので気付くのが遅くなってしまったり…。
明日からなるべくお昼寝中も側に居て私もゆっくり休むようにしてみようかなと思います。
おしゃぶりは試した事あるのですが、あまり好きでないようなので使っていません。
歯固めは何個か用意して渡すと、ハムハムと喜んで囓っているのでなるべく忘れず渡してあげようと思います。
ちょっと気になると心配し過ぎていろいろ考え悩んでしまう性格なので、おとうちゃんのアドバイス通り今の出来る事をしてみてあまり気にせずのんびり子育て楽しみたいと思います。
ぺっぺさん
とりたててそういうのが顕著な子達はは、家庭で大切にされているのはもちろん、その子自身が尊重されている子でした。
多くの子供たちにそういう力をつけて欲しいなぁといつも思います。
きんぎょさん
人生のなかでどうにもならないことは時に切り離すしかないこともあります。
きんぎょさんが破壊者などでないことは、お子さんが立派に育った時にそのお子さんの存在がきっと証明してくれるはずです。
お子さん共々幸せになってください。
双子の実さん
今思えばそういうところで幸運だったと思います。
勉強はそこそこだけど、みんな部活とか自分たちでしたいことを見つけて、それを一生懸命していました。いじめなんかかけらもなかったし。
勉強しろしろっていう学校ではなかったけど、部活とか自分のやりたいことを思いっきりやってた人間ほど大学受験とかちゃんとしてたし、管理しなくても全然問題なんかなかったです。
今回の記事はその時のことを思って書いたわけではないけど、あとから考えてみるとまさに高校時代はそういう場所だったと気がつきました。
ゴリキンさん
ただ、どちらが基礎になるかといえばやはり親子・家庭というものが先に来るのはもちろんだと思います。
no title
この記事を読んでて思い出したことなのですが、保育園の息子のクラスメイトで、三歳くらいのときは必死で親の歓心を買おうと健気に何かをしたところ親に逆に叱り飛ばされてしゅんとしてた子が、五歳になるころにはもう諦めたようにふてぶてしくなって…あれまあとか思ってたら、うちの息子がその子にやられました。
元々仲良しだったので、子供としては、僕が相手の子に優しくしてたら、相手の子も昔のように僕に優しくなってくれるはずだと考えて我慢を重ねていたようです。
園の先生に伝えたところ、その後、現場を押さえて二度ほど注意してもらえたようで、年齢が低いこともあり、数日間で終息しました…。
園に適切にご対処いただいたのでありがたかったなあと思っています。
その相手の子は、息子が大好きなものの、他人から好ましい反応を引き出す方法もわからず、からかいがエスカレートして、いたぶるという方法で相手から大きな反応を返してもらうことに快感を見いだす感じになりかけてたようなので、そういう方法で他人にコンタクトを取ることは悪いことだとある程度は理解してもらえたようです。
幼児期に、周囲の大人が(親や先生等)放任せず、適切な指導をするということの大事さを切実に感じました。
人間が人間である以上、いじめというのはなくならないのかもしれませんが、小さい頃の大人たちの適切な関わりがそれを少なくしていけるのではないかなという思いを、この一連の記事(とリンク先)を読んで改めて深くしました。
より多くの子供が、親に満足な受容をしてもらえるように、それが一番のスタートラインなのだなと肝に命じて私も頑張りたいなと思います。
いつも示唆に富んだブログをありがとうございます。
マメくりちゃんさん
>このことで起きるいろいろ問題はどんな事があるのですか?
本当にいろいろあります。
子供の様子が荒れていたり、情緒が安定しないのでおかしいと思ったら、家であげているミルクの量が圧倒的にたりなかったり。
夜泣き・寝ぐずりが激しいと相談を受けたら、ミルクが少なかっただけで、増やしたらなんでもなかったとか。
指しゃぶりが激しいのでと言われたら、やはりミルクだったということも何回かありました。
成長が進むにつれてミルクを多くするということを知らなかったり、育児書の量を気にしすぎるあまりその子の適量とずれてしまっていたり、「上げすぎてはいけない」「肥満児が多くなっている」という情報が頭にこびりついてしまってそれを気にしすぎたり、などなど0歳児でミルクの量からの影響は少なくありません。
多くの場合、乳児期の指しゃぶりは成長が軽減に向かわせます。
ですから、そこを気にしすぎるよりもその分、スキンシップや歌をうたってあげたりなどの楽しい関わりをたくさんしてあげて、日々安心感をもってよりより成長の経験を積ませてあげることが大きな助けになるでしょう。
幼児期になってからも激しい頻度で続くというのであれば、小児専門医のなかには指しゃぶりに特に詳しいお医者さんもいます。
いざというときはそういった専門家もおりますので、いまは安心して子供の成長を見守ってあげるといいですよ。
ミルクの量はかなり気にしてしまっていたので様子を見て増やしたりしてみたいと思います。
最近はだいぶ遊びが増えてきて、そちらに気がいくと吸っていなかったり、眠る時もトントンしたげると吸わずにスッと眠ってくれたりすることもあるので、あまり神経質にならずに成長を見守っていきたいと思います。
おとーちゃんに相談して気持ちが楽になりました。
ありがとうございます。
たくさんスキンシップもしてたくさん遊んで楽しくて、安心出来る毎日をおくらせてあげたいと思います。
これからもブログ楽しみにしています。
ぽりさん
小さいうちに子供が求めているのは、そんな大したことではないのだけど、それは他の物とは交換不可能なものだけに、それを満たされないまま大きくなっていくと、いろいろな行動に駆り立てられてしまいます。
その子が悪いわけではないのだけど、ある程度の年齢になると周りにはそう見てはもらえません。
本当に乳幼児期の関わりは、その人の一生を左右するくらい大きなものになりますね。
No title
久しぶりに過去記事を読み返していた所、今までは気に留めていなかったこの記事の「正解を求める教育」の言葉にとても衝撃を受けました。
教育だけではなく自分の生育歴や職歴も関係があると思いますが、「なぜ自分はいつも「できない、できてない」とそればかり考えてしまうのか。」とずっと疑問だったことの答えの一部がこれだなあ。と分かりました。
それから数日経ちましたが、朝から晩まで一日の全てを「出来なかった。出来てない。」と、自分が気づいていた以上に、こんなにも無意識に根深く考え続けている自分を発見し、「それは、毎日疲れるしイライラするわけだなあ。」と思いました。
「子供は欠如体ではない」の記事を読んでいたのに、意識していないところでこんなにも自分を欠如体として見ていたのかあ、と驚きです。
欠如体どころか、別に何も問題はないのに、正解(完璧?)を無意識に求めているから、「何か間違いはなかっただろうか」と思い巡らすうちに問題を作っていたようです。
母親がそれでは、、、その雰囲気は確実に息子に伝わってきたはずなので、悪かったなあ。と思いますが、気がつけたのでこれから変えていこうと思いました。
ここ数日は、これまでよりもさらに息子が本当に本当に可愛いと思え心の底から抱っこさせてと言えるようになったと思います。
この性格では、お父ちゃんさんのブログに出会えなければ息子はどうなっていたことか、、、。
今思うと心の底からの受容ではなかった時もありますが、努力してきてよかったです。
それにしても、何度も読むうちにこのブログは読まれる方は母親の方が多いけども、「子供の幸せのため」のブログなのだなあ。と感じました。
お返事は不要です。
2014年に入ってから、「子供の意地悪は直せる」のところでコメントさせていただきました、タカタカです。
やっと、ここまで読み進めてきまして、中学校で働いていることもあり、とても考えさせられることばかりだったので、こちらへコメントさせていただきます。
まだ、少々頭が混乱している部分もあるので、支離滅裂な文になると思います…。
私が働いていた中学校でも、主に学年単位で「集団指導」なるものがありました。集会での指導がほとんどでした。服装容儀検査もやってました。「全体を優先させる」というスタンスでの言葉かけも、たくさん行っていました。
教師サイドとしては、「みんなで同じ方向を向いて、個々人の力を発揮させよう」というつもりでやっていたつもりだったのですが、やはり「全体と違うことはダメ」という意識を植え付けていたようにも思います。現に、学年内で、自分(達)と違うことをしたり言ったりする人を「異」ととらえ、衝突やトラブル、いじめがありました。
様々な事象が起こってからの対処が多く、私達の対応が後手に回っていたのは、根本的なアプローチが違っていたからだったのかな…と、おとーちゃんさんの意見を読みながら考えました。
以前、友人(同業)から、同級生(実業系の高校の教師、生徒指導部)が「世の中に出たら、どうしたって『理不尽な強制』はある。(極端な話、会社の社長が『黒』と言えば、白いものでも『黒』と言わなければくびになったっておかしくない。)高校を出たら、そういう世の中にすぐ入っていかなくちゃいけない。だから、校則を『理不尽だ』と言われても、守らせなければ、社会に出てやっていけなくなる。」と話していた…と聞き、妙に納得したのを覚えています。
でも、そういう場面で、自信を持って「社長、それは白ですよ。」と言える力(話術や論理的に話す力や、精神的な強さも含め。)を身に付けなければいけないし、また、それを認める世の中でなければならないんだよなぁ…と、この記事を読んで、思い直しました。
私も、自分の子を持ち、この子が学校に通うようになった時のことを考えると、ただ周りと違うことをしたり言ったりしただけではじかれたり、変な矯正をされたり、いじめられたりするのは、悲しいです。息子には、自分で考えたことに自信を持って行動できるようになって欲しいし、そうやって自分の世界を広げていってほしいと思っています。
でも、今まで私が、ある意味「当たり前」に行ってきた指導が、実は私が息子には経験してほしくない世界を作っていたのだ…と思うと、申し訳ないやら悲しいやら…で、自分の中に2つの感覚が混在していて、今、とても混乱しています。
今日、桑田佳祐さんのアルバムを聞いていたら、三輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」のカバーが流れてきました。
歌の中で、主人公の「僕」がいじめられて、かーちゃんの所に来るけど、「かーちゃんの働くとこを見た」ら、涙も止まり学校へ引き返す…というところがあります。色んな解釈があると思いますが、私はこの歌を聞いて、そのかーちゃんの姿や生き方が、「僕」に力を与えたのであり、「僕」にはかーちゃんの姿からメッセージを感じとる、豊かな感性や優しさなどがあったんだろうな…と考えました。そして、それは、子を思うかーちゃんの家庭での教育の力だったのだろう…と。
「僕」は、その後、何度か道を踏み外しかけながらも、大学まで進学し、エンジニアになりますが、それは、僕の中にしっかりとした「芯」があったからで、そのしなやかな強さは、かーちゃんの育て方で身に付いたものなのだろう…と。
そんなことを考えながら聞いてると、「かーちゃんの歌こそ世界一」というフレーズが、とても心に染みてきました。
私も、息子に何か揺るぎないコアとなるものを育ててあげたいです。
そのためにも、教師として現場で働く際に、感覚や考え方、視点を常に見直し、周りとも意見を交わしながら、より良い現場作りをしていかなければ…と思いました。
過去記事へのコメント、さらに内容がぐちゃぐちゃな長文、すみません。
「発達障がいについて考える」シリーズや、この「いじめについて考える」シリーズは、とてもズシンときて、どうしてもコメントしたくなりました。
おとーちゃんさんの記事を読まなければ、こんな心が揺れて深く考えることもなかったと思います。
ありがとうございました。
また読み進めて、勉強させていただきます(^^)
東京は、雪が降って寒さも厳しいと思います。風邪やインフルエンザに気をつけてください。
タカタカさん
子育ての記事がわりとさらっとかけてしまうのに対して、こういうもののほうが考えに考えてこれはなかなかの出来だとUPしてもこういう記事の人気はあまりないので、こうやってコメントをいただけるのはとてもうれしいです。
僕は学校教育に関して全く専門的な知見があるわけでもなく、一個人として思いつくままに書いてしまっていますので、教育の現場では実際とずれてしまっていることや、見当違いのこともあるかもしれませんその辺りはご容赦ください。
いただいたコメントを読んで考えていたのですが、
>同級生(実業系の高校の教師、生徒指導部)が「世の中に出たら、どうしたって『理不尽な強制』はある。(極端な話、会社の社長が『黒』と言えば、白いものでも『黒』と言わなければくびになったっておかしくない。)高校を出たら、そういう世の中にすぐ入っていかなくちゃいけない。だから、校則を『理不尽だ』と言われても、守らせなければ、社会に出てやっていけなくなる。」と話していた
おそらく現実論としては、実のところ学校教育においてそういう部分というのは重要なのだろうと思います。
でも、僕のように
とても意地悪な言い方をすれば、上の子供たちへの教育というのは、同時に真面目に一生懸命に会社のために働き、仕事における過度とも言えるストレスに日々耐えている人や、過労や過労死、ウツやブラック企業などさまざまなこれまでの必要悪とでも呼べるようなものを生み出した原因の一端を作っているということにもなるなあともとれます。
きっとその先生たちも悪気はないと思います。
生徒のために一生懸命そういった指導をされているのでしょう。
でも、もし振り返って検証してみたら、そういう悲しい現実にもなっていることに思い当たるかもしれません。
この、教育において「その人のために黒でも白と言わなければならない現実を涙を飲んで突きつけなければならない」という論法はけっこう昔からあるものだと思います。
おそらくその方が教員になるずっとまえからあるものでしょう。
この「教育原理」は、大学の教職課程における『教育原理』の中には当然入っていません。本来ならば逆のはずです。
いわば、現実が学校に求めていることをすりあわせた結果、現場で生まれた教育原理とでもいうものでしょう。
でも、この考え方は全体主義国家や、戦争遂行中などの非常事態にある社会の考え方です。
個人の自由の追求や、幸福の追求が、この場合は仕事や会社ということですが、他のものによって制限されるということですので。
「戦後は終わった」「戦後は終わってない」などのフレーズがいまでも時々使われますが、第二次大戦が終わっても、経済復興という非常時をそのまま維持し続けて、現在にいたるまでその体質というのは引き継がれてきたのだと感じることがあります。
本当は経済が好調になって社会が安定した時に、その非常時を解いて「これからは緩やかにやっていきましょう」という切り替えをするべきだったのだろうけど、それができずに今に至ってしまったのでしょう。
僕の世代の人間の親は、戦中戦後生まれですから、「滅私奉公」のような価値観というのを持っています。
それを見て育ってきた僕の世代の人間はまだ、「白いものでも黒と言え」に順応することがそれなりにできてしまうように思います。
でも、いま教育を受けている世代に、それを理解させるというのはもはや無理なのではないかと感じます。
そういう齟齬というのは現実のものとなってとっくに目に見えているでしょう。
「社会」というものがとても自分のいられる場とは思えずに、ニートや引きこもりになっている人のなんと多いことか。
これは単に景気不景気の問題だけではないでしょう。
かの先生の論法というのが、これまでの教育の一部となって有用に作用してきたのは紛れもない事実であるだろうけれども、それはこれから少しずつでも見直しをしていかなければならないものなのではないかと僕は考えます。
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いじめについて・・・うちは子供は小さいのでまだそういうことはありませんが、
親がどうやって人と接してきたかというのが、とても子供に関係するんだなというのを感じることがあります。
日本人、とくに女性は集団の中で生活することが多いため、その集団のルールに縛られて客観性を欠くことが多い気がします。
その結果、子供に接するときも子供がほんとうによいこと・悪いことをきちんと伝えられず、ただ自分の公平さを狡猾に主張する子供にならないか・・・と杞憂もあります。
幼児のうちは親の支配が強いのですが、そう考えると親から手の離れていく小学校中学校の教育は大事なのでしょうね。